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2015年2月15日日曜日

高松次郎展 ミステリーズ

国立近代美術館で行なわれている「高松次郎ミステリーズ」に行ってきた。
高松次郎氏は以前より私が敬愛する作家である。
わかりにくいこの作家の思考世界を丁寧な解説でみせてくれている好展示だった。
説明文が多い展覧会でもある。作品タイトルの下に長々と説明がある。観客はその文書を読みながら、高松氏の思考をたどっていく。時間はかかるがこのような丁寧な展示方法は非常にありがたい。


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□ 或る問題

世界というものは、自分も含めた世界全体というものは、どういう仕組みで成り立っているのか?
それは大問題だ。
なぜなら答えを出すべき本人が、この世界の中に居るからだ。
もし世界全体を目の前に取り出して、机の上に置いて観察するような感じで見ることができたら、どんなに良いだろう。
しかし残念ながらそうはいかない。
なぜなら、その机の上の世界は、私を含んでいない。
世界についての答えを出そうとするならば、答えるべき主体である私も問題の中に組み込まれなければならない。
答えることは不可能な問いだ。
そして高松氏は、果敢にもその不可能に挑戦する。

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□ 点について

高松氏は、まず世界を成り立たせることの一つに遠近法の消失点を求めた。
遠近法の消失点は、実際にはないはずの点である。しかしそれが遠近法的空間を成り立たせている。
在るはずなのに、実際には存在しない「点」。
高松氏はここにおいて、「不在」を発見した。
不在の発想は、その後の彼の作品にとって決定的なものである。

高松氏はこのことを世界を成り立たせる最小の物質の単位、素粒子になぞらえる。量子力学では、素粒子は粒子であるとともに波である。これも在と不在の間の揺らぎだ。
素粒子は在であり、そして不在でもある。それはつねに揺らいでおり時間と切り離せない。


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□ いくつかの言葉


気になったいくつかの言葉があるので整理してみたい。

在 または 存在
これは、変化または時間のこと。変化しないもの、最終的に消滅しないものは「存在」しない。石のように変化しないと思われるものでも何億年もたつと変化する。

不在
これも実は存在と同じ意味ではないか?存在のほうは変化しないことのほうを強調しているのだが、不在は、存在の中にある不在性を強調しているということであろう。


潜在的なエネルギーがギューッと詰め込まれた状態。何もないのではない。その膨大なエネルギーが発現されていないだけ。存在ほど生き生きとした状態ではない。放っておくと何も起きない。

非在
存在にあらず。無のことではないかと思う。

実在
現実の物質で彩られた、我々が日常接しているもの。
・・・しかし本当にそうなのか疑問が残るが。


反実在
どうも、不在が増殖してできたような、この世の向こう側の世界のようなものらしい。決して到達し得ない世界だが、高松氏はそこへの道筋を考えて実行した。
高松氏は以下のように述べる。
「あたらしい純白のキャンバスに、その純白のキャンバスを描写すること。(中略)それは実在と、それ自身の虚像をぴったりと合わせることを意味します。そのとき、物体は実在でありながら同時に虚像であることによって0を掛けられた数式のようにその実在性は否定されます。(中略)僕が意図しているのは、物体をエネルギーだけに変えることによって不在化してしまう、原子力的方法です」(特集・新世代の画家への7つの質問、美術手帳第276号)
 物質的実在(絵の対象物)と非物質的実在(対象物の影)を衝突させて消してしまうこと。これが彼の「影」シリーズであった。
(この解説は、今回の「高松次郎ミステリーズ」の企画者の一人、蔵屋美香氏による)

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□ 高松氏が読んだ本


この展覧会では、高松次郎氏のアトリエの大きさが再現され、片隅に高松氏の書庫にあった本が置いてあった。(もちろん美術館が新しく買い揃えたものだろう)。
高松氏の関心領域を示す興味深いものだと思うので書き留めておいた。


セザンヌの手紙  ポール・セザンヌ
消しゴム  ロブ・グリエ
論理哲学論考   ヴィドゲンシュタイン
老子   福永光司
城  カフカ
意味と無意味  メルロ・ポンティ
抽象絵画-意味と限界  ハインリヒ・リュッツェラー

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□ 芸術は作者の内面の表現ではない。


高松氏のアトリエの大きさが再現された場所の壁に高松氏の言葉が書いてあった。
ぼくはいつも“芸術は"芸術は作者の内面を表現するものでない方がよい”と考えている。これまでの芸術は、自然なり物体なりを作者が見てそれに触発されて感情の表現をされてきた。だが、本当に純粋な絵画というものは、キャンバスがキャンバス自身を表現する、とおいうことではないだろうか。(「自分を無にすること」1980)

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□ 密度

 「高松次郎ミステリーズ」を見て思ったのは、ある強い「密度」だ。この世界は隙間なく何かで埋まっているというような感じだ。不在というものを認めた瞬間に、不在の場所も塞がれてしまい、この世はぎっしりと埋まってしまうことになる。スカスカのところなど少しもない。スカスカと思われていたところも、「不在」で埋め尽くされているからだ。我々の住むこの世界は、この上なく充実している。そして見せかけの表面や一時の感情を超えて、硬く揺るがない、一方で柔軟で変化に富んだ、そのものに目を凝らしたいと思う。

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□ 盟友の人物評

最後に高松次郎氏の死後発刊された、著作を集めた書物「不在への問い」に盟友・赤瀬川源平氏が書いた紹介文が表紙にあったので引用しよう。


長身で
一本気で
明快で
突進力があり
そのために悩んで
その末に在りえない世界の入り口を見つけて
そのわずかな隙間から
身をこじ入れて
行ってしまった
高松次郎      明快なグレー
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2014年8月28日木曜日

量子力学の爽快さ -量子力学と仏教哲学-

前回、「量子力学の気持ち悪さ」というタイトルで文章を書いた。なぜ気持ち悪いかというと、粒子は「あるんだか無いんだかわからない」「見てないときには何をしてるのかわからない」「客観的に観測したいのに、見ただけで自分がその現象に関わってしまう」という点にある。
見ていないときにはどうなっているのか全くわからず、見た瞬間にそれかどういう状態なのか決まるということなので、客観的に観察したいのに、それが許されない。その場はまるで粘液のように見る人の視線に絡みつき、振りほどこうとしてもネットリくっついてきて離れないのだ。


しかし、それらの気持ち悪さは、「現象は私達の存在とは独立して存在するものだ」という私たちの思い込みから来ている。
どうやら私たちは現実に対する認識を変えなければならないようだ。

この鍵は仏教哲学にある。
仏教哲学と量子力学の類似性は古くから指摘されていたが、格好の文献があった。
大野公士さんが紹介してくれた以下の本です。


掌の中の無限

パスツール研究所で分子生物学の博士号を取ったあと、チベット仏教の僧侶となったマチウ・リカールと、ベトナム生まれで仏教の伝統の下で育ち、アメリカにわたって天体物理学の専門家となったチン・スアン・トゥアンの対話集である。


マチウ・リカール(左)とチン・スアン・トゥアン

元科学者のマチウ・リカールと、現役の天体物理学者のチン・スアン・トゥアンとは通じるものがある。議論は素粒子論、認識論、存在論、宇宙論と多岐にわたる。どの部分も興味深いが、前半部分は量子力学と仏教哲学の共通点について触れている。
驚くことに量子力学の言う現実の奇妙な性質は、仏教によってはるか前にすでに記述されていた。


仏教は、独立した実在の存在に意義を唱え、相反的な関係および因果性という考えに行き着きます。つまり、出来事というのは、他の要因との関連において、それに依存してのみ出現するのです。ー(マチウ・リカール)
観察行為がまったくない状況の下で存在する「客観的な」現実について語るのは意味がない。それは決してとらえられないからです。つかまえられるのは、観測者とその測定機器に依存する電子の主観的な現実だけです。この現実が取る形は、われわれの存在と絡み合っている。われわれはもはや、原子の世界の騒然たるドラマを前にした受け身の観客ではなくて、完全な演技者なんです。ー(チン・スアン・トゥアン)
 われわれは素粒子を、測定機器との、あるいは観測者の意識との相互作用の働きによって、はじめて物質化される潜在性と考えるべきです。完全に独立した現実とか、元来は対象に帰属するような測定とかを想定して、それを観測のプロセスから切り離すことはどうしてもできませんね。だから現実を主体と客体に分断することは不可能です。-(チン・スアン・トゥアン)
(量子力学が示すような現象の全体性をそのまま受け入れることは)仏教の基本的な方法なのです。単に知の方法としてではなく、人間的変革の実践としてもです。空性の理解へといたる分析は、一見きわめて知的に見えるかもしれないけれど、そこから生じる直接的認識は、私達を執着から解き放ち、したがって人間の生き方に深い影響を及ぼすのです。ー(マチウ・リカール)

かれらの対話を聞いていると、客観的かつ永続的な物質や粒子は存在しないものであり、たえず揺れ動く存在の潜在性のみがある。粒子なり物質なりが認識可能であるのは、観測者の意識と相互作用した結果なのであって、それは現象の本来の姿とはいえない。

言ってみればありのままの現実世界とは、我々人間の意識も含めて一体のものであり、決して切り離すことはできない。客観的事実があるなどという唯物論的な説明はきわめて粗野なものであり、非現実的ある。

彼らは、クォークや超ひも理論も唯物主義的な方便という捕らえ方とをしているようだ。また多世界解釈については、波と粒子の相補性原理を受け入れられない人がムリヤリ考えた理屈であるかのように否定的だ。

宇宙の不可分性の根拠として、彼らはEPR相関(量子もつれ)と、フーコーの振り子の2つを上げている。
マチウ・リカールはEPR相関(量子もつれ)について、宇宙がビッグバンから始まる1点から生まれたとしたら全宇宙は相関によってつながっているはずだと示唆する。またチン・スアン・トゥアンは、フーコーの振り子は地球の自転を証明するだけではなくて、宇宙全体に対して基準面を持っていることから、地球で起こっていることは全宇宙と関連していると指摘する。


難解に思えた量子力学の原理だが、見方を変えればとても簡単なことだ。

物質とはモノではない。存在とは、確定的なものではない。本質的に不確定である。もし確定したかのように思えるなら、人間の意識が関与して存在を確認したという幻想を作り出したのである。

 前回の芸人の例でいえば、わたちたちは誰ひとり観客でいることはできない。全員が芸人である。誰一人として、傍観者でいることはできず、全員は現実を主体的に作っているのである。

前回述べた量子力学の「気持ち悪さ」は、私たちが「客観的現実が存在するはず」という幻想にとらわれ、自らの現実への関与を恐れて何もできない、神経症患者のようなものだったのだ。
ようやく我が文明は神経症から治癒する段階に来たといえるのではないか。

イメージで語るとすればこういうことだ。現実とは、私たちが一般に考えるような確定的で、客観的で、よそよそしく、頑として動かず、融通の利かないものではない。
柔軟で優しく、見方によって様々に姿を変え、変幻自在で多様性に富んだものだ。

現実は不確定であることを認め、自らが現実を積極的につくることを認め、世界は自分も含めて全てつながっていることを会得すれば、全ての謎は解ける。
清流が小石を洗い流すかのように爽快なものだ。


さて意識と量子の世界が不可分であるからには、私が「量子と意識」「量子と意識2」の回で述べたように、多数の人々の感情の高ぶりが、乱数発生器に影響を与えても、おかしくはない。
突飛なことを言い出すようだが、現象は不可分であり全てはつながっているのであれば、乱数発生が全宇宙から独立した現象であると考えることはできない。直接の理由は未だ不明だが、量子現象と意識現象が、同一の次元で議論できる状況が今後出てくるのではないだろうか。

意識現象と量子現象の類似性というか同一性は、私たちの意識と全宇宙との連続性を意味している。もしこれが証明され、統一的に解釈できる理論が確立したら、私たちの現実への関与は、全く新たなものになるだろう。



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2014年2月2日日曜日

個展レビュー 「ハイデガーの技術論」

先日(2014.1.27-2.1)ギャラリー現 で行なわれた私の個展「ハイデガーの技術論 -自然-身体-社会をつなぐ」を振り返ってみようと思います。

会場
Q:なぜ「技術論」というテーマを選んだのか?
A:
私は中学生のときに神経症になり、電車に乗れなかったことがあります。その時は自分が悪いのだろうと思っていましたが、長じてからは、私の病は、社会との関係であることに気づきました。つまり、私は人間の大量輸送というシステムに、強い違和感を抱いてそれに馴染めなかったということです。
また私たちの身体は自然そのものであるといえますが、私は自然(身体)と社会の間に、またぎ越せないほどの大きな溝を感じるのです。
現代の技術社会に対する根本的な疑問・違和感・居心地の悪さ、不快・・・それらは、私の生来の疑問であり生きていく上でのテーマです。技術について問うことは私の生存の条件ともいえます。



会場


Q:そもそもハイデガーって誰?
A:
20世紀ドイツの哲学者で、「存在と時間」という大ベストセラーを書きました。
フライブルク大学の学長にもなりました。
そのころ、ナチスに積極的に参画しています。世界的な大哲学者となり、学長にもなって、哲学で世界を変えられると勘違いしていたのかも知れません。
戦後、ハイデガーはナチス参画の経歴を恥じて、山荘にこもり著述の生活をしました。その時書いたのが「技術への問い」です。

Q:では、なぜ「ハイデガーの技術論」なのか?
A:ハイデガーの「技術への問い」が、私の疑問にまともに答えようとしているテキストだからです。他にそのような書物は私は知りません。
ハイデガーも、人間の生きる問題と社会性を追求していくうちに、ナチスという歪んだ近代性に加担してしまったのですが、その自分の過ちを真に受け止めて総括したのがこの文章といえます。


Q:なぜこれほど難しいのか?
A:
いままでに無い思想を打ち立てるには、いままでに無い考えを表す用語を作らなければなりません。そのため、ハイデガーは新しい言葉を作っています。確かにそのような見慣れない新語の意味をちゃんと捉えていないと分かりにくいと思います。逆にいえばその用語の意味を捉えていれば、だいぶ分かり易くなると思います。以下にいくつかキーワードを説明します。

キーワード1: Ge-stell (ゲシュテル)
ハイデガーは、「技術への問い」の中で、現代の技術文明の正体をGe-stell (ゲシュテル)と言っています。
ゲシュテルlとは自然や人間から資源や労働を収集し、生産に活用する現代社会特有の目に見えない構造のことです。
川の流れから電力を引っ立て、農地や太陽や空気中の窒素から作物を引っ立て、鉱山から鉱物を引っ立てる。このような「引っ立てる体制」のことをゲシュテルと言います。「徴用性」「総かり立て体制」「巨大-収奪機構」という訳語もあります。
さらにゲシュテルは、人間をかり立てます。生産において労働をかり立て、巧みに消費をかり立てます。
ゲシュテルは目に見えない構造であって、全体を動かす中枢的な何者かがいるわけでもありません。毛細血管のように、世の中の事象の隅々までいきわたり、栄養分を吸い取り、また逆に栄養をいきわたらせています。
私たちはゲシュテルの支配から逃れることはほぼできないのです。

キーワード2: 開蔵(Entbegen)
「現れていない可能性を発揮する」というような意味。非常に意味の広い言葉です。
開蔵の例としては
(1)自然現象
(2)(人間の身体による)技
(3)科学技術
の3つがあります。
ここで(3)の科学技術が、(1)、(2)と同列であるということが非常に重要です。開蔵という概念に、ゲシュテルの支配を相対化する鍵があるとに思います。

キーワード3: モード(Mode)
これは、ハイデガーではなく、私(田島)が考えた言葉です。従来のモード(Mode)という言葉の意味(様式、形式、気分、体制)とは、違う意味で使っています。
ここでいうモードとは、或る社会において、人々の社会的な行動や考え方を律している規範のことです。
たとえば古代ギリシアでは「デルフォイの神託」という巫女のお告げがギリシア社会全体に大きな影響力を持っていました。また日本の封建時代には、主君や家のために自分を犠牲にすることが当たり前という価値の中にいました。
言って見れば、社会観、自然観、美徳、死生観、身体感覚/肉体の使い方までが或るひとつの首尾一貫した価値観の中にあり、それ以外の考えが成立しにくい社会状況、それがモードです。
現代はゲシュテルのモードにいます。ゲシュテルのつくりだす用象(何事も役立てるために駆り立てること)の中にすっぽりと覆われています。 

Q:文章ではなく、なぜ芸術作品として発表するのか?
A:
紙やキャンバスに絵の具でドローイングすることと、紙に文字をつかって書くこととは、媒体を入れ替えただけで、同じことなのです。
今回設定したテーマが非常に範囲の大きなものだったので「思考のドローイング/ペインティング」活動として、一度大きな紙の上に思考を展開し、人々の考えを招き入れ、再構築する必要があったのです。体の現象を行為として表すとしたら紙にハンドペイントすることなのですが、社会をモチーフとするとしたら、言語をつかって考え、それを書き表すしかない。それはドローイングまたはペインティングということができます。
公式には初日と最終日がその「ライブペインティング」の日だったのですが、実は毎夜、展覧会終了後に会場に行き、自分の思考を展開していました。

Q:今回の展覧会の成果は何か?
A:
成果は3つあります。
成果1 :ゲシュテルがなかったときのモードを書き記すことができたこと

私がこだわったのは、ゲシュテルが無かったときのモードを書き表すことです。
人々の行動規範は基本的に土地または血縁に縛られていて、自然と人間の精神の境目があいまいで、キツネにだまされていることを人々が不思議に思わない社会です。また記述された歴史をもっていない社会です。
そういうゲシュテルの無かったころのモードがあることを示すことにより、現代のゲシュテル社会を相対化することができるのです。現在私たちが暮らしている社会のモードは、ゲシュテルが無かった時のモードからゲシュテルが支配する現在のモードに変換した結果であるということです。

成果2: モード変換は、もう一度起こるということを確信したこと

現在のゲシュテルが支配している社会は、あまりにもバランスを欠いているので、変換はもう一度起こるだろうということは以前から何となく思っていましたが今回それを確信しました。
科学技術は、「自然&身体」対「人間&社会」との関係を差し替えました。関係が変質することによって、モード変換は起こるであろうということを確信しました。
それに至るヒントになったのは、ハイデガーの言う「救うもの」という言葉です。
ハイデガーのテキストに、「危険があるところ、救うものもまた育つ」「技術の本質は、救うものの成長をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。」という言葉があります。
「救うもの」は、ゲシュテルを排除したり、避けたりすることではなく、ゲシュテルそのものが「救うもの」を用意するという意味です。
そのとき参照されるのが、例の開蔵です。自然現象と人間の技が科学技術と同じものであるということです。
我々は科学によって超ミクロから超マクロまで、そして何百億年の昔までさかのぼってこの自然を見ることができるようになりました。
このことが、人間と自然との関係を新しいものにし、「救うもの」を準備するのです。特に、宇宙から地球を見る経験をした人が増えてきたということも、そのモード変換を後押しするでしょう。

成果3: 芸術の意味をモード変換の前哨として位置づけることができたこと

現在、芸術家が、個々ばらばらにやっている作業は、来るべきモード変換のための準備であると位置づけることができます。
ゲシュテルに支配されていない太古の残余でもあると思うのですが、そのような普遍性を生き残らせる領域として、芸術があります。
あたかも飽和溶液の中から結晶が析出するように、モード変換はどこからともなく起こります。
それは潜在的な可能性であって、もしかしたら何も起こらないまま終わるかもしれませんが、可能性としてはいつまでもあります。そしてそれはゲシュテルの成長とともに「育っている」のです。したがって可能性も常に大きくなっていきます。
芸術家の営みは、そのような変換を常に準備しているのです。

そしてモード変換をなしえたときの姿が、ハイデガーの謎めいた言葉「人間はこの大地に詩人的に住む」ということなのでしょう。

技術は開蔵のひとつのしかたである。



[技術は開蔵のひとつのしかたである。]
 ・自然現象(そして最も身近な自然である身体も) ・人間の身体による技 ・科学技術
*開蔵(Entbegen)とは、「現れていない可能性を開く」というような意味で、ハイデガーは、開蔵の例として自然現象、人間の身体による技、科学技術 の3つを上げている。

これらは原感覚の分化に他ならないのではないか?

我々は、ハイデガーと同じ「太古の目」を持つべきではないか?
 愛人のハンナ・アレントはハイデガーを太古の人と言っていた。



Ge-stellが無かった時のMode(モード) (死生観、社会観、自然観、美徳、身体感覚/肉体の使い方)、 その中にすっぽりと入ってしまうような空間、空気、雲)

記述された歴史がない。オーラルヒストリー  → 書かれた歴史。制度史

キツネにだまされる能力をもっている→ キツネにだまされる能力をもたない

音がない 静か → モーター、電子音、クルマの走行音、下水道の流れる音、エアコンの音・・・

肉体が土地の上にある → 肉体が土地から離れている

先祖が作ったものの上に生きている → 今、またはこれから作るもののうえに生きている

人間関係は固定 個人の自由は少ない → 人間関係は流動的、複雑、多面的(一個人が複数の社会的役割を持つ。
個人の自由(職業選択、結婚等)はある。

我々は、自然現象などから用象(役に立つこと)を引き出し、利用して、そして人間そのものもその体系の中に組み込んでしまう目に見えないしくみをこう名づける― Ge-stell と。


[我々は、自然現象などから用象(役に立つこと)を引き出し、利用して、そして人間そのものもその体系の中に組み込んでしまう目に見えないしくみをこう名づける― Ge-stell と。]

Ge-stellは、あまりにも当たり前に作用しているので、私たちの生活、思考、行動様式を律しているものであると気付くことはない。
Ge-stellは、網のような、血管のようなもの。広がり、からみつき、利用できるものを吸いとり、また栄養を行きわたらせ、人間の生存のモードを変換する。
Ge-stellは人間を利用する。労働力として。消費の単位として。

人間は今日、まさに自分自身、すなわち自分の本質には、もはやどこにおいても決して出会えないのである。



[人間は今日、まさに自分自身、すなわち自分の本質には、もはやどこにおいても決して出会えないのである。] 
このことのほうが危険な考えでは?

豊かな生活
伸びる寿命
ゴラクに触れる機会の増加

戦争
原発事故
格差
自然モードを忘れる人間

Ge-stellは、好ましい面と残酷な面を持っており、たびたび残酷な面のみが取り上げられて近代批判や自然回帰に利用される。


1978年、 田島鉄也は神経症になり、電車に乗れなくなる。
  病は社会的なもの
  意識は社会の表象
  身体は社会の皮膚



1945年 沢渡温泉の旅館主の焼き畑の火が燃え広がり温泉街全てを焼失させた。疎開児童にじゃがいもを食べさせたかったという。

Ge-stellの最も恐ろしいことは、人間が自分の本質に出会えないようにすること。すなわち自分が関係性であることを忘れさせ、あたかも精神や意志を独立して持っているかのような見せかけを作り出し用象の体系の中に自らすすんで入り込みそれが世界の全ての姿であると信じて疑わないようにさせること。
ゲシュテルをのさばらせ、ただしたがっているだけで良いのか?
しかし、Ge-stellに盲目的に追従することも、また反抗を試みることも同様に、私たちを不自由にする。どうしたらよいのか?
人間はあまりにもゲシュテルによる挑発にしたがっているので、ゲシュテルが彼に呼びかけている要求であることを認めることができない。

ゲシュテルが支配するところには最高の意味で危険がある。

しかし危険があるところ、救うものもまた育つ。

技術の本質は、救うものの成長をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。






Ge-stell が変化する
Ge-stellの変化はその表象である人間の意識を変える

Ge-stellは何ものに変わるのか?
「救うもの」とは何か?
技術の本質がそれを蔵しているならば
技術の本質とは何か?
それは開蔵(Entbegen)ではないか。



用立て(Ge-stellのこと)の止めがたさと救うものの控えめさとはあたかも天体の運行における惑星の軌道のようにたがいの傍らを擦れ違っていく
ここに偶然隣り合った3つの書評はいずれもGe-stellに関係する言説である。


ゾミア  Ge-stellの支配を逃れ、太古のモードを維持した民が各地に普遍的に居る。

ウォール街の物理学者  Ge-stellそのものの運動を数理モデルで解析しようとする努力

人類が絶滅する6のシナリオ  Ge-stellの暴走によって自然のバランスを崩し、破局するパターンの例示

  これらは開蔵(Entbegen)ではないのか?



技術を徹底的に問いなおすこと、技術と決定的に対決することは、技術と親しいが一方でそれとは全く違うひとつの領域で生じる。
そのような領域が芸術である



現代を支配するものはGe-stell
しかしGe-stellが挑発する開蔵であり
開蔵は自然や人間の肉体の現象(人間の身体による技)でもあることを
思えば、Ge-stellを相対化することは
可能だろう。




現在、そのような相対化は、個々人の固有の時間の中で行なわれているが、
それは集合的無意識の共鳴によって起こる。
もちろん、意図的には起こせない。
Ge-stellが個々人の人間の心とは別に起こった構造であるのと同様に
それも個々人の心とは別に起こる。
しかし、現代の「芸術」という形態では起きないのではないか?
それはModeの変換であり、或る時から急速に起こる。いつかわからない。
我々は太古の目を準備しておき、そのMode変換に
備えておいた方が良い。

人間はこの大地に詩人的に住む

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2012年10月14日日曜日

外の思考

外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー (1978年) (エピステーメー叢書)

外の思考  ミッシェル・フーコー 著  豊崎光一 訳

「私は話す」・・・この評論はこの一言から始まる。
この「私は話す」という一文は「~を」という目的節が無い。
したがって、「私は話す」という言葉だけでは、何も言わないのと同じだ。

しかし、あえて「私は話す」と発語することは、或る空虚へと私たちを案内することになる。そこにおいては、話す主体も無くなってしまう。
言語が何かの意味の伝達ではなくて、言語そのものが生の実体として出現する。その代わりに、発語する本人(主体)は存在意味がなくなる。

主体が消滅する空虚な空間・・・ミッシェル・フーコーはそれを「外」という。


(中略)「私は話す」があたかも「私は考える」の裏側におけるように機能することである。「私は考える」は事実「私」の疑いを容れない確実性とその実在とに導いた、ところが「私は話す」の方は逆にこの実在をおし込め、拡散させ、拡散させ、消してしまって、その空虚な在処のみを出現させるのだ。

「私」という主体ーもちろんそれはデカルトが発見した近代的理性というシロモノである。ー我思う。ゆえに我ありーというアレです。

ところが、「私は話す」は、人間がいかに非理性的かということを暴露する道筋を示す。

「私は話す」が指し示す空虚は、本当は何も無い空間ではなく、見えないエネルギーに満ちた、底知れないポテンシャルに満ちた空間なのです。

それは見えないが故に恐ろしい。フーコーはこんな薄気味の悪い喩えで表現しています。


そこでは、夜になると、あらゆる眠りの彼方に、話している人の押し殺した声が、病人たちの咳が、瀕死の人たちの喘ぎが、生きることをやめることをやめようとしない者の途切れた息が響いている。

幽霊でも出てきそうですね。

さて、この評論文はモーリス・ブランショの評論なのですが、もちろんブランショはこの「外」を表現した人として紹介されています。

私もブランショの本を読んでみました。作者はたぶんわざとわかりにくくなるかのように書いています。
「謎のトマ」は書くこと、表現することを疑いつつ書いているのが良くわかります。
また「私についてこなかった男」に至っては、およそ5W1H(誰が、どこで、誰に、いつ、何を、どうした)を無視しています。誰が誰に何をしたのかまったく不明で、「彼」とか「私」とかいう登場人物も何の説明も無しに出てきて、何をしているのか全くわからない。

このような文章全体が、あの「外」をーーー恐ろしいエネルギーを備えた、マグマのような大きな塊の表面を覆っているのだ。
ブランショの小説は、文が物語りを語っているのではなく、その中心のエネルギーを指している。
例えていうなら、地球の内部にあるコアのエネルギーは、マントルを対流させ、地層の褶曲や断層や、時には火山の噴火や地震を引き起こす。ブランショの小説は、その褶曲や断層、噴火や地震なのである。


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2011年5月28日土曜日

毒抜きニーチェ

「超訳 ニーチェの言葉」が100万部のベストセラーになっているそうだ。


私も書店で立ち読みしてみたが、驚いた。
なんとニーチェが大変なモラリストになっているではないか。
ニーチェが倫理家になってしまい、道徳を語っている。


毒を抜かれたニーチェ。
近所の物知りのおじさんみたいに語っている。


ニーチェはそんな小市民的な男ではない。
ニーチェは殺人を是とした男だ。


無差別殺人でさえ、
それによって己が生きる喜びを得られるとしたら
それはやるべきであると言いかねない男である。


血なまぐさく、誇大妄想的で、狂気と快楽と
死と絶望と、性欲と破壊欲と、孤独と情熱と
一切がまぜこぜになっているニーチェの恐るべきカオス。


ニーチェほど危険な思想家はいないのだ。
だからこそ魅力があり、いまだに青白い強烈な光を放つ思想家なのである。

 私の愛読書「ツァラトゥストラ」より、いくつか引用しよう。
(手塚富雄 訳)


かつて君はさまざまの情熱をもち、それを悪と呼んだ。しかし今は、君はそれらを徳と公言していいのだ。  ――喜悦と情熱






かれの魂が血を欲したのだ。強奪を欲したのではない。かれは匕首の幸福に渇していたのだ。―― 青白き犯罪者






善い者たちも悪い者たちも、すべての者が毒を飲むところ、それをわたしは国家と呼ぶ。善い者たちも悪い者たちも、すべての者がおのれを失うところ、万人の緩慢な自殺が----「生」と呼ばれるところ、それが国家だ。  ――新しい偶像


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2010年7月17日土曜日

村野四郎の言葉

 「もしも実在というものが、誰の感性や意識とも直接にふれることができるものなら、詩というものなどはいらないだろう。いやそのとき、ぼくらすべては詩人になるはずである。しかし実際には、ぼくらはどんな実在をも見てはいないのだ。ぼくらが見たり、きいたりするものは、単にぼくらの功利的行為の手先として、もろもろの感覚がえらんでくれたものにすぎない。実在の本質のうち、実際にぼくらの実用に役立つもの以外は、ことごとく抑圧されてしまっているのである。知覚のはたらきは、或る型にはまって、事物は初めから、ぼくらにどう利用できるかを目当てに分類されてしまっているのだ。ぼくらが知覚するのは、事物の真相ではなくて、むしろこの分類なのだ。ぼくらは事物の相をみるのではなくて類型を見るにすぎないといわれる。こうして人間意識の類型化は、文明がその物質的条件で、ぼくたちを圧迫すればする程、その度合は進んでいく。かくして「存在忘却の夜」は深まっていくのである。」
詩集〈亡羊記〉 「後書」 より
「村野四郎詩集」 思潮社 収録



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2010年7月16日金曜日

呼吸入門



呼吸をしなかった日はあるまい。
呼吸の仕方を教わったこともない。
呼吸しなければ死んでしまう。
しかし呼吸は他の内臓の動きと違って意識して止めたり速めたりすることができる。
命をつなぐものであるはずなのに、自分で制御できる。
だから呼吸は、肉体と意思の間にある。


著者の齋藤孝氏は明確に言っている。「呼吸は身体と精神をつなぐものである」と。

日本には身体の文化があったと、齋藤氏は主張する。
腰肚(コシ・ハラ)の文化である。
丹田にある身体の中心感覚、まっすぐ立つ、歩くなどの技。
この豊かな身体文化は、長い時間をかけて培ったものであるが。
昭和初期に軍国主義と結びつき、極端な精神主義となった。
そして戦後、日本の豊かな身体文化は壊滅した。
いま目立つのは日本人の姿勢の悪さである。


保守の論客と言われている人たちの言うことを聞いていると
日本の伝統や文化に言及している場合も、説教臭い。
外国に対抗して、日本人であらねばならないというような
何か観念的なものを感じる。

齋藤氏は、ずたずたになった日本の身体文化の断片を拾い集め、
自分の身体を通じて復活させたのである。

身体を精神の結合は、観念や直観という類のものではなく
技・技術なのである。

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2010年6月5日土曜日

西田幾多郎 「善の研究」を読む


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「米糊ペインティング」の意義


さて、今日の話題
難解といわれる西田の哲学だが
「感覚で世界を捉える」観点で読むとするすると入ってくる。

特に第2篇 第3章 実在の真景 には、なるほどと思わせるものがある。
「普通には・・(中略)・・精神と物体の両実在があると考えているが、それは凡て誤である。」
「事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲といったが、天文学者はこれを詩人の囈語《げいご》として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われているかも知れない。」
「 万象の擬人的説明ということは太古人間の説明法であって、また今日でも純白無邪気なる小児の説明法である。いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去るであろう、勿論この説明法は幼稚ではあるが、一方より見れば実在の真実なる説明法である。科学者の説明法は知識の一方にのみ偏したるものである」


知情意の合一、主観客観の区別ない「純粋経験」によって凡てを説明しようという西田幾多郎の基本的な態度は、感覚一元論を解く私の考えと元々非常に類似している。
また読むにつけこの哲学者の知的な誠実さには胸を打たれる。


「善の研究」は青空文庫より無料で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/card946.html
http://my.reset.jp/~comcom/sozai/large/zennokenkyuu_ruby.pdf


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2010年5月4日火曜日

意識 感覚 現前 表象 クオリア




自分が存在している、ということの強い感じ。
室内のひんやりした空気、
聞こえてくる周囲の音
尻に当たる椅子の硬い感じ
床に当たっている足
内臓のもったりした感じ
目に映る室内の光景
肉体を覆っている衣服の感触

あらゆる感覚が私にとって、現れ出でている。

僕が常々不思議だと思うのは、
意識とか、現前とか、表象とか、クオリアとか呼ばれる
これら一連の
確かに、ありありと、そこに在る、という感覚の問題だ。
なぜ、そうなのか?これは本当か?
さて前野隆司氏は、「意識はイリュージョンである」と言い切る。
意識の全ては、作り出さされたものであり、
脳神経の諸機能が働いて、クオリアを作り出しているという
「受動的意識仮説」を展開する。
僕も前野氏の考えに賛同するが、一方で前野氏は
クオリアが出来あがる過程そのものについては無関心だ。
それは心身二元論として、本書のような一元論とは相容れないと考えてるらしい。
もう一方の茂木健一郎氏は、
あくまでクオリアにこだわっている、
クオリアは分割できない対象と考えており
クオリアが出来上がる仮定に迫っている。
しかし、デビッド・チャーマーズの言うところの「難しい問題」に
まともに取り組んでいるだけに、その成果はあまり多くない。
問題は「難しい問題」の取り扱いかただと思う。
前野氏のいうように、クオリアとはイリュージョンである、と考えれば
問題はことごとく解けると思う。
しかしクオリアを「難しい問題」と捉えて、そこにこだわると
とたんに解決は困難になる。
意識問題は問いの立て方が構造的な問題のように思える。

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2010年3月18日木曜日

認識は肉体の問題

認識は肉体の問題だ、というニーチェの考えに僕は賛成します。
世界は脳の中だけで捕らえられるものではありません。

奇妙に聞こえるかもしれませんが、
米糊を手で紙の上に押し広げ、指跡をつけながら塗っていくことは、
自然現象と肉体と精神に、同時にかかわっていることだと感じます。

米糊のねたねたした感触、
食べられる素材であること
手で押し広げる身体の活動(手だけではなくてカラダ全体を使う)
盛り上がり、流れ、広がる、自然現象
自然現象としての肉体の活動、自然現象として精神の活動が
明確になります。これら要素の全部が直接つながる行為です。

つまり、このサイトの目的である
「自然-身体-精神-社会をつなぐ」 の前半3つがこれによって
出来てしまっているわけです。

私たちの意識は、
内蔵や筋肉や骨格や神経などの内部状況に、外部の状況を反映してできています。
意識はいくつかの異なった衝動の妥協的な産物なのであって
決して外部世界をただ映した、鏡のような意識はありません。

自分自身の肉体を離れて意識は作られません。
無意識の肉体の活動が、外部世界を反映するスクリーンなり、プロジェクタなりに
なっているわけです。

認識とは肉体の総合的な機能だと思います。
決して脳だけで作られるものではないし、
視覚だけで作られるものでもありません。


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2009年11月15日日曜日

キツネにだまされる空間

昭和40年以降、日本人がキツネにだまされなくなった。

哲学者の内山 節氏は、沢釣りが好きで全国いろいろなところに釣りに出かけ
宿屋や民家に泊めてもらって土地の人と話をしたそうである。
すると、キツネや狸にだまされる話が時々出てくる。

キツネにだまされるよくあるパターンは

饅頭だと思って馬糞を食べていた
温泉だと思って冬の川に入っていた

などのことである。

「それはいつのときですか」と聞くと、決まって昭和40年より前のことだという。

昭和40年、1965年といえば東京オリンピックが終わり、高度経済成長真っ盛りのとき。
農村から都市へ人々が流れ、農村の人口が減り、村の文化も途絶えた。
また農村も電化が始まり、暗い夜が急速に少なくなっていった。
人々の学歴も上がってキツネにだまされるなどという非科学的な話を信用しなくなっていった。

私の父に尋ねたところ、まあ、確かにそのころから変わったんじゃないかと同意していた。
父もキツネにだまされかかった経験があるという。

父が少年のころ、昭和21年だったそうである。
日照りの夏、家族で夜中に畑に水をやっていた。
夜も遅いので一人家に帰された。
月の無い闇夜である。父は家路の途中の桑畑で、不思議なものを見た。
40-50人の女学生が桑畑の中でワイワイ、ガヤガヤ遊んでいるのを見たという。
父は目の前の光景を何か不思議に思って、そこを通りすぎた。
あとで家族に話したところ
「キツネにだまされたんだ」といわれたという。

内山氏は、昭和40年以降、日本人に「キツネにだまされる能力」が無くなったという。
どういうことなのか。
かつて、自然と人間は一つにつながっていた。区別するものは無かった。
その中で人々はキツネにだまされながら生活していた。
ところが戦後、都市化、開発、文明化の波が押し寄せた。
森林のほうも里山から木材をつくる伐採林に変化していった。
それが自然と人間を分けた。
その臨界点がだいだい、昭和40年だったのである。

昔の人々が生きていた空間、その文化は、再現のしようがない。文字にもできない。

科学が発達した現代において、自然とつながるといってもあまりにも多くの条件に阻まれている。

だが私は、「キツネにだまされる空間」を現代に復活させたいと思う。
現代の我々の知識や、自然科学と矛盾しない形で、
キツネにだまされるようになる方法は恐らくあるのである。

次週は、その話題を取り上げよう。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったか

2009年11月8日日曜日

村野四郎の身体詩

    霊魂の朝

    村野四郎


---「霊魂を食べて ふとるのよ」
というこえが どこかでしたので
急に胸がわるくなって目がさめた

厨房の扉があいていた
母親が瘠せた息子に もういちど
---「ベーコンを食べて ふとるのよ」
と言っているところであった

まこと肉と霊のだんだら模様の春だ
ユスラウメが咲いている

------------------------------------

色んな詩を読んだが、村野四郎ほど身体感覚が鋭敏な詩を書く人は見たことがない。
この詩・「霊魂の春」はダジャレの切り口によって、身体と精神のなまなましい関係を良く表している。

私たちの感覚は、視・聴・臭・味・触の5感が主であり、それらは全て体の表面の出来事だ。それも頭部に集中している。

しかし私たちの体の中では、血液の流れ、自律神経の調整、内蔵の蠕動運動、新陳代謝など、常に無数の現象が起こっている。ダイナミックな宇宙だ。

しかしその膨大な現象は、殆ど私たちの意識には上らない。
そしてそれを言語化することはなお難しい。

村野四郎はそれができる稀有な才能だ。

「体操詩集」という身体感覚の集積のような詩集も出している。

膨大な身体内の現象に比べれば
5感で感知できる世界は何と貧弱なことであろうか?
肉体の現象の海は、意識で作り上げる貧弱な知恵よりも遥かに優れて圧倒的な知恵の海なのだ。


*「霊魂の春」が冒頭に掲載されているのは 村野四郎詩集 (青春の詩集 日本篇 17) 白凰社

*ちなみに村野四郎は、童謡「ぶんぶんぶん」の作詞も手がけている人である。意外な一面もある。

2009年10月10日土曜日

読んだ本

「哲学入門」  ヤスパース 草薙正夫訳 新潮文庫
高校2年のときに夏休みの課題図書の一つとして読んだ。
ヤスパースの著作の中では易しいといわれているが、やはり少し難しい。
今再読してみるとヤスパースの哲学する者としての態度は襟を正したくなる。
私の座右の書にしたい名著

「オウム帝国の正体」 一橋文哉 新潮文庫
オウムと暴力団の関係を描いたルポ。

「村野四郎 詩集」 彌生書房
アンコウの解体を描いた詩が教科書に載っていたので有名な詩人。
身体感覚・内臓感覚の描き方が秀逸。
私はこれも座右の書に上げたい。

「オウム真理教事件 完全解読」 竹岡俊樹 勉誠出版
「田島鉄也はどのように生きているか」思索篇をご覧ください。

「99.9は仮説」 竹内薫 光文社新書
ベストセラーの一つです。
ホーキングが虚時間を導入したいきさつが面白かった。
彼は計算のつじつまがあえば良く、虚時間が何かなんて考えもしない。
そもそも時間とは何かとか、どうでもよい問題ということ。
この世が実在しているかということには頓着しない。この諦観。
まるで荘子の「胡蝶の夢」を地でいってる。

「ブラジルの混沌」   ㈱アルク
この本借りるのは2度目です。
カーニバル、サッカー、アマゾン、ブラジリア近代建築。
矛盾に満ちた国の魅力を伝える本。
ブラジル現代美術の紹介が後半を占める。

2009年6月23日火曜日

ああ読書

桜井邦朋 著
なぜ宇宙は人類をつくったか
-最先端現代物理学が解明した「宇宙の意思」

現代物理学の成果から生命、進化まで論じた好著
しかし、宇宙ができたときの物理量の選択に宇宙意思を見るというのはどうかな。


トーマス・ゴールド著
未知なる地底高熱生物圏-生命起源説をぬりかえる

著者のいうように、生命が誕生するような長く安定した環境は、地下世界にあったと考えるのは最もだ。従来のように海で生命が誕生したという説をとるのなら、凍りついたり、蒸発したりして生命誕生は困難なことだろう。


ブライアン・ジョセフソン著
ノーベル賞科学者ブライアン・ジョセフソンの
科学は心霊現象をいかにとらえるか

高名なノーベル賞科学者ジョセフソンは、超能力や心霊現象の研究に余念がないということである。
この書は異端の科学者ジョセフソンの30年にわたる思索論文集である。
ジョセフソンは超能力や心霊現象は「拡大された科学」によって解決できると考えている。
しかし興味深いのは、ジョセフソンが、量子力学・生命・意識を、一つのつながった現象と考えていることである。

2009年5月27日水曜日

本2冊

宇宙フラクタル構造の謎
竹内薫 著

荒唐無稽にもみえる最新物理学を
ざくざくと切り裂いてみせる快著。
惑星の配置が量子論で説明できるなど
興味津々の話題がたくさん。
フラクタルは無理数の次元を持っているが
現代物理を知ると次元の観念も揺さぶられ
ついに爆発してしまう。

特に興味深いのは惑星配列が量子力学で説明できること‐超ミクロの原則が超マクロの原則と共通していること。
また、素粒子のツィッターベヴェーグンク(光速ジグザグ運動)の説の紹介があり
それによるとこの光速ジグザグ運動はフラクタルであり、この運動の周波数が素粒子の
質量を決めているという。
だとすればフラクタルは森羅万象の現象の根幹である。
ちなみに、素粒子のフラクタル運動の次元は2次元であるとのこと。



アメリカ先住民の精神世界
阿部珠理 著

ラコタ族の生活に取材した著者の
彼らの生活・信仰・儀式などを詳述した本
ヴィジョンクエスト、サンダンスなど
厳しい修行や儀式などを紹介している。
これが「空間」と言うべきものだ。
しかし私がやろうとしていることは
現代物理学などが提起している問題も
「空間」に含める必要があり、それには時間がかかるであろう。

2009年3月22日日曜日

視覚によらない想像

「眼の誕生」という本を読んだ。
この本は、カンブリア爆発という進化史の爆発的進展がなぜ起こったのかということを 解き明かした本である。
著者は「光スイッチ説」を唱える。
目を持った生物の登場によって、捕食生物は獲物を正確に捕らえられるようになり、 被捕食生物は、逆に保護色、硬い甲羅、または逆に驚かすための派手な色に 自分の体を変化させざるを得なかった。
視覚の登場によって、世界が一変したのである。
まさしく開眼であった。

考えてみれば、コロンブスの卵のような、至極当たり前の説に思える。

さて、そうすれば、眼というもの、視覚という感覚が存在しなかった、先カンブリア代。
先カンブリア代の海を想像すると、荒涼とした海底に、僅かなウミユリみたいな生物が フラフラ揺らめいている様を想像するけれども、 そのような視覚が存在しないかったのだから、そのような想像の仕方は間違っている。
とすれば、視覚によらない想像とは なんだろうか。
まさに自分自身が太古の海や太古の生物そのものになること

生理的な直感
直接的な観取

そのようなものでしか想像できないはずである。
しかしそれは可能であろうか。

2009年2月25日水曜日

クロソウスキー

ピエール・クロソウスキーの「かくも不吉な欲望」を読んでいるが、悲しいことに
全く理解できない。
難しい本はたくさん読んできたが、これほど理解しがたい文章は初めてだ。
訳者も後書きにて、「クロソウスキーの文章は非常に読みにくい」と言っている。
しかし、読みにくいということ以上の何かがある。
文章全体から、何かタダならぬ気配が漂っており、容易に通り過ぎることを許さない。
狂気の上に紙が一枚敷かれているような、言葉は狂気との取引であることを知っているような、確信犯めいた書き方だ。
これは謎だ。