2010年3月28日日曜日

米糊と竹炭


↑クリックすると大きくなります

3合の米糊に食用竹炭パウダーを入れて
1m X 2.5mの大画面に塗りたくってみました。
写真では黒にしか見えませんが、やや青味がかったきれいな黒です。
竹炭は以前やってみたイカスミと違って無臭なので快適です。

前にも書いたが、米糊を塗るのは、
紙の上に塗る、という行為なのではありません。

奇妙に聞こえるかもしれませんが、何かを「見て」いる感じです。
つまり、認識をつくっているのです。
身体と精神をつなぐ新しい経路をつくっているようです。

詳しくは以前書いた関連記事をご覧ください。

関連記事

臓器的 認識の方法
認識は肉体の問題
米糊を壁に


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2010年3月27日土曜日

物質と精神の連続性について


最も身近な自然現象、
身近どころか、身そのものである自然現象は
いうまでもなく身体です。
脳も身体なので、思考や精神も身体現象といえるわけです。

つまり肉体の現象から、精神の現象まで
全ては物質の現象だと思います。
私は、魂というものがあるとは思いません。
あえてそう思わないようにしています。

しかしこれは単なる唯物論的な考えではありません。
それによって、精神の価値を貶めることには
ならないと思います。

というのは、むしろこの考え方は、
物質と精神、自然と身体の連続性を
強調するものであるからです。

ともすれば私たちは、
自らの精神を特別なものと思い
あたかも特別な席にいて
世の中を見ているような錯覚に陥ります。
この思い込みはかなり強固なものであり
それゆえ、私たちを自然から分断する
大きな要因になっています。
もちろんそのような精神の構造を作り上げた
近代的な社会に大きな要因があるのですが。

私たち自身が自然現象であること。
水の流れや大気の流れと
変わるものではないこと。
そのことは強調しすぎることはないと思います。

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2010年3月24日水曜日

錬金術は感覚的科学のさきがけ



錬金術 知の再発見双書72(創元社)

私は、錬金術について誤解していた。
錬金術とは、西欧中世で行われた黄金の製法を見つける方法の研究であり、
もちろんその意図は失敗したものの、後の化学実験の基となった
----という程度の知識しかなかったのだが、
この本を読んでそれは大きく間違っていたことを知った。

錬金術師たちは、
「神が宇宙において大規模に行ったことを、
小規模に再現しようとする。それゆえ錬金術師は、実験をおこないながら
自らの歩調と自然の歩調が対応するように配慮する。」(p26)

「感覚的なものと精神的なものを同質のものとして扱う錬金術にとって、
物質と精神は2つの原初的な極であり、この世界に存在するすべてのものは、
この受動的な極と能動的な極のどこかに位置し、その間を移動するのである。」(p36)

錬金術は、宇宙と自分の身体が関係あるものだと理解していた。
また、精神と物質を同次元で理解しようとしていた。精神と物質を分けなかったのだ。

錬金術は面白そうだ。また調べて書きます。



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2010年3月21日日曜日

米糊を壁に




米糊で、壁に貼った紙に描いてみました。
イカスミペーストを混ぜてみたのですが、イカスミはなかなかキョウレツな黒です。
一方、赤ワインをいれたら綺麗なピンク色になりました。
(画像の作品では、2つを混ぜてしまったのでわかりませんが)
さらに土を混ぜると少しジャリジャリした味わいになります。

2010年3月20日土曜日

オウム真理教事件

15年前の今日、地下鉄サリン事件が起きた。

多くの人にとってもそうだろうが、私にとっても一連のオウム事件は
衝撃的なものだった。

長年、私はオウム事件を自分で解釈できずにいた。
しかし昨年、「オウム真理教事件」完全解読(竹岡俊樹/勉誠出版)  という本を読み、
オウム事件の総括ができたような気がする。

当時、私のホームページに記した短い文章がある。以下に再掲載しよう。


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2009.10.4
この書は、オウム真理教へ入信した人たちの入信動機を30ほど上げている。どれも、自分の醜さ、社会の歪みに真摯に思い悩み、それを除こうともがいている。自分の精神を純粋に、清らかに、高く、強くしたいという切実な思い・・・・それとは裏腹にバブルに浮かれる当時の日本の現状・・・。

思い出すのは、倫理的な姿勢を強く掲げた全共闘は、現実世界での「解放」の実現を計った図ったが、瓦解したのである。全共闘にも自己否定論というものがあった。

現実世界での「解放」実現が失敗したあと、新宗教は人間の純粋への憧れをうまく掬い取っていった。彼らは現実の世界とはまた別の、巨大な精神世界の存在を信じ、それに没入していったのである。現実世界での失敗の代わりに、精神世界での成就を目指したのである。

オウム真理教は、全共闘の振り子のゆり戻しのような意味あいもある。

修行し、解脱して現実世界との交わりを断つ。そして精神のステージを上げていくことが彼らの最大の関心事になったのである。その結果、煩悩とは逆の周波数をもった磁気をヘッドギヤのようなものからいれて自分の思考をカラにし、そこに麻原尊師の脳波を流すというグロテスクな代物まで登場したのである。考古学者でもある著者は、こう指摘する。

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ヒトが分析対象を自分自身に向けた時に「自分」とそれを観る「私」との乖離が出現したのである。つまり「自分」もそれを観る「私」も、私たちホモ・サピエンス・サピエンスが作り出した人工物に他ならないのである。そしてその時「私」が自分自身を解釈するために発明したのが「精神」や、「心」の概念なのである。肉体やものとは異なり、「精神」とは実体のない概念にすぎない。「精神世界」というものが存在するとするなら、それは私たちの巨大化した右脳に宿ったイメージと感性の世界、あるいは、オウム真理教の「精神文明」のように脳から生みだされる幻覚を核とした文化に他ならない。私たちは逃げていくべき真理の世界などどこにももっていないのである。
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アオミドロの結婚

アメリカにBioscapeという顕微鏡の映像コンテストがあるのですが
2009年のコンテストのサイトにも美しい画像がたくさん載っています。


http://www.olympusbioscapes.com/gallery/2009/

特に私が気に入ったのは、3rd placeの動画です。
Sexual Attraction in Spirogyraというタイトルですが、アオミドロの有性生殖です。
細胞どおしがくっついて、片方の細胞の細胞質がもう片方に流れ込みます。

ドロドロと流れていって、植物とはいうものの、感覚的にエロイです。

アオミドロというのは、金魚鉢や池に知らぬ間に生えてくる藻みたいな連中です。

どうもお隣のアオミドロさんと接合して、流れ込むようです。
隣の家の奥さんに夜這いをしかけているようです---という呑気なことをいっているのは人間の勝手であって、、アオミドロの細胞にとってみれば、一世一代の命を懸けた変異なのです。
自分がなくなって、他の細胞と同一になるわけですから。

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2010年3月18日木曜日

認識は肉体の問題

認識は肉体の問題だ、というニーチェの考えに僕は賛成します。
世界は脳の中だけで捕らえられるものではありません。

奇妙に聞こえるかもしれませんが、
米糊を手で紙の上に押し広げ、指跡をつけながら塗っていくことは、
自然現象と肉体と精神に、同時にかかわっていることだと感じます。

米糊のねたねたした感触、
食べられる素材であること
手で押し広げる身体の活動(手だけではなくてカラダ全体を使う)
盛り上がり、流れ、広がる、自然現象
自然現象としての肉体の活動、自然現象として精神の活動が
明確になります。これら要素の全部が直接つながる行為です。

つまり、このサイトの目的である
「自然-身体-精神-社会をつなぐ」 の前半3つがこれによって
出来てしまっているわけです。

私たちの意識は、
内蔵や筋肉や骨格や神経などの内部状況に、外部の状況を反映してできています。
意識はいくつかの異なった衝動の妥協的な産物なのであって
決して外部世界をただ映した、鏡のような意識はありません。

自分自身の肉体を離れて意識は作られません。
無意識の肉体の活動が、外部世界を反映するスクリーンなり、プロジェクタなりに
なっているわけです。

認識とは肉体の総合的な機能だと思います。
決して脳だけで作られるものではないし、
視覚だけで作られるものでもありません。


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2010年3月16日火曜日

臓器的 認識の方法

僕が米糊(ご飯糊)を塗りたくっているのはなぜだろう。

それは、大げさにいえば世界を認識する方法だからだと思う。

人間の認識は、意識だけで行われているのではなくて、
無意識の肉体の活動が反映されていると思うのです。

脳は、特別なもののように
思われていますが、
臓器の一つに過ぎない。

各種の臓器の無意識の活動が
認識を作っている大きな要素だと思うのです。

私は米糊を「塗って」いるのではない。
何かを「見て」いる。
「見る」ということは、網膜に入ってくる光の情報に意味を与えて解釈することです。
すなわち、見るということは、作っていることです。

光の代わりに糊があり、目の代わりに手でつくっているのです。


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2010年3月15日月曜日

ぐじゅ のその後


このくらいの規模になると、あまり変形も起きない。そのまま固まった感じだ。
まあ、これもありか。
これは、完成した作品よりも、できるまでのプロセスが面白い。


どこかの砂丘のようだ


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2010年3月10日水曜日

丹田形成 その後

丹田呼吸法にて、丹田を作り始めて数日たちました。

(前の回を読んでないかたはこちら)
丹田について


もう一回いいますが、丹田は、
へその下5cmくらいのところの
横隔膜筋、腹横筋、大腰筋などにかこまれた部位です。

そこには小腸しかありませんが、
上にあげた呼吸や姿勢維持にかかわるインナーマッスルが
十分の強くしなやかになれば、
あたかもそこに
凝集したような部位があるように感じるというのです。

丹田呼吸法という呼吸法を使うと、これが作られるといいます。
息をゆーーくり吸い込んで、下腹を膨らませます。
次にゆーーーくり吐きながら、下腹をへこませます。
息を絞りだすように全部吐きます。

これによって、横隔膜筋と腹横筋が鍛えられ、丹田がつくられるといいます。

最初のうちは下腹が膨らむような気がして嫌な心持でしたので
息を吐いて下腹を凹ますほうを重点的にやったら
だんだん下腹が充実してきたような感じがします。

下腹に力をいれているためか、姿勢はよくなります。

息をすうと大腰筋が圧迫されるためか、腰も痛くなります。
私はギックリ腰をたびたびやっているので、これで腰のバランスもよくならないかなあと
期待しています。

僕は東洋医学を感覚医学と名づけましたが、
丹田形成はまさしく感覚の開拓の第一歩です。

もうちょっと丹田形成にチャレンジしてみます。


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2010年3月7日日曜日

ぐじゅぐじゅ・・・



やりました。

1メートル x  2メートルの大画面です。

4合の米を炊き、ごはん糊を作りました。
土を混ぜて、ぐじゅぐじゅのものを作りました。
手で塗りたくりました。

ぐじゅぐじゅ感が内臓が動く感覚とマッチします。

全身を大きく使って塗りたくるのも、直接的な感じで良い。

もちろんこれで終わりではありません。むしろ始まりです。
ごはん糊は収縮するので、
これからどのように、形を変え、褶曲した地層のようなものに
なるのか楽しみです。

6畳間で生成中。

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2010年3月6日土曜日

丹田について



丹田とは、へその下5-10cmのところにある(あるといわれている)部位です。
気功では極めて重要なところで、気の中心といわれています。

上にあげた、本ではこの丹田をとてもうまく説明しています。
丹田とは、この下腹部に「ずしりと重い」「ぎゅっと凝集している」
ものがあるように感じるものだそうです。

しかし、その部分には、小腸しかないわけです。
つまり、丹田とは、そこに無いのに、在るように感じる、不思議なものです。
感覚的にできあがっている、錯覚のような箇所・・・

この本では、「重さ」と感じさせるのは、内臓がリラックスして良好な状態にあると
そして「凝集」の感覚は、腸ととりかこむインナーマッスル(腹横筋、腸腰筋、横隔膜筋)らが
圧力をくわえてできるのだ、ということです。

インナーマッスルがバランスよく鍛えられ、内臓が良好な状態にあると
下腹部に何か在るように感じる・・・・これが丹田の正体であると。

丹田をはっきりと自覚できる状態を、丹田が「できた」「形成された」状態といいます。

このとき、身体のバランスがよく保たれ、血行もよくなり、活力がみなぎっている状態にある。
精神も安定し、慌てたり、ミスをすることが無くなる。

丹田形成は、精神形成でもあったわけです。
昔の日本では、特に武道では、丹田の形成が重視されていたといいます。


さて、私は未だに丹田形成ができていません。

しばらく丹田呼吸法なる方法で、丹田形成にトライしてみようと思います。



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2010年3月5日金曜日

これはなかなか気分がいい




泥を手につけて紙に塗りたくってみた。
身体の感覚、
自分の胃や腸、腎臓などの働きや
脳の活動などを
表現するには
いまのところ
こんなことしか方法がない。

なかなか気分がよかった。



2010年3月3日水曜日

進化を自分の身体で追体験




・生命誕生以来の進化の歴史を、自分の身体で追体験すること。

つまり

・生命誕生と、その後の進化を、感覚的に捉えること。


どうもそれ以外になさそうだ。



つまり僕自身が、

ウィルスや細菌や

苔や群生植物や

昆虫や魚類や

爬虫類や哺乳類に

なる

ということだ。

人間であることをやめて、
私は一つの土塊から始まらなければならない。

2010年3月2日火曜日

何かが出てきそう


何かが外に出てきそうなのだが、
表現できないもどかしさが続いている。
しばらく絵具を使っていない。
あらかじめ絵具として作られた
用途としての物質の成立の条件が気に入らないのだ。
食べ物や薬をつかったりしているが今のところ成功しているとは言いがたい。


私は、身体や精神も自然現象の一部であることを
既に申し上げた。
身体や精神は何ら特別なものではない。
チベット医学やタオの自然医学は、
訓練したマスターが身体の内部感覚で感じ取ったものを
気の流れや、チャクラとして体系化したものである。
私はそれらには大いに共感します。
ただし、字義どおり捉えること括弧でくくらざるを得ません。

一方、私は、自然現象は厳しく激烈であって、
我々の身体はその激痛の海に浮いているとでも
感じています。
最近の物理学の成果により、4兆度という高温を作り出すことに成功した
そうです。・・・とても人間向きとはいえません。
そして、僕を芸術の制作に駆り立てるのは
その激痛の海に浮かぶ身体です。

この2つは統合できるのだろうか?
そもそも統合すべきものなのだろうか?