明日は3月11日だ。
この間の6年間に私は何を考え、どう行動し、どのような精神の醸成をしたのか、ここでまとめておきたい。
2011年3月の震災発生後に書いた私のブログを読むと、私は何かを恐れていた。
自然の力を恐れている。まだ余震も続いていたころだ。私はあえて恐怖を自分の中に刻み込もうとした。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/03/blog-post_13.html
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/04/blog-post_11.html
自然保護という言葉があるが、私たちは自然を飼いならしたかのように錯覚していた。
しかし本当は、我々人類など地球の表面にへばりついて生きているに過ぎず
地震というのはわずか厚さ10キロメートル程度の地殻が揺れ動いたに過ぎない現象にもかかわらず
その上に暮らす我々人間には大ショックであった。
その時から、そしてその後の約1年を通じて、私たちは今までにない経験をした。
普段隠されている社会のインフラの仕組みが露呈したのだ。それが身をもってわかった。
ヒリヒリするような生身の皮膚感覚でもって、社会の仕組みとその向こうにある自然と接触していたのだ。
原発事故のことは言うまでもないことだが、
他にも例えば計画停電の行われる地域が順番にアナウンスされると、普段は隠れている電気の配電のネットワークが良くわかった。
ガソリンや灯油が不足した。
人々は日用品を買い溜めし、物不足の事態も起こった。
災害によって、普段は隠れている世の中の仕組みが姿を現したのだった。
私は、社会全体が自分の身体とリンクするイメージを捉えようとしていた。社会の仕組みは自分のからだの機能と良く似ていると思った。
http://te-tajima.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html
http://te-tajima.blogspot.jp/2012/02/blog-post_11.html
私は、被災地にはあえて行かなかった。
東京に居て、私自身の問題として、社会の仕組みを捉えようとした。
自分のところに来る水道、そして下水道がどうなっているのか、実際に荒川の下水道施設を訪ねてみた。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/07/blog-post.html
東京湾に到着する原油や鉄鋼、液化ガスなどを精製し、原料として日本全体に供給する地帯(千葉コンビナート地帯)に行ってきた。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/12/blog-post_30.html
そんなとき、ハイデガーの「技術への問い」に出会った。最初は良く分からなかったが、これは自分の求めるものが書いてあるのだと考えて、良く読んだ。
http://te-tajima.blogspot.jp/2012/03/3.html
ハイデガーは、「技術への問い」の中で、
現代の技術文明の正体をGe-stell (ゲシュテル)と言ってる。
ゲシュテルとは自然や人間から資源や労働を収集し、生産に活用する現代社会特有の目に見えない構造のことである。
川の流れから電力を引っ立て、農地や太陽や空気中の窒素から作物を引っ立て、鉱山から鉱物を引っ立てる。
このような「引っ立てる体制」のことをゲシュテルと言う。「徴用性」「総かり立て体制」「巨大-収奪機構」と訳す場合もある。
さらにゲシュテルは、人間をかりたてる。生産において労働をかり立て、巧みに消費をかり立てる。
ゲシュテルは目に見えない構造であって、全体を動かす中枢的な何者かがいるわけではない。
毛細血管のように、世の中の事象の隅々までいきわたり、栄養分を吸い取り、また逆に栄養をいきわたらせている。
私たちはゲシュテルの支配から逃れることはほぼできない。
長い間かかって、私はゲシュテルの実態を捉えた。そして自分の身体に重ね合わせようとした。
このようにして2014年に「ハイデガーの技術論」という個展を行なった。
http://te-tajima.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html
その成果はこのときのブログの記述に詳しく書いてある。
ここで私は、ゲシュテルに支配された現代のモード(社会を成り立たせる様式)を、変換させる可能性が育っていることを確信した。
そしてその後、2015年に「ぬか漬けされた資本論」という作品を作った。社会を食べて、自分の身体に取り込む、というコンセプトの作品だ。
https://www.te-tajima.com/untitled-c1ndd
「技術への問い」の終盤で、ハイデガーは、もしゲシュテルの支配を脱したとしたら「人間はこの大地に詩人的に住む」という言葉を書いている。
ゲシュテルの上に登った私は、どのようにして詩人になるか、今、試みているところである。
2014年1月26日日曜日
ハイデガーの技術論 搬入中
明後日からの個展「ハイデガーの技術論」の搬入中
ハイデガーのテキストと私のペインティングで構成されています。
ペインティングは会場で描いています。
そして考えていることを書いている。
自然と人間の関係、呪術と科学技術、社会的な身体。。。
文字で書かれた歴史が誕生する以前
歴史する身体
非歴史的な雲(クラウド)
死者と生者が空間的に同一
キツネにだまされるという生産
キツネにだまされる能力
1946年 田島鉄也の父 キツネにだまされる
語りえぬ歴史を身体的に生き
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ハイデガーのテキストと私のペインティングで構成されています。
ペインティングは会場で描いています。
そして考えていることを書いている。
自然と人間の関係、呪術と科学技術、社会的な身体。。。
文字で書かれた歴史が誕生する以前
歴史する身体
非歴史的な雲(クラウド)
死者と生者が空間的に同一
キツネにだまされるという生産
キツネにだまされる能力
1946年 田島鉄也の父 キツネにだまされる
語りえぬ歴史を身体的に生き
期間 2014年1月27日-2月1日(11:30-19:00 最終日-17:30)
場所 ギャラリー現
東京都中央区銀座1-10-19 銀座一ビル3F 03-3561-6869
展覧会名 ハイデガーの技術論 - 自然-身体-社会をつなぐ
田島鉄也がライブペイントをする日:1月27日(月)、2月1日(土)(時間は開廊時間終日)
2012年11月20日火曜日
萩原朔太郎 遺伝
萩原朔太郎の詩に、「遺伝」という詩がある。
以下、青空文庫から転載
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1768_18738.html
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この詩のクライマックスは
犬は何におびえているのだろうか?
「敵」とは誰か?
それは、「遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに」あるものであり
「あはれな先祖の姿」である。
我々は地球に生命が生まれて、数限りない世代を生き残ってきた子孫だ。我らの祖先の生存競争の過程には、思い出したくもない忌まわしい記憶の数々があるのだろう。
近親相姦、見殺し、共食い、・・・いや、そんなものではあるまい。
生殖が単生殖であった時代の自分が2つに裂ける感じとか、凍てつくような寒さに閉ざされた記憶、体が変形するような苦痛の記憶・・・
犬は、それらを「敵」と思って吠えている。
しかし、それらの「敵」は、遺伝によって自分自身の内部に入り込んでいるのだ。なんということだろう。「敵」とは自分自身なのだ。
搾り出すような犬の声は、奇妙に歪み、吠える対象は、「遠くの空の微光」ではなく、自分自身に向けられていく・・・
さて、今や我々の「敵」は、この「先祖の記憶」だけなのだろうか?
この現代の社会もある意味で「敵」のひとつだ。自然と我々の直接的関係を奪ったのはこの現代の技術文明だ。
しかし、我々はこの技術文明抜きにしては生きていけない。「敵」」に向かって吠えているつもりでも、吠える声は奇妙に歪んで、自分自身に向けられていく。
我々は自然を食い物にして生きている技術文明の一部として生きている。それにいくら嫌悪しようと、それは、自分自身の姿なのだ。
このような自分自身のとことんまで戦慄し、幻滅し、絶望し、そして生きていくしかないのだろう。朔太郎の犬のように吠えながら。
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以下、青空文庫から転載
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1768_18738.html
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遺傳
人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
のをあある とをあある やわあ
もろこしの葉は風に吹かれて
さわさわと闇に鳴つてる。
お聽き! しづかにして
道路の向うで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
のをあある とをあある やわあ
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」
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この詩のクライマックスは
遠くの空の微光の方からという部分である。
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
犬は何におびえているのだろうか?
「敵」とは誰か?
それは、「遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに」あるものであり
「あはれな先祖の姿」である。
我々は地球に生命が生まれて、数限りない世代を生き残ってきた子孫だ。我らの祖先の生存競争の過程には、思い出したくもない忌まわしい記憶の数々があるのだろう。
近親相姦、見殺し、共食い、・・・いや、そんなものではあるまい。
生殖が単生殖であった時代の自分が2つに裂ける感じとか、凍てつくような寒さに閉ざされた記憶、体が変形するような苦痛の記憶・・・
犬は、それらを「敵」と思って吠えている。
しかし、それらの「敵」は、遺伝によって自分自身の内部に入り込んでいるのだ。なんということだろう。「敵」とは自分自身なのだ。
搾り出すような犬の声は、奇妙に歪み、吠える対象は、「遠くの空の微光」ではなく、自分自身に向けられていく・・・
さて、今や我々の「敵」は、この「先祖の記憶」だけなのだろうか?
この現代の社会もある意味で「敵」のひとつだ。自然と我々の直接的関係を奪ったのはこの現代の技術文明だ。
しかし、我々はこの技術文明抜きにしては生きていけない。「敵」」に向かって吠えているつもりでも、吠える声は奇妙に歪んで、自分自身に向けられていく。
我々は自然を食い物にして生きている技術文明の一部として生きている。それにいくら嫌悪しようと、それは、自分自身の姿なのだ。
このような自分自身のとことんまで戦慄し、幻滅し、絶望し、そして生きていくしかないのだろう。朔太郎の犬のように吠えながら。
2010年7月17日土曜日
村野四郎の言葉
「もしも実在というものが、誰の感性や意識とも直接にふれることができるものなら、詩というものなどはいらないだろう。いやそのとき、ぼくらすべては詩人になるはずである。しかし実際には、ぼくらはどんな実在をも見てはいないのだ。ぼくらが見たり、きいたりするものは、単にぼくらの功利的行為の手先として、もろもろの感覚がえらんでくれたものにすぎない。実在の本質のうち、実際にぼくらの実用に役立つもの以外は、ことごとく抑圧されてしまっているのである。知覚のはたらきは、或る型にはまって、事物は初めから、ぼくらにどう利用できるかを目当てに分類されてしまっているのだ。ぼくらが知覚するのは、事物の真相ではなくて、むしろこの分類なのだ。ぼくらは事物の相をみるのではなくて類型を見るにすぎないといわれる。こうして人間意識の類型化は、文明がその物質的条件で、ぼくたちを圧迫すればする程、その度合は進んでいく。かくして「存在忘却の夜」は深まっていくのである。」
詩集〈亡羊記〉 「後書」 より
「村野四郎詩集」 思潮社 収録


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詩集〈亡羊記〉 「後書」 より
「村野四郎詩集」 思潮社 収録

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