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2013年3月10日日曜日

Youtubeに個展のアクションの動画をアップしました

Asphalt painting with meat
Painting with asphalt,ground pork,painkillers,gargle and glue. アスファルト、豚の挽肉、鎮痛剤、うがい薬、糊をつかったペインティング。 Gallery Gen(Tokyo) Jan.2013 parformed by Tetsuya Tajima.


先日行われた、私の個展でのアクションを撮ったビデオをYoutubeにアップしました。

ビデオでは、4倍の速度で再生されるように編集しました。
そのため、アスファルトと糊を混ぜたものが落下する様子が良くわかります。


ビデオにおいては、実際の行為と見るのとはまた違った価値を見出すことができるでしょう。

グチャグチャ感が良く出ているし、生きているもののように見えます。。。。

2013年1月2日水曜日

現在の身体のリアリティ

現代に生きている私(たち)の身体を、どのように表現したらよいのだろうか。


無題
アスファルト、トウガラシ、シナモンパウダー、糊

これが、私の感じる、現在の身体のリアリティである。
もはや私たちは、素直に五体を表現することは出来ない。

私たちの身体は2つのオリジンを持つ。一つは、生命誕生から引き続いている長い歴史の中に位置づけられている。もうひとつは、現代の技術文明に位置付けられている。私たちの身体は、現代の技術文明に寄生して生きているとも言える。

私たちの身体の、この2つのオリジンは、互いに相容れるものではなかったはずだ。しかしそれでも私たちは、何とか調和を保っていた。
しかし、あの時、調和が破れ、恐ろしい実態を見てしまった、「見た」という生易しいものではない。完膚なきまでに叩きのめされた。
東日本大震災が引き起こした津波が、街や人を飲み込み私たちの身体をメチャクチャに痛めつけた。また、私たちはその後の放射能汚染の見えない不安と戦う日々を過ごしてきた。

だから私は身体を思うとき、信頼を置いていると同時に、ある違和感を・・・いや不快感を感じる。
重要なのは、そのことを感じ取る感受性だ。自分の身体感覚のみならず地球レベルで広がっている現代の技術文明の感覚のリアリティを、自分の感覚のリアリティとして実感することだと思う。



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2012年5月31日木曜日

私は何を目指しているのか



誰でもそうだろうが、私も10代の時期は世の中になじめなくて困ったものでした。
そういう時期は普通は10代で収まるのだが、私の場合は、
20代、30代、そして40代はじめになってもそうでした。


うまく説明できないけれど
世の中が、金融や株式や軍事的なバランスや世論やらなにやらのわけの分からないものによって動かされていて
一体自分がどのようにそこに関わったらよいのか、分かりませんでした。今までもどこまで分かっているのか怪しいものですが。


芥川龍之介の小説で「歯車」という話があります。
主人公は頭痛とともに半透明の歯車がぐるぐる回る幻視に悩まされるという話です。
この歯車のように、現代社会は、得たいのしれないわけのわからない理由で動いていて
私の意志とは関係なく私を巻き込んでいく。
それどころか、この歯車は私の心の内部にもあって、こころの中から支配を作り出しています。



長い間かけて私は、この「歯車」の正体を明らかにしようと勤めました。


20代を過ごした時期は、おりしも、バブルの時代でした。
今でも語り草の狂騒の時代。しかし、空虚で何か物足りない、いや決定的に何かが足りないと思っていました。




光明を与えてくれたのはミッシェル・フーコーの「監獄の誕生」でした。


フーコーの精緻な権力分析は、「歯車」が作られていく過程、そして「歯車」が内面化していく過程を
つぶさに説明していました。
僕は、この現代社会で生きているうえでの「うそ臭さ」を感じていました。
フーコーのおかげで、今ではその「うそ臭さ」が生じるメカニズムを知ることができました。


またアメリカインディアンやアボリジニらの自然との関わり方を知りました。
「歯車」が存在しない社会がかつてはあって
それは、神話や、儀式、瞑想などの方法で、社会的機能と人間の精神が一体となって営まれていたのです。


そのようないくつかの示唆的な方法論をへて、私はひとつの命題を立てました。
「自然-身体-精神-社会」をつなぐということです。
私たちは、自然や自分の身体から、決定的に離れているということが、問題なのだと悟りました。
そのことの統一性を現代社会において取り戻したいと考えたのです。




そんなことは可能でしょうか?
やりはじめたとき(つまりこのメッセージサイトを始めたころ)は、手がかりが少なすぎて、どうなるのかわかりませんでした。
しかし、ここ数年の探求を経て、できるんじゃないか、できそうだ、という感触を得ています。


部分的にはつながってきていますが、全体的なつながりがまだまだです。
思想的に完成するということは、断片的に説明できることではなく
全てを一貫して示すことができなければなりません。


目下の課題は、それらを感覚的に統合するということです。
身体-自然-社会を、一貫した感覚で表現すること、ということが
まだできていません。


安易に完成するとも思えませんが、あと数年のうちに、全体像を示すことができると思います。
芸術としていうならば、そういうことが作品で表現できているということになります。
たぶんそれは可能だろうと思っています。

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2012年3月5日月曜日

肉体=都市=自然

面白いサイトを見つけた。
「早送りで見た空」7選 という、WIRED 日本語版のサイトである。


どれも素晴らしい動画作品だ。
地球が回転して空が動き、星々が動く。そうした動きは微速度撮影でしかとらえられない。最近はよい機材に安価にアクセスできるようになったため、アマチュアを含むたくさんの写真家が微速度撮影に挑戦するようになった。
・・・記事にこのように書いてあるように、これらの慧眼は、テクノロジーの進歩によってもたらされたものであるということは強調しておこう。微速度撮影によって我々は、その場で見ていることよりもさらに別の意味を掬い取れるようになった。


そして私が注目するのは7つ目の動画。


ドミミク・ブードローの作品 The City Limits である。


都市の夜の活動と、自然の活動を平行して、同じものと捉えている。


それは、都市が生き物であり、自然と同じものとして捉えることができることを、良く表している。。
非常に示唆的な動画である。


肉体の感覚的リアリティー= 都市の感覚的リアリティー=自然の感覚的リアリティー


これがわたしの目指すところである。





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2012年2月16日木曜日

私は社会という生き物の一つの細胞であり・・・

都市というものは、いや都会や田舎にかかわらず人間の生息する場所とは、
大地にピッタリと張り付き、地下資源を吸収し、
農地のシステムをつかって食料を補給し、
交通機関をつかって物資や人間を移動し
さまざまな通信手段とマネーをつかって情報をやりとりする。


都市は生き物だ。器官が次々と立ち上がってネットワークをつくっていく奇怪な生き物だ。




そんなことを考えながら
仕事を終えて電車で帰ってくる。
住宅街を通って我が家へ帰ってくる。


電車を使っての移動・・・


電車は、この生き物の輸送手段であり、いってみれば血管だ。
さながらそれに乗っている私は血球のようなものか。
今日も仕事場にいって別の組織に栄養を与えてきた。


夜、飛行機で都市の上を飛んだことのある人ならわかるだろう。
さながらそれらが、大地に張りついている発光性の生き物のようで、
道路を通るクルマのライトが血管をとおる血球のように思えたであろう。


地面の上を移動しながら、そのような感覚に思いをかけていた。
これがたぶん社会的身体感覚というものだろう。



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2011年9月11日日曜日

現代における祭の意義

祭のシーズン到来。

私も今年も神輿を担ぎました。
法被を着て足袋アスファルトの地面を踏みしめる。
神輿がクルマやビルが間をすり抜ける。

近代的なコンクリートの空間に突如出現した江戸の集団。
妙な光景だ。

祭といえば、太古の昔は、社会のもっとも重要なイベントだった。
政と書いて「まつりごと」と呼ぶほどである。
宗教と政治は当然分離していなかった。

一方、宗教と政治が明確に分離され、それどころか行動の諸原理が
ことごとく高度資本主義に沿っている現代においては
祭というものは、社会の片隅に追いやられているようにも見える。

しかし、この祭や神輿というものは、実は滅び行く伝統芸能ではない。
現在でも子供や若者を取り込み、再生産している活動である。
実は私の近所の商店街地区が主催するこの祭において


神輿が始まったのは実は2006年からだ。
さて、この現代において、祭がなぜ生き続け、再生を続けているのだろうか。

祭とは、その土地の物語を肉体で理解することである。
神輿は神社で清めをうけ、街中を練り歩く。
私は、わが町が氷川神社の体系に登記されていることを祭を通じて知った次第である。

住む土地とのつながりが希薄になった現代において、土地とつながる数少ないチャンスなのである。
ゆえに、これはなかなか無くならない。また、再生産のサイクルに成功すれば拡大することもできる。

さて、この祭システムには特徴がある。
法被を着ている人のみが祭に参加できることである。
道を歩いている普通の人が、Tシャツに短パンで神輿を担ぐわけにはいかない。

このことのメリットは、強い仲間意識を築くことである。これは強い求心力として働き、祭システムの維持に貢献している。
一方その意味で閉鎖しているので、一般化できにくいというデメリットもある。つまり特殊なので広がらないのだ。

さて、再三申し上げているように、私は現代において、自然-身体-精神-社会がつながる、価値体系を模索している。
祭は大きなヒントになっている。

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2011年8月22日月曜日

中之条ビエンナーレ いよいよ始まりました。

8月20日、中之条ビエンナーレ初日です。
拠点会場の「つむじ」にて、私のアクション
「米糊を手で塗る」が行なわれました。




YouTube






初日の夜はイベント「夜光市」が行なわれ、音楽とダンスで盛り上がりました。
全ての会場に作品が揃い、沢山の人たちが訪れています。
今、中之条は熱い。


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2011年7月10日日曜日

身体感覚で探るライフライン---荒川の施設に行ってみました。

僕らの社会は、どのように自然と接しているのだろうか。
まず、上水道と下水道というインフラを実地に調査してみました。


水道は、蛇口をひねると当たり前のように水がでてくる。
どこからどのように取った水かは、わからない。


昔の人は井戸から汲み上げたり、川から汲んできたりして、肉体的にそのことが
わかっていたのだが、
今は、どこの川からどういうふうに運ばれてくるのか、大抵の人は知らない。


わからないというのは良くない。


そのようなことが、なんともわからぬ居心地の悪さを感じさせている理由の一つではないだろうか。
・・・と考えて、
とにかく自宅から、このあたりの水の供給地と処理地である、
荒川の浄水場と水再生センター(下水処理場)に行ってきた。


場所までのルートを体験するために自転車で行ってきました。




曇りでしたが暑い日です。
この道路の下に水道管が埋まっている・・・


川を渡るこれは、、・・・・下水?


上水道のマンホール


かなり急な坂です。こういうところはポンプで運びあげるのか?




走ること10キロ、大きな川に到着。
これが練馬区・板橋区の水源
荒川です。




水はかなり濁っています。青臭いような臭い。




コップに汲んで
飲みはしなかったが口に含んでみました。
意外とまずくは無かった。

突然みえてきた、三園浄水場。
広大な施設です。

浄水場正面玄関。
なんか厳めしい。


高い鉄柵で囲われています。
水道に毒を入れるようなテロを警戒してのことでしょう。
鉄柵の上の電線は侵入者を防ぐセンサーでしょうか。




一方、こちらは、新河岸水再生センター


浄水場に比べてフェンスが低い。
テロの心配が少ないからでしょう。


こちらが沈殿層


こちらが処理施設。
浄水場に比べると遥かに難しい技術を使っている
と思われます。
あたりになんともいえない臭気がします。
何十万人の区民の糞尿、洗濯水などを
処理しているわけですから、臭いのもあたりまえです。


ここが荒川への再生水の放出口。
やっぱりなんともいえない
臭いが漂っています。
完全にキレイな水には
再生できないのですね。


今回は自宅から自転車で行き、外側を眺めて帰ってきました。
ぜひ見学もしてみたいものだと思います。

私たちの、体の半分以上を占めている水は、このようにして工場のように川から取り込まれ、
体から出て行った水は、工場を通って処理されて川に戻されます。
水の処理工場は、私たちの体の一部であるともいえます。

このようなテクノロジーを通じて、私たちは川と接しています。
この事実はどうしようもありません。

どうも、上下水道を含めた、都市社会全体が
一個の生命なのだと考えたほうが良さそうだ。



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2011年6月9日木曜日

「神の肉体 清水宏保」 という本

前回紹介した新聞の清水宏保氏の記事を読み、彼について書かれた本「神の肉体 清水宏保」という本を読んだ。
清水氏が身長差のハンディを乗り越え、スピードスケートで金メダルを取れたのは、彼が常人はずれた努力家で、医学部の学生といっしょに解剖の授業を受け、身体を隅々まで研究したからである。
まさに考えるアスリートである。
彼の深層筋や神経まで自覚する能力には驚嘆させられる。
しかし、清水氏のあまりのストイシズムに、ついていけないところもある。
これは、私の目指す 自然―身体―精神―社会 を貫くこととは、違ってくる。
清水氏のやり方は一般化できない。
この本の終盤、「ゾーン」といわれるスポーツ選手が調子の良いときに体験する特殊な精神状態について述べられている。そして清水氏は自覚的にゾーン体験を引き寄せることができるという。
これは、一種の神秘体験であり、それを味わうと、それにひきづられ、またその体験をすることに大きな意味があるように誤解してしまう傾向がある。


釈迦が過酷な修行をした挙句、これは意味がないとしたのと同様、激しい訓練や神秘的な経験を絶対視するのは生産的なことではない。
もちろん清水氏はそのことをわかっているだろう。
しかしこの本の著者は、ゾーンにハマッっているようだ。
身体を研鑽するものにとって神秘体験は鬼門である。気をつけなければならない。



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2011年6月2日木曜日

清水宏保の驚くべき身体感覚

5月30日付 朝日新聞夕刊に、長野五輪金メダリストの清水宏保氏のコラム「ロケットトーク」が載っていた。
そこに驚くべきことが書いてありました。
 例えばプレッシャーとの付き合い方です。どうやってこれを抑えるか。交換神経を働かせて、まず思いっきり心拍数を上げる。その後副交感神経を使って短い時間で心拍数を下げる。これで試合前のプレッシャーから解放されます。
 これには自律神経を操る訓練が必要です。
 筋肉を一度破壊して再生させるという練習法も採り入れてきました。ぜんそくという持病もありましたから、肺の細胞も一度壊して再生させる。免疫的にも有効な方法です。


ちょっと待ってくれ、交換神経・副交感神経は、意識して操れるものではないはず。
何なんだ、「一度細胞を破壊して再生させる練習」というのは?!


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2011年5月23日月曜日

メカニックなものとしての芸術

身体の機能や動きは、基本的にメカニックなもの(力学的、機械的なもの、つまり説明できるもの)として理解可能だ。近代医学はそのように発展してきた。


実は人の心理もそうである。
複雑と思える人の心も、外から分からないだけで、心の内部では快楽、衝動、葛藤、社会欲求などの要因が働いていて、個人は結果としてその場に即した行動をとるのみである。
心の内部まで深く追求した場合に、説明できない行動をとることはないと言っていいだろう。
本人には説明つかないことであっても、意識の奥にある心理までその力学を広げていくと、人間の心理はメカニックなものとして説明可能だ。


自分を律することができる人格を備えている人は、このような心理のメカニックが良く分かった人である。


たとえ、たましいというものを持ち出す場合であっても、霊には霊の作用があるのであるから、それも含めて力学的な体系が出来ていなければならない筈である。


メカニックな働きは、芸術作品にも当てはまる。


あらかじめ全ての芸術作品のパターンは決まっていて、創作される現場では、心理、身体、社会環境、状況、そして使われる素材によって、どのような作品が顕在化するかというだけの問題なのではあるまいか。


芸術作品は、まったくゼロから、作られるわけではなく、どのようなものをどのように出してくるかという問題なのではあるまいか。


構造主義が明らかにしたところによると、人類の知や生活様式はすでに決まっていて、それぞれの文化によって何が顕在化されるかが決まるというが、それと同じことなのではないだろうか。


戦後、絵画がキャンパスに載った絵の具であると定義されたときから、作品は科学的な解明ができると信じていたような論があった。
フォーマリズムと言われる一連の論調を思い出す方もあるだろう。


フォーマリズムの興味範囲は、支持体や画面などの効果であったが、現在の芸術作品をめぐるメカニズムは、フォーマリズムとは違った、もっと大きな意味合いにおいて、働いている。
このメッセージサイトのテーマでもある「自然-精神-身体-社会をつなぐ」ということも、ひとつのメカニックな働きである。


このようにいうと、あたかも私は芸術家の熱情や、言葉にならぬ想いや、世界に対する深い愛について冷淡であるような印象を与えるかもしれない。


しかしその熱情や愛が、芸術家本人の固有のものでありその人しか持ち得ないものか、それとも誰でも持ちうる普遍的なものかというと、もちろん後者のほうだろう。


つまり芸術家が普遍性に対してオープンであるならば、もっとも最適化されたメカニズムをもった方法を選択するであろう。もっとも効率のよい力学的な方法を選ぶであろう。


もっとも優れた芸術家とは、その人がいなくても作品が成り立つような人のことだろう。
つまり、芸術家というものは既にいなくて、もっとも最適化された、普遍的な方法のみが生き残るであろう。


そのような状況が一般化すれば、芸術は、真の意味でその役割を終えた状態と言える。



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2011年5月16日月曜日

亀であるとは、どういうことか


曇り空にもかかわらず
亀が岩の上で日向ぼっこをしていた。(画像の中央に小さく写っています)


石や水とともに、体温が上がるのを待っていた。


「亀である」とはどういうことなのか。
亀は、石の上に乗って、何を感じているであろうか?
それは、石や水であるということと同じなのか?




「生物からみた世界」という本の冒頭にダニの生活について書いてある。


ダニは手近な灌木にのぼり、下を動物が通るのを待っている。
下を動物が通ると、酪酸の匂いがするので、直ちに落下する。
そして動物の皮膚にかじりつき、血液をたらふく飲み、その後、地面に落ちて卵を産み、死ぬ。


ダニは灌木の枝で18年間待つことができるという。


ダニには眼がなく、味覚もない。
彼女(この「待ち伏せ」をするのはメスだけだそうだ)は我々人間の想像を絶する
感覚世界に住んでいる。


ダニの生活が示唆するのは、生物種と同じ数だけ、感覚世界があるということである。
私たち人間は、感覚世界のうちのごく一部しか感知していない。




これに関してもう2つの示唆的な事例がある。


(1)神話においては人間が動物と話をしたり、結婚したり、また人間が動物に変化したりする。
動物のみならず、石や木になったりすることもある。
神話が実効的な力をもっていた太古には、自然の力が圧倒的であり、人間は自然の片隅で生きていた。妖怪や精霊などの異界の生き物が身近にいると信じられていた。


(2)いわゆる神秘体験を経験した人に共通して言えるのは、「すべてのものが境目なく同じ」と考えられることである。そして、自分が床になり、動物になり、工事をしている人のツルハシの先になったり、あらゆるものになる。(私はこういう体験は、実は手順を踏めば誰でも経験できるものではないかと想像している。)


感覚世界の全体をとらえようとすることは、私がつくろうとしている新しいパラダイムにおいて、非常に重要なことだ。
いまや自然の理解は科学的理解が主流となっており、神話や神秘が入る余地がなくなっている。
しかしだからこそ、生物世界の全感覚を想定することが可能となった。


さて、亀であるとはどういうことか。
もちろん亀本人でなければわからないだろう。しかし亀であることを想定した世界を作ることができるのは、人間の稀有な能力だと思う。


(「生物からみた世界」は古い本にもかかわらず、内容の興味深さから、さまざまな人が
Webサイトを書いているので検索してみてほしい。もちろん読書もお勧めする。)



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2011年5月15日日曜日

身体を動かして考えること

身体を動かして考えること。
それは、私にとって制作活動と同じように(あるいはそれ以上に)重要なことである。


単に公園に行って走ったり屈伸運動などをするだけではない。


肉体を動かして、その感覚を確かめること。
血液の循環や呼吸の活動を、意識に上るようにすること。
普段意識することのない横隔膜筋や肋間筋の動きを確かに感じ取ることである。


しばしば、私は、裸足になって公園の緑地を走る。
草と土の感触がダイレクトに足の裏に伝わって、新鮮な感じがする。
そして、桜の木の幹に寝たり、石の上に寝たりしてゴツゴツした感じを確かめる。
身体を撫でる空気の流れを感じ取る。


身体内部の感覚と、周囲の外的な感覚を同時に感じ取ることによって、身体の内部と、外側の自然現象を、同じレベルで扱うようになる。


太古の人々は、外的な世界を人間の身体になぞらえてきた。
川の流れを血液の流れに対応させたり、
嘔吐、汗、唾液、射精など身体から液が出る現象を温泉や火山噴火になぞらえてきた。


肉体の内部の現象も、身体の外側の自然現象も
私の意識の芯から見れば等しい距離であり、同じレベルで起こっている出来事である。
ものごとはなるべくシンプルに考えることが重要である。
このシンプルさが、次の時代の新たな社会をつくる鍵であると思う。



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2011年5月14日土曜日

心身と自然と社会


私たちの身体と精神は2つの種類のものに接続している。




ひとつは、風の動き、川の流れ、雨、水溜り、植物の成長・・・などなどのあらゆる自然の現象。
私たちの身体や生理は、これらの出来事と地続きであり、同じ種類のものである。


もうひとつは、人工的なもの、インターネットや、株価、産業、交通網、法律の規制・・・などなどのあらゆる種類の社会的なものである。




さて現在のところ、私たちの心身の支配率は、人工的なもののほうが大きいように思う。大きくバランスを欠いている状態だ。
社会のありかた自体が、そしてそれを構成している私たちの心身のあり方が、極めて歪んだものとなっている。




かといって狩猟採集をしていた太古に戻ることはできないので、私たちは、新たな社会像・新たな心身のあり方を探求し、つくっていく必要がある。


第1段階は、心身を自然に開放する技を持つこと。これは個人的な段階である。


第2段階はそれが産業や社会システムに組み込まれるようにすること。しかし、このことについての具体的アイデアはまだ出ていないが、私は芸術などの文化的な取り組みはその一つとなりうると考えています。


 美しい季節になりました。。・・・・



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2011年5月8日日曜日

自然-身体-精神-社会

前回にも書いたことだが、
いかに、自然と社会を直結させるか、ということが重要なのだ。
図式的に言えば、以下のようになる。


自然---社会

ところが社会は人間が作っているわけだし、
自然も認識者がいなければ存在しないのと同じことだ。


すなわち
自然---人間---社会

ということになる。


ところで人間は 身体と精神であるから
自然---身体---精神---社会


というわけである。


ところが、現代人の悲劇は、精神が社会に支配されており
身体とのつながりを軽視しがちということだ。
ましてや、自然と身体とのつながりは想像すらできないのではないか。

つまり、以下のようになっている。

自然 - l - 身体 - l -  精神---社会

 
これでは、風とおしが悪い、不健康な世界である。
 
問題は、
自然---身体---精神
のところの効率をいかに上げるかということである。
 
ところが考えてみれば、身体は、数十億年の進化の結果作られたものであり
私たちの身体は自然そのものといえるので、効率も何もそもそも一体のものである。
また、精神は身体から多大な影響を受けているので、身体と精神のつながりなどということは、いまさらいうまでもないことだ。
 
こういう当たり前のことをあえて言わなければならない、言い続けなければならないということは、悲劇的な事態である。
 
この病理はどこから生じたのだろうか?
 
やはり近代主義がすべてを歪めたのだろう。
 
特に、自然を資源を搾取する工場とみなしたことと、身体を機械とみなしたことである。
科学や産業の興隆は、良いことを沢山もたらしたのであるが、残念ながら自然と身体との関係を断絶してしまった。
今、あえてそれらを取り戻す必要があるのである。
芸術は、それらに対する一種の処方箋であるが、有効な手段なのか、他にも良い方法があるのか、活動しながら検証しているところだ。


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2011年5月5日木曜日

私はひとつの透明なメディアになり・・・

大地、海流、気候、消化、排泄、肉体の働き、心の働き、
そして、感情の動き、会話、観察、認識、消費、思考、感覚、肩こり、
音楽を聴く、テレビを見る、ビールを飲む
などのこと


できれば私は
私というものがなくなり、
ひとつの透明なメディアになり、
ひとつのメカニックな体系、
ひとつのシステム
ひとつの循環するルート


に成りきって


オリジンから吹き出してくるものを
ほとんどそのまま
アウトプットにしたいと思う。


地下から温泉が吹き出てくるのと同じだ。


結局自分自身が孤立した肉体を持ち、自律した精神を有するがゆえに
循環がそのなかに限定されているかのような誤解をうけてしまう。


しかしそうではない、
本当はとても単純なことで
私はできれば何もしないで、ただそれらのエネルギーを
できるだけ効率よく流しておくだけのものになりたいと思うのだ。
つまりできるだけ太い水道管。
できるだけ幅の広い川、
できうるならば私のような存在などなくて
自然と社会が直結しているほうがいい。
私の存在そのものが邪魔であるくらいのほうが望ましい。



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2011年5月4日水曜日

私の心の働きは、何か大きなものによって動かされており






わが故郷、埼玉県飯能市に行ってきた。
群生する植物、草いきれ、分厚い苔、土塊などに接してきた。
これらの体験は、私の心の奥底に接する。
何かが呼び覚まされる。
1ヶ月に1回くらいは、このような経験をしないと
心の全体が自我に支配されてしまうだろう。
私の心の働きは、何か大きなものによって動かされており
自分で考えたり決定したりしているつもりでも
実は、その大きな力の反映にすぎないことが良くある。
群生する植物、草いきれ、分厚い苔、土塊などに接する経験は、
そのようなことを強く自覚させる。

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2011年5月2日月曜日

肉体と心理は、メカニックなものとして理解できるが・・・

肉体のメカニックな理解


肉体は臓器と組織からできている。
それは、殆どメカニックなものとして理解できる。
機能と、作用と構造。




心理のメカニックな理解


心理も、神秘なものではない。
心理も、メカニックなものとして理解できる。


さて、肉体も心理も、メカニックな構造は理解できるが
その起源や、エネルギーの源は
未だに
理解できていないのである。


私は、この両者の源を、「自然」に求めるのであるが、
「自然」と肉体、「自然」と心理の関係は
いまだに
メカニックなものとして理解できていない。


このリンクされていないものを
メカニックな理解として接続したいと思っている。


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2011年4月29日金曜日

美しい新緑をどうやって表現したら・・・・




この美しい新緑を、どうやって表現したらいいのだろうか。
私がここでいう表現とは、単に伝える、ということではなく、
自分が感じている様子を、現実の物体として表しだすということです。


緑色の絵の具を使って、紙やキャンパスの上に描くということは、違う気がする。
あの葉脈に水分が流れる光輝く木の葉と、工場で作られた妙な匂いのする緑色の絵の具とは何の関係もない。


岡本太郎はこんなことを書いている。
-------------------------------------------
 私はいわゆる美術品に興味がない。芸術家でありながら、展覧会に行ったり、画集をひらいて見るなどということは、むしろ苦痛だ。それは狭い枠のなかに窒息してしまっている。なにか惨めな気がする。
 人間の生活はいつも全体であり、幅いっぱいにあふれ、ふくらんでいるはずなのに、その一部だけを引き抜いて固定し、形式化して味わうのだ。白々しい。

「美の呪力 Ⅰイヌクシュクの神秘」
-------------------------------------------
私も同じ考えだ。
芸術である、ということ自体が、敗北なのである。

できうるならば、私は新緑そのものでありたい。あの瑞々しい葉脈を張り巡らした若葉そのものとなりたい。
であるならば、若葉を客体として観察し、色や形を描き写すということが、いかに空しい作業であることか。
私は若葉そのものとなって独白したいのだ。それが完璧な表現となる。
いや、それは違う。
そのときは、すでに独白をする必要はないであろう。表現をする必要はなくなっている。

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