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2017年3月10日金曜日

3月11日の前日に

明日は3月11日だ。
この間の6年間に私は何を考え、どう行動し、どのような精神の醸成をしたのか、ここでまとめておきたい。
2011年3月の震災発生後に書いた私のブログを読むと、私は何かを恐れていた。
自然の力を恐れている。まだ余震も続いていたころだ。私はあえて恐怖を自分の中に刻み込もうとした。

http://te-tajima.blogspot.jp/2011/03/blog-post_13.html
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/04/blog-post_11.html

自然保護という言葉があるが、私たちは自然を飼いならしたかのように錯覚していた。
しかし本当は、我々人類など地球の表面にへばりついて生きているに過ぎず
地震というのはわずか厚さ10キロメートル程度の地殻が揺れ動いたに過ぎない現象にもかかわらず
その上に暮らす我々人間には大ショックであった。

その時から、そしてその後の約1年を通じて、私たちは今までにない経験をした。
普段隠されている社会のインフラの仕組みが露呈したのだ。それが身をもってわかった。
ヒリヒリするような生身の皮膚感覚でもって、社会の仕組みとその向こうにある自然と接触していたのだ。

原発事故のことは言うまでもないことだが、
他にも例えば計画停電の行われる地域が順番にアナウンスされると、普段は隠れている電気の配電のネットワークが良くわかった。
ガソリンや灯油が不足した。
人々は日用品を買い溜めし、物不足の事態も起こった。
災害によって、普段は隠れている世の中の仕組みが姿を現したのだった。


私は、社会全体が自分の身体とリンクするイメージを捉えようとしていた。社会の仕組みは自分のからだの機能と良く似ていると思った。

http://te-tajima.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html
http://te-tajima.blogspot.jp/2012/02/blog-post_11.html


私は、被災地にはあえて行かなかった。
東京に居て、私自身の問題として、社会の仕組みを捉えようとした。

自分のところに来る水道、そして下水道がどうなっているのか、実際に荒川の下水道施設を訪ねてみた。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/07/blog-post.html

東京湾に到着する原油や鉄鋼、液化ガスなどを精製し、原料として日本全体に供給する地帯(千葉コンビナート地帯)に行ってきた。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/12/blog-post_30.html

そんなとき、ハイデガーの「技術への問い」に出会った。最初は良く分からなかったが、これは自分の求めるものが書いてあるのだと考えて、良く読んだ。

http://te-tajima.blogspot.jp/2012/03/3.html


ハイデガーは、「技術への問い」の中で、
現代の技術文明の正体をGe-stell (ゲシュテル)と言ってる。
ゲシュテルとは自然や人間から資源や労働を収集し、生産に活用する現代社会特有の目に見えない構造のことである。
川の流れから電力を引っ立て、農地や太陽や空気中の窒素から作物を引っ立て、鉱山から鉱物を引っ立てる。
このような「引っ立てる体制」のことをゲシュテルと言う。「徴用性」「総かり立て体制」「巨大-収奪機構」と訳す場合もある。
さらにゲシュテルは、人間をかりたてる。生産において労働をかり立て、巧みに消費をかり立てる。
ゲシュテルは目に見えない構造であって、全体を動かす中枢的な何者かがいるわけではない。
毛細血管のように、世の中の事象の隅々までいきわたり、栄養分を吸い取り、また逆に栄養をいきわたらせている。
私たちはゲシュテルの支配から逃れることはほぼできない。

長い間かかって、私はゲシュテルの実態を捉えた。そして自分の身体に重ね合わせようとした。

このようにして2014年に「ハイデガーの技術論」という個展を行なった。
http://te-tajima.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html

その成果はこのときのブログの記述に詳しく書いてある。
ここで私は、ゲシュテルに支配された現代のモード(社会を成り立たせる様式)を、変換させる可能性が育っていることを確信した。

そしてその後、2015年に「ぬか漬けされた資本論」という作品を作った。社会を食べて、自分の身体に取り込む、というコンセプトの作品だ。
https://www.te-tajima.com/untitled-c1ndd

「技術への問い」の終盤で、ハイデガーは、もしゲシュテルの支配を脱したとしたら「人間はこの大地に詩人的に住む」という言葉を書いている。

ゲシュテルの上に登った私は、どのようにして詩人になるか、今、試みているところである。


2014年7月20日日曜日

量子力学の気持ち悪さ

寄席に行くといろいろな芸がある。落語もあれば漫才もあり奇術も曲芸もある。

奇妙な例えだとは思うが、物理学を寄席芸に例えるとしてみよう。科学というものは楽しいもので、ある意味エンタテインメントとしてみることもできるからだ。
そういう例え話で見てみると、相対性理論に比べて量子力学がいかに気持ち悪いものか、良くわかると思う。
大学で物理学を専攻した私ですが、学生時代は「量子力学とは、とにかくこういうものだ。」という風に教わって、計算ばかりしていました。この歳になってあらためて(専門書でなくて一般向けの本を)読んでみると、「量子力学ってすっきりしない、気持ちの悪いものだなあ」とつくづく思います。

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「相対性理論」という芸がある。この芸はアインシュタイン一人によって創作され、演じられた芸だ。
アインシュタインはすぐにスターになった。切れ味鋭いその芸は、人々に頭をガーンと殴られるようなショックを与え、「そんなバカなことがあるか」と当惑する客を翻弄し、夢中にさせ、寝る間を惜しんで考えさせてしまい、熱病に浮かされたようになって、最後には「そういうもの」として受け入れざるを得ないところに追い込む。入り、見せ場、オチの全てを完璧に兼ね備えた芸だ。そのネタは実に華麗だ。

相対性理論の芸は、何よりショッキングだ。すこしご紹介しよう。
【光速度一定】 二人の芸人が光の速度の90%で擦れ違い、お互いの速度を計る。当然光速の180%で擦れ違うと思うだろうが、実はどう計っても光速を超えることはない。
【歪む空間】 質量の重い芸人が出てくると、その背景が歪んで見える。重力によって空間が歪んでいるからだ。芸人の重力は増え続け、ついには光も出てくることができないブラックホールになる。
【質量=エネルギー】 芸人の一人が突然消滅すると大爆発を起こす。原子核分裂によって質量をエネルギーに変え、爆発したのである。

どれをとっても派手で、わかりやすくて、スキャンダラスな芸風だ。



その一方で、気持ち悪い芸がある。「量子力学」という芸だ。
この量子力学という芸は、始末が悪い。まず、芸人が何をやっているのかわからない。見せ場が分かるのに時間がかかる。そしてオチがない。客は宙ぶらりんの状態に投げ出されたまま、放っておかれてしまう。面白いのだけれど、その面白さがわかるまでには時間がかかるし、オチがないので、なんだか妙な気持ちのままそのあと過ごさなければならない。
そしてなぜか「量子力学」という芸は演じ手が多い。マックス・プランク、ニルス・ボーア、ハイゼンベルク、ルイ・ド・ブロイ、シュレーディンガー、ウォルフガング・パウリ・・・キラ星の如く名人たちがいる。そしてその芸は21世紀の今になっても現存する研究者によって引き継がれていて、そしてその芸の気持ち悪さはエスカレートする一方だ。

ニルス・ボーア
シュレーディンガー

量子力学のネタをいくつかご紹介しよう。

【見えざる芸】
これは、面白さを理解するのが非常に難しい芸だ。このネタは、観客が舞台を見ていないときに演じられ、観客が舞台を見た瞬間、芸人たちは動きを止め演じるのをやめてしまう。
観客は、芸人がどのあたりにいて、どういう動きをするのか、その可能性だけは分かっているのだが実際芸人が活動している姿を直接見ることはだけは絶対にできない。この芸は、観客が見た瞬間に芸人が何をやっているか決まる。あらかじめ芸人は舞台で何かをやっていてそれを観客が偶然見るのではない。観客が見ることによって、芸人の舞台上での位置を決めるのである。
では観客はどうやって楽しめば良いのか?
実をいうと、見ることができない芸というそのこと自体がこの芸の最大の魅力でもあるのだ。なんとも不可解な芸なので、大抵の観客は????となってしまう。

【限りない分身】
上記の【見えざる芸】の楽しみ方がどうしても分からない人たちのために考え出された芸の鑑賞方法の一つ。観客が舞台を見た瞬間に、あらゆる芸人の振る舞いに対して、観客自身を含めて世界が分かれて存在すると解釈する。つまり1度見れば何百の世界が出来るので、すさまじい数の世界が同時並行して出来てしまう。たとえばある客が、舞台を見た瞬間に芸人が舞台の中央に居た場合、「わたしはたまたま芸人が舞台の中央に居る世界にいたのだ」と解釈する。【見えざる芸】の面白さがわからない人のために、なんとか理解できるように考えられたこの芸の鑑賞法である。しかし、これも【見えざる芸】と同様に気持ちの悪い話だ。

【もつれ】
2人一組で演じられる曲芸のような芸。この二人の芸人は、いくら遠くはなれていても(舞台の端から端、東京と大阪、地球と火星、いや宇宙の端から端だろうと)、一瞬にしてお互いの衣装をそろえてしまう。一人が青いスーツを着ていればもう一人も必ず青いスーツを着ている。これは、最初にお互いに示し合わせて青いスーツを着ているわけではない。本当にお互いに相方の衣装は知らないのだが、観客が一方の芸人の衣装を見た瞬間に遠くはなれた相方の衣装も決まるのだ。光より速いスピードで情報を伝えることはできないはずなのだが、この芸はタネも仕掛けもないのに出来てしまう。

【場に合わせ】
漫才の一種。ある規則にしたがって芸人が自分の姿や性質を変えてしまう芸。2人の芸人が出てくる、「相方は性質が違っていること」という決まりがあって、その決まりに合わないと芸人自身が性質を変えてしまう。
例えば二人の男の芸人が出てくる。しかしマイクの前に立つと、突然、一人が女に変わってしまう。
決まりはいくつかあって、「背が高い/低い」「太っている/痩せている」という特徴もその規則に加えることができる。二人の、痩せた背の高い男性の芸人が舞台に出てきて、マイクの前に立ったとたん、一人が太った背の高い女性になり、もう一人は痩せた背の低い男性になる。



上の説明の、芸人を光子や電子などの粒子に置き換えれば、量子力学そのもの解説となっている。
【見えざる芸】は、不確定性原理
【限りない分身】は、多世界解釈
【もつれ】は、量子もつれ
【場に合わせ】は、状況依存性
を表している。

芸に例えてみると量子力学がいかに奇妙で気持ち悪いかを良くわかると思う。

しかし、量子力学は、現在の私達の世界で起こっていることを説明する非常に良い理論であって、その結論には毛の先ほどの疑義が出ていない。いまのところ量子力学は常に正しい。
また私達の生活は量子力学の恩恵をうけている。私は今こうしてPCで文字を打っているが、エレクトロニクスは量子力学なくして存在しえない。PCを初めとした電子制御が関係する仕事は量子力学の影響なくして生まれなかった。私達の社会は量子力学に深く依存している。

量子力学は奇妙で気持ち悪いけれども、これがこの世界の真実である。したがって、私達の住むこの世界は、相当奇妙で気持ち悪いものであるということだ。

しかし真実である以上、いつまでも気持ち悪いとも言っていられない。なんとかしてこの気持ち悪さを当然のこととして受け入れる考え方を身につけないと、私たちはこの世の中に適合できない。

さて、実はこの気持ち悪さを解消し、スッキリする考え方がある。次回はそれについて述べたいと思う。


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2012年10月14日日曜日

外の思考

外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー (1978年) (エピステーメー叢書)

外の思考  ミッシェル・フーコー 著  豊崎光一 訳

「私は話す」・・・この評論はこの一言から始まる。
この「私は話す」という一文は「~を」という目的節が無い。
したがって、「私は話す」という言葉だけでは、何も言わないのと同じだ。

しかし、あえて「私は話す」と発語することは、或る空虚へと私たちを案内することになる。そこにおいては、話す主体も無くなってしまう。
言語が何かの意味の伝達ではなくて、言語そのものが生の実体として出現する。その代わりに、発語する本人(主体)は存在意味がなくなる。

主体が消滅する空虚な空間・・・ミッシェル・フーコーはそれを「外」という。


(中略)「私は話す」があたかも「私は考える」の裏側におけるように機能することである。「私は考える」は事実「私」の疑いを容れない確実性とその実在とに導いた、ところが「私は話す」の方は逆にこの実在をおし込め、拡散させ、拡散させ、消してしまって、その空虚な在処のみを出現させるのだ。

「私」という主体ーもちろんそれはデカルトが発見した近代的理性というシロモノである。ー我思う。ゆえに我ありーというアレです。

ところが、「私は話す」は、人間がいかに非理性的かということを暴露する道筋を示す。

「私は話す」が指し示す空虚は、本当は何も無い空間ではなく、見えないエネルギーに満ちた、底知れないポテンシャルに満ちた空間なのです。

それは見えないが故に恐ろしい。フーコーはこんな薄気味の悪い喩えで表現しています。


そこでは、夜になると、あらゆる眠りの彼方に、話している人の押し殺した声が、病人たちの咳が、瀕死の人たちの喘ぎが、生きることをやめることをやめようとしない者の途切れた息が響いている。

幽霊でも出てきそうですね。

さて、この評論文はモーリス・ブランショの評論なのですが、もちろんブランショはこの「外」を表現した人として紹介されています。

私もブランショの本を読んでみました。作者はたぶんわざとわかりにくくなるかのように書いています。
「謎のトマ」は書くこと、表現することを疑いつつ書いているのが良くわかります。
また「私についてこなかった男」に至っては、およそ5W1H(誰が、どこで、誰に、いつ、何を、どうした)を無視しています。誰が誰に何をしたのかまったく不明で、「彼」とか「私」とかいう登場人物も何の説明も無しに出てきて、何をしているのか全くわからない。

このような文章全体が、あの「外」をーーー恐ろしいエネルギーを備えた、マグマのような大きな塊の表面を覆っているのだ。
ブランショの小説は、文が物語りを語っているのではなく、その中心のエネルギーを指している。
例えていうなら、地球の内部にあるコアのエネルギーは、マントルを対流させ、地層の褶曲や断層や、時には火山の噴火や地震を引き起こす。ブランショの小説は、その褶曲や断層、噴火や地震なのである。


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