2017年11月4日土曜日

実体と表象の間で:ブログ名の変更について

ブログを改訂するにあたって・・・
長らく「感覚で世界を捉える」というタイトルのブログを続けてきたが、タイトルを「実体と表象の間で」と改めることにしました。その理由は以下です。


私は15歳のときに神経症で電車に乗れなくなりました。長じて寛解してから、心の病気は私個人の問題というよりは、人間の大量輸送を作り出した近代的な社会システムと、私の精神構造が葛藤した、と考えるようになり、近代のシステムに対する強い疑いを抱きました。

以来、社会と身体との違和感を、ある時は直接的に、ある時は思弁的に確認してきました。

身体と社会、それをつなぐものとして感覚ということを発想しました。感覚によって近代の軋轢を乗り越えることを目指し、2009年から「感覚で世界を捉える」というこのブログを立ち上げました。「感覚で・・・」というブログの名前の時に書かれた最後の記事は、2017年3月11日です。


8年に渡って感覚をもとにそれを追求してきましたが、最近、問題設定を広げる必要性を感じました。自分の中に在る近代、自分の中にある権力・・・自分の中にある思考様式や感覚の様式を見直す必要があると。
近代的な権力は言葉を使います。言葉だけでなく、あらゆる表象つまり情報を駆使し、イメージを喚起させます。権力関係を乗り越えるには、言葉を捉えなおさなければなりません。

これからは、その思考や方法そのものを表現の操作の対象とすることとしたいと思います。
社会と身体は「実体」であり、芸術は「表象」です。私が注目したいのはその間です。
こう宣言する前から、この考え方の萌芽がありました。このブログの比較的最近の記事(永遠について(2016年5月3日)すべてのもの(2016年3月19日)高松次郎展「ミステリーズ」(2015年2月15日))などは、その傾向の強い記事です。

「実体」に対する「表象」。「物」に対する「イメージと言葉」。その間隙に、ある種の空間と時間が広がっています。
そこはエネルギーの噴出する場所。理性の威力が届かないカオスであり、生成の場所です。そこは不穏な、未知の場所であり、不安と恐怖の渦巻く場所でもあります。不可解な、何とも収まりのつかない、統御できない場所です。
しかし可能性の場所でもあります。われわれはそこで息をすることができ、手足を広げることができ、あるいは遊ぶことができ、表現することができる。危険で、注意しなければならないが、創発が行われうる可能性を持つ場所でもあります。
そこでは今まで当たり前のように制約のある環境下で、すっかり慣れ親しんだ姿勢や構えを一度取り外す必要があると思います。

そして今、実体と表象の間の目に見えない深い谷を見下ろし、奥に続く細い道をさがしている。そんな状況です。


2017年3月10日金曜日

3月11日の前日に

明日は3月11日だ。
この間の6年間に私は何を考え、どう行動し、どのような精神の醸成をしたのか、ここでまとめておきたい。
2011年3月の震災発生後に書いた私のブログを読むと、私は何かを恐れていた。
自然の力を恐れている。まだ余震も続いていたころだ。私はあえて恐怖を自分の中に刻み込もうとした。

http://te-tajima.blogspot.jp/2011/03/blog-post_13.html
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/04/blog-post_11.html

自然保護という言葉があるが、私たちは自然を飼いならしたかのように錯覚していた。
しかし本当は、我々人類など地球の表面にへばりついて生きているに過ぎず
地震というのはわずか厚さ10キロメートル程度の地殻が揺れ動いたに過ぎない現象にもかかわらず
その上に暮らす我々人間には大ショックであった。

その時から、そしてその後の約1年を通じて、私たちは今までにない経験をした。
普段隠されている社会のインフラの仕組みが露呈したのだ。それが身をもってわかった。
ヒリヒリするような生身の皮膚感覚でもって、社会の仕組みとその向こうにある自然と接触していたのだ。

原発事故のことは言うまでもないことだが、
他にも例えば計画停電の行われる地域が順番にアナウンスされると、普段は隠れている電気の配電のネットワークが良くわかった。
ガソリンや灯油が不足した。
人々は日用品を買い溜めし、物不足の事態も起こった。
災害によって、普段は隠れている世の中の仕組みが姿を現したのだった。


私は、社会全体が自分の身体とリンクするイメージを捉えようとしていた。社会の仕組みは自分のからだの機能と良く似ていると思った。

http://te-tajima.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html
http://te-tajima.blogspot.jp/2012/02/blog-post_11.html


私は、被災地にはあえて行かなかった。
東京に居て、私自身の問題として、社会の仕組みを捉えようとした。

自分のところに来る水道、そして下水道がどうなっているのか、実際に荒川の下水道施設を訪ねてみた。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/07/blog-post.html

東京湾に到着する原油や鉄鋼、液化ガスなどを精製し、原料として日本全体に供給する地帯(千葉コンビナート地帯)に行ってきた。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/12/blog-post_30.html

そんなとき、ハイデガーの「技術への問い」に出会った。最初は良く分からなかったが、これは自分の求めるものが書いてあるのだと考えて、良く読んだ。

http://te-tajima.blogspot.jp/2012/03/3.html


ハイデガーは、「技術への問い」の中で、
現代の技術文明の正体をGe-stell (ゲシュテル)と言ってる。
ゲシュテルとは自然や人間から資源や労働を収集し、生産に活用する現代社会特有の目に見えない構造のことである。
川の流れから電力を引っ立て、農地や太陽や空気中の窒素から作物を引っ立て、鉱山から鉱物を引っ立てる。
このような「引っ立てる体制」のことをゲシュテルと言う。「徴用性」「総かり立て体制」「巨大-収奪機構」と訳す場合もある。
さらにゲシュテルは、人間をかりたてる。生産において労働をかり立て、巧みに消費をかり立てる。
ゲシュテルは目に見えない構造であって、全体を動かす中枢的な何者かがいるわけではない。
毛細血管のように、世の中の事象の隅々までいきわたり、栄養分を吸い取り、また逆に栄養をいきわたらせている。
私たちはゲシュテルの支配から逃れることはほぼできない。

長い間かかって、私はゲシュテルの実態を捉えた。そして自分の身体に重ね合わせようとした。

このようにして2014年に「ハイデガーの技術論」という個展を行なった。
http://te-tajima.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html

その成果はこのときのブログの記述に詳しく書いてある。
ここで私は、ゲシュテルに支配された現代のモード(社会を成り立たせる様式)を、変換させる可能性が育っていることを確信した。

そしてその後、2015年に「ぬか漬けされた資本論」という作品を作った。社会を食べて、自分の身体に取り込む、というコンセプトの作品だ。
https://www.te-tajima.com/untitled-c1ndd

「技術への問い」の終盤で、ハイデガーは、もしゲシュテルの支配を脱したとしたら「人間はこの大地に詩人的に住む」という言葉を書いている。

ゲシュテルの上に登った私は、どのようにして詩人になるか、今、試みているところである。