2010年6月28日月曜日

新作 「森の中の小路を蛇が渡る」


「蛇渡る長き一瞬ありにけり」
新聞の俳句欄に載っていた句である。

森の中を切り開いた小路。
一匹の蛇が悠然として横切る。
戦慄の長い一瞬。

このビジョンは、私の中に印象的な場面として染み付いた。

森は自然である。
森を分断する道は文明である。道は森を幾何学的に分断している。
しかし森は絶えず増殖し、道はやがて森に飲み込まれる運命である。
蛇は、自然と文明をつなぐもの。自然から出て、文明に入り、そして自然に帰るもの。
つまり、人間の身体。つまり私にとっては私の身体である。

私は、このビジョンを、描き留めたいと思った。
しかし鉛筆や絵具を使うことは思ってもいなかった。
森の木とか、道路とか、蛇の姿とかを写実的に描いたところで、
それは間接的なイラストレーションに過ぎない。

強力粉を練り、竹炭を少し加え、手で描いた。このやり方が感覚に直接的で良い。


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2010年6月26日土曜日

雑誌アエラに少しだけ掲載されます

先日、アエラ記者・古川雅子さんの取材を受けたが
記事掲載についての連絡が来た。
7月5日(月)発売号にて「乾布摩擦・裸健康法」という記事の中で
以下の文が載ります。


 芸術家であり、精密機器メーカーに勤める田島鉄也さん(47)は、自分の体で感じる「感覚」で世界を捉える試みとして、芸術活動に取り組んでいる。最近、その思考実験の一環として、乾布摩擦も試したところ、
「気温や、風の流れといったものに、いかに自分が鈍感になっているか、気づいた」 
 と田島さんは言う。その効用について、
「現代人が目に見える何かを得たかわりに『失った何か』。その〈野性〉を取り戻し、外気と身体の感覚的つながりを回復する機会になるのではないか」
 と考えている。


古川さんとはたくさんの話をしたけれども、彼女の取材テーマが「乾布摩擦・裸健康法」なので、私の問題意識の全体像のうち、皮膚感覚に関する部分のみ切り取った形です。

古川さんは事前に私の「〈野性〉論」を買い求め、線を引いて非常に熱心に読んでくれていました。「〈野性〉論」は他のどの書物にも書いてないことを書きました。しかもできるだけわかりやすく。そのことをよく理解してくれていました。彼女は「〈野性〉論」の良き理解者の一人です。

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2010年6月21日月曜日

ヨーゼフ・ボイスのこと3

ヨーゼフ・ボイスの言説は、難解だ。例えばこんな調子だ。
自らの身体性として現前しているものを動かすことによって、
言語の身体的側面を通じて情報を伝達することができるという事実を経験するのである

(1977年ドクメンタ6における講演 「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」(人智学出版)より)

・・・要するにただ、「口で話す」ということだが、そうは言わない。
カント以来のドイツ観念論の精神文化史に深く傾倒しているボイスは
時には哲学用語を駆使して聴衆を煙に巻く。


ボイスの言葉使いは独特である。
しかし彼の言説の周囲には、なんともいえない不穏なものが流れており
何かが起こりそうな予感がするのである。

この謎にはまってしまうと、混沌とした言説と作品群とアクションの森の中に
さまよい始めることとなる。

彼の言説は どう考えても賛成しかねるところがあり、思わず反発したくなる。
そうなると、もう私たちの思考はボイスの作品にしばしば登場する脂肪のように
とろけて流動しはじめているのである。
すなわち、私たち自身がボイスのいう社会彫刻の一部として機能し始めているのだ。

問われるべきは、そもそも革命はいかにして生起しうるかという問いであろう。 革命家はそこで、自ら実験することにより、たとえば自らの四周に現前するものを 観る事によって、さらなる操作性へと入ってゆかねばならない。 この知覚において彼は自らに問わねばならないであろう。
「この知覚とは何であろう。この知覚の中には、 自由な創造性の存在の基礎づけを可能とするようなエレメントへと自分を導くようなものが 存在するのであろうか。 」

(1977年ドクメンタ6における講演 「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」(人智学出版)より)

・・・・どうも各自の知覚や思考が、革命の始まりであるといいたいようだし、また社会全体が一つの生命体として機能するとでも言いたいらしい。
ボイスはいう。人間は、本来、創造者であり、すなわち芸術家であり、革命家である。
この創造=芸術は社会を動かす力、すなわち資本である。

情報化社会の現在、人間の創造的な力が、社会を動かす力となっていることは明らかである。
しかし、それは、社会構成員が資本主義社会から創造的であることを求められている ということである。
創造性は去勢され、革命的な力は、資本主義を前進させることに利用されているのである。
そしてインターネットの情報網は生命体のように増殖している。
ボイスの理想は実現した。その言説の不穏な部分だけを取り残して。

しかし、ボイスの言説の不穏な部分、みずからボイスの言説について考え始めたら、すでにボイスの彫刻の一部になっているという不穏さ。
その粘着的な性格。つまり、掴もうとして手を出すと逆に粘着してとれなくなるという厄介さ。

彼は死んでから、消化され、消費され、無害な男になっていった。それは彼の意図ではなかったと思う。
ボイス的なるもの、ボイス的な不穏さ、関わったら傍観者ではいられない粘着的な言説。 そういうものは、何度でも復活されなければならない。

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2010年6月17日木曜日

ヨーゼフ・ボイスのこと 2

「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」(人智学出版)に、
「生命体への参入」という1977年ドクメンタでの講演が収められている。

「私は三つの異なるものを調和させることを試みたい。すなわち生命体の概念、
革命家の概念、そして社会彫刻の概念である。」

ボイスはこの中で、創造する人(これをボイスは革命家という)が、どのように創造を生起し、
それを社会的に表すか、言葉をいくつも変えて繰り返し述べている。
社会彫刻とは、そのように社会的に現われた活動全体であり、このような活動の全体像を
「生命体」と呼んでいる。

貨幣は単なる権利調整物となり、利潤、所有、賃金依存などは消滅すると述べている。

確かに、現在の労働市場に創造性は最も必要とされることとなった。
しかしそれは、新しいビジネスを作り出すための創造性であって
人間が全存在をかけて取り組む創造ではない。

いまや、大なり小なり創造的であることを強いられる社会である。

IBMはいう「世界をスマートに」。
もちろんそれは目的ではなくて手段だ。
しかしあたかもそこには、世界をスマートにすることが
目的になってしまう危険性をはらんでいる。
もちろんIBMの目的は、世界をスマートにすることによって
自分が利益を上げることである。

巷ではビシネス思考法が盛んになっている。
ロジカルシンキング、クリティカルシンキング、はてはクリエイティブシンキング・・・
それはそれでスキルとして面白いのだけれど、
これは手段に過ぎない。

私たちはこのような2重3重の細紐に絡め取られいつの間にか資本主義的な身体を
作り上げられてしまうのである。
だまされてはいけない。

ボイスは言った「思考は彫刻である」と。
創造的思考、革命的思考は、革命的な身体、〈野性〉的身体をつくるのだ。
資本主義をメディアとして、手段として使いこなすには、
私たちは全員、「革命家」にならなければならない。


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2010年6月14日月曜日

強力粉のハンドペインティング


↑クリックすると大きくなります。

強力粉を水で溶き、食用竹炭をまぜたもの。
手で塗っています。
やってる最中は目をつむっています。
描いているときの感覚(触感)がとても大事です。
下に落ちて溜まったのは、手ですくってまた塗ってます。

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2010年6月8日火曜日

ヨーゼフ・ボイスのこと

自然-身体-精神-社会をつなぐ、ということを看板として掲げている以上、
ヨーゼフ・ボイスのことに触れないわけにはいかない。
彼のいう「社会彫刻」「拡張された芸術概念」もそうですが
結局私の目指すところはボイスのように社会の改革に通じています。
25年前に来日したボイスですが、バブル前の日本では
ボイスのいうことを理解できなかったようです。

いまやエコロジーが当たり前になり
NGOなどの非営利団体の活動が活発になった。
今、ボイスが昔言っていたことを具体的に考えることは難しいことではない。

また、こんなことをいう人もいる。
「晩年のボイスが考えていたのは、日常的な「労働」という営為をいかに「芸術」として捉えなおすということだったのではないか。それはそもそも彼が提唱した「社会彫刻」のひとつの完成型であり、「誰もが芸術家である」という有名なテーゼの実現でもあった。けれども80年代以降の産業構造の急激な変化はボイスのユートピアを追い越してしまった。今では誰でも(売れない)芸術家のように生きられることを強いられている。現在労働市場で最も求められているのは創造力やコミュニケーション力である。ボイスの夢は実現したけれど、皮肉なことにそれはユートピアではなかった。資本主義のしたたかさを考えるために今一度、80年代のボイスを思い起こすことが必要である。」社会学者/東京芸術大学准教授 毛利嘉孝氏
http://moonlinx.jp/headline/art/000681.php


80年代以降の産業構造の変化は、確かに資本=創造というボイスの思想を表したかのように見える。
資本主義は、人間の創造力を、資本の流れる方向に導き、資本のために使わせるのである。
だが、ボイスは創造者=革命家であるといったことも力説せねばならない。
ボイスの思想が実現したというには、骨抜きになって拡散したといったほうがいい。

今、革命家としての身体がどこにあるというのか、
身体は戦場であることを自覚しているひとが如何に少ないことか。
「創造者」は多くなったが「革命家」はいなくなったのだ。
「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」(人智学出版社)を読んだ。
その中の「生命体への参入」という講演を記録を読み直した。
革命家の内部で何が起こっているか、についての考えが述べられている。

ボイスについは数限りないサイト・記事があるが、私が本日見たなかではこのブログが一番ためになった。
http://hiroshi-s.at.webry.info/201002/article_1.html


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2010年6月5日土曜日

西田幾多郎 「善の研究」を読む


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「米糊ペインティング」の意義


さて、今日の話題
難解といわれる西田の哲学だが
「感覚で世界を捉える」観点で読むとするすると入ってくる。

特に第2篇 第3章 実在の真景 には、なるほどと思わせるものがある。
「普通には・・(中略)・・精神と物体の両実在があると考えているが、それは凡て誤である。」
「事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲といったが、天文学者はこれを詩人の囈語《げいご》として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われているかも知れない。」
「 万象の擬人的説明ということは太古人間の説明法であって、また今日でも純白無邪気なる小児の説明法である。いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去るであろう、勿論この説明法は幼稚ではあるが、一方より見れば実在の真実なる説明法である。科学者の説明法は知識の一方にのみ偏したるものである」


知情意の合一、主観客観の区別ない「純粋経験」によって凡てを説明しようという西田幾多郎の基本的な態度は、感覚一元論を解く私の考えと元々非常に類似している。
また読むにつけこの哲学者の知的な誠実さには胸を打たれる。


「善の研究」は青空文庫より無料で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/card946.html
http://my.reset.jp/~comcom/sozai/large/zennokenkyuu_ruby.pdf


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2010年6月1日火曜日

記号化されない身体

河瀬 昇 氏のwebサイト「アメリカ現代作家論」を読み返した。
都市の記号システムという首尾一貫した観点で
50年代-80年代のアメリカ美術のスリリングな展開を読み解く手際は
実に鮮やかだ。

河瀬氏が「都市の記号システム」というのと、
私が〈野性〉論で「資本主義システム」といっているのは
殆ど同じものである。
美術家たちが、どのようにそれらの記号化と戦ってきたか
数十年にわたる戦いの歴史は、壮観だ。

翻って現在、
とっくの昔に私たちの身体は記号化されている。
ぎしぎし音を立てているようだ。
かさぶたを剥がすようにそれらの記号を剥ぎ取っていきたい。
しかしかさぶたは私たちの身体の一部であり、体中に貼り付いている。
剥がしたとたんに血まみれになるだろう。

記号化されていない身体なんて、どこにある?

あるとすれば、それは私たちのリアルな身体感覚だ。
内臓の動きであり、呼吸であり、心臓の鼓動であり、血液の流れだ。
腱のきしみであり、骨の鳴る音だ。
それは何十億年の前からの進化の現在地点であり、
感覚の源泉である。

今日も私は身体に耳を澄ます。
記号でない、リアルなものを見る。それしかない。


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