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2017年11月4日土曜日

実体と表象の間で:ブログ名の変更について

ブログを改訂するにあたって・・・
長らく「感覚で世界を捉える」というタイトルのブログを続けてきたが、タイトルを「実体と表象の間で」と改めることにしました。その理由は以下です。


私は15歳のときに神経症で電車に乗れなくなりました。長じて寛解してから、心の病気は私個人の問題というよりは、人間の大量輸送を作り出した近代的な社会システムと、私の精神構造が葛藤した、と考えるようになり、近代のシステムに対する強い疑いを抱きました。

以来、社会と身体との違和感を、ある時は直接的に、ある時は思弁的に確認してきました。

身体と社会、それをつなぐものとして感覚ということを発想しました。感覚によって近代の軋轢を乗り越えることを目指し、2009年から「感覚で世界を捉える」というこのブログを立ち上げました。「感覚で・・・」というブログの名前の時に書かれた最後の記事は、2017年3月11日です。


8年に渡って感覚をもとにそれを追求してきましたが、最近、問題設定を広げる必要性を感じました。自分の中に在る近代、自分の中にある権力・・・自分の中にある思考様式や感覚の様式を見直す必要があると。
近代的な権力は言葉を使います。言葉だけでなく、あらゆる表象つまり情報を駆使し、イメージを喚起させます。権力関係を乗り越えるには、言葉を捉えなおさなければなりません。

これからは、その思考や方法そのものを表現の操作の対象とすることとしたいと思います。
社会と身体は「実体」であり、芸術は「表象」です。私が注目したいのはその間です。
こう宣言する前から、この考え方の萌芽がありました。このブログの比較的最近の記事(永遠について(2016年5月3日)すべてのもの(2016年3月19日)高松次郎展「ミステリーズ」(2015年2月15日))などは、その傾向の強い記事です。

「実体」に対する「表象」。「物」に対する「イメージと言葉」。その間隙に、ある種の空間と時間が広がっています。
そこはエネルギーの噴出する場所。理性の威力が届かないカオスであり、生成の場所です。そこは不穏な、未知の場所であり、不安と恐怖の渦巻く場所でもあります。不可解な、何とも収まりのつかない、統御できない場所です。
しかし可能性の場所でもあります。われわれはそこで息をすることができ、手足を広げることができ、あるいは遊ぶことができ、表現することができる。危険で、注意しなければならないが、創発が行われうる可能性を持つ場所でもあります。
そこでは今まで当たり前のように制約のある環境下で、すっかり慣れ親しんだ姿勢や構えを一度取り外す必要があると思います。

そして今、実体と表象の間の目に見えない深い谷を見下ろし、奥に続く細い道をさがしている。そんな状況です。


2017年3月10日金曜日

3月11日の前日に

明日は3月11日だ。
この間の6年間に私は何を考え、どう行動し、どのような精神の醸成をしたのか、ここでまとめておきたい。
2011年3月の震災発生後に書いた私のブログを読むと、私は何かを恐れていた。
自然の力を恐れている。まだ余震も続いていたころだ。私はあえて恐怖を自分の中に刻み込もうとした。

http://te-tajima.blogspot.jp/2011/03/blog-post_13.html
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/04/blog-post_11.html

自然保護という言葉があるが、私たちは自然を飼いならしたかのように錯覚していた。
しかし本当は、我々人類など地球の表面にへばりついて生きているに過ぎず
地震というのはわずか厚さ10キロメートル程度の地殻が揺れ動いたに過ぎない現象にもかかわらず
その上に暮らす我々人間には大ショックであった。

その時から、そしてその後の約1年を通じて、私たちは今までにない経験をした。
普段隠されている社会のインフラの仕組みが露呈したのだ。それが身をもってわかった。
ヒリヒリするような生身の皮膚感覚でもって、社会の仕組みとその向こうにある自然と接触していたのだ。

原発事故のことは言うまでもないことだが、
他にも例えば計画停電の行われる地域が順番にアナウンスされると、普段は隠れている電気の配電のネットワークが良くわかった。
ガソリンや灯油が不足した。
人々は日用品を買い溜めし、物不足の事態も起こった。
災害によって、普段は隠れている世の中の仕組みが姿を現したのだった。


私は、社会全体が自分の身体とリンクするイメージを捉えようとしていた。社会の仕組みは自分のからだの機能と良く似ていると思った。

http://te-tajima.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html
http://te-tajima.blogspot.jp/2012/02/blog-post_11.html


私は、被災地にはあえて行かなかった。
東京に居て、私自身の問題として、社会の仕組みを捉えようとした。

自分のところに来る水道、そして下水道がどうなっているのか、実際に荒川の下水道施設を訪ねてみた。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/07/blog-post.html

東京湾に到着する原油や鉄鋼、液化ガスなどを精製し、原料として日本全体に供給する地帯(千葉コンビナート地帯)に行ってきた。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/12/blog-post_30.html

そんなとき、ハイデガーの「技術への問い」に出会った。最初は良く分からなかったが、これは自分の求めるものが書いてあるのだと考えて、良く読んだ。

http://te-tajima.blogspot.jp/2012/03/3.html


ハイデガーは、「技術への問い」の中で、
現代の技術文明の正体をGe-stell (ゲシュテル)と言ってる。
ゲシュテルとは自然や人間から資源や労働を収集し、生産に活用する現代社会特有の目に見えない構造のことである。
川の流れから電力を引っ立て、農地や太陽や空気中の窒素から作物を引っ立て、鉱山から鉱物を引っ立てる。
このような「引っ立てる体制」のことをゲシュテルと言う。「徴用性」「総かり立て体制」「巨大-収奪機構」と訳す場合もある。
さらにゲシュテルは、人間をかりたてる。生産において労働をかり立て、巧みに消費をかり立てる。
ゲシュテルは目に見えない構造であって、全体を動かす中枢的な何者かがいるわけではない。
毛細血管のように、世の中の事象の隅々までいきわたり、栄養分を吸い取り、また逆に栄養をいきわたらせている。
私たちはゲシュテルの支配から逃れることはほぼできない。

長い間かかって、私はゲシュテルの実態を捉えた。そして自分の身体に重ね合わせようとした。

このようにして2014年に「ハイデガーの技術論」という個展を行なった。
http://te-tajima.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html

その成果はこのときのブログの記述に詳しく書いてある。
ここで私は、ゲシュテルに支配された現代のモード(社会を成り立たせる様式)を、変換させる可能性が育っていることを確信した。

そしてその後、2015年に「ぬか漬けされた資本論」という作品を作った。社会を食べて、自分の身体に取り込む、というコンセプトの作品だ。
https://www.te-tajima.com/untitled-c1ndd

「技術への問い」の終盤で、ハイデガーは、もしゲシュテルの支配を脱したとしたら「人間はこの大地に詩人的に住む」という言葉を書いている。

ゲシュテルの上に登った私は、どのようにして詩人になるか、今、試みているところである。


2016年5月3日火曜日

永遠について



私は、絶望と希望の間の灰色の領域にいる。

あらゆる物に名がなく、ものの一切が動かないその場所。

すべての物が意味から取り外されている。
外に抜け出す梯子(はしご)は取り外され、その中でしか生きていけぬ、その深い谷。
その中立的な領域において、私は見極めようとしている。

何を?

永遠を!



永遠とは深淵に誘う巨大な闇か?

そして人間は、永遠というものに耐えられるのか?

永遠とは変化しないこと。つまり死。

永遠を愛するとは、死を愛すること。ということは滅びを愛することか?

永遠に生きるということは、ゆっくりと死んでいくことか?

それともみずみずしい新鮮さを永遠に保ちつつ生き続けることは出来るのか?

同じことの繰り返しがなく、つねに新鮮な状態で。


+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   


しかし、私は、時間の流れが常に滅びに向かうことを知っている。

熱力学の第二法則。

無秩序さは常に増大する。すべてはカオスに向かっていく。

最終的には、すべてが一様均一になり、熱力学的な死を迎える。偶然のノイズ以外には何も起こらない状態が宇宙全体を覆ってしまう。

そうだ、やはり永遠は無かったのだ。

永遠とは現実に存在しない、仮定の産物なのだ。


+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   


そう、そのとおり、しかしだからと言ってそれがどうしたというのだろう!

永遠とは一種の仮定である。

仮定である以上、熱力学第二法則を無視したとしても一向にかまわない。
永遠の前提として、いつまでたっても無秩序さが増大しない世界を想定しても良い。



+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   


さて、そうだとして、
永遠の定義からして、変化がいつまでも続くということである。
つまり全く違うパターンが永遠に出続ける。
永遠とはそういうことなのか?

例えば円周率は無理数である。
無理数にはいつまでたっても繰り返しのパターンが出てこない。
だからといって、無理数は永遠であると言えるのだろうか?


+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   


しかし人間の生は物理法則や無理数とは違う。

私が今生きているこの時間は、私にとっては取り換えの効かぬ唯一のものである。
そして私にとって大切な人々も、取り換えの効かぬ唯一のものだ。

もし何度も生まれ変わって、その都度違う人々に会い、いろいろな異なる境遇に晒されたとする。
その都度の出会いは前回の繰り返しではなくその一度限りのものであり、私はその都度の邂逅に没入している。

そこにおいて、前回との比較は成り立たない。
その一回の出会いが絶対、唯一である。
これらの出来事は何回起こっても一回一回が独立しているはずだ。
一度きりのことはその時のことであり、前回のことも、次回のことも関係ない。

無限に変化が進行するのだが、私はその都度それに没頭していて、その先のことは考えていられない。
常に今しかないはずである。



永遠とは、「今」が永遠に続くこと。
その前も後も見えない。
「今」の前後は霧の中のようだ。

永遠を愛すとは、「今」を愛することである。


もし永遠が、変化の無い状態またはただのノイズだとしたら、それは死と同じだ。
しかし時間の前後から裁ちはなたれ、「今」しか見えないのだとしたら、永遠の変化は可能であるはずだ。

永遠は一気に襲ってこない。永遠は、「今」という札を順番に我々に示していくのみである。



もしある日、貴方のもとにデーモンがやってきて、一粒の黄金色に輝く丸薬を示し、「この薬を飲めば永遠に生きられる」と勧めたとしよう。

そうしたら、是非その薬を飲みたまえ。

恐れることはない。

「今」を愛するなら、永遠のことなど考える必要すらないからだ。



+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   



上記で私は或る考察に行き着いたが、はたしてこれでよいのだろうか? 

人間は「今」しかわからないから、永遠を感知できない。
それゆえ、永遠は在っても無くても同じこと。
人間は永遠を把握できない、ということがこの考察の結論なのか?
私はとんでもない思い違いをしていないか?



+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   



そのとおり、私の直観は私に次のように教える。

やはり永遠は、一瞬にして把握されるべきものなのだ!

そうでなければ、永遠という言葉の意味自体が成り立たない。


そうである。ここに永遠がある。
宇宙が始まるとか終わるとかということとは関係ない。
永遠は、今まさにここに、そして何百年前も何百年後も、いつの時代のどんな時にもあった。

そしてこれからも在り続ける。

なぜかというと、それが永遠だから。



永遠とは、時間がどこまでも続く状態ではない。
逆である。時間が永遠から発生する。

時間とは、永遠の中に発生するさざ波であり、その波と波の間の谷に我々の宇宙があって、そこに人類は住んでいる。

波と波の間の狭い谷を見渡して、我々人類は宇宙全体を見たつもりになっている。

しかし実際は巨大な永遠の大洋の表面に生じたさざ波に過ぎず、その波も極短い時間で消え失せてしまうのだ。


この大洋が表面を覆う惑星は無限に大きい。
つまり、その惑星の表面は、平坦であり、どこまでいってもその惑星を一周することはできない。
無限の数の大陸、
無限の数の島々がある。
無限の数の台風が発生し、
無限の数のモンスーンが流れる。
惑星の気象は、無限に多様であり、同じことの繰り返しは出てこない。



+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   



我々が、ビッグバンとか宇宙の終焉とか言っているものは、すべて永遠の中にあり、永遠のごく一部である。
宇宙が生まれて137億年だそうだが、その時間は砂粒が砂時計の首を通り抜けるよりも短い。
永遠の時間の長さをいくら比喩的に説明しても無駄だろう。
なぜかというと永遠だから。比較する対象がない。


永遠を一つの塊のようなものとして捉えられないだろうか?
いや、それは無理だ。
塊として捉えると、その塊以外のもの、つまり永遠でないもの、を考えざるを得なくなるから。




永遠は一つ、唯一である。

永遠は遍在していて、どこにでも一様にある。

この宇宙のどこにでも、そしてこの宇宙以外のどこにでも。
永遠の外側を考えることは、その定義からして不可能だ。




永遠は私たちと共にある。

私たちは、永遠と一体である。

永遠を愛すとは、永遠と一体である必然性を肯定することなのである。










2015年2月15日日曜日

高松次郎展 ミステリーズ

国立近代美術館で行なわれている「高松次郎ミステリーズ」に行ってきた。
高松次郎氏は以前より私が敬愛する作家である。
わかりにくいこの作家の思考世界を丁寧な解説でみせてくれている好展示だった。
説明文が多い展覧会でもある。作品タイトルの下に長々と説明がある。観客はその文書を読みながら、高松氏の思考をたどっていく。時間はかかるがこのような丁寧な展示方法は非常にありがたい。


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□ 或る問題

世界というものは、自分も含めた世界全体というものは、どういう仕組みで成り立っているのか?
それは大問題だ。
なぜなら答えを出すべき本人が、この世界の中に居るからだ。
もし世界全体を目の前に取り出して、机の上に置いて観察するような感じで見ることができたら、どんなに良いだろう。
しかし残念ながらそうはいかない。
なぜなら、その机の上の世界は、私を含んでいない。
世界についての答えを出そうとするならば、答えるべき主体である私も問題の中に組み込まれなければならない。
答えることは不可能な問いだ。
そして高松氏は、果敢にもその不可能に挑戦する。

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□ 点について

高松氏は、まず世界を成り立たせることの一つに遠近法の消失点を求めた。
遠近法の消失点は、実際にはないはずの点である。しかしそれが遠近法的空間を成り立たせている。
在るはずなのに、実際には存在しない「点」。
高松氏はここにおいて、「不在」を発見した。
不在の発想は、その後の彼の作品にとって決定的なものである。

高松氏はこのことを世界を成り立たせる最小の物質の単位、素粒子になぞらえる。量子力学では、素粒子は粒子であるとともに波である。これも在と不在の間の揺らぎだ。
素粒子は在であり、そして不在でもある。それはつねに揺らいでおり時間と切り離せない。


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□ いくつかの言葉


気になったいくつかの言葉があるので整理してみたい。

在 または 存在
これは、変化または時間のこと。変化しないもの、最終的に消滅しないものは「存在」しない。石のように変化しないと思われるものでも何億年もたつと変化する。

不在
これも実は存在と同じ意味ではないか?存在のほうは変化しないことのほうを強調しているのだが、不在は、存在の中にある不在性を強調しているということであろう。


潜在的なエネルギーがギューッと詰め込まれた状態。何もないのではない。その膨大なエネルギーが発現されていないだけ。存在ほど生き生きとした状態ではない。放っておくと何も起きない。

非在
存在にあらず。無のことではないかと思う。

実在
現実の物質で彩られた、我々が日常接しているもの。
・・・しかし本当にそうなのか疑問が残るが。


反実在
どうも、不在が増殖してできたような、この世の向こう側の世界のようなものらしい。決して到達し得ない世界だが、高松氏はそこへの道筋を考えて実行した。
高松氏は以下のように述べる。
「あたらしい純白のキャンバスに、その純白のキャンバスを描写すること。(中略)それは実在と、それ自身の虚像をぴったりと合わせることを意味します。そのとき、物体は実在でありながら同時に虚像であることによって0を掛けられた数式のようにその実在性は否定されます。(中略)僕が意図しているのは、物体をエネルギーだけに変えることによって不在化してしまう、原子力的方法です」(特集・新世代の画家への7つの質問、美術手帳第276号)
 物質的実在(絵の対象物)と非物質的実在(対象物の影)を衝突させて消してしまうこと。これが彼の「影」シリーズであった。
(この解説は、今回の「高松次郎ミステリーズ」の企画者の一人、蔵屋美香氏による)

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□ 高松氏が読んだ本


この展覧会では、高松次郎氏のアトリエの大きさが再現され、片隅に高松氏の書庫にあった本が置いてあった。(もちろん美術館が新しく買い揃えたものだろう)。
高松氏の関心領域を示す興味深いものだと思うので書き留めておいた。


セザンヌの手紙  ポール・セザンヌ
消しゴム  ロブ・グリエ
論理哲学論考   ヴィドゲンシュタイン
老子   福永光司
城  カフカ
意味と無意味  メルロ・ポンティ
抽象絵画-意味と限界  ハインリヒ・リュッツェラー

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□ 芸術は作者の内面の表現ではない。


高松氏のアトリエの大きさが再現された場所の壁に高松氏の言葉が書いてあった。
ぼくはいつも“芸術は"芸術は作者の内面を表現するものでない方がよい”と考えている。これまでの芸術は、自然なり物体なりを作者が見てそれに触発されて感情の表現をされてきた。だが、本当に純粋な絵画というものは、キャンバスがキャンバス自身を表現する、とおいうことではないだろうか。(「自分を無にすること」1980)

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□ 密度

 「高松次郎ミステリーズ」を見て思ったのは、ある強い「密度」だ。この世界は隙間なく何かで埋まっているというような感じだ。不在というものを認めた瞬間に、不在の場所も塞がれてしまい、この世はぎっしりと埋まってしまうことになる。スカスカのところなど少しもない。スカスカと思われていたところも、「不在」で埋め尽くされているからだ。我々の住むこの世界は、この上なく充実している。そして見せかけの表面や一時の感情を超えて、硬く揺るがない、一方で柔軟で変化に富んだ、そのものに目を凝らしたいと思う。

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□ 盟友の人物評

最後に高松次郎氏の死後発刊された、著作を集めた書物「不在への問い」に盟友・赤瀬川源平氏が書いた紹介文が表紙にあったので引用しよう。


長身で
一本気で
明快で
突進力があり
そのために悩んで
その末に在りえない世界の入り口を見つけて
そのわずかな隙間から
身をこじ入れて
行ってしまった
高松次郎      明快なグレー
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2014年8月28日木曜日

量子力学の爽快さ -量子力学と仏教哲学-

前回、「量子力学の気持ち悪さ」というタイトルで文章を書いた。なぜ気持ち悪いかというと、粒子は「あるんだか無いんだかわからない」「見てないときには何をしてるのかわからない」「客観的に観測したいのに、見ただけで自分がその現象に関わってしまう」という点にある。
見ていないときにはどうなっているのか全くわからず、見た瞬間にそれかどういう状態なのか決まるということなので、客観的に観察したいのに、それが許されない。その場はまるで粘液のように見る人の視線に絡みつき、振りほどこうとしてもネットリくっついてきて離れないのだ。


しかし、それらの気持ち悪さは、「現象は私達の存在とは独立して存在するものだ」という私たちの思い込みから来ている。
どうやら私たちは現実に対する認識を変えなければならないようだ。

この鍵は仏教哲学にある。
仏教哲学と量子力学の類似性は古くから指摘されていたが、格好の文献があった。
大野公士さんが紹介してくれた以下の本です。


掌の中の無限

パスツール研究所で分子生物学の博士号を取ったあと、チベット仏教の僧侶となったマチウ・リカールと、ベトナム生まれで仏教の伝統の下で育ち、アメリカにわたって天体物理学の専門家となったチン・スアン・トゥアンの対話集である。


マチウ・リカール(左)とチン・スアン・トゥアン

元科学者のマチウ・リカールと、現役の天体物理学者のチン・スアン・トゥアンとは通じるものがある。議論は素粒子論、認識論、存在論、宇宙論と多岐にわたる。どの部分も興味深いが、前半部分は量子力学と仏教哲学の共通点について触れている。
驚くことに量子力学の言う現実の奇妙な性質は、仏教によってはるか前にすでに記述されていた。


仏教は、独立した実在の存在に意義を唱え、相反的な関係および因果性という考えに行き着きます。つまり、出来事というのは、他の要因との関連において、それに依存してのみ出現するのです。ー(マチウ・リカール)
観察行為がまったくない状況の下で存在する「客観的な」現実について語るのは意味がない。それは決してとらえられないからです。つかまえられるのは、観測者とその測定機器に依存する電子の主観的な現実だけです。この現実が取る形は、われわれの存在と絡み合っている。われわれはもはや、原子の世界の騒然たるドラマを前にした受け身の観客ではなくて、完全な演技者なんです。ー(チン・スアン・トゥアン)
 われわれは素粒子を、測定機器との、あるいは観測者の意識との相互作用の働きによって、はじめて物質化される潜在性と考えるべきです。完全に独立した現実とか、元来は対象に帰属するような測定とかを想定して、それを観測のプロセスから切り離すことはどうしてもできませんね。だから現実を主体と客体に分断することは不可能です。-(チン・スアン・トゥアン)
(量子力学が示すような現象の全体性をそのまま受け入れることは)仏教の基本的な方法なのです。単に知の方法としてではなく、人間的変革の実践としてもです。空性の理解へといたる分析は、一見きわめて知的に見えるかもしれないけれど、そこから生じる直接的認識は、私達を執着から解き放ち、したがって人間の生き方に深い影響を及ぼすのです。ー(マチウ・リカール)

かれらの対話を聞いていると、客観的かつ永続的な物質や粒子は存在しないものであり、たえず揺れ動く存在の潜在性のみがある。粒子なり物質なりが認識可能であるのは、観測者の意識と相互作用した結果なのであって、それは現象の本来の姿とはいえない。

言ってみればありのままの現実世界とは、我々人間の意識も含めて一体のものであり、決して切り離すことはできない。客観的事実があるなどという唯物論的な説明はきわめて粗野なものであり、非現実的ある。

彼らは、クォークや超ひも理論も唯物主義的な方便という捕らえ方とをしているようだ。また多世界解釈については、波と粒子の相補性原理を受け入れられない人がムリヤリ考えた理屈であるかのように否定的だ。

宇宙の不可分性の根拠として、彼らはEPR相関(量子もつれ)と、フーコーの振り子の2つを上げている。
マチウ・リカールはEPR相関(量子もつれ)について、宇宙がビッグバンから始まる1点から生まれたとしたら全宇宙は相関によってつながっているはずだと示唆する。またチン・スアン・トゥアンは、フーコーの振り子は地球の自転を証明するだけではなくて、宇宙全体に対して基準面を持っていることから、地球で起こっていることは全宇宙と関連していると指摘する。


難解に思えた量子力学の原理だが、見方を変えればとても簡単なことだ。

物質とはモノではない。存在とは、確定的なものではない。本質的に不確定である。もし確定したかのように思えるなら、人間の意識が関与して存在を確認したという幻想を作り出したのである。

 前回の芸人の例でいえば、わたちたちは誰ひとり観客でいることはできない。全員が芸人である。誰一人として、傍観者でいることはできず、全員は現実を主体的に作っているのである。

前回述べた量子力学の「気持ち悪さ」は、私たちが「客観的現実が存在するはず」という幻想にとらわれ、自らの現実への関与を恐れて何もできない、神経症患者のようなものだったのだ。
ようやく我が文明は神経症から治癒する段階に来たといえるのではないか。

イメージで語るとすればこういうことだ。現実とは、私たちが一般に考えるような確定的で、客観的で、よそよそしく、頑として動かず、融通の利かないものではない。
柔軟で優しく、見方によって様々に姿を変え、変幻自在で多様性に富んだものだ。

現実は不確定であることを認め、自らが現実を積極的につくることを認め、世界は自分も含めて全てつながっていることを会得すれば、全ての謎は解ける。
清流が小石を洗い流すかのように爽快なものだ。


さて意識と量子の世界が不可分であるからには、私が「量子と意識」「量子と意識2」の回で述べたように、多数の人々の感情の高ぶりが、乱数発生器に影響を与えても、おかしくはない。
突飛なことを言い出すようだが、現象は不可分であり全てはつながっているのであれば、乱数発生が全宇宙から独立した現象であると考えることはできない。直接の理由は未だ不明だが、量子現象と意識現象が、同一の次元で議論できる状況が今後出てくるのではないだろうか。

意識現象と量子現象の類似性というか同一性は、私たちの意識と全宇宙との連続性を意味している。もしこれが証明され、統一的に解釈できる理論が確立したら、私たちの現実への関与は、全く新たなものになるだろう。



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2014年2月2日日曜日

個展レビュー 「ハイデガーの技術論」

先日(2014.1.27-2.1)ギャラリー現 で行なわれた私の個展「ハイデガーの技術論 -自然-身体-社会をつなぐ」を振り返ってみようと思います。

会場
Q:なぜ「技術論」というテーマを選んだのか?
A:
私は中学生のときに神経症になり、電車に乗れなかったことがあります。その時は自分が悪いのだろうと思っていましたが、長じてからは、私の病は、社会との関係であることに気づきました。つまり、私は人間の大量輸送というシステムに、強い違和感を抱いてそれに馴染めなかったということです。
また私たちの身体は自然そのものであるといえますが、私は自然(身体)と社会の間に、またぎ越せないほどの大きな溝を感じるのです。
現代の技術社会に対する根本的な疑問・違和感・居心地の悪さ、不快・・・それらは、私の生来の疑問であり生きていく上でのテーマです。技術について問うことは私の生存の条件ともいえます。



会場


Q:そもそもハイデガーって誰?
A:
20世紀ドイツの哲学者で、「存在と時間」という大ベストセラーを書きました。
フライブルク大学の学長にもなりました。
そのころ、ナチスに積極的に参画しています。世界的な大哲学者となり、学長にもなって、哲学で世界を変えられると勘違いしていたのかも知れません。
戦後、ハイデガーはナチス参画の経歴を恥じて、山荘にこもり著述の生活をしました。その時書いたのが「技術への問い」です。

Q:では、なぜ「ハイデガーの技術論」なのか?
A:ハイデガーの「技術への問い」が、私の疑問にまともに答えようとしているテキストだからです。他にそのような書物は私は知りません。
ハイデガーも、人間の生きる問題と社会性を追求していくうちに、ナチスという歪んだ近代性に加担してしまったのですが、その自分の過ちを真に受け止めて総括したのがこの文章といえます。


Q:なぜこれほど難しいのか?
A:
いままでに無い思想を打ち立てるには、いままでに無い考えを表す用語を作らなければなりません。そのため、ハイデガーは新しい言葉を作っています。確かにそのような見慣れない新語の意味をちゃんと捉えていないと分かりにくいと思います。逆にいえばその用語の意味を捉えていれば、だいぶ分かり易くなると思います。以下にいくつかキーワードを説明します。

キーワード1: Ge-stell (ゲシュテル)
ハイデガーは、「技術への問い」の中で、現代の技術文明の正体をGe-stell (ゲシュテル)と言っています。
ゲシュテルlとは自然や人間から資源や労働を収集し、生産に活用する現代社会特有の目に見えない構造のことです。
川の流れから電力を引っ立て、農地や太陽や空気中の窒素から作物を引っ立て、鉱山から鉱物を引っ立てる。このような「引っ立てる体制」のことをゲシュテルと言います。「徴用性」「総かり立て体制」「巨大-収奪機構」という訳語もあります。
さらにゲシュテルは、人間をかり立てます。生産において労働をかり立て、巧みに消費をかり立てます。
ゲシュテルは目に見えない構造であって、全体を動かす中枢的な何者かがいるわけでもありません。毛細血管のように、世の中の事象の隅々までいきわたり、栄養分を吸い取り、また逆に栄養をいきわたらせています。
私たちはゲシュテルの支配から逃れることはほぼできないのです。

キーワード2: 開蔵(Entbegen)
「現れていない可能性を発揮する」というような意味。非常に意味の広い言葉です。
開蔵の例としては
(1)自然現象
(2)(人間の身体による)技
(3)科学技術
の3つがあります。
ここで(3)の科学技術が、(1)、(2)と同列であるということが非常に重要です。開蔵という概念に、ゲシュテルの支配を相対化する鍵があるとに思います。

キーワード3: モード(Mode)
これは、ハイデガーではなく、私(田島)が考えた言葉です。従来のモード(Mode)という言葉の意味(様式、形式、気分、体制)とは、違う意味で使っています。
ここでいうモードとは、或る社会において、人々の社会的な行動や考え方を律している規範のことです。
たとえば古代ギリシアでは「デルフォイの神託」という巫女のお告げがギリシア社会全体に大きな影響力を持っていました。また日本の封建時代には、主君や家のために自分を犠牲にすることが当たり前という価値の中にいました。
言って見れば、社会観、自然観、美徳、死生観、身体感覚/肉体の使い方までが或るひとつの首尾一貫した価値観の中にあり、それ以外の考えが成立しにくい社会状況、それがモードです。
現代はゲシュテルのモードにいます。ゲシュテルのつくりだす用象(何事も役立てるために駆り立てること)の中にすっぽりと覆われています。 

Q:文章ではなく、なぜ芸術作品として発表するのか?
A:
紙やキャンバスに絵の具でドローイングすることと、紙に文字をつかって書くこととは、媒体を入れ替えただけで、同じことなのです。
今回設定したテーマが非常に範囲の大きなものだったので「思考のドローイング/ペインティング」活動として、一度大きな紙の上に思考を展開し、人々の考えを招き入れ、再構築する必要があったのです。体の現象を行為として表すとしたら紙にハンドペイントすることなのですが、社会をモチーフとするとしたら、言語をつかって考え、それを書き表すしかない。それはドローイングまたはペインティングということができます。
公式には初日と最終日がその「ライブペインティング」の日だったのですが、実は毎夜、展覧会終了後に会場に行き、自分の思考を展開していました。

Q:今回の展覧会の成果は何か?
A:
成果は3つあります。
成果1 :ゲシュテルがなかったときのモードを書き記すことができたこと

私がこだわったのは、ゲシュテルが無かったときのモードを書き表すことです。
人々の行動規範は基本的に土地または血縁に縛られていて、自然と人間の精神の境目があいまいで、キツネにだまされていることを人々が不思議に思わない社会です。また記述された歴史をもっていない社会です。
そういうゲシュテルの無かったころのモードがあることを示すことにより、現代のゲシュテル社会を相対化することができるのです。現在私たちが暮らしている社会のモードは、ゲシュテルが無かった時のモードからゲシュテルが支配する現在のモードに変換した結果であるということです。

成果2: モード変換は、もう一度起こるということを確信したこと

現在のゲシュテルが支配している社会は、あまりにもバランスを欠いているので、変換はもう一度起こるだろうということは以前から何となく思っていましたが今回それを確信しました。
科学技術は、「自然&身体」対「人間&社会」との関係を差し替えました。関係が変質することによって、モード変換は起こるであろうということを確信しました。
それに至るヒントになったのは、ハイデガーの言う「救うもの」という言葉です。
ハイデガーのテキストに、「危険があるところ、救うものもまた育つ」「技術の本質は、救うものの成長をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。」という言葉があります。
「救うもの」は、ゲシュテルを排除したり、避けたりすることではなく、ゲシュテルそのものが「救うもの」を用意するという意味です。
そのとき参照されるのが、例の開蔵です。自然現象と人間の技が科学技術と同じものであるということです。
我々は科学によって超ミクロから超マクロまで、そして何百億年の昔までさかのぼってこの自然を見ることができるようになりました。
このことが、人間と自然との関係を新しいものにし、「救うもの」を準備するのです。特に、宇宙から地球を見る経験をした人が増えてきたということも、そのモード変換を後押しするでしょう。

成果3: 芸術の意味をモード変換の前哨として位置づけることができたこと

現在、芸術家が、個々ばらばらにやっている作業は、来るべきモード変換のための準備であると位置づけることができます。
ゲシュテルに支配されていない太古の残余でもあると思うのですが、そのような普遍性を生き残らせる領域として、芸術があります。
あたかも飽和溶液の中から結晶が析出するように、モード変換はどこからともなく起こります。
それは潜在的な可能性であって、もしかしたら何も起こらないまま終わるかもしれませんが、可能性としてはいつまでもあります。そしてそれはゲシュテルの成長とともに「育っている」のです。したがって可能性も常に大きくなっていきます。
芸術家の営みは、そのような変換を常に準備しているのです。

そしてモード変換をなしえたときの姿が、ハイデガーの謎めいた言葉「人間はこの大地に詩人的に住む」ということなのでしょう。

技術は開蔵のひとつのしかたである。



[技術は開蔵のひとつのしかたである。]
 ・自然現象(そして最も身近な自然である身体も) ・人間の身体による技 ・科学技術
*開蔵(Entbegen)とは、「現れていない可能性を開く」というような意味で、ハイデガーは、開蔵の例として自然現象、人間の身体による技、科学技術 の3つを上げている。

これらは原感覚の分化に他ならないのではないか?

我々は、ハイデガーと同じ「太古の目」を持つべきではないか?
 愛人のハンナ・アレントはハイデガーを太古の人と言っていた。



Ge-stellが無かった時のMode(モード) (死生観、社会観、自然観、美徳、身体感覚/肉体の使い方)、 その中にすっぽりと入ってしまうような空間、空気、雲)

記述された歴史がない。オーラルヒストリー  → 書かれた歴史。制度史

キツネにだまされる能力をもっている→ キツネにだまされる能力をもたない

音がない 静か → モーター、電子音、クルマの走行音、下水道の流れる音、エアコンの音・・・

肉体が土地の上にある → 肉体が土地から離れている

先祖が作ったものの上に生きている → 今、またはこれから作るもののうえに生きている

人間関係は固定 個人の自由は少ない → 人間関係は流動的、複雑、多面的(一個人が複数の社会的役割を持つ。
個人の自由(職業選択、結婚等)はある。

我々は、自然現象などから用象(役に立つこと)を引き出し、利用して、そして人間そのものもその体系の中に組み込んでしまう目に見えないしくみをこう名づける― Ge-stell と。


[我々は、自然現象などから用象(役に立つこと)を引き出し、利用して、そして人間そのものもその体系の中に組み込んでしまう目に見えないしくみをこう名づける― Ge-stell と。]

Ge-stellは、あまりにも当たり前に作用しているので、私たちの生活、思考、行動様式を律しているものであると気付くことはない。
Ge-stellは、網のような、血管のようなもの。広がり、からみつき、利用できるものを吸いとり、また栄養を行きわたらせ、人間の生存のモードを変換する。
Ge-stellは人間を利用する。労働力として。消費の単位として。

人間は今日、まさに自分自身、すなわち自分の本質には、もはやどこにおいても決して出会えないのである。



[人間は今日、まさに自分自身、すなわち自分の本質には、もはやどこにおいても決して出会えないのである。] 
このことのほうが危険な考えでは?

豊かな生活
伸びる寿命
ゴラクに触れる機会の増加

戦争
原発事故
格差
自然モードを忘れる人間

Ge-stellは、好ましい面と残酷な面を持っており、たびたび残酷な面のみが取り上げられて近代批判や自然回帰に利用される。


1978年、 田島鉄也は神経症になり、電車に乗れなくなる。
  病は社会的なもの
  意識は社会の表象
  身体は社会の皮膚



1945年 沢渡温泉の旅館主の焼き畑の火が燃え広がり温泉街全てを焼失させた。疎開児童にじゃがいもを食べさせたかったという。

Ge-stellの最も恐ろしいことは、人間が自分の本質に出会えないようにすること。すなわち自分が関係性であることを忘れさせ、あたかも精神や意志を独立して持っているかのような見せかけを作り出し用象の体系の中に自らすすんで入り込みそれが世界の全ての姿であると信じて疑わないようにさせること。
ゲシュテルをのさばらせ、ただしたがっているだけで良いのか?
しかし、Ge-stellに盲目的に追従することも、また反抗を試みることも同様に、私たちを不自由にする。どうしたらよいのか?
人間はあまりにもゲシュテルによる挑発にしたがっているので、ゲシュテルが彼に呼びかけている要求であることを認めることができない。

ゲシュテルが支配するところには最高の意味で危険がある。

しかし危険があるところ、救うものもまた育つ。

技術の本質は、救うものの成長をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。






Ge-stell が変化する
Ge-stellの変化はその表象である人間の意識を変える

Ge-stellは何ものに変わるのか?
「救うもの」とは何か?
技術の本質がそれを蔵しているならば
技術の本質とは何か?
それは開蔵(Entbegen)ではないか。



用立て(Ge-stellのこと)の止めがたさと救うものの控えめさとはあたかも天体の運行における惑星の軌道のようにたがいの傍らを擦れ違っていく
ここに偶然隣り合った3つの書評はいずれもGe-stellに関係する言説である。


ゾミア  Ge-stellの支配を逃れ、太古のモードを維持した民が各地に普遍的に居る。

ウォール街の物理学者  Ge-stellそのものの運動を数理モデルで解析しようとする努力

人類が絶滅する6のシナリオ  Ge-stellの暴走によって自然のバランスを崩し、破局するパターンの例示

  これらは開蔵(Entbegen)ではないのか?



技術を徹底的に問いなおすこと、技術と決定的に対決することは、技術と親しいが一方でそれとは全く違うひとつの領域で生じる。
そのような領域が芸術である



現代を支配するものはGe-stell
しかしGe-stellが挑発する開蔵であり
開蔵は自然や人間の肉体の現象(人間の身体による技)でもあることを
思えば、Ge-stellを相対化することは
可能だろう。




現在、そのような相対化は、個々人の固有の時間の中で行なわれているが、
それは集合的無意識の共鳴によって起こる。
もちろん、意図的には起こせない。
Ge-stellが個々人の人間の心とは別に起こった構造であるのと同様に
それも個々人の心とは別に起こる。
しかし、現代の「芸術」という形態では起きないのではないか?
それはModeの変換であり、或る時から急速に起こる。いつかわからない。
我々は太古の目を準備しておき、そのMode変換に
備えておいた方が良い。

人間はこの大地に詩人的に住む

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2014年1月26日日曜日

ハイデガーの技術論 搬入中

明後日からの個展「ハイデガーの技術論」の搬入中




ハイデガーのテキストと私のペインティングで構成されています。

ペインティングは会場で描いています。
そして考えていることを書いている。


自然と人間の関係、呪術と科学技術、社会的な身体。。。



文字で書かれた歴史が誕生する以前

歴史する身体

非歴史的な雲(クラウド)

死者と生者が空間的に同一

キツネにだまされるという生産

キツネにだまされる能力

1946年 田島鉄也の父 キツネにだまされる

語りえぬ歴史を身体的に生き



期間 2014年1月27日-2月1日(11:30-19:00 最終日-17:30)
場所 ギャラリー現 
    東京都中央区銀座1-10-19 銀座一ビル3F 03-3561-6869

展覧会名 ハイデガーの技術論  - 自然-身体-社会をつなぐ


田島鉄也がライブペイントをする日:1月27日(月)、2月1日(土)(時間は開廊時間終日)

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2013年3月3日日曜日

高橋悠治 vs 茂木健一郎  対談記録


平田星司さんに教えられてICCのサイトに出ている高橋悠治と茂木健一郎の対談を聞いた。7年前に行われた対談だが非常に面白かった。
http://hive.ntticc.or.jp/contents/artist_talk/20051217

2005年12月に行われた、当時の売れっ子脳科学者、茂木健一郎が高橋悠治に言い負かされている(かのように見える)という興味深い対談である。
すれ違いのように見える対談だが、しかし高橋、茂木の両者とも非常に興味深いことを述べていて、内容を良く聞くと非常に面白い。
対談を途中まで文字にしている人がいた。http://d.hatena.ne.jp/manuka/20051224/p1
文字で追うと動画で話しを聴くよりも内容が頭に入ってくる。私はその人の文にさらに加筆し、ところどころコメントを付け加えた。
8年前の対談であるので、茂木・高橋とも何をいまさらという感じがあるだろうが、私としても考えるところがあったので以下の長い文章を書いた。
以下、ICCのサイトの動画からの、対談のほぼ全部の聞き取り記録である。


この対談はICCの関係者であり、茂木と親しい音楽家・渋谷慶一郎によってアレンジされた。
ICCで高橋の演奏会が企画され、おそらくその過程で渋谷が高橋に「茂木健一郎との対談はいかがでしょう」と申し入れ、高橋が応じたものと思われる。いってみれば茂木は高橋の引き立て役としてこの対談に参加している。さて高橋としてはクオリア論で知られる売れっ子の脳科学者の基本的な思想に疑問を持っており、最初から茂木を論破(というか諭すというか)するつもりで対談に臨んだと思われる。
茂木は普通の意味での対談をしようと考えていた。茂木は高橋からできるだけ良い話を引き出し、クオリア論を交えて対談を展開するつもりだったに違いない。しかし脳科学で人間を理解しようとする態度そのものを最初から問題視している高橋は、始めから茂木に質問攻撃を浴びせる。
両者の考えには決定的な違いがある。茂木は人間究明のアプローチとして「クオリアの先にある運動体(人間の意識活動全体のこと)のベールを剥がしたい」という。一方、高橋は人間を脳を基盤として考えること自体が「単純化」であり「支配の体系」であると批判する。クオリアも「量」に対して「質」を出してきただけで、その体系から出ていないという。
高橋は、支配の体系に拠らず、ものごとを在るがままに受けとめ変化に柔軟に対応するような「新しい論理」を提唱しようとしたが、十分に語られないまま対談は終了した。

「他者の痛みが感じられるか」というテーマは高橋の発案である。禅の公案のようなこの問いに、茂木が答えられるはずが無いことがわかった上で、高橋は自分の論を展開しようと考えていたのだろう。しかし対談はこのテーマとは関係のない方向に進む。他者の痛みどころか、自分の痛みがわかるかどうかというところで既に両者の違いが鮮明になってしまったからだ。

この対談に先立って高橋による3曲の音楽演奏が行われた。その演奏は、楽器を奏でるのではなくPCを用いて予めサンプリングされた音をリミックスする形で行われた。この対談はその後始まった。

以下音声の聞き取りは田島の責任によるものです。
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高橋悠治+茂木健一郎:公開トーク「他者の痛みを感じられるか」
Possible Futures: Japanese postwar art and technology
ATAK@ICC
アート&テクノロジーの過去と未来

日時: 2005年12月17日(土)19時 | Date: December 17 (Sat.), 2005 19:00

会場: ICC 5F ロビー 



以下略称: M=茂木 、T=高橋  
(対談の冒頭部分は関係ない話なので省略する)

M(茂木) この「他者の痛みがわかるのか」というのは、高橋さんが出されたテーマなんですか?

T(高橋) うんまあそうですね テーマっていうかなんかタイトルがなきゃいけないからそれにしておけばなにか反応があるかもしれないし。

M 実は初対面なんで、初めてで、しかも控え室でも会ってなくて、未知の惑星からの動物どおしが会ってるっていう感じなんですけど…。もうちょっとその他者の痛みっていうのを…

T あ、他者の痛みですか。 例えばね、他人の歯の痛みは感じられるかっていうようなことですよ。それはどうなんですか?

M 今日は、ICCたち高橋さんたちに今まで言ったことは言うまいと思っているので、普通の話はしないようにと思ってるんですが、僕はその題をきいたときに、そもそも自分の痛みでさえわかるのかということを考えたんですね。

T じゃあ 「わかる」というのはどういうことなんですか?

M まさにそうなんですよねえ、たとえば高橋さんの先ほどのピースを三つ聴いたときに、今までに感じたことがないような何かを感じているんですよね、私は。それはわからないんですよ、何なのか。
僕が産まれて最初に痛みを感じたのはいつだったか覚えてないんですけども、ひょっとしたら胎内にいたときから痛みを感じてたかもしれないんですが、痛みというのを最初に経験したときに立ち現れた何かと同じものがきっとさっき音楽三つ聴かしていただいて立ち現れていると思うんですけども、この痛みはわかるという地点の前に居たいなと思っているんですよ、僕は。ですから、わかったと思ってても実はその前の地点に戻ると、わからないとも言えるというふうにするとですね、ふつうの意味での「他者の痛みはわかるのか」っていう問い自体がまた違った見え方をしてくると思うんですよね。

(田島:この対談の直前に行われた高橋の音楽を聴いた経験から、茂木は経験を言葉にすること以前のことを話し出す。高橋の3曲は、ささやくような声のサンプリングを効果的に使い、シンセサイザーが鼓動のように聞こえ、耳を通して理知的に聴くのではなく体内から響くような音響の曲であった。茂木は直前まで聴いていた曲の雰囲気に呑まれているような感じである。)

T ええ じゃあ 「わかる」っていうことの反対は「わからない」なんですか?

(田島:一方高橋は直前まで曲を「演奏」していたので、完全に演者のモードになっている。いわば自分のホームグラウンドに、科学者・茂木が入ってそれを「解釈」しはじめたので、茂木のいうことをわずらわしく感じているようである。)

M いや、そういうことではないと思います。…ソクラテスとしゃべってるような… というのはですね、声を効果的に使われた最初の二つのピースを聴いてて、この感覚は今までにないものだなと思ったんですが、名指しはできないけれども、はっきりとつかんではいるんですよね「この」というかたちでは。そういう意味でいうと、存在しないとか、あるいは見えないというものではないんですけれども、
ふつうに世間にいう「わかる」の前の段階で。

T 自分が感じていることが確かだっていうことはどうやってわかるんですか? それを疑わないっていうのはなぜなんですか? 自分が感じたっていうことはもう記憶でしかないわけでしょ? 「感じた」っていうふうに言った場合は もう感じてないわけでしょ? だから記憶なわけですよね。 それで じゃあその記憶がわかるっていうのはどういうことなんですか? どうして だから「わかる」と言えるかという意味ですけどね。

(田島:高橋は、諭すように質問する。実はこれが高橋の罠である。)

M 難問ですね。今日、記憶のことについて昼間しゃべってて…記憶と思い出はどう違うかっていう質問をされて…  たとえば高橋さんのPCにも渋谷さんのPCにもメモリーはあるわけですけれども、それと人間が何か思い出すっていうときの現象学的な何かが立ち現れるっていうのは違うわけで、そういう意味で言うと。

T 違うっていうのはどう違うんですか?

M はい、今、言おうとしております。今たとえば、何かを感じてるっていうものがあって、それがある時間がたつと別のかたちになるんだけども、しかしその同一性は保っているように我々はふつう思っているわけでして、さきほどお聴きした音楽の時間の流れというのは、今私の中では圧縮されてひとつの印象になっているわけです。
それをふつう、実際に聴いていたときのものと等価であるというふうに了解することで我々日常生活の中で生きてるわけですよね。 ですから、その時の縮小写像っていうか、過去にまるめ込まれたものが、どうして、そのリアルなその時々の時間の流れの中で立ち現れているのと同じだと思えるのかというのは、それこそまさに最初はそう思わなかったのかもしれないけれども、産まれたときは。 
でもそうようにしていくと、この世の中で生きていく上で、なにがしかの機能が果たされるということで、我々はそういう習慣に基づいているだけで、その前の地点に立ち返れば、それさえもわからないですね。ご質問の趣旨はそういうふうに伺ったんですが。

(田島:言葉にならない経験をこのように説明できるということは茂木は相当頭の良い人だなと思う。クオリアを提唱する一人として、心的現象の記述に慣れているのだろうか。しかし、そもそも当の質問は高橋の仕掛けた罠である。)

T えーっと いちばん疑問なのはね どうしてこういう質問に答えられるかっていうことが非常に不思議なんですね  (場内笑い)

M はあ…。 と申しますと?

T つまり 質問があれば答えがあるというふうに 思われるわけですか?  (場内笑い)

M いや会話してるだけですよね。

T そうでしょうかね。 うーん つまりね、「我々がこのように記憶し」っていうふうにおっしゃいますけども 「我々」っていうふうにどうして言えるのかっていうことなんですよ。 それがまあこのテーマでもあるんだけど それは「わたし」にすぎないわけでしょ? その「我々」とおっしゃっているのはね。 だけど 「わたし」っていう意識はないわけですよ。   
「わたし」っていう意識を持つためには  意識が一回自分に反転する、 そういうふうにするわけでしょ?  それでそれは また別な意識なわけですからね。 だから何かを感じているっていうときに「わたし」があるかどうかっていうことは ちょっと疑問なんじゃないですか?  
それでそれを「我々」というふうに言ってしまうっていうのは ある種の習慣でしょ?  
それは学者の言い方かもしれないけど それでどうしてそういうふうに飛躍できるのかっていうことを伺いたいんですね。

(田島:高橋は、感じているときは、「わたし」というものがないことを知っている。ただ経験があるだけだ。)

M それは…なんていうかな、そこらへんはね、何ていうか…突っ込んでいくとヤバイところにいくと思うんですけど。僕の立場からしてですよ、高橋さんがそういうことを言われてるときに、もうすでに何らかの原始的な信仰の体系が忍び込んでいると思うので。 今のはご自身に向けられた言葉でもあるわけですよね、そういうことを言われるという時には。

T そうですね。

M じゃあ高橋さんは日常の中で、「我々は」という言い方をすることはないんですか?一切

T う…んまあ 習慣上しかありませんね。 で、「我々」っていう意識はあんまりないですね。

M 私も習慣上申し上げているだけで。

T 何なんでしょうね。

M 何なんでしょうねえ…。  高橋さんの 1970年代コレクションを拝読して いろいろ感じるところがあるのですが…いろんな偶像的なものを解体するっていうことは私は非常に共感するんですね。ある意味では渋谷さんを含め、高橋さんが書かれているように、西洋がつくった近代の音楽という制度という神話を解体する、その中での様々な偶像を解体するっていう運動自体はすごく共感できるし納得がいくんですけども。その時にそういう解体の運動の中にでさえ偶像的なものっていうか神話的なものが原理上入り込まざるを得ない、と考えるんですけど。 つまりやっかいな問題があって悪魔払いしきれないっていうか、どこかに神話的な構造が残ってしまうのが人間というものであって、ですから  僕が逆に高橋さんにお伺いしたいのは、水牛楽団(茂木氏いうところの水牛団)の運動を含めてやられてきて、今どのように思われてます?そのあたりの問題は。

(田島:茂木は察しの良い人で、すでに高橋の言うことを察知している。近代の美学を批判しそれとは関係ない形でものをつくったとしても、その態度そのものの中に、ある種の判断(美的な判断)が加わってしまうであろう。その判断基準は近代によって育まれたものではないのか、それが茂木の主張である。そのことは後に何度も繰り返される。)

T その、やってきたことについてですか?

M 今、私の物言いに対してある種の神話解体的なことを言われたわけですよね。

T あのね神話解体っていうか、だからね、神話解体っていうふうにいうと ヨーロッパの論理がある それを解体していかなきゃならないっていうふうになるんじゃないですか? そうですか? 

M そのようなことを高橋さんは書かれているわけですよね、かつて

T うん それは本に書いてあるらしいですね (場内笑い)

M そういう言い方自体をされないということですか?

T 今思ってるのは、だから、今までの話はともかくね、ヨーロッパの音楽ね、500年間続いてたわけですよ。 それはある論理に基づいていて、それは音楽だけじゃなくて、いわゆる近代といわれる論理と同じだと思うんですよね。  
それの創造性っていうのは20世紀の初めに尽きてしまった、というふうに見えるんですね。それはたとえばドビュッシーとか ストラヴィンスキーとか シェーンベルクとか 誰をとってもいいですけども ヨーロッパ以外のものにひかれていく そういうことがあったわけですね。  
中ではもう使い果たされたという感覚があって、 そして そうするとそれは解体っていうような崩壊っていうようなそういうことになるけれども それで新しいものがでてくるとはあんまり思えなかったんですね。 じゃあ、内部でとりこんだすべてが使い果たされたから 外部からまたなにかとりこんでくるっていうのは同じ視線なわけですからね。 
ヨーロッパの近代文明がどういうふうにできあがってきたかということを考えると、まあいろんなことがいえるわけでしょうけども。 
音楽でいうと アフリカとかアジアとか特に中国とかそういうとことの関係があるわけですよね。  それからケルト文化とか そういうものを取り込んできて ある統一体みたいなものができる。 それでそこの過程がね 「単純化」というふうにいえると思うんですよ。 それで 例えば たくさんの音階があった それをひとつに整理してそれの変化だと考える そういうようなことですね。 
だから一番単純な要素に還元して それをいろいろ組み合わせて全体を作っていく そういうような傾向があると思うんですけども そういう論理でやっている限りね どういうものを取り込んできても ヨーロッパ以外の世界にたいして「搾取」している関係というのは変わらないと思うんですよ。 それで、それは新しい道にはならない。 要するにヨーロッパを生き延びさせているということでね。 それで それにたいしてじゃあ別な論理があるかっていうと それは非常に今わからないところなわけでしょ?

(田島:いよいよ高橋の真意が語られ始める。音楽を音階の変化だとする西洋音楽を「単純化」の図式とし、それにアジア、アフリカの音楽が取り込まれることを「搾取」と言っている。)

T もうひとつは 今何か言おうとするときにね エレクトロニクスとかコンピュータの言葉でしゃべってしまう というような傾向があるんですね。  それで だからそういうふうにすると つまりその形態にとらわれてものを見たりしている場合は どうやってそこから出られるのかっていうことが 次の問題になるんじゃないかと。 それで例えばですね、 意識というものがある、それで 意識以外に人間がね 触れているものがあるわけでしょ? その人間の内側なり外側なりにね それを意識するというのはほんの一部だし、 だから まあエレクトロニクスの用語でいうとフィルターっていうことになりますね。 それで意識のほんの一部が まあ器官的にはたとえば脳っていうようなことになるのかな?そういうふうに単純化するということは 逆にみるとね、「支配の体系」だと思うんですよ  それはある最小限のものを 確実性を囲い込んで それを所有する それでもって 攻撃的になってくる。  それは自分にも 働くし それから外部にも同じように 働くと思うんですけどね。 
それで まあ今までやってきたことがこれからどうなるのかっていうことは まあ 興味があるんですけどね。

(田島:これは茂木に対する極めて重要な批判である。人間を脳によって理解しようとする脳科学を「支配の体系」と言っている。)

T たとえば AかAでないか どちらかであるというのは まあ論理ですか それはたとえば味方か敵かっていう論理でしょ?
それでアリストテレスはアレクサンドロスを教えていたわけだから それでそういう論理というのは戦争の論理だと思うんですけどね。 それから 自然を征服するとか そういうことでもありうるわけでしょ? それからある土地を囲いこんで そこで何かものを作って売るとかそういうことでもあるわけでしょ? だからまあ非常に全体がある結びつき方をしている。 それで たとえばハイアラーキーというふうなものを考えた場合に上下関係になってくような気がするんですけどね。 小さい要素があって それをこう組み上げて全体をつくっていく それはある種の階級の論理でしょ。 それで いったいそういうふうにならなければならないのかということがね ちょっと疑問なんですよ。   
まったく水平的な結びつきで いろいろな違うネットワークが重なっていると そういうことで ある全体が考えられないのかっていうようなことですね。

(田島:ここにおいて、近代ではない「水平的な結びつきで、違うネットワークを重ねて或る全体をつくる」という新しい論理の端緒が語られる。高橋はこのことをもっと語りたかったのだろうが、相手が茂木では不足だったようだ。しかし高橋の言葉に触発されたのか、茂木は決意したように語り始める。)

M 全く同意するんです、だけど、今日はせっかくの機会なので、もっとも僕が思うところの「厳しい問題」を、ちょっと…どうせならぶち上げたいんですね。 僕は、高橋さんの音楽は素晴らしいと思います。さっきの3つは掛け値無しに。この前のゴールドベルグも良かったです。(注・田島:高橋が演奏したバッハのゴールドベルク変奏曲のこと)。ところが高橋さんのような物言いをされたときにやっかいな問題があって、つまり、美しいって感じる人間の心性そのものの態度はファシズムに通じるとこはあるんですよ、で、そういうかたちで水平的な関係を世界に展開したいとか、あるいはもっとですね、さっき学者的と私のことをおっしゃいましたけど、別に僕は自分のこと学者だと思ってないですけどとりあえず私が学者だとして、あるいは例えば評論家だとすると、評論家っていうのはある種特権的なヒエラルキーを作りたがる人種ですね、それにたいして、制作者側の、私、偶有的って言い方しますけど、何が起こるかわかんないようなすべてのところに自律的なダイナミクスがあって、それが集まっていろんなものを作っていくっていうようなことに物凄く共感して制作しているアーティストがいると思います。メディアアートの人にはそういう人多いと思います。ICC にもそういう人がいっぱいいると思います。 ところがですね、そういうふうにして出来た作品が、そのような理屈というかフィロソフィを抜きにしてみたときに、確かにモノカルチャー的ではあるかもしれないけれどもヨーロッパの音楽の伝統の中で作られてきた高橋さんが弾かれて高橋さん自身は失敗作と言われているバッハみたいなものに比べて、普通な意味でナイーブな意味で受ける主観的印象の質においてどっちが上かというと、理屈はあるんだけどなんか面白くないなあっていうのも随分あるんですよ。 その時にですね、バッハの ゴルドベルグを聴いて美しいと感じる心性そのものが、もし理屈を突き詰めればファシズム的な心性だとすると…だって美しいものと美しくないものを区別することは差別の構造といえるわけですからね…科学の文脈で美を語るときには必ず女性美が引き出されるんですけど女性の顔を美しい美しくないと言うこと自体がファシズム的ですからねそういう意味でいうと。 ですからそこを突き詰めると従来の伝統的なアートというものが因って立ってきたものが崩壊してそこでアートを作り続けていると言っている人たちが何をやっているのかわかんなくなってくるんですよ。 そこでモラルハザードが生じるっていうか、適当にインタラクティブなものを作っておけば、それってアートでしょっていうような言い逃れができてしまうんですね。 で、もしそうじゃなくて、そういう制作の現場においてもなお、何らかの審美的な意識があるんだとすると、それを高橋さんが今否定的に言われたヨーロッパ中心主義という美のファシズムみたいなものとどう区別するのかというのが、論理的な…まあ論理って戦争の道具かもしれないんだけど…わからないんですよね。 で、せひ教えていただきたいんです。

(田島 :茂木は、高橋が「搾取」「支配の体系」として批判するヨーロッパの体系を「ファシズム的」と言い換えた。しかしその「ファシズム的」な「ヨーロッパ中心主義的」の美のほうが、それによらないで作っている制作者のものよりも質が高い。そして制作者も審美的な判定をしているわけだから、そのような美を否定するということはどういうことなのか、というのが茂木の質問である。)

T 美しいか美しくないかっていうふうに感じるのはね 音楽つくる人の感じ方じゃないんですね   面白いか面白くないかなんですよ。  それで それは 美しいっていうのはある基準を必要とするわけでしょ? だけど 面白い面白くないかっていうのは それはね 基準はあるかもしれない あるかもしれないけど そういうことを定義してはいけないものなんですよ。
それは こういうものは面白い、 何故ならっていうふうにいくでしょ。 そうするとそれにとらわれるわけですからね。 だからそうじゃなくて こういうものがある。 これは面白い そこからどういう違うものができるかっていうことでやっていくわけですからね。 それは、もう 面白いと思ってそれを自分でやる瞬間にもう違ってくるわけですよ。 で どういうふうに違ってくるかっていうことで 伝統なりそういうものがあったわけでしょ。

(田島:高橋は、美の基準は無いとし、ある形に固執することなく柔軟に変化していくことに価値があると言っている。荘子の相対主義的価値観を彷彿とさせる。一方茂木は、プラトンの美のイデアのように、ある美学的な基準がある筈だと言っているように思える。)

M 面白いか面白くないかでやるっていうのは科学も同じでして、ただ、その後で何らかのジャッジメントがある訳なんですよ。 面白いといって作った小学生の科学理論とアインシュタインの相対性理論を等価におくことはできない…ですね、やはりそれは。極端なことを言えばアインシュタインの相対性理論は「良い」と、小学生が紙の上に書き付けた…同じように面白いと感じているですけどね…科学理論は「悪い」と、ジャジすること自体が…美しい美しくないという言葉は使わなくて良いんですけど…ファシズムとおっしゃられるのですか?

T いや そういうことは言いませんよ。

M そういうことはどうお考えですか、事実上ジャッジメントということはあるわけですよね。

T 面白いか面白くないかは判断ですよねえ、とも言えるわけでしょ? でもそれはきっかけにすぎないわけだから それで ひとりがね 自分が面白いというだけでは それはね 何かをつくれないんですよ。 
それは音楽っていうのは誰か聴かなきゃ成立しないようなものでしょ。だからひとりだけの音楽っていうのはないんですね。 それは言葉も同じだと思うけど 言葉っていうのは生まれつきあるものではないでしょ。 それで まあ子供のころから言葉を覚えるということは  言葉っていうのは要するに 二人以上の人間がいて成立するものでしょ。 それで言葉で何かを考えたり感じたり表現したりするっていうことは 要するに ある種の複数の人間がいないとそもそも成り立たないことだと思うんですよ。  じゃあそこで どうして個人ということに重きを置くのかっていうのは 或る意図があるってことでしょ? 

M いえ、私は特に(個人ということに重きを)置いてないんですけど…置いているように聞こえましたか?

T いやいや 茂木さんが置いているか置いていないかではなくてね、なぜ個人主義というようなものが発達したかっていうようなことですよ。 個人主義といってもいろんな個人主義があるわけで ヨーロッパのはひとつのバラエティにすぎないわけだけど。

(田島:高橋は、「面白いかどうか」ということも判断なのだが、それは相対的なものであって、自分で判断するわけではないという。音楽も聴いている人と一緒に作るのであるという。確かに私(田島)も作る人間として、自分の作品を見た人に与える影響や印象は作品をつくる上で必要不可欠な要素だと思う。作品は決して一人で作っているわけでない。一方茂木は、(個人に重きを置いていないとはいうものの)アーティスト自身が作りながらそこで判定を下している筈で、そこに何らかの基準があるに違いないと主張している。そこで高橋は、自律した個人が判定を下すこと(個人主義)に対し疑問を呈する。)

M それは、ひとつの考え方としては資本主義における取引関係において、借金したら返せってことじゃないですか。 ちょうど今、脳科学では近代的自我というのが本当にあるのかというのが問題になっているですね。多重人格までいかなくても、もっと自我というのは緩いものであろうっている話をするんですね。文化人類学とかの方とか。 そういうとき何が困るかっていうと近代的な市場での取引関係の整合性なんですね。つまり、Aっていう人格のときに借金したんだけど今B だから返せないとか、そういう言い方を許容できないっていう… 

T だから あらゆる科学だろうと哲学だろうと結局取引関係にいくわけじゃないですか。 だから取引関係に基づいて科学も経済も すべてができている。 これこそ問題じゃないですか?

M まったく同意です。ですからJ.S. バッハという人がこれだけの曲を作ったと、だからそれについて彼に、英語だとブラウニーポインツというちょっとポイントをあげようね、っていうクレジットのシステムで…なされてきたわけなんですね、我々の社会生活っていうのは。それは問題だと、私も感じます… デジタル資本主義で1と61万入れ違えると一方は300億損して、片方は20億儲けるというような構造にもつながっているという…あそこまでいうと私もカリカチュアだと感じるんですけど。現代における成果主義とかをそんなにおかしいと感じないような思い込みをさせられていることは事実だと思いますけど。

T でもそのね、すべてがビジネスに基づいているということがますますはっきりしてきたというのは ひとつの文明の衰えていく過程で露わになってきた、そういう事実…つまり 文明が盛んなときは別に取引だろうがなんだろうが そういうことは言わなかったし それで成り立ってたわけですよ。 それで 今すべてがビジネスだというようなことになったときに そこから何か生まれてくるということはこれ以上ない。儲かる人は儲かるし、力のある人はもっと力があるし そういうようなことでしかないわけでしょ。 そうすると そういうことをいくら批判したって始まらないわけだから。だからじゃ、どこに違うものがあるかということになりますね。

(田島:高橋は、現代の社会を覆っている取引関係は、文明が衰えていく過程であるとし、そうではない、「違うもの」を設定しようとしている。)

M だから例えば、科学者でいうとライアル・ワトソンみたいな人がインドネシアの海行って、夜、蛍の光…蛍じゃないやイカが発光しててそれに囲まれたときに何かを掴むっていう…ああいうものはそういものを乗り越える何らかのきっかけになるとは思いますけど…だからあの…うまく言えないんですけど…なんていうのかな…ポストモダニズムの言い方の中にはそういうワトソンが出会ったイカの光みたいなものの気配よりもむしろ資本主義的な取引関係の精緻化*した記号体系みたいなものの気配が色濃くでていたような気がする、むしろ近代的自我の限界を言いつのってたあの流れっていうのは …だからどうも違うような気がするんですよね。

(*音声では分からないが「精緻化」なのか、「聖地化」なのかで意味がずいぶん異なるが、文脈からいうと「精緻化」の意味と思われる)
(田島:茂木は、ライアル・ワトソンなどのいわゆるニューエイジ・サイエンスは近代的自我の限界を言いつつもそこから出ていないという。高橋も次の発言でそれには同意する。)

T うんまあそういう感じはありますね。 それでやっぱりそれは、イカの光がね、燐光が美しいとかそういう感じにいくわけでしょ。 だから美しいということに戻っていく。 しかし美しいってことだってさっきおっしゃったように差別の感覚がどっかにある。 そういう論理に基づいている。 そうすると これじゃあヨーロッパから出られないというようなことになるわけでしょ まあ別にでなくてもいいのかもしれないけれど。 
そうするとじゃあ 違う論理はどこにあるのかっていうことですよ。 
それで違う論理に基づいて たとえば今までの科学なり芸術なり日常生活なんかをどういうふうに変えられるのか。 それも一人が変えたってしょうがないわけでしょ? それで まあなにかこう見せてね。 こういうふうにっていうような。それで納得する人がいなければ 何にもなんないわけですから。  そういうものが あるコミュニティの中にあるというような時代じゃないわけでしょ? そうすると いろいろなdisciplineが違って、それから場所も違って、それでそういう中に何か芽のようなものがある。 それを ヨーロッパ的な価値に還元しないで、どうやってその芽を伸ばしていけるかということだと思うんですけどね。

(田島:高橋は再び「違う論理」による社会改革の話をする。茂木が東洋哲学に詳しければさらに話を発展できただろうが、しかし茂木は次の発言でクオリアになぞらえて話しを継いでいこうとする。)

M 精神分析において名前をつけるってことが かえって治療の妨げになるってことがあるらしいんですね… 乖離性同一性障害ってDSMってアメリカ人がつくるの好きなんだけど、何でもそういうかたちで記号化してカタログ化して…IT化しやすいですね。そうすると、でも、患者が乖離性同一性障害だって確定診断できるまで5年かかって…何のためにやっているのかわかんなくって… 名前なんてつけないでただ普通に接しているほうが「治る」っていうんですよ。いま精緻化して、カタログ化して、何でも名前つけて、分類して、ITに載せて、プロファイリングして、お前はこういうやつだとプロファイリング見せられるわけですよ。…その動きにどう抗するかっていうことには僕も重大な関心があって、だからクオリアなんていう概念を… 今日高橋さんとお話しして今30分くらいかな… 僕は最初クオリアと言ったときはそういうつもりだったんですあの、ちょっと言葉は悪いですけどアルカイダみたいな気持ちだったんですから。そういう機能的なことで割り切っていくという…機能というものをいうためには或るものの同一性を確定しなければいけませんからね。ゆるゆると軟体動物のようにつながっているものは機能っていうものではないわけで、ですから、高橋さんが批判してるようなオーケストラっていう制度にしたって我々いまだに当たり前だと思っちゃって別に疑問も持たないんだけれども  オーケストラ的なものも精緻化されてネットの上にあるわけでありまして、それに対してどうアンチテーゼとるかっていうことは、僕は97年に「脳とクオリア」っていうのを書いたときに、まさにそれだったんですけどもね。
だけど…うん難しいね。なかなか覚悟の要ることでして ほんとに根本に遡って、それこそ普通の意味での左翼っぽい人たちが言ってるようなこととまた違った意味で、認識論とか存在論の根幹に戻っていかないと扱えないやっかいな問題だと思うんですが、そこはもう高橋さんとの(話しを通じて)伝わってくる何かっていうのは、僕は共感できるものですけどね。そこは。

(田島:高橋のいう「ヨーロッパ的価値観」とは「ちがう論理」によって科学や芸術や日常生活をどう変えるか、という提唱に対し、茂木は、自分は「クオリア」という概念によってそれに抵抗していると述べ、高橋の提唱に共感を示す。しかし、高橋は次の発言でクオリアを批判する。)

T たとえばね自転車に乗るときにね、というよりもっといい例がね、ムカデが自分の脚の働きを意識すると歩けなくなるっていう話あるでしょ。 それで 意識しないでまあ人間だって歩いてるわけですよね。それで、そうやって歩けるということは、意識の役割でないっていうわけじゃないんですよね。  だけどそれは働いている。 だけど意識しなくて歩けるっていうことは、それはね習慣って言っちゃうと 非常につまんないことになるんですけど、その、からだっていうものがね、たくさんの器官でできていて、それがこう働いている。それを平等というのもおかしいんだけど、こう分散させているということが歩いているっていうことであり、考えている、感じているもそうだと思うんですね。  
だけど 今まで量的な、こう測ったりなんかできるものを扱ってきたからといって、じゃあそういうもんじゃない質感だクオリアだっていうふうにいったときにね、じゃあこの感じている何とも言えない…というようなことになると、まあ神秘主義にいくか、オカルトにいくか、あるいはその美というようなものに跪(ひざまず)くというようなことになるか、まあ、あまりそこは先がないと思ってるんですよ。  それは要するに量に対して質を出してきたっていうだけの話だから、やっぱりひとつの元の手のひらの中にいるだけだ、という感じですね。
 
(田島:茂木のクオリアに対する手厳しい批判である。高橋は、量に対して質を出してきただけで、クオリアは「ヨーロッパ的価値観」から出られない、という。)

M いや、その言われ方よくわかるんですが、でも、そういうこととちょっと違ったことを考えているんですね。つまり質量っていうのは相対性理論で初めて起源がわかったわけですから、その静止質量が運動エネルギーと相互変換できることを見つけて、それでまあ原爆もできちゃったんですけど、今まさに高橋さんがおっしゃった、クオリアっていうものをただエポケーして見てるだけだとそれはまた神話的な役割をしてしまうんですけど、その背後にある運動体をみたいっていうのが一貫した…つまりそういうふうにしないと… つまり脱神話化の究極かもしれません。今、私を含めたクオリアっていうものに興味をもっている科学者が目指しているのは、(目の前にある青いものを指差して)まさにこの青く見えちゃうっていうことの神話的なものの背後にある運動体を見たいっていうことですから。

T そうですか?

M はい、そういうことです。

T ふーん… でもねそれはちょっと違う面があると思うんですよ。そのたとえば青いものがなんかあるとしてね、それをひとつのクオリアだとするでしょ。 それで それをこう感じている? 運動体? まあ人間でしょうね それに話をもっていって、そっから理解しようとする、というんじゃなくてね、その…じゃあ、青だった、しかしもう青ではない、そこの変化だと思うんですね、むしろ。それが違う論理なんですよ。  

(田島: 高橋は、「クオリア」では変化する人間の心的現象を捉えることはできないという。科学的方法は対象を目の前において観察する。しかし心的現象の場合は観察対象と観察する自分を分離できない。クオリアをつくり出す運動体を仮定している限り、それは従来の論理である。そうではなくてそのような運動体を仮定することなしに、心的現象の変化そのままが重要であるという。)

M 記憶のことをおっしゃってるんですか?

T いえ 記憶じゃないですね。「青だ」って言ったときは記憶なんですよ。それは名をつけることでしょ? 名をつけるというのは所有することなんですよ。だから 所有しないで、表現をすぐしないで、 そして、その変化していくものについていく。そういうことから或る種の論理が出てこないかっていうようなことですね。それでそれは、だから、或るものを見て、それでそれを感じているまあ主体なり運動体なりに 還元するっていうのはそれは還元なんですよ、やっぱり。それでそれは、死体を解剖するような、そういうことに結局戻っていくと思うんですね。だから、見ているそのこと自体が変化している、じゃあその変化っていうのは何だ?っていうことに対応して何か論理をつくっていく、つくり出していくというほうが、まあ面白いことだと、面白いってまた言っちゃうけどね。

(田島:ここに新しいパラダイムが提唱されている。名づけも分析もしないで、在るがままに変化についていく、主客一体の運動性に高橋は可能性を見出している。西田哲学を連想させる。)

M それはふつうに複雑系の研究者コミュニティの…だからそれはここにインスタレーション出している池上高志とさんざん議論したことと関連しておりまして、それはある意味では力学的世界の無限運動というものは…扱え…つまりこれまさに面白いっていう問題なんですけどね、高橋さんのおっしゃる。知的な意味では例えばカオスとかアトラクタとか色んな概念を出してきたというのは面白いんだけれども…。
要するに革命家なんですよ、我々が目指しているのは、認識における。 ですから従来のニュートン力学、量子力学の延長線上では扱えないものとしてクオリアっていうのが登場したわけで、哲学的な意味でそこがデッドエンドとしてクオリアを扱うっていうんだったらそれはそれでもう形而上学っていうか、神話化が起こっちゃって跪くということになるんだけど、その向こうにあるもののベールをはぎ取ってみたいんですよ。そのベールをはぎとるという運動自体は決してその…高橋さんが批判された小林秀雄のモーツアルトみたいなものとは違うと思うんです、それについては私、いろいろ反論がありますけど…まあ置いといて。
決してその西洋の形而上学の体系の前に跪くこととは違うものを目指しているんですよね、それが今んとこ表現できてないっていうだけです。難しいので非常に。

(田島:おそらく茂木は高橋の提唱したことが理解していない。複雑系とかカオスとはまったく別の話だ。)

T それはね、難しいんですよ。確かに。でもそれはね…何ていうのかな…認識する? 認識するということと同時になにかが動き出して…だから認識するっていうことは何なんですか?言葉なんですか?

(田島:高橋は「クオリア」を「認識」という言葉に置き換えているようだ。認識することと変化する心的な運動は両立しない、という結論を導きたいのだと思われる。)

M んー… そのときにおそらく、高橋さんがさっきから言われているようなムカデの運動のようなものがどうもいたるところで起こってしまっているんですね、ですから音楽を聴いている時に一番気になるのは実はそこでして、つまり本来認識さえもできないような、ムカデの運動のようなものができちゃうんですよね、そこが問題なんだと思うんです本当は。 で、それはひょっとしたらオバケのようなものとして我々の中にあるだけで、認識できてないかもしれないんですけど、本当はそれが主役のような気がしますね、音楽を作るにしても聴くにしても科学をやるにしても何にしても。

(田島:茂木のいう「オバケのようなもの」とは、意識されない身体の活動のことではないだろうか?)

T まあ 音楽をつくる場合はね こういうふうにべつの論理があると思ったらそれでひとつモデルをつくるわけなんですけどね…それが音楽なんですから。そのプロセス自体が、音楽となって聴いてる人に共有されればそれでいいわけでしょ? だけど、じゃあ科学でムカデをつくるっていうのはどういうことなんですか? あのね、ムカデを解剖してね…ということは簡単にできる…簡単でないか… まあできるわけですよ。 じゃあ、ムカデをつくることがどうやってできるかということになりますね。 
 
(田島:ムカデの運動のような「別の論理」をモデルにして音楽をつくることができる、と高橋はいう。その上で「科学はムカデを作れるか」と挑発している。)

M うん…それは…大変ですね。

T それはなんていうかなあ…ほら、人を殺してはいけないのは何故かっていうようなことを色々言われるわけでしょ。 だけどひとつの説明は、殺すのは簡単だ。 一瞬でね、できる。だけど人をつくるということはすごく大変だ。 だからそんな簡単に壊しちゃっては困るというようなことをいうでしょ。  だから、やっぱりムカデを殺すのは簡単だけどムカデをつくるのは大変だっていうようなことになる。 だからそれをね、あるものを認識するということと、じゃあそれが自分にとって何なんだっていうこと? 自分っていうのはおかしいけど。それから、こうムカデのようにどうやって歩きだすかということなんですよね。

(田島:認識を問題にしている限りは動きだすことはできない。茂木の考えるクオリア(=認識)では、ムカデは一歩も踏み出すことはできない。…高橋はそう言いたいのだろう。)

M 科学者はね「タナトス」の人間なんで、しょうがないんですよ、これはちょっと説明が要るんですけど僕は科学なんかやめちまえって思ったことが今まで…これちょっと不用意に言うと陳腐に聞こえるので言いたくないんだけど…一度だけあって…それは沖縄で喜納昌吉のライブを聴いたときなんですよね。それを見て、聴いてなんか皆笑うかも知れないんだけど、そんときはもうやめちまえと思って、それはまさにその科学っていうのは、相対性理論のような飛びっきりの成功事例においても、或る意味では解剖してることですからね、宇宙をね。生の運動自体に身を投げているっていうよりも解剖してることなんで、で、だったらですね、ひんやりとした結晶化の作用というのがたまらなく良かったりするんですよね、うまく言えないんですけど。だから支配とかそういうこととは全く関係なく、タナトスなんだと思いますけど …ですからムカデをつくることだけでは我慢できない人種がいるんですよ、きっと世の中には。

(田島:宇宙を理解したい=解剖したいというタナトス的欲望が科学を発展させてきた、それは紛れも無い事実である。しかしその知の支配欲を満たすという快感が、近代を作ってきたのであって、茂木のこの発言は、科学的欲望(近代的欲望)の正体を言い当てている。)

T いやそれはわかりますけどね。それだからやってることはたまらなく面白い。だから原子爆弾でもつくれるわけですよ。それでこれはね、誰か別のやつらが利用してるんだから、こっちは関係ないとは言えないわけでしょう? だからね そういうふうに分離しているっていうこと自体が問題じゃないかと思うんですね。まあ科学は音楽じゃないし、音楽は科学じゃないとかね それから哲学はまた違うし そういうふうに最初から分けるでしょ?

M いや、僕は分けてないですけど。まさに名づけの問題で、音楽っていう名前をつけちゃうからいけないんですよね、科学という名前をつけちゃうからいけないんですよね。
     
T いや名前をつけちゃうからいけないんじゃないと思いますね。

M 僕は別に分けてないですよ、自分の実際の生き方の中では。

T それは心情告白でしょ? (会場笑い)

M う…ん、そうですよ。

T それは要するに信じるよりないってことですよね。 それを聴かされた人は。(会場笑い)。

M うん、そうかも知れないですね。

(議論が混同している。知の体系が分割されているという現在の文明の事実と、茂木個人の知の捉えかたが混同しているし、その揚げ足を取る高橋も生産的ではない。)

T だからそれよりもうちょっと先が…。

M といいますと?
 
T それは…茂木さんの問題じゃないんですか?そんな代わって代弁するわけにはいかないですからね。

M まあ人間一生に一度だから、別に自分の生き方は自分で責任とるしかないんでいいんですけどね。

T いやよかないですよ。自分で責任をとるっていうような 自己責任っていうことがね、やっぱり良くないんだと思うな。

M いや、高橋さんのいうことはわかるんですけど、お聞きしてそんな違っているようなことを言っているような感じはしなくて、つまり、そのまた変なメタファーになっちゃうんだけど…安定的なものの背後には必ず不安定なものがあるわけで、…それはマクロな物体の背後には量子力学があるわけで…おっしゃることはわかるんですけど、一貫して主張したいことは、高橋さんが批判されている対象だって、そんなに気楽なもんじゃないんじゃないか、ということです。オーケストラのヒエラルキー性を批判されるのは了解いたします、でもオーケストラの中で演奏している人たちの立場ってそんな気楽なもんじゃないんじゃないか…そういう制度を前提に指揮をしたりとかコンサートを喜んで聴いてる聴衆だってそんなに気楽なもんじゃないんじゃないかという気がするんですよね。

T それはちょっとあんまり論理になってないんじゃないですか? それは、どんなもんだって完全ではないに決まってるわけでしょう? それで今オーケストラがだめだからっていって オーケストラのミュージシャンが可哀想だっていう話にはならない。

M いや可哀想ってことではない。

T それから、オーケストラで何もできないかっていうと、そんなことはないんですよ。それから違うものがもう確実にあって、それに一挙に置き換えられるということを誰かが主張したとしたらそれこそ なんか空論でしかないわけでしょ。それは歴史的な過程があるわけですからね。 500年でここまできたものが。だけどそれはヨーロッパだけではないんですよね。 同時に並行して違うものも進んできた。 だからそっちのほうに目を向ける、じゃあヨーロッパがあって、それから世界中でそれを取り入れるなり反発するなりというようなことがすでにヨーロッパ中心主義でしょ? 
M と、いまヨーロッパ中心主義と言われたことでさえ、ぼくはそれほどに気楽なことじゃないと思ってるんですよ。
 
T そんな気楽なことじゃないですよ。それは。

M だから、その白黒二分法でいかなくてもいいんじゃないですかと、逆に、僕は高橋さんに言いたいんですよね。

T どこが白黒二分法なんですか?

(田島:茂木は近代の美学から出ることはできないであろうと考えている、いわば体制内改革派であるが、高橋は近代を真っ向から否定する急進派である。高橋は否定しているが、茂木に白黒二分法といわれても仕方ない。)

M 私が何かさっきから言うとそれを解体する方向へいきますよね、解体する対象自体がそれほど気楽じゃないでしょう、とうことを言いたいんですよ。

T そうそう。だから気楽なものじゃないから、いろいろ質問してるわけじゃないですか。そんなことにイラつかれたら、話は進まないですよ。

M いやいやイラついてるんじゃなくて、僕は非常に正確に状況を記述しようとしているだけです。いまここで起こっていることを。私の視点から見たっていうことですけど。

T うんだから、どうして記述しなくちゃいけないんですかねえ。

M と、また始めるでしょ?だから困るんですよねえ。

T だからね その記述するっていうのは 一瞬前に他人が言ったことを定義するわけでしょ。それで定義っていうことはね、ちょっと問題があると思っているんですよ。 定義っていうのは それを孤立させることで だからそれよりは どういう関係がそこで生まれるかっていうことが面白いと思うんです。 

(田島:ここにも両者の違いが現れている。茂木は起こっていることを常に記述ながら議論を進めようとする。高橋は現象を記述すること自体に問題があると考えている。)

M いや僕は楽しんでます、この関係性を。あとあのう…凄く難しい問題になっちゃうますけど…たとえば脳っていうのは治験が不用意に社会で利用されやすい分野で、例えばだからこういうことやると脳が活性化するっていう言説が出回りますよね。それを批判するっていうのは私もよくやってますし、それはそれでいいんですけど、一方でそう言い切っちゃてる人がいて、そう言い切ることで事態を動かし、そこで立ち現れているものもこの世のダイナミクスのひとつであって、なんていうのかな…それほど単純なものではないんだと思うんです。いま定義とおっしゃったもの自体が、そんな単純に、じゃあ定義はやめようというふうに葬り去られるようなものではないと私は思うんですけども。近代的自我がないっていうときだって高橋さんは高橋悠治っていう形で生きてきていらっしゃるわけで、それを…脱構築して脱神話化するっていうのは凄く共感を得やすいんですけど、じゃあ近代的自我っていうのが、ゼロになるのかというとそんなことはなくて、まだ或る種のオバケとしては在って、在ってはいけないものかというとそうでもないんじゃないかというふうに思うんですよね。それが何か一番最初から僕はあのう、せっかく今日こういうふうにお話させていただく機会があったので、一貫して僕は言いたいことだったのですけど。

(田島:現象を定義によって議論の対象とし、有効性や是非を問うということは近代のダイナミズムである。私はこの働きは葬り去られるものではないし、そうなってはならないと思う。)

T だけどそれはまずいんじゃないですか?どうもさっきから結局近代の擁護にまわっているような… 

M そんなことはないです。私はそんな近代を擁護するとかそんなふうに自分を定義づけているわけではないわけで。僕はただ、…そんなに遠くまでみえてるわけじゃないけど…自分が見えてる世界を正確に言ってるだけなんですよ。私にとって見えている世界ですね。僕は高橋さんの音楽は良かったと思います。それは嘘偽りない事実です。それを後で、脱神話的なアプローチからアートというものを作っていると称している人たちの作品が、近代の中でアートとして言われて来たものに比べて感銘が薄いっていうのも私はこれも正直な事実なんですよ。それはただ事実として申し上げているだけで近代を擁護しているわけじゃなくて、そういう体験がありますということを申し上げているだけで。 そこで必ずしも批判の対象になっているもの…近代とおっしゃいましたけど…は、ダースベーダーみたいに悪の化身っていうわけではなくて、もうちょっと、ちゃんと考えてみるべきものが含まれているんじゃないと思っているわけです。それを申し上げないと今日ここに出てきて高橋さんとお話する意味がないと思ってるんですね。僕が高橋さんの著作とか読んで、拝見して理解したときに、私がいまここで、ホントに若輩もので、人生経験も違いますし、見てきたものも違うんですけど、私がそれを言わなければ全然意味がないと、思うんで。
 
T そうかなあ。そういう役割をなぜしなきゃいけないんですかねえ。

M いや役割をしてるんじゃなくて一番言いたいことなんです。

T それは…なんかつまらなくないですか? そういう役割を背負うっていうのは。

M いやつまらなくても何でもいいですけど、僕はそういうふうに思ってますから。本気で。いや、つまりあのう…もちろんあの…いろいろ分かってるでしょ、世界の中のその、私だっていろいろやってきたんですからね、そのう科学者として。(場内爆笑)

T …だからさあ、だからまあ、心にもない一般的なことを言わなくてもいいと思うんですよ。 

M 心にもないことなんか言ってないですよ。本気で思ってることを言ってるんですよ。なんで私が心にも無いことを言っていると思われるんですか?

T うー…ん  あのねえ だから近代の自我とか そういう言葉の使いかたっていうのはね 一種の啓蒙だと思うんですよ。ここにいる人たちに対する。 

M そんなことないです。

T そうですかねえ。

M 啓蒙するつもりなんて全くないですよ。僕はここにいる人たちを同志だと思ってます。

T そりゃまた簡単に…同志になれるのかなあ… (場内笑い)

M なんか悪夢的だなあ。(場内爆笑) 何を言ってもなんかさ、素直に受け取ってくれないっていうか何ですかね…

(田島:茂木の言い方にも煮え切らないところがある。近代を否定した態度自体に近代が適用されているというということが茂木の論であるが、その適用されている判断基準は「美」であるという。しかし現在の芸術にとって「美」の定義は不可能に近い。)


… … …

M 高橋さんの言っていることには共感してるんですけども、その一方で、美しいということを差別だとかファシスト的な心性だとかいうことで、否定して、全く面白いっていることは制作者側の考えることだっていうことは、僕は別に評論家でも何でもないんで、科学の現場でそういうことをやってるわけですから…それはそれでわかるんですけど、美しいっていうものを高橋さんみたいな物言いで、葬り去った時に現れる世界っていうのは何なのか…葬り去れるものなのか。

T 美しいっていうような判断がファシズムだっていうのは、茂木さんがおっしゃったんですよ。(私は)そんなことは言ってませんよ。美であるか美でないかっていうようなことは ものを作るときの動機にはならないっていうことなんですよ。

M それはいいですよ。

T だからそれでいいんじゃないですか。  

M いやでも、それは今は抑制的に高橋さんが言われてるわけで、ぼくは本とか読んでるわけだから高橋さんの書かれていることを読んで、そこで言っているだけです。 つまり、小林秀雄は骨董屋のように昔からある骨董品を撫でまわしてどうのこうのと書かれて …ああいう言い方をされるのはそれでわかるんですけども、そこで否定されているものはそんなにたちの悪いものじゃ、ないんじゃないですか。

T いや、たちが悪いもんですよ、あれは。(場内笑い)  あのねえ、名人が、達人が、っていくら言ったってね、美がなんとかであるっていくら言ったって、じゃあそれを作るのはどうするのかっていうことはわかんないでしょ?

M それは、小林が文章を作ったわけじゃないですか、同じことですよ。

T いや、同じことじゃないですよ。

M いや僕は同じことだと思います。

T それはね批評家としての…
 
M 批評家の文はその人の作品なんですから。そこで音楽家の立場を特権化する権利がどうしてあるんですか?おかしいですよそれ。それは作家がいて、それを批評する立場がいるっていう古典的な構図を当てはめているだけじゃないですか。
  
T そんなことはないですね。 

M いや、ものをつくる人間ていうのを特権化する態度がおかしいと思います。
  
T ものをつくる人間を特権化してるんじゃないですよ。

M いやしてるじゃないですか今だって。

T 音楽をつくるっていうことは、つくることのすべてだと思います? 

M そんなことを僕言ってないですよ。 だから、小林は文をつくったんじゃないかと言ってるんです。
小林の「無常といふ事」とかあるいは「当麻」という文章は、作品じゃないですか。文字の配列を並べてるわけだから、それはひとつの作品じゃないんですか。 まったくそこで彼らが心がけたことっていうのは同じじゃないんですか、つくるという態度においては。なんでその、古典的なその、わかんないけど、ものを作る人間と骨董屋でものを撫で回して有難がる人間ていうその図式に当てはめて切り捨てるんですか。

T その図式に当てはめていると思いました?ぼくのどこにその図式があるんですか? 

M いやものを作るということは、そういうことでは言えないといった瞬間に区別してるわけでしょ。

T 違いますよ。

M どこが違うんですか。
 
T ものをつくるときは、美しいものを作ろうというふうには、しないということのどこが特権化なんですか。

M それは文章を 書く人だって同じだと思いますよ。
 
T いえいえ「美」っていうふうに言ってるのは、結果でしょ。だから結果から始めて物をつくることはできないんですよ。 それは、そういう人を特権化してるんじゃないですよ。料理つくるんだって何だって同じですよ。

M それはそうだと思いますけど。

T そうでしょ? だからそれでいいじゃないですか。どこが特権化なんですか。

M ぼくが一貫して理解できないのは、最後に美しいものができて、それを美しいと思うと言うことには意味がないと思っているんですか?
  
T それは 意味がないって言ってませんよ。 それは、ものをつくるときには役に立たないって言ってるんですよ。 そういうことを例えばモーツアルトについていくら言ったって、そんなことは何の役にも立たないわけですよ。
 
M ものを作る上では役に立ってないでしょうね。でもそれによってインスピレーションを得て文章を書くということはひとつの制作ということじゃないんでしょうか。
  
T それは小林秀雄の文章がいいっていうことを言ってるんですか? そうじゃなくて、じゃあモーツアルトについて書いて、そしてそこから違う音楽なり何かが生まれてくる、そういうプロセスを解明するっていうようなことのほうが…なんていうのかなあ…これは美しいとかさあ、そういうこと言ったって、これは天才であるとか言ったって言葉の無駄じゃないですか? 

M いや僕は小林はそんなちんけな奴じゃなかったと思いますよ、そんなふうに片づけられるほど。

T まあ歴史的な役割っていうのがありますからね、小林秀雄の。だから後の批評家はみんなああいうふうになったわけですよ。それはいけないんですよ。

M それについては僕は、まったく…わかんないです。高橋さんが同時代の音楽評論家の…

T わかんないことはないですよ。文芸評論の中だってあの後どうなったかっていうのはあるじゃないですか。

M エピゴーネンと最初の人は違いますからね。それは小林本人の責任じゃないじゃないですか、そのエピゴーネンが出てきたっていうことは。

T あれがエピゴーネンでないとどうして言えるんですか。

M 小林秀雄自身がエピゴーネンということですか?

T そうです。

M うーん。そういうふうに高橋さんが思われるのは勝手で、俺はそうは思わないですからね。見解の相違ですね。

(田島:茂木は小林秀雄に深く傾倒していて、自身のブログ(クオリア日記)でもそれを述べている。http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2011/10/post-f9b5.html

T 見解の相違ね。見解の相違で話が終わるんならこんな楽なことはないですよ。そういうのはね、議論とは言わないんです。

M 議論も何も高橋さんはさっきから何も聞いてくんないじゃないですか、僕が言ってるのに。(場内笑い)

T え? なんか納得できるようなことを言ったんですか?(場内笑い) なんか、科学がどうのとか言われたって、そんなことは本に書いてあるわけでしょ。

M 何ですか、本に書いてあるっているのは?  なっんかいじわるだよなホントに。僕は一生懸命高橋さんに分かっていただきたいんですよ。高橋さんの立場を否定してるんじゃないですよ。でも、高橋さんに色んな思いがあって、ああいう文章を書かれたんだろうし、水牛団だってやられたんだろうし。アジアのいろんな音楽をああいう形で扱われてきた、ということは皆が認めることなんですから。そうではなくて、そこで高橋さんがああいう形で叩いたものは、それほど敵じゃないんじゃないですか、ということをただ言いたかっただけなんですよ。

T 誰かを叩くっていうのは、どういう意味があると思います? それは戦略というもんでしょ。そんなもんに引っかかってて話になんないじゃないですか。それは。

M はい?

T 小林秀雄について、書くことを頼まれてですよ、書くきっかけっていうのは小林秀雄特集だったわけですよ。それでみんなが素晴らしい素晴らしいと言うから、批判する役が回ってきたわけですよ。そしてそれは或る意味があった。そういうことですね。それがまあ…どっかに引用されて、後からどうこうっていうっていうのは引用する人たちの都合なわけでしょ?

M それはだって誰だってそうですよね。そういうことは。誰でもそうですよ。一貫してわかってるんですよ、だって、我々生きてる現場っていうのはそういう現場なんですから。分けわかんないかたちで。例えば、今日この場だって、私は渋谷慶一郎に頼まれて。 僕は高橋さんのコンサートを聴いて非常に良かったから、是非お会いしたいと思って来たわけで。 でもそういう意味で言うと、「戦略」という言葉は使いたくないけどそういうきっかけでここにいるわけで、別に高橋さんの言われるような…なんていうかなあ…面白いからやるっていう態度と全然変わらないですけどね、そういう意味でいうと。

T (沈黙)…はい。(場内笑い)。それで?

(係りの人が高橋に近づき時間だから話を切り上げるように促す。)

M いや、だから、どうしたらいいのかわかんないですけど…

T どうしたらいいでしょうね…。だから話は結局終わんないわけですよ。こういうふうにしてくとね。ええ、それでもう時間だからやめろ、と言われることになるわけです。

M うーん。

T ええ…どうしますか。またどっかで話をしますか?

M そう…ですね。

T それよりしょうがないですね。 (観客は対談の終わりを感じて拍手)

M でもなんか、ほんとに…全然ないですか? 5分くらい質問とか…もし…。会場から言いたいことがある人とか色々あるかも知れないんで。どうでしょ?

T あのねえ 言いたいことを言えない苦しみっていうのを味わったほうがいいと思うんです。(場内爆笑)

M …まあ、じゃあそういうことで…はい。 どうもありがとうございました。

(茂木は立ち上がって高橋に握手を求める。応じる高橋。両者握手)(場内拍手)



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高橋の近代批判は激烈なもので、人の心的現象を対象と捕らえることが「支配の体系」であるとして手厳しい。「水平的な結びつきで、違うネットワークを重ねて或る全体をつくる」という「新しい論理」に期待を寄せているが、結局具体的には何も語られなかった。最後に言った「言いたいことを言えない苦しみっていうのを味わったほうがいい」という言葉は、茂木にあてつけているだけではなく、その先を語りたかったのにそれが出来なかった、という高橋本人の気持ちでもあるのだろう。
しかし、近代を全く無効にすることはできないしそれはナンセンスだろう。私たちの社会は茂木のいうような近代的ダイナミズムが生活に隅々まで行き渡っている。「新しい論理」は近代的なダイナミズムの上にかぶさるようにして展開する価値に違いない。

一方、茂木の論は歯切れが悪い。高橋の立場を否定しないといっているが、話の展開からすると否定したほうが良かっただろう。おそらく高橋の引き立て役として対談に臨んだ立場上、真っ向から否定することは避けたのだと思う。
また茂木のいう美のジャッジメントというものも想像しがたい内容である。現代の芸術における美の基準は定義不可能であると思う。ロスコの絵画とデュシャンのレディメイドを両方とも包含する美の基準をつくることは困難であるように思う。それでも何かのジャッジをしているというが、つくり手は制作意図に対して有効であるか、効果的であるかどうかで判断しているので「美」はさほど問題にならない。

高橋有利に終始したかのように思える対談であるが、果たしてそうだろうか?高橋に「あたらしい論理」とは、「水平的な結びつきの全体」とは、具体的にはどのようなものですか?と質問したら高橋はどのように答えただろうか?

この対談から7年と少し経っている。社会状況は変化し続けている。今ならもう少し成熟した議論ができるだろうか?


参考:この対談が行われた直後の茂木健一郎のブログ「クオリア日記」
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/12/post_5f5b.html




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