明日は3月11日だ。
この間の6年間に私は何を考え、どう行動し、どのような精神の醸成をしたのか、ここでまとめておきたい。
2011年3月の震災発生後に書いた私のブログを読むと、私は何かを恐れていた。
自然の力を恐れている。まだ余震も続いていたころだ。私はあえて恐怖を自分の中に刻み込もうとした。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/03/blog-post_13.html
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/04/blog-post_11.html
自然保護という言葉があるが、私たちは自然を飼いならしたかのように錯覚していた。
しかし本当は、我々人類など地球の表面にへばりついて生きているに過ぎず
地震というのはわずか厚さ10キロメートル程度の地殻が揺れ動いたに過ぎない現象にもかかわらず
その上に暮らす我々人間には大ショックであった。
その時から、そしてその後の約1年を通じて、私たちは今までにない経験をした。
普段隠されている社会のインフラの仕組みが露呈したのだ。それが身をもってわかった。
ヒリヒリするような生身の皮膚感覚でもって、社会の仕組みとその向こうにある自然と接触していたのだ。
原発事故のことは言うまでもないことだが、
他にも例えば計画停電の行われる地域が順番にアナウンスされると、普段は隠れている電気の配電のネットワークが良くわかった。
ガソリンや灯油が不足した。
人々は日用品を買い溜めし、物不足の事態も起こった。
災害によって、普段は隠れている世の中の仕組みが姿を現したのだった。
私は、社会全体が自分の身体とリンクするイメージを捉えようとしていた。社会の仕組みは自分のからだの機能と良く似ていると思った。
http://te-tajima.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html
http://te-tajima.blogspot.jp/2012/02/blog-post_11.html
私は、被災地にはあえて行かなかった。
東京に居て、私自身の問題として、社会の仕組みを捉えようとした。
自分のところに来る水道、そして下水道がどうなっているのか、実際に荒川の下水道施設を訪ねてみた。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/07/blog-post.html
東京湾に到着する原油や鉄鋼、液化ガスなどを精製し、原料として日本全体に供給する地帯(千葉コンビナート地帯)に行ってきた。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/12/blog-post_30.html
そんなとき、ハイデガーの「技術への問い」に出会った。最初は良く分からなかったが、これは自分の求めるものが書いてあるのだと考えて、良く読んだ。
http://te-tajima.blogspot.jp/2012/03/3.html
ハイデガーは、「技術への問い」の中で、
現代の技術文明の正体をGe-stell (ゲシュテル)と言ってる。
ゲシュテルとは自然や人間から資源や労働を収集し、生産に活用する現代社会特有の目に見えない構造のことである。
川の流れから電力を引っ立て、農地や太陽や空気中の窒素から作物を引っ立て、鉱山から鉱物を引っ立てる。
このような「引っ立てる体制」のことをゲシュテルと言う。「徴用性」「総かり立て体制」「巨大-収奪機構」と訳す場合もある。
さらにゲシュテルは、人間をかりたてる。生産において労働をかり立て、巧みに消費をかり立てる。
ゲシュテルは目に見えない構造であって、全体を動かす中枢的な何者かがいるわけではない。
毛細血管のように、世の中の事象の隅々までいきわたり、栄養分を吸い取り、また逆に栄養をいきわたらせている。
私たちはゲシュテルの支配から逃れることはほぼできない。
長い間かかって、私はゲシュテルの実態を捉えた。そして自分の身体に重ね合わせようとした。
このようにして2014年に「ハイデガーの技術論」という個展を行なった。
http://te-tajima.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html
その成果はこのときのブログの記述に詳しく書いてある。
ここで私は、ゲシュテルに支配された現代のモード(社会を成り立たせる様式)を、変換させる可能性が育っていることを確信した。
そしてその後、2015年に「ぬか漬けされた資本論」という作品を作った。社会を食べて、自分の身体に取り込む、というコンセプトの作品だ。
https://www.te-tajima.com/untitled-c1ndd
「技術への問い」の終盤で、ハイデガーは、もしゲシュテルの支配を脱したとしたら「人間はこの大地に詩人的に住む」という言葉を書いている。
ゲシュテルの上に登った私は、どのようにして詩人になるか、今、試みているところである。
2014年1月26日日曜日
ハイデガーの技術論 搬入中
明後日からの個展「ハイデガーの技術論」の搬入中
ハイデガーのテキストと私のペインティングで構成されています。
ペインティングは会場で描いています。
そして考えていることを書いている。
自然と人間の関係、呪術と科学技術、社会的な身体。。。
文字で書かれた歴史が誕生する以前
歴史する身体
非歴史的な雲(クラウド)
死者と生者が空間的に同一
キツネにだまされるという生産
キツネにだまされる能力
1946年 田島鉄也の父 キツネにだまされる
語りえぬ歴史を身体的に生き
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ハイデガーのテキストと私のペインティングで構成されています。
ペインティングは会場で描いています。
そして考えていることを書いている。
自然と人間の関係、呪術と科学技術、社会的な身体。。。
文字で書かれた歴史が誕生する以前
歴史する身体
非歴史的な雲(クラウド)
死者と生者が空間的に同一
キツネにだまされるという生産
キツネにだまされる能力
1946年 田島鉄也の父 キツネにだまされる
語りえぬ歴史を身体的に生き
期間 2014年1月27日-2月1日(11:30-19:00 最終日-17:30)
場所 ギャラリー現
東京都中央区銀座1-10-19 銀座一ビル3F 03-3561-6869
展覧会名 ハイデガーの技術論 - 自然-身体-社会をつなぐ
田島鉄也がライブペイントをする日:1月27日(月)、2月1日(土)(時間は開廊時間終日)
2012年4月26日木曜日
存在論的搾取
しばらく更新をしていなかったが、
何もしていなかったわけではありません。
ハイデガーの技術論を読み終え、彼のいう
「技術の本質と芸術の本質は同じ」、ということについて考えていました。
私は、ゲシュテル(この地球全体に広がった技術文明)と我々人間との関係を、整理しようとしていました。
それには、ゲシュテルを生命・生物と考える必要があると思いました。
奇妙なことに聞こえるかもしれませんが、現代の技術文明をある一つの生命体と考えると、都合が良いことに気がついたのです。
ゲシュテルは地表にへたばって、地中からエネルギーを吸い、様々な生物と共生しています。主な共生生物は私たち人間ですが、農業や養殖漁業など、数限りない生物と共生しています。
そして、それ(ゲシュテル)は地表と地下と大洋に直接接しながら生きています。
それ(ゲシュテル)は、惑星的規模、宇宙的規模で生きている。身体もそうだし、認識もそうだ。
それの空間感覚、時間感覚は、人間とは比べものにならない。
それの周囲には宇宙空間があり、すぐ下には丸い地表がある。それは、たった一人で宇宙空間に対峙している実存的な存在です。
さて、私たちはゲシュテルという生物の中で生きている、いわば細胞です。私たちはゲシュテルに生を委ねている。したがって自分が何者なのかということを自然の中で位置づける必要がないわけです。
自然の中での位置づけは、ゲジュテルに取り上げられています。
これは、存在論的な搾取であり、
私たちは、存在論的貧困 の状態にあります。
いまやゲジュテルは存在論を独占しているわけです。
ではどうすれば良いのか。
次回以降にそれを考えていきましょう。
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何もしていなかったわけではありません。
ハイデガーの技術論を読み終え、彼のいう
「技術の本質と芸術の本質は同じ」、ということについて考えていました。
私は、ゲシュテル(この地球全体に広がった技術文明)と我々人間との関係を、整理しようとしていました。
それには、ゲシュテルを生命・生物と考える必要があると思いました。
奇妙なことに聞こえるかもしれませんが、現代の技術文明をある一つの生命体と考えると、都合が良いことに気がついたのです。
ゲシュテルは地表にへたばって、地中からエネルギーを吸い、様々な生物と共生しています。主な共生生物は私たち人間ですが、農業や養殖漁業など、数限りない生物と共生しています。
そして、それ(ゲシュテル)は地表と地下と大洋に直接接しながら生きています。
それ(ゲシュテル)は、惑星的規模、宇宙的規模で生きている。身体もそうだし、認識もそうだ。
それの空間感覚、時間感覚は、人間とは比べものにならない。
それの周囲には宇宙空間があり、すぐ下には丸い地表がある。それは、たった一人で宇宙空間に対峙している実存的な存在です。
さて、私たちはゲシュテルという生物の中で生きている、いわば細胞です。私たちはゲシュテルに生を委ねている。したがって自分が何者なのかということを自然の中で位置づける必要がないわけです。
自然の中での位置づけは、ゲジュテルに取り上げられています。
これは、存在論的な搾取であり、
私たちは、存在論的貧困 の状態にあります。
いまやゲジュテルは存在論を独占しているわけです。
ではどうすれば良いのか。
次回以降にそれを考えていきましょう。
2012年3月19日月曜日
ハイデガーの技術論2
ハイデガーの「技術への問い」は、2009年に関口浩 氏の新訳が出ていたのでそれを取り寄せて読んだ。(技術への問い 平凡社)
こんなに真剣に本を読んだのは久しぶりだ。思想の本は体力的にキツイ。関節がギリギリと音をたてるくらい読みこまないと、自分のものにならない。
それは
ポイエーシスとは、創造、または、混沌から秩序を生み出すこと というような意味だ。
現代の技術そして産業、つまり私たち現代文明は、自然からの強奪によってなりたっている。いまさら説明するまでもない。強奪しすぎたなと思えば、「生態系」を「管理」するというふうに方向転換する。
現代の技術の開蔵するやりかた、自然を用具として強奪すること-それがゲシュテル(ここでは集-立と訳されている)と定義される。
さて、強奪され、管理されるのは自然だけではない。人間もその対象である。
「傾聴する」ということにかなりの期待が込められている。
ところでいきなりここで自由という言葉が登場してびっくりするのだが、
また、自由のことをこのようにも言う。
ハイデガーは技術を肯定も否定もしない。それどころか、自分たちを技術の本質にたいして開くことを薦める。
人間が現代技術を作ったのではない。ゲシュテル[集-立]がそれを作っており、人間もゲシュテルによって用立てられてる。そういう構造になっている。だから、人間は自分自身の本質に出会うことがない。これこそが、人間存在の危機だ、というわけだ。
ハイデガーは突然、ヘンダーリンの言葉の引用する。
ゲシュテル(集-立)は、 人間を用立てのために利用するだけではない。真理の本質を保つために人間を存続させる、というである。
わたしの解釈だが、ここでいう真理とは、人間が存在に目覚めていること、という意味だと思う。
技術の発展が、存在の深い深い目覚めを準備する、というわけだ。
ハイデガーはもうひとつヘンダーリンの言葉を引用する。
技術の本質は、ポイエーシスであり、それは芸術という領域で生じる。
だから、芸術は芸術内で閉じていてはならず、技術の本質に対して開かれていなければならない。
ハイデガーは、現代技術に哲学的な期待をかけているようだ。存在の目覚めに対しての期待を。
-----------------------------------
さて考えてみよう。
開蔵とは、<こちらへと-前へと-もたらすこと> つまり存在の意味をわからせるものだ。
古代ギリシアでは、開蔵するものは1つしかなかった。それは芸術だった。
現代においては、技術も開蔵のひとつだ。
しかし技術は本来的でないやり方で開蔵している。用立てるという仕方で自然や人間を搾取しているのである。これがゲシュテルだ。
ところがゲシュテルは両義的で、一面では人間や自然を強奪するが、もう一つは「救い」を用意する。もちろんそれもゲシュテルの側の要求でそうなっているのであって、そのことのために人間が利用されるということには変わりない。ハイデガーは人間が主体的に何かをすることには期待していない。
人間は何をすれば良いかというとハイデガーは「傾聴する」ことを薦められる。
何もせずに、目を見開き、耳で聞いて、ゲシュテルをよく見ることだ。
もちろんここにおいて、ゲシュテルを自律的な構造であるとみており、人間はその一要素であると考えられている。
私はゲシュテルは生物であり、身体に似ているものとして考えてみると良いと思っている。
さて、もっとも注目すべき記述は、技術の本質は芸術の本質と同じ、ということだ。
両方とも、真理の、つまり存在の開蔵だというのだ。
もちろん、これも、個々の人間の努力によるのではなく、ゲシュテルのほうからの要請である。
しかし、何もせずにただ見て(傾聴して)いれば良いということではない。実は、それだけでも結構大変なことだ。現代技術の意義と芸術の意義と同じであるので、「傾聴」するためには芸術的・詩的なものの感受性を育てなければならない。これは、忙しい日常を送っている現代人にとってラクなことではない。
そしてゲシュテルを見るということは、つまりゲシュテルを認識するということは、私がいう「社会的身体の醸成」に他ならないと思う。
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こんなに真剣に本を読んだのは久しぶりだ。思想の本は体力的にキツイ。関節がギリギリと音をたてるくらい読みこまないと、自分のものにならない。
技術は開蔵のひとつのしかたである。と何度も書かれている。さて、開蔵とはなにか?
それは
<こちらへと-前へと-もたらすこと> [Her-vor-bringen]なのであり、そしてそれは
ポイエーシスなのである。
ポイエーシスとは、創造、または、混沌から秩序を生み出すこと というような意味だ。
現代技術をくまなく支配している開蔵は、いまやしかし、ポイエーシスの意味で〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉としての働きを展開することはない。現代技術のうちに存する開蔵は一種の挑発[Herausfordern]である。この挑発は、エネルギーを、つまりエネルギーそのものとして掘り出され貯蔵されうるようなものを引き渡せと要求[Ansinnen(無理難題)]を自然にせまる。
現代の技術そして産業、つまり私たち現代文明は、自然からの強奪によってなりたっている。いまさら説明するまでもない。強奪しすぎたなと思えば、「生態系」を「管理」するというふうに方向転換する。
われわれはいま、それ自体を開蔵するものを用象として用立てるように人間を収集するあの挑発しつつ呼びかけ、要求するものをこう名づける。―― 集-立[Ge-stell]と。
現代の技術の開蔵するやりかた、自然を用具として強奪すること-それがゲシュテル(ここでは集-立と訳されている)と定義される。
現代技術の本質は集-立にもとづいている。だから、現代技術は精密な自然科学を利用せざるをえない。このことによって、現代技術とは自然科学を応用したものであるという、虚偽の見かけが生じてくる。科学の応用は、現代技術の本質ではない。ゲシュテルこそが、その本質なのである。
さて、強奪され、管理されるのは自然だけではない。人間もその対象である。
そのように挑発された者として、人間は、集-立の本質領域に立っている。人間は[まず人間であって、そのあとに]ようやく追加的に集-立との関係を受け入れることができるというのではまったくない。したがって、われわれはどのようにして技術の本質との関係に達するべきかという問いは、この形式ではつねに遅すぎるのである。人間はゲシュテル(集-立)に完全にビルトインされていて、それを問うことすらできない、ということだ。
われわれは、開蔵するようにとまず第一に人間を導くあの収集しつつの派遣を命運[Geschick]と名づける。
命運はけっして抗しがたい力としての宿命[Verhängnis]ではない。というのは、命運の領域に属し[gehörnen]、そのことによって隷属するもの[Höriger]ではなく、傾聴するもの[Hörender]になるならば、その場合にこそ人間ははじめて自由になるからである。
「傾聴する」ということにかなりの期待が込められている。
ところでいきなりここで自由という言葉が登場してびっくりするのだが、
自由は、空開しつつ伏蔵するものであり、その空け開け[Lichtung]のうちにおいてあのヴェール[Schleier]が翻る。自由とは何かが隠されているのを発見する途上にある、という状態のようだ。そのような状態を物事の真実をチラチラみせているヴェールに例えている。
また、自由のことをこのようにも言う。
真理の生起[Geschehnis]なのである。真理という言葉も説明なしに出てきて驚くが、一応先に進もう。
この命運は、われわれを閉じ込めて、息苦しくも強制的に、技術を盲目的に促進させたり、あるいは同じことだが、絶望的に技術に反抗させたり、技術を悪魔の所業だとして呪詛させたりは、けっしてしない。逆である。われわれが自分自身を技術の本質にたいしてことさら開くなら、思いがけず、自由にする呼びかけに自分たちが呼びかけられ、要求されていることに気づくだろう。
ハイデガーは技術を肯定も否定もしない。それどころか、自分たちを技術の本質にたいして開くことを薦める。
開蔵の命運は--(中略)--危険[Gefahr]なのである。なぜ危険なのかというと
人間は今日、じつのところ[in Wahrheit]は、まさに自分自身、すなわち自分の本質にはもはやどこにおいてもけっして出会えないのである。人間はあまりにも決定的に集-立による挑発にしたがっているので、集-立が彼に呼びかけている要求[Anspruch]であるということを認めることができず、自分自身がよびかけられ、要求された者であることを見落としている。
人間が現代技術を作ったのではない。ゲシュテル[集-立]がそれを作っており、人間もゲシュテルによって用立てられてる。そういう構造になっている。だから、人間は自分自身の本質に出会うことがない。これこそが、人間存在の危機だ、というわけだ。
ハイデガーは突然、ヘンダーリンの言葉の引用する。
「しかし、危険のあるところ、救うものもまた育つ」
「救う」とは、本質のうちに取り戻すこと、そのようにして本質をはじめてその本来の輝きにもたらすことである。
技術の本質は、救うものの成長をそれ自体に蔵しているにちがいない。ここにおいて、はじめて希望的なことが語られ始める。
技術の本質は、ある高い意味で、両義的なものである。そのような両義性は、あらゆる開蔵の、すなわち真理の秘密へと指図する。
第一に、集-立は用立てることが荒れ狂うように挑発する。 --(中略)--そのようにして真理の本質への関連を根底から危うくする。
第二に、集-立はそれ自体のほうから、叶えるものとして、それ自体の固有性を出来(しゅったい)させる。叶えるものは、真理の本質を保護する[Wahrnis]ために必要とされるものである、という点において人間を存続させる--(中略)--このようにして救うものの起ち現れが現出するのである。
ゲシュテル(集-立)は、 人間を用立てのために利用するだけではない。真理の本質を保つために人間を存続させる、というである。
わたしの解釈だが、ここでいう真理とは、人間が存在に目覚めていること、という意味だと思う。
技術の発展が、存在の深い深い目覚めを準備する、というわけだ。
ハイデガーはもうひとつヘンダーリンの言葉を引用する。
「・・・人間はこの大地に詩人的に住む」なぜなら、開蔵はポイエーシス( 創造、または、混沌から秩序を生み出すこと)であり、それはポエジー(詩)に通じるからだ。
技術の本質は、ポイエーシスであり、それは芸術という領域で生じる。
だから、芸術は芸術内で閉じていてはならず、技術の本質に対して開かれていなければならない。
われわれが技術においてその本質を発揮しつづけているものをたんなる技術を前にして経験できず、芸術においてその本質を発揮しつづけているものをたんなる美学を前にしてもはや見守られない技術だけ見ていては技術の本質はわからない。芸術だけ見ていては芸術の本質はわからない。という。
われわれが危険に近づけば近づくほど、それだけ救うものへの道は明るく光りはじめ、それだけいっそうわれわれはよく問うようになる。
ハイデガーは、現代技術に哲学的な期待をかけているようだ。存在の目覚めに対しての期待を。
-----------------------------------
さて考えてみよう。
開蔵とは、<こちらへと-前へと-もたらすこと> つまり存在の意味をわからせるものだ。
古代ギリシアでは、開蔵するものは1つしかなかった。それは芸術だった。
現代においては、技術も開蔵のひとつだ。
しかし技術は本来的でないやり方で開蔵している。用立てるという仕方で自然や人間を搾取しているのである。これがゲシュテルだ。
ところがゲシュテルは両義的で、一面では人間や自然を強奪するが、もう一つは「救い」を用意する。もちろんそれもゲシュテルの側の要求でそうなっているのであって、そのことのために人間が利用されるということには変わりない。ハイデガーは人間が主体的に何かをすることには期待していない。
人間は何をすれば良いかというとハイデガーは「傾聴する」ことを薦められる。
何もせずに、目を見開き、耳で聞いて、ゲシュテルをよく見ることだ。
もちろんここにおいて、ゲシュテルを自律的な構造であるとみており、人間はその一要素であると考えられている。
私はゲシュテルは生物であり、身体に似ているものとして考えてみると良いと思っている。
さて、もっとも注目すべき記述は、技術の本質は芸術の本質と同じ、ということだ。
両方とも、真理の、つまり存在の開蔵だというのだ。
もちろん、これも、個々の人間の努力によるのではなく、ゲシュテルのほうからの要請である。
しかし、何もせずにただ見て(傾聴して)いれば良いということではない。実は、それだけでも結構大変なことだ。現代技術の意義と芸術の意義と同じであるので、「傾聴」するためには芸術的・詩的なものの感受性を育てなければならない。これは、忙しい日常を送っている現代人にとってラクなことではない。
そしてゲシュテルを見るということは、つまりゲシュテルを認識するということは、私がいう「社会的身体の醸成」に他ならないと思う。
2012年3月5日月曜日
肉体=都市=自然
面白いサイトを見つけた。
「早送りで見た空」7選 という、WIRED 日本語版のサイトである。
どれも素晴らしい動画作品だ。
そして私が注目するのは7つ目の動画。
ドミミク・ブードローの作品 The City Limits である。
都市の夜の活動と、自然の活動を平行して、同じものと捉えている。
それは、都市が生き物であり、自然と同じものとして捉えることができることを、良く表している。。
非常に示唆的な動画である。
肉体の感覚的リアリティー= 都市の感覚的リアリティー=自然の感覚的リアリティー
これがわたしの目指すところである。
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「早送りで見た空」7選 という、WIRED 日本語版のサイトである。
どれも素晴らしい動画作品だ。
地球が回転して空が動き、星々が動く。そうした動きは微速度撮影でしかとらえられない。最近はよい機材に安価にアクセスできるようになったため、アマチュアを含むたくさんの写真家が微速度撮影に挑戦するようになった。・・・記事にこのように書いてあるように、これらの慧眼は、テクノロジーの進歩によってもたらされたものであるということは強調しておこう。微速度撮影によって我々は、その場で見ていることよりもさらに別の意味を掬い取れるようになった。
そして私が注目するのは7つ目の動画。
ドミミク・ブードローの作品 The City Limits である。
都市の夜の活動と、自然の活動を平行して、同じものと捉えている。
それは、都市が生き物であり、自然と同じものとして捉えることができることを、良く表している。。
非常に示唆的な動画である。
肉体の感覚的リアリティー= 都市の感覚的リアリティー=自然の感覚的リアリティー
これがわたしの目指すところである。
2011年11月14日月曜日
檸檬テロ
梶井基次郎は、小説「檸檬」において、丸善の本を積み上げてその上に檸檬を置き、それを爆弾と称した。
基次郎の行為は、物理的には本の山の上の檸檬にすぎない。
だが、檸檬は小説となることによって人々の意識内部にて作動し始めた。
文化のメディアを纏うことによって動き始めたのだ。
それが我々の棲息する現場であり、我々自身の状況だ。
しかしそうではない。社会システムをずらし、折り曲げ、別の物語を生成する場所をつくることはできる。
我々の目の前には、かけがえのない場所と現実の物体があり、私の肉体はここにある。
私は、新しい物語が息づく場所を作りたいと思う。
それは芸術という分野のみならず、我々の精神生活においても機能するような仕掛けであり、
「生きていくため」に必要な技術である。
・・・---・・・ ( S O S )

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この爆弾は「得体の知れぬ不吉な塊」を吹き飛ばすことに成功した。
基次郎の行為は、物理的には本の山の上の檸檬にすぎない。
だが、檸檬は小説となることによって人々の意識内部にて作動し始めた。
文化のメディアを纏うことによって動き始めたのだ。
さて今や我々は社会的システムに取り囲まれている。基次郎の時代とは比べ物にならぬほど何重もの層になっている。
住宅、道路、上下水道、電力供給網、通信電波網、生産、流通、金融…。我々は、社会という体内の中にいて、その中でのみ生きていることができる。
システムの第2の特徴は、社会の内部での支配であり、主なものは、制度と記号である。
記号の最たるものはカネであり、私たちはそのために生き、そのために死ぬといっても過言ではない。
これらのものがどれほど我々を実在というものから遠ざけているだろうか。
そして、そのことをいかに巧妙に隠蔽しているだろうか。「得体の知れぬ不吉な塊」は、形を変えて再生産されている。
これらの勢力は浸透力が抜群で、圧倒的であり、一見反撃の余地はないかのように思える。しかしそうではない。社会システムをずらし、折り曲げ、別の物語を生成する場所をつくることはできる。
我々の目の前には、かけがえのない場所と現実の物体があり、私の肉体はここにある。
私は、新しい物語が息づく場所を作りたいと思う。
それは芸術という分野のみならず、我々の精神生活においても機能するような仕掛けであり、
「生きていくため」に必要な技術である。
・・・---・・・ ( S O S )
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