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2014年2月2日日曜日

個展レビュー 「ハイデガーの技術論」

先日(2014.1.27-2.1)ギャラリー現 で行なわれた私の個展「ハイデガーの技術論 -自然-身体-社会をつなぐ」を振り返ってみようと思います。

会場
Q:なぜ「技術論」というテーマを選んだのか?
A:
私は中学生のときに神経症になり、電車に乗れなかったことがあります。その時は自分が悪いのだろうと思っていましたが、長じてからは、私の病は、社会との関係であることに気づきました。つまり、私は人間の大量輸送というシステムに、強い違和感を抱いてそれに馴染めなかったということです。
また私たちの身体は自然そのものであるといえますが、私は自然(身体)と社会の間に、またぎ越せないほどの大きな溝を感じるのです。
現代の技術社会に対する根本的な疑問・違和感・居心地の悪さ、不快・・・それらは、私の生来の疑問であり生きていく上でのテーマです。技術について問うことは私の生存の条件ともいえます。



会場


Q:そもそもハイデガーって誰?
A:
20世紀ドイツの哲学者で、「存在と時間」という大ベストセラーを書きました。
フライブルク大学の学長にもなりました。
そのころ、ナチスに積極的に参画しています。世界的な大哲学者となり、学長にもなって、哲学で世界を変えられると勘違いしていたのかも知れません。
戦後、ハイデガーはナチス参画の経歴を恥じて、山荘にこもり著述の生活をしました。その時書いたのが「技術への問い」です。

Q:では、なぜ「ハイデガーの技術論」なのか?
A:ハイデガーの「技術への問い」が、私の疑問にまともに答えようとしているテキストだからです。他にそのような書物は私は知りません。
ハイデガーも、人間の生きる問題と社会性を追求していくうちに、ナチスという歪んだ近代性に加担してしまったのですが、その自分の過ちを真に受け止めて総括したのがこの文章といえます。


Q:なぜこれほど難しいのか?
A:
いままでに無い思想を打ち立てるには、いままでに無い考えを表す用語を作らなければなりません。そのため、ハイデガーは新しい言葉を作っています。確かにそのような見慣れない新語の意味をちゃんと捉えていないと分かりにくいと思います。逆にいえばその用語の意味を捉えていれば、だいぶ分かり易くなると思います。以下にいくつかキーワードを説明します。

キーワード1: Ge-stell (ゲシュテル)
ハイデガーは、「技術への問い」の中で、現代の技術文明の正体をGe-stell (ゲシュテル)と言っています。
ゲシュテルlとは自然や人間から資源や労働を収集し、生産に活用する現代社会特有の目に見えない構造のことです。
川の流れから電力を引っ立て、農地や太陽や空気中の窒素から作物を引っ立て、鉱山から鉱物を引っ立てる。このような「引っ立てる体制」のことをゲシュテルと言います。「徴用性」「総かり立て体制」「巨大-収奪機構」という訳語もあります。
さらにゲシュテルは、人間をかり立てます。生産において労働をかり立て、巧みに消費をかり立てます。
ゲシュテルは目に見えない構造であって、全体を動かす中枢的な何者かがいるわけでもありません。毛細血管のように、世の中の事象の隅々までいきわたり、栄養分を吸い取り、また逆に栄養をいきわたらせています。
私たちはゲシュテルの支配から逃れることはほぼできないのです。

キーワード2: 開蔵(Entbegen)
「現れていない可能性を発揮する」というような意味。非常に意味の広い言葉です。
開蔵の例としては
(1)自然現象
(2)(人間の身体による)技
(3)科学技術
の3つがあります。
ここで(3)の科学技術が、(1)、(2)と同列であるということが非常に重要です。開蔵という概念に、ゲシュテルの支配を相対化する鍵があるとに思います。

キーワード3: モード(Mode)
これは、ハイデガーではなく、私(田島)が考えた言葉です。従来のモード(Mode)という言葉の意味(様式、形式、気分、体制)とは、違う意味で使っています。
ここでいうモードとは、或る社会において、人々の社会的な行動や考え方を律している規範のことです。
たとえば古代ギリシアでは「デルフォイの神託」という巫女のお告げがギリシア社会全体に大きな影響力を持っていました。また日本の封建時代には、主君や家のために自分を犠牲にすることが当たり前という価値の中にいました。
言って見れば、社会観、自然観、美徳、死生観、身体感覚/肉体の使い方までが或るひとつの首尾一貫した価値観の中にあり、それ以外の考えが成立しにくい社会状況、それがモードです。
現代はゲシュテルのモードにいます。ゲシュテルのつくりだす用象(何事も役立てるために駆り立てること)の中にすっぽりと覆われています。 

Q:文章ではなく、なぜ芸術作品として発表するのか?
A:
紙やキャンバスに絵の具でドローイングすることと、紙に文字をつかって書くこととは、媒体を入れ替えただけで、同じことなのです。
今回設定したテーマが非常に範囲の大きなものだったので「思考のドローイング/ペインティング」活動として、一度大きな紙の上に思考を展開し、人々の考えを招き入れ、再構築する必要があったのです。身体の現象を行為として表すとしたら紙にハンドペイントすることなのですが、社会をモチーフとするとしたら、言語をつかって考え、それを書き表すしかない。それはドローイングまたはペインティングということができます。
公式には初日と最終日がその「ライブペインティング」の日だったのですが、実は毎夜、展覧会終了後に会場に行き、自分の思考を展開していました。

Q:今回の展覧会の成果は何か?
A:
成果は3つあります。
成果1 :ゲシュテルがなかったときのモードを書き記すことができたこと

私がこだわったのは、ゲシュテルが無かったときのモードを書き表すことです。
人々の行動規範は基本的に土地または血縁に縛られていて、自然と人間の精神の境目があいまいで、キツネにだまされていることを人々が不思議に思わない社会です。また記述された歴史をもっていない社会です。
そういうゲシュテルの無かったころのモードがあることを示すことにより、現代のゲシュテル社会を相対化することができるのです。現在私たちが暮らしている社会のモードは、ゲシュテルが無かった時のモードからゲシュテルが支配する現在のモードに変換した結果であるということです。

成果2: モード変換は、もう一度起こるということを確信したこと

現在のゲシュテルが支配している社会は、あまりにもバランスを欠いているので、変換はもう一度起こるだろうということは以前から何となく思っていましたが今回それを確信しました。
科学技術は、「自然&身体」対「人間&社会」との関係を差し替えました。関係が変質することによって、モード変換は起こるであろうということを確信しました。
それに至るヒントになったのは、ハイデガーの言う「救うもの」という言葉です。
ハイデガーのテキストに、「危険があるところ、救うものもまた育つ」「技術の本質は、救うものの成長をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。」という言葉があります。
「救うもの」は、ゲシュテルを排除したり、避けたりすることではなく、ゲシュテルそのものが「救うもの」を用意するという意味です。
そのとき参照されるのが、例の開蔵です。自然現象と人間の技が科学技術と同じものであるということです。
我々は科学によって超ミクロから超マクロまで、そして何百億年の昔までさかのぼってこの自然を見ることができるようになりました。
このことが、人間と自然との関係を新しいものにし、「救うもの」を準備するのです。特に、宇宙から地球を見る経験をした人が増えてきたということも、そのモード変換を後押しするでしょう。

成果3: 芸術の意味をモード変換の前哨として位置づけることができたこと

現在、芸術家が、個々ばらばらにやっている作業は、来るべきモード変換のための準備であると位置づけることができます。
ゲシュテルに支配されていない太古の残余でもあると思うのですが、そのような普遍性を生き残らせる領域として、芸術があります。
あたかも飽和溶液の中から結晶が析出するように、モード変換はどこからともなく起こります。
それは潜在的な可能性であって、もしかしたら何も起こらないまま終わるかもしれませんが、可能性としてはいつまでもあります。そしてそれはゲシュテルの成長とともに「育っている」のです。したがって可能性も常に大きくなっていきます。
芸術家の営みは、そのような変換を常に準備しているのです。

そしてモード変換をなしえたときの姿が、ハイデガーの謎めいた言葉「人間はこの大地に詩人的に住む」ということなのでしょう。

技術は開蔵のひとつのしかたである。



[技術は開蔵のひとつのしかたである。]
 ・自然現象(そして最も身近な自然である身体も) ・人間の身体による技 ・科学技術
*開蔵(Entbegen)とは、「現れていない可能性を開く」というような意味で、ハイデガーは、開蔵の例として自然現象、人間の身体による技、科学技術 の3つを上げている。

これらは原感覚の分化に他ならないのではないか?

我々は、ハイデガーと同じ「太古の目」を持つべきではないか?
 愛人のハンナ・アレントはハイデガーを太古の人と言っていた。



Ge-stellが無かった時のMode(モード) (死生観、社会観、自然観、美徳、身体感覚/肉体の使い方)、 その中にすっぽりと入ってしまうような空間、空気、雲)

記述された歴史がない。オーラルヒストリー  → 書かれた歴史。制度史

キツネにだまされる能力をもっている→ キツネにだまされる能力をもたない

音がない 静か → モーター、電子音、クルマの走行音、下水道の流れる音、エアコンの音・・・

肉体が土地の上にある → 肉体が土地から離れている

先祖が作ったものの上に生きている → 今、またはこれから作るもののうえに生きている

人間関係は固定 個人の自由は少ない → 人間関係は流動的、複雑、多面的(一個人が複数の社会的役割を持つ。
個人の自由(職業選択、結婚等)はある。

我々は、自然現象などから用象(役に立つこと)を引き出し、利用して、そして人間そのものもその体系の中に組み込んでしまう目に見えないしくみをこう名づける― Ge-stell と。


[我々は、自然現象などから用象(役に立つこと)を引き出し、利用して、そして人間そのものもその体系の中に組み込んでしまう目に見えないしくみをこう名づける― Ge-stell と。]

Ge-stellは、あまりにも当たり前に作用しているので、私たちの生活、思考、行動様式を律しているものであると気付くことはない。
Ge-stellは、網のような、血管のようなもの。広がり、からみつき、利用できるものを吸いとり、また栄養を行きわたらせ、人間の生存のモードを変換する。
Ge-stellは人間を利用する。労働力として。消費の単位として。

人間は今日、まさに自分自身、すなわち自分の本質には、もはやどこにおいても決して出会えないのである。



[人間は今日、まさに自分自身、すなわち自分の本質には、もはやどこにおいても決して出会えないのである。] 
このことのほうが危険な考えでは?

豊かな生活
伸びる寿命
ゴラクに触れる機会の増加

戦争
原発事故
格差
自然モードを忘れる人間

Ge-stellは、好ましい面と残酷な面を持っており、たびたび残酷な面のみが取り上げられて近代批判や自然回帰に利用される。


1978年、 田島鉄也は神経症になり、電車に乗れなくなる。
  病は社会的なもの
  意識は社会の表象
  身体は社会の皮膚



1945年 沢渡温泉の旅館主の焼き畑の火が燃え広がり温泉街全てを焼失させた。疎開児童にじゃがいもを食べさせたかったという。

Ge-stellの最も恐ろしいことは、人間が自分の本質に出会えないようにすること。すなわち自分が関係性であることを忘れさせ、あたかも精神や意志を独立して持っているかのような見せかけを作り出し用象の体系の中に自らすすんで入り込みそれが世界の全ての姿であると信じて疑わないようにさせること。
ゲシュテルをのさばらせ、ただしたがっているだけで良いのか?
しかし、Ge-stellに盲目的に追従することも、また反抗を試みることも同様に、私たちを不自由にする。どうしたらよいのか?
人間はあまりにもゲシュテルによる挑発にしたがっているので、ゲシュテルが彼に呼びかけている要求であることを認めることができない。

ゲシュテルが支配するところには最高の意味で危険がある。

しかし危険があるところ、救うものもまた育つ。

技術の本質は、救うものの成長をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。






Ge-stell が変化する
Ge-stellの変化はその表象である人間の意識を変える

Ge-stellは何ものに変わるのか?
「救うもの」とは何か?
技術の本質がそれを蔵しているならば
技術の本質とは何か?
それは開蔵(Entbegen)ではないか。



用立て(Ge-stellのこと)の止めがたさと救うものの控えめさとはあたかも天体の運行における惑星の軌道のようにたがいの傍らを擦れ違っていく
ここに偶然隣り合った3つの書評はいずれもGe-stellに関係する言説である。


ゾミア  Ge-stellの支配を逃れ、太古のモードを維持した民が各地に普遍的に居る。

ウォール街の物理学者  Ge-stellそのものの運動を数理モデルで解析しようとする努力

人類が絶滅する6のシナリオ  Ge-stellの暴走によって自然のバランスを崩し、破局するパターンの例示

  これらは開蔵(Entbegen)ではないのか?



技術を徹底的に問いなおすこと、技術と決定的に対決することは、技術と親しいが一方でそれとは全く違うひとつの領域で生じる。
そのような領域が芸術である
。



現代を支配するものはGe-stell
しかしGe-stellが挑発する開蔵であり
開蔵は自然や人間の肉体の現象(人間の身体による技)でもあることを
思えば、Ge-stellを相対化することは
可能だろう。




現在、そのような相対化は、個々人の固有の時間の中で行なわれているが、
それは集合的無意識の共鳴によって起こる。
もちろん、意図的には起こせない。
Ge-stellが個々人の人間の心とは別に起こった構造であるのと同様に
それも個々人の心とは別に起こる。
しかし、現代の「芸術」という形態では起きないのではないか?
それはModeの変換であり、或る時から急速に起こる。いつかわからない。
我々は太古の目を準備しておき、そのMode変換に
備えておいた方が良い。

人間はこの大地に詩人的に住む

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2014年1月26日日曜日

ハイデガーの技術論 搬入中

明後日からの個展「ハイデガーの技術論」の搬入中




ハイデガーのテキストと私のペインティングで構成されています。

ペインティングは会場で描いています。
そして考えていることを書いている。


自然と人間の関係、呪術と科学技術、社会的な身体。。。



文字で書かれた歴史が誕生する以前

歴史する身体

非歴史的な雲(クラウド)

死者と生者が空間的に同一

キツネにだまされるという生産

キツネにだまされる能力

1946年 田島鉄也の父 キツネにだまされる

語りえぬ歴史を身体的に生き



期間 2014年1月27日-2月1日(11:30-19:00 最終日-17:30)
場所 ギャラリー現 
    東京都中央区銀座1-10-19 銀座一ビル3F 03-3561-6869

展覧会名 ハイデガーの技術論  - 自然-身体-社会をつなぐ


田島鉄也がライブペイントをする日:1月27日(月)、2月1日(土)(時間は開廊時間終日)

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2012年7月2日月曜日

私の聖地



飯能の矢颪(やおろし)というところにある入間川の川沿いに凝灰岩層が露出しているところがあります。

凝灰岩とは、火山灰で出来た岩ですが、この矢颪凝灰岩層は、何の火山噴火が原因で出来たのかいまだにわかっていません。凝灰岩層がこれほど大きく露出しているのはこのあたりでここだけです。

私の子供のころは、ここでよく遊びました。


岩が白いので一見、異世界の風景のように感じます。

そして地層とは、過去につながる場所です。


時空を超えた場所・異世界のように感じるところ・・・そのような場所は聖地と言われます。


ここ、矢颪凝灰岩層は、私にとっての聖地とも言えるところです。

栄養がないせいか、草が少ないです。

ボロボロとこぼれる


水溜りにアメンボが沢山いました。

何層にもなっています。

河野水が流れて出来た穴。石がころがって削れたのでしょうか

川を挟んで立つ新興住宅

関東ローム層の上に積もっています。




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2011年5月16日月曜日

亀であるとは、どういうことか


曇り空にもかかわらず
亀が岩の上で日向ぼっこをしていた。(画像の中央に小さく写っています)


石や水とともに、体温が上がるのを待っていた。


「亀である」とはどういうことなのか。
亀は、石の上に乗って、何を感じているであろうか?
それは、石や水であるということと同じなのか?




「生物からみた世界」という本の冒頭にダニの生活について書いてある。


ダニは手近な灌木にのぼり、下を動物が通るのを待っている。
下を動物が通ると、酪酸の匂いがするので、直ちに落下する。
そして動物の皮膚にかじりつき、血液をたらふく飲み、その後、地面に落ちて卵を産み、死ぬ。


ダニは灌木の枝で18年間待つことができるという。


ダニには眼がなく、味覚もない。
彼女(この「待ち伏せ」をするのはメスだけだそうだ)は我々人間の想像を絶する
感覚世界に住んでいる。


ダニの生活が示唆するのは、生物種と同じ数だけ、感覚世界があるということである。
私たち人間は、感覚世界のうちのごく一部しか感知していない。




これに関してもう2つの示唆的な事例がある。


(1)神話においては人間が動物と話をしたり、結婚したり、また人間が動物に変化したりする。
動物のみならず、石や木になったりすることもある。
神話が実効的な力をもっていた太古には、自然の力が圧倒的であり、人間は自然の片隅で生きていた。妖怪や精霊などの異界の生き物が身近にいると信じられていた。


(2)いわゆる神秘体験を経験した人に共通して言えるのは、「すべてのものが境目なく同じ」と考えられることである。そして、自分が床になり、動物になり、工事をしている人のツルハシの先になったり、あらゆるものになる。(私はこういう体験は、実は手順を踏めば誰でも経験できるものではないかと想像している。)


感覚世界の全体をとらえようとすることは、私がつくろうとしている新しいパラダイムにおいて、非常に重要なことだ。
いまや自然の理解は科学的理解が主流となっており、神話や神秘が入る余地がなくなっている。
しかしだからこそ、生物世界の全感覚を想定することが可能となった。


さて、亀であるとはどういうことか。
もちろん亀本人でなければわからないだろう。しかし亀であることを想定した世界を作ることができるのは、人間の稀有な能力だと思う。


(「生物からみた世界」は古い本にもかかわらず、内容の興味深さから、さまざまな人が
Webサイトを書いているので検索してみてほしい。もちろん読書もお勧めする。)



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2011年2月14日月曜日

死後の世界の考え方について

自然-身体-精神-社会をつなぐことを目指す私は、やがて文化総体を見直すという大きなテーマに直面せざるを得ないと思います。「死後の世界の考えかた」は、文化圏の文化の形を考える鏡のようなものです。というのも、「死後の世界はあると思うか」という質問にはその人の死生観、人生観など重要な要素が入ってくるのであり、それら一つ一つの回答を集めると文化総体の姿が現れてくると思います


こちら↓に、「死後の世界を考えたことがありますか?」というトピックがありました。


http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0831/259967.htm?g=03


問いかけは以下の内容です。
-------------------------------------------------------------
57歳、男性です。

最近また死後の世界をよく考えるようになりました。
「また」とは、もう随分昔、学生時代には毎日のように考えていました。今居るこの自分が消滅すること、もう自分の存在がなくなることの恐怖に耐え兼ねて毎晩電気を点けっ放しで眠ったことを今でもよく覚えています。この恐怖を当時の学友に理解してもらおうと、どんなに話しても分ってもらえず、死んだらもうそれで終わり、それまでだから、考えても仕方がない。殆んど皆がこんな返事で、取り合ってくれませんでした。

その時描いていた死後の世界は、文字通り何もない、存在しない世界だったから怖くなったんだと思います。以降徐々にそんなことは考えないようになり、この年になるまで深刻に考えるようなことはありませんでした。ところがまた良くこの死後の世界を考えるようになりました。きっかけは分りませんが、最近年の余り違わない人が立て続けに亡くなり、葬儀が続いたことが一番大きな要因と思われます。

死後に何らかの世界があるなんて私には気休めにもならず、全くそんなことは考えられません。それだけに恐怖なんです。こんなことを考えるのは私だけでしょうか?
-----------------------------------------------------------------



これに対し、たくさんの回答が寄せられていました。
問いかけが真面目で切実な内容だったので、回答も真摯なものが多く、
私は、現代日本人の死生観を知るのによい資料と思いましたので、これを一つ一つ読んでいきました。

回答は実にさまざまなものがありましたが、似通っているものもあり、とりあえず分類してみることにしました。
全部で112件の回答が寄せられました。
私は、「死後の世界はある」「死後の世界はない」という軸と「死ぬのはこわい」「こわくない」という軸の4象限にわけて分類を試みました。エクセル表に分類していきさらによく読みこんで、共通する意見をまとめ、以下のように表にしました。(クリックして拡大してごらんください)



回答内容のほとんどは、トピックを立てた人を励ますためか、死ぬのは怖くないという回答です。



怖くない&死後の世界があるという人たちの多数を占めるのは
「現世はあの世で次のステージにいくための修行/学び/魂を磨くための場」という考え方です。



現世の辛いことも悲しいことも、また利己的な気持ちを持たないことも、自分の魂を高める修行であるという高い倫理性を感じさせる内容です。
それらの人たちの感覚を表す言葉で、「(死後の世界に)還る」「光になる/風になる」という言葉が目につきます。つまり、死後の世界こそ、オリジナルな、かけがえの無い固有の価値があるというのです。




怖くない&死後の世界は無い、という人たちで、多数を占めるのは「死んだら無になるので、恐れる自分もいなくなる」という単純な考えです。そして「消えて無くなることに安堵感を感じる」というむしろ死後の世界が無いことを望む声も少なくありません。


また「今日一日を生ききることが大事。今この瞬間を大切に生きる。」という回答も目に付きます。死後の世界が無いと思う人は、決して刹那的/快楽的/利己的ではなく、一度きりしかない生涯を精一杯生きるというような高い倫理を持っています。

重要な違いのように見えるのは、「死後の世界在る」派は「魂を磨く」という考えを持っていることです。
自分の心を慈愛に満ちた、清浄で透明なものにしていくという発想です。
「死後の世界無い」派は、そのような発想がありません。死んで残すような財産はないのです。しかし二度と繰り返さないこの時を普遍的な価値あるものにしようとし、他者への奉仕や喜びを分かち合うことにも重きを置いています。

「魂を輝かせる」か、「今という瞬間を輝かせるか」の違いであり、価値の極大化を図ろうとする態度は同じといえます。
互いにその心情は理解できないにもかかわらず、もう一派の考えを受容することができるという構造を持っています。
同じ文化圏の中で両立可能であるということです。



これは、決して文化の矛盾や混乱ではなく、生きる価値の極大化という一致する価値観を持っているからであろうと思います。

次回は、「死後の世界」のいくつかのモデルパターンについて考察したいと思います。



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2011年1月2日日曜日

聖なる一月

皆様
明けましておめでとうございます。

年があけて正月。
近くの環七を通るクルマの数も少ないのか、朝外に出ると静かだ。

ニーチェの「悦ばしき知識」第四書のタイトルは「聖なる一月」という。 まさにそんな気分だ。

新しい年に望んで。---なお私は生きており、なお私は考える。(ニーチェ「悦ばしき知識」第四書「聖なる一月」より 信太正三 訳)

さて、元日の日本経済新聞の1面の見出しは「先例なき時代に立つ」というものだった、我々はかつてない社会の内部からの変化に晒されている。

(以下は日経に載っていた内容とはすこし違うが、私が日本の社会的変化の特徴を上げる)
・類例を見ない少子高齢化、人口減。
・莫大な公債発行額
・年金・医療保険などの社会保障の崩壊に現実味
・無縁社会といわれる社会構造の変化
・新興国の台頭

日経の論調は、「日本は明治維新、戦後復興という2度の奇跡を成し遂げた。しかしそれはいずれも外圧によるものであった。初めての訪れた内部からの変化に3度目の奇跡を起こすことができるであろうか」
という内容で問題提起していた。

私の考えはまだまとまっていない。しかしその構想をたどたどしいながら記しておこう。

私は、ここで問題をとらえる軸を変えることを提案する。


行政を維持していくために、増税はやむをえないだろう。
しかしそのあと、社会のあるべき方向は、いままでと同じ路線ではありえないと思う。
人々が目指す方向を失い、停滞することが、社会の崩壊を招く。


明治維新、戦後復興も、モダニスムに沿った改革であった。はっきり言えば資本主義的な革命であった。
そして、モダニスムが行き詰った現在、モダニスムではない方向、先史時代に学ぶ方法を提起する。
自らの身体を見つめ、身体の文化に沿った方法である。
自然-身体-精神-社会を一本につなぐ仕組みを持たなければならない。
もちろん昔のものを復活させるのはナンセンスだ。
太古の時代は、神話、儀式、シャーマンなどがその役割を負っていたが、
現代では、生命科学、脳科学などが明らかにする生命や意識の姿がそのバックボーンとなるのだ。
そもそも今、人々がどの方向を向いて良いのかわからず、混迷していることが問題である。
私はハッキリと、内側を見るべしと申し上げる。
自分達の足元をみつめ、自分の身体と自然とのつながりを意識し、地域社会を再生する。
私は、この日本が、自然から社会へ一貫性をもってつながる
世界で最初の社会になって欲しいと願うのである。


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2010年12月26日日曜日

先住民の価値観に学べ

インディアン、アボリジニなど、世界の先住民について書いた本を何冊か読んでいる。
彼らと自然との関係について考えさせられる。
彼らにとって自然は圧倒的なので、彼らはその背後に霊的な力があると信じていた。
それらは精霊とか大いなる力とか呼ばれていた。




先住民の宗教は、キリスト教・仏教・イスラム教のような宗教とは違って創始者はいない。
神話と儀式、実際の生活にいたるまで一貫した生活思想である。
まさに、自然-身体-精神-社会をつなげる仕組みとして機能していた。

翻って現代、自然は遠くなった。
私達はどこか私達の知らない海でとれた魚、
知らないところで育った動物の肉、
計画的に栽培され、収穫された野菜を食べている。

しかし目を内側に向けてみよう。
私達は自然を持って運んでいる。
この肉体によって。
何十億年も前、我らの遠い遠い先祖が、海から陸に上がって
海の生存環境を肉体に閉じ込めて持って上がった。
そう考えるだけで畏敬の念を感じる。
自分がどこで何をしていようと関係ない。
私達は自然を持ち運んでいる。
エコロジー、CO2削減も大切だが、それは本質的なことではない。

我らは奇跡のような身体を持っており
私達の自我は、そこにほんの少し間借りしているわけだ。
中心が自我の方にあると、思い違えてしまうことがあるが
自然-身体の方がメインストリームである。
そこを外してしまうといろいろなトラブルが起こるだろう。

巷の世評では今の日本は閉塞しているという。
私に言わせれば60年代からずっと閉塞していた。
経済的に成長していない状況を指して、閉塞というのであれば笑止である。

私達は、もっと深くあるべきである。
経済発展ではなく、我々は「深化」すべきだ。
足元を見つめ、内部を見つめて、価値を自分のオリジンに定めるべきである。


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2010年10月18日月曜日

新作ができました。




タイトル  身体観の変容

分子治療やiPS細胞など、今や生命科学の興隆は目覚しい。私は、従来とは異なる新たな生命像/自然像の誕生を予感している。
しかし、現代人の生活は自然と離れ、身体と精神は分離し、精神は社会に支配されている。現代人の身体は、バラバラになっている。
自然の中で暮らしていた太古の生活では、自然-身体-精神-社会が一体となっていた。神話、祭り、伝統的身体鍛錬などがその役割を負っていた。
私は、再び 自然-身体-精神-社会をつなぐことを目指している。現代の生命科学がもたらす豊富な知識やテクノロジーを持ちながらかつて神話が担っていたような感覚的な自然の理解を復活させたいと思う。
科学によってバラバラになった身体観を、バラバラになった状態のまま、固有の価値に昇華させたい。言葉より先に芸術はそれを実行する。*作品は女性ファッション雑誌などから肌の部分だけを切り取ってコラージュした。


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2010年8月5日木曜日

保苅実さんの写真展が開催されます。

2004年に32歳で夭折した歴史学者 保苅実氏の写真展が池袋の立教大学で行われます。

保苅氏の、「歴史をつくるのは現在の人間の身体である」という独自の視点、アボリジニ文化を学問の対象ととらえず、彼らの文化の側に立って考究したという点など、その功績は歴史学にとどまらない革新的なものだ。32歳という若さで世を去ったのが本当に悔やまれる。

保苅氏のサイトは当サイトのリンク集にも3つも掲載しています。

---------------------------------------------



保苅実写真展 カントリーに呼ばれて~オーストラリア・アボリジニとラディカル・オーラル・ヒストリー~




オーストラリアの先住民アボリジニの歴史を、特にオーラル・ヒストリーに焦点を当てて研究を続けた歴史学者・保苅実(1971-2004)の遺した写真や遺品を通じ、オーストラリア先住民文化と、彼の歴史に対する斬新な視点を紹介する。




期日:9月6日(月)-9月12日(日)10AM - 5 PM(最終日は4 PMまで)

場所:立教大学(池袋キャンパス)の7号館ロビー

主催:日本オーラル・ヒストリー学会(JOHA)

協力:保苅実とつながる会、立教大学社会学部

後援:豪日交流基金、オーストラリア大使館入場無料。

大学・JOHA関係者以外の入場も可能です。

http://www.hokariminoru.org/index.html

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2010年4月12日月曜日

なぜそれは秘密なのか



感覚で伝えられる文化は、大抵が秘密だ。

例えば
錬金術は、厳しい秘密主義が守られていた。
アボリジニの儀式の内容も参加者以外には秘密にされている。
チベット医学にはテキストがなく、師弟による直接の教授によって学ぶしかない。

神話が語られる時と場所は限定されていて、
特定の時の限られた人にしか話されない特別な話だった。
今のように神話が書物に書かれているのは
後世の文明社会が「研究」のために書いたものが多い。

感覚を頼りにする以上、言葉で表現することは非常に難しい。
テキストに書くことができない、もし書いたとしても誤解を招くことになり
非常に危険だ。
また言葉によって流通することによって、消費され、
求心力を失うことにもなりかねない。

何よりも、その感覚が充足した「空間」が必要なのである。
その感覚は、再現したり、伝えたりすることが非常に難しい。

さて、あらゆるものを消費するこの現代社会にあって
感覚的な空間を作り出すことが可能だろうか。

その空間を保持し、言葉によらずして他者に解らせ、
広めていくことが可能だろうか。


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2010年2月21日日曜日

物凄い古事記 続きこれで終わり

考えてみれば第2次世界大戦の地獄に比べれば
古事記の残酷さなど可愛いものだ。

神話とは、生活や政治の根本にかかわるものでした。

さて、現代の神話は何か----それは科学技術です。

DNAや、ITが、私たちの経済やらなにやらを動かす
イノベーションの源泉となり、
ビックバンや脳や進化が「私たちはどこから来たのか?」という
神話的問いの回答となっています。

古事記の持つ破壊や残虐のエネルギーはどこにいったのか

それは、核爆弾の中に入っていったのだ。
地球を何十回も破壊できる膨大な暴力は、密かに管理されている。
それにくれべれば古事記の残酷さなど可愛いものだ。

2010年2月20日土曜日

物凄い古事記 さらに続き

ひどい二日酔いになると、その苦しみは格別である。

しばらく前になるが、あまりに気持ち悪くて吐いてしまった。
吐く時は、私というものが無くなり、私は吐き気そのものとなっている。
忘我の瞬間。苦しみと快楽が混ぜこぜとなって強烈なものである。

内臓が一気に噴き出して、私の意識は吹き飛んでしまう。

さて、今にして思えば、生というものは、この苦しみ(と快楽)そのものではないだろうか。
この強烈な感覚が、常に現象としてでてくると、
私というものは耐え切れなくてすぐに死んでしまうだろう。

だから辛うじて、私の肉体として、生理として、本能として、
意識として、そして思考や論理として
現われ出ているにすぎない。

だから本当の私とは、吐いている時の私である。
あの苦しみと快楽の絶頂の世界にいるときが、本来の私なのである。
吐いている時、私は何かに、直に接触している。
全ての生の元となる何かに、感覚の分化する前の何かに。


・・・・・・
さて、古事記の作者は、そのことをよく知っているように思う。

混沌から世界が分化して作られている過程は、
感覚の分化過程において
絶頂的な苦しみや残虐にも似たものだろう。
人間の耐えられる限界を超えている。

そう考えれば古事記に出てくる、凄まじい物語も、
むしろ控えめな表現にさえ思えてくる。


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