2012年10月30日火曜日

意識は傍観者である -感覚の全体性ー

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

「意識は傍観者である」 デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子 訳

話題の本だか、興味深い内容が満載だった。

その中から、感覚に関する事例を抜き出して、私が考えたことを書きます。

ブレインポートというものがある。視覚を失った人のために、外の風景をカメラで撮ってその映像を口の中に入れた板に味覚刺激として反映するシステム。
そうすると盲目の人であっても、外の風景が舌にピリピリした感触となって反映される。エリック ウィーン マイヤーという登山家は、盲目にもかかわらず、この装置を使い、エベレスト登頂に成功している。
この例は視覚が舌の上の刺激によって補完されているのではない。味覚情報によって周囲を「見ている」ということなのだ。
つまり、「見る」ということは網膜で起こる現象ではなく、感覚器上でおこる空間的な現象ならば、何によっても「見る」ということがいえる。

また人によっては共感覚という感じ方がある。言葉や音が色づいて見えたり、数字が身体の場所と対応していたりする感じ方のことだ。

私の妻は、ある音楽を聴くと色が見えるという。どういうふうに色が見えるのか訊いて見たのだが、色が見えるわけではなく、感じるのだという。また音にはある種の触覚的な感じもあるという。
私は音を聞いて色が見えるわけではないが、音に触覚的な感じがするのはわかる。確かにイガイガした音とか、やわらかい音、というように、音というものは触覚的な面があるものだ。

こう考えると感覚というものは、もともと全体的な経験であって、互いに関連し合っているのはないか・・・・
・・・・いや、そうではなく、実は視覚も触覚も聴覚も、まったく同じものなのではないだろうか。

それを分離しているのは、私たちの心の構造がそうなっているだけだからなのではないだろうか。

実は、この世界は全感覚的なものなのであって、私たち人間が五感にあうように世界を設計しているだけなのではないか?



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2012年10月14日日曜日

外の思考

外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー (1978年) (エピステーメー叢書)

外の思考  ミッシェル・フーコー 著  豊崎光一 訳

「私は話す」・・・この評論はこの一言から始まる。
この「私は話す」という一文は「~を」という目的節が無い。
したがって、「私は話す」という言葉だけでは、何も言わないのと同じだ。

しかし、あえて「私は話す」と発語することは、或る空虚へと私たちを案内することになる。そこにおいては、話す主体も無くなってしまう。
言語が何かの意味の伝達ではなくて、言語そのものが生の実体として出現する。その代わりに、発語する本人(主体)は存在意味がなくなる。

主体が消滅する空虚な空間・・・ミッシェル・フーコーはそれを「外」という。


(中略)「私は話す」があたかも「私は考える」の裏側におけるように機能することである。「私は考える」は事実「私」の疑いを容れない確実性とその実在とに導いた、ところが「私は話す」の方は逆にこの実在をおし込め、拡散させ、拡散させ、消してしまって、その空虚な在処のみを出現させるのだ。

「私」という主体ーもちろんそれはデカルトが発見した近代的理性というシロモノである。ー我思う。ゆえに我ありーというアレです。

ところが、「私は話す」は、人間がいかに非理性的かということを暴露する道筋を示す。

「私は話す」が指し示す空虚は、本当は何も無い空間ではなく、見えないエネルギーに満ちた、底知れないポテンシャルに満ちた空間なのです。

それは見えないが故に恐ろしい。フーコーはこんな薄気味の悪い喩えで表現しています。


そこでは、夜になると、あらゆる眠りの彼方に、話している人の押し殺した声が、病人たちの咳が、瀕死の人たちの喘ぎが、生きることをやめることをやめようとしない者の途切れた息が響いている。

幽霊でも出てきそうですね。

さて、この評論文はモーリス・ブランショの評論なのですが、もちろんブランショはこの「外」を表現した人として紹介されています。

私もブランショの本を読んでみました。作者はたぶんわざとわかりにくくなるかのように書いています。
「謎のトマ」は書くこと、表現することを疑いつつ書いているのが良くわかります。
また「私についてこなかった男」に至っては、およそ5W1H(誰が、どこで、誰に、いつ、何を、どうした)を無視しています。誰が誰に何をしたのかまったく不明で、「彼」とか「私」とかいう登場人物も何の説明も無しに出てきて、何をしているのか全くわからない。

このような文章全体が、あの「外」をーーー恐ろしいエネルギーを備えた、マグマのような大きな塊の表面を覆っているのだ。
ブランショの小説は、文が物語りを語っているのではなく、その中心のエネルギーを指している。
例えていうなら、地球の内部にあるコアのエネルギーは、マントルを対流させ、地層の褶曲や断層や、時には火山の噴火や地震を引き起こす。ブランショの小説は、その褶曲や断層、噴火や地震なのである。


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2012年10月1日月曜日

驚異の動物感覚世界

面白い本だ。

「図解・感覚器の進化」
岩堀修明 著 講談社ブルーバックス

私は以前より、生物のよってまず感覚が選びとられ、それに適応するようにその生物は進化したという論を述べたが、そのことを実証するかのように感覚器の進化の様子をいろいろと紹介してくれます。
著者の感覚器に対する解剖学の知見は驚嘆ものです。

人間にはない、ほかの動物の感覚世界も、「え?こんなふうになっていたの?」という発見ばかりです。

たとえば「ナマズは全身で味を感じる」という一節
魚類の中でとりわけ上手に味蕾を活用しているのはコイやナマズなどである。これらの魚類は視覚のきかない濁った水の中に棲息しているため、味蕾を眼の代わりに使っているのだ。かれらの味蕾は口腔内だけでなく体表に分布している。(中略) 遠くにいる小魚の”味”が水流にのって漂ってくると、ナマズはその味を頼りに小魚を追っていくことができる。体表の味蕾により、味の濃いほうに進めばターゲットが見つかるしくみになっているのだ。その際、小魚の味が、ヒゲの味蕾と背びれ近くにある味蕾のそれぞれに到達するまでの時間差を計ることによって、小魚のいる位置を正確に割り出すことさえできる。


ナマズの”味覚”は、我々人間の聴覚を同じように外界をさぐる手立てになっているのです。

コウモリが超音波を発して暗闇を飛ぶことは良く知られているが、その性能の高さにも恐れ入る。
実験的に、室内に細い針金を張り巡らせてたくさんのショウジョウバエを放ちそこに目隠しをしたコウモリを入れると、コウモリは針金を巧みに避けて飛翔し、ショウジョウバエを捕らえる。 

ここまで性能が良いと、もはや聴覚というより視覚といったほうが良いのではないだろうか?


著者は、「あとがき」に以下のように書いています。
感覚器の研究をしていると、最後に必ずと言っていいほど突き当たる「壁」がある。それは、動物たちがその刺激をどのような感覚として感じているか、本当のところはわからないということだ。

その一方、著者は「はじめに」の中で以下のように書いています。
 これほどまでに大きな意味をもち、また興味が尽きない感覚器をよく知るために、最もよい方法は何だろうか。それは自分の手で触り、自分の眼で観察することである。私が、その体の構造を実際に観察した動物は70種類近くになる。私はそれらの動物たちの観察を、すべて”素手”でおこなってきた。その理由は、それぞれの動物の体の感触を直接、肌で感じ取りたかったのである。

動物の感覚世界を通じて世界の全体性を感じ取りたいという著者の志が伝わってきます。



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