ラベル 祭り の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 祭り の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年1月26日日曜日

ハイデガーの技術論 搬入中

明後日からの個展「ハイデガーの技術論」の搬入中




ハイデガーのテキストと私のペインティングで構成されています。

ペインティングは会場で描いています。
そして考えていることを書いている。


自然と人間の関係、呪術と科学技術、社会的な身体。。。



文字で書かれた歴史が誕生する以前

歴史する身体

非歴史的な雲(クラウド)

死者と生者が空間的に同一

キツネにだまされるという生産

キツネにだまされる能力

1946年 田島鉄也の父 キツネにだまされる

語りえぬ歴史を身体的に生き



期間 2014年1月27日-2月1日(11:30-19:00 最終日-17:30)
場所 ギャラリー現 
    東京都中央区銀座1-10-19 銀座一ビル3F 03-3561-6869

展覧会名 ハイデガーの技術論  - 自然-身体-社会をつなぐ


田島鉄也がライブペイントをする日:1月27日(月)、2月1日(土)(時間は開廊時間終日)

にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ にほんブログ村

2011年9月11日日曜日

現代における祭の意義

祭のシーズン到来。

私も今年も神輿を担ぎました。
法被を着て足袋アスファルトの地面を踏みしめる。
神輿がクルマやビルが間をすり抜ける。

近代的なコンクリートの空間に突如出現した江戸の集団。
妙な光景だ。

祭といえば、太古の昔は、社会のもっとも重要なイベントだった。
政と書いて「まつりごと」と呼ぶほどである。
宗教と政治は当然分離していなかった。

一方、宗教と政治が明確に分離され、それどころか行動の諸原理が
ことごとく高度資本主義に沿っている現代においては
祭というものは、社会の片隅に追いやられているようにも見える。

しかし、この祭や神輿というものは、実は滅び行く伝統芸能ではない。
現在でも子供や若者を取り込み、再生産している活動である。
実は私の近所の商店街地区が主催するこの祭において


神輿が始まったのは実は2006年からだ。
さて、この現代において、祭がなぜ生き続け、再生を続けているのだろうか。

祭とは、その土地の物語を肉体で理解することである。
神輿は神社で清めをうけ、街中を練り歩く。
私は、わが町が氷川神社の体系に登記されていることを祭を通じて知った次第である。

住む土地とのつながりが希薄になった現代において、土地とつながる数少ないチャンスなのである。
ゆえに、これはなかなか無くならない。また、再生産のサイクルに成功すれば拡大することもできる。

さて、この祭システムには特徴がある。
法被を着ている人のみが祭に参加できることである。
道を歩いている普通の人が、Tシャツに短パンで神輿を担ぐわけにはいかない。

このことのメリットは、強い仲間意識を築くことである。これは強い求心力として働き、祭システムの維持に貢献している。
一方その意味で閉鎖しているので、一般化できにくいというデメリットもある。つまり特殊なので広がらないのだ。

さて、再三申し上げているように、私は現代において、自然-身体-精神-社会がつながる、価値体系を模索している。
祭は大きなヒントになっている。

にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

2010年9月8日水曜日

神輿を担いだ -感覚で捉える 神輿論ー

生まれて初めて、神輿(みこし)を担ぎました。 隣町の祭りなのだけれど、子供がそこのお囃子に入っているので、 妻を通じて半纏を借り、股引き(ズボンみたいなもの)などを買って参加しました。
格好だけは決まったが・・・娘と2ショット

帯を腰骨の上から締めると、丹田のあたりが締まり、 体が安定して動きやすいです。なるほど、これが江戸の身体基礎か、と納得して・・・
重いのなんの・・・
さて、神輿を担いでみたものの、見るのとやるのは大違い。 重いの何の・・・。 肩はゴリゴリする。肩甲骨がギリギリと音を立て、軋むように痛む。 腰でささえ、足を使ってもちあげる。上下に弾みをつけるためにふくらはぎが痛む。 一人で担いでいたら5分ももたないだろう。 ところが、「ソイ!」とか「サー」とかの掛け声とともに皆で息をあわせていると 不思議に持つことができる。

ここのお祭りは途中で休憩しながら、午後1時から7時まで、何と6時間の長きにわたって町中を練り歩きます。こんなに長いのは珍しいのだそう。 真夏日なので汗だくです。 全員で息をあわせて神輿を上下に振ります。身体が接触する一体感。 そして祭りが終盤になると、無我夢中になるトランス状態。
この精神的充実感は、何者にも代えがたい。

いうまでもなく神輿は神の乗り物です。
大地を踏みしめ、神を背負って立つという象徴的意味。
神を担ぐという名誉。
痛みに耐えてグッと力を込めて持ち上げると、自分の身体をいやおうにも確認できる。
上から棒で押さえつけられるのを跳ね返すには、下半身の鍛錬が必要だ。
そして全員で息を合わせて持ち上げる、他人の身体もいやおうなく意識される。
何より、一歩間違えれば事故が起こりかねない祭りを、確実に実行する地元住民組織。
これこそ、私の思う、自然-身体-精神-社会の融合する場所である。

昔の農村と違い、いまや生活形態が多様化し人々は別々の仕事をかかえ、皆別々の事情を抱えている。しかし運良く私の家の近くの商店街では、この祭りが歴々と存続してきた。ベッドタウンと化した町や、過疎に苦しむ地方では、このような祭りを行うことは無理だろう。 この東京の一地域でおこなわれている祭りも、やや町の現実から遊離しているように見える。いまでも「村人総出で」という訳ではない。祭りを楽しんでいるのは、住民の中でも一部のようだ。
このような祭りの精神的な意味をより高め、真に現代に復活させるにはどうしたらよいだろうか・・・。

にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村