2011年9月23日金曜日

土地の物語を作る

僕らはアスファルトで覆われた地面の上を歩いている。
そこでは、土地の固有の歴史が消えている。
雨風に侵食され、大地の隆起や河川の通ったあとや
植物が生い茂り、動物たちが生息し、人間が手を入れてきた
・・・そのような土地の歴史があったはずだ。


アスファルトは、それを覆い隠す。


このノッペラボウになった都市空間のなかで生活することは
歴史から切り離され、宙ぶらりんになった状態である。


住むということは、土地の物語を理解し、またそこに関与していくことだ。


主というべき大魚の生息する(といわれている)沼や、
狐が出るという一本松や
幽霊が出るという噂の屋敷や
・・・そういうものと共に生きていくということ。


だがいまやそういうものは無い。


どこまでも合理性が支配する町並み。
近代的な目が行き届いた町並みだ。
もはや、物語を復活させるには遅すぎるような気もする。


そうなると、そういう物語を、自分で作っていくしか無いのではないか?


私自身が池の主になり、狐になり、幽霊になるしかないのではないか?


だが、そのようなことは、どのように可能であり、
どの程度有効なのだろうか?




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2011年9月19日月曜日

隠れた下部構造

我が家の近くの変電設備である。我が家に電気を供給しているもっとも近い設備です。


ここに在るとは誰も気づいていない。

それまでは、何も気づくことがなかった。
確かに窓もない地味な外観。
意図的に気づきにくいようにしてあるのだろう。


どこにあるか?
信号の後ろの白いスレートのようなものが横に並んでいる建物です。
まず、特別興味がない限り普通の人は気づかない。

裏に回って見たところ。変電設備がはいっているのでしょうね。

間違いなく変電所です。
変電所といえば、変電設備が剥き出しになっているところもありますが、
この場合、意図的に人目につかないようにしているのではないかと思われます。
テロなどから守る目的だと思います。


一般的に社会的インフラは、目につかないように隠される傾向があります。
テロなどを恐れてそうしているのだと思いますが
その結果、自分たちのライフラインと呼ばれるものが
不透明になっている現況につながっています。
前にも申し上げたように、自然と身体を分断したのはテクノロジーであり、
特にエネルギーなどのインフラはその主犯とも言えるものですが、
安全管理上の秘密である場合もあって詳しい情報は公開されていない。


僕らの社会は、自分たちに近いものを隠したがる傾向がある。

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2011年9月16日金曜日

泥の中から立ち上がれ

熱い中之条ビエンナーレ。


彼の名は飯沢康輔という。
中之条にレジデンスして、閉店になったパチンコ屋「キリンホール」を会場にしている。
朝は農家でバイト。
貰ってきた土で人形をつくって床に置いていく。
生活と作品が一体となった素晴らしいワークだ。
自然-身体-精神-社会を貫いている。


写真は8月20日の開幕日の時のものです。今はどのくらいの数になっているのだろう。


お客さんも参加でき、泥人形を作ることができます。私も3個ほど作りました。


東日本大震災のボランティアで南三陸町に行ったとのこと。
がれきの中でヘドロをかいて、肉体と空気と地の根から、考えたのだ。
それでも人は立ち上がる。地の中から立ち上がると。


彼は自分自身になった。
アーティストであるということは、自分自身であることだ。

いくつあるか知れぬ泥人形。今はもっと増えているはず。

飯沢さん

泥人形から芽が出ている。
飯沢氏のブログも覗いてみてください。
http://exuok.exblog.jp/




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2011年9月11日日曜日

現代における祭の意義

祭のシーズン到来。

私も今年も神輿を担ぎました。
法被を着て足袋アスファルトの地面を踏みしめる。
神輿がクルマやビルが間をすり抜ける。

近代的なコンクリートの空間に突如出現した江戸の集団。
妙な光景だ。

祭といえば、太古の昔は、社会のもっとも重要なイベントだった。
政と書いて「まつりごと」と呼ぶほどである。
宗教と政治は当然分離していなかった。

一方、宗教と政治が明確に分離され、それどころか行動の諸原理が
ことごとく高度資本主義に沿っている現代においては
祭というものは、社会の片隅に追いやられているようにも見える。

しかし、この祭や神輿というものは、実は滅び行く伝統芸能ではない。
現在でも子供や若者を取り込み、再生産している活動である。
実は私の近所の商店街地区が主催するこの祭において


神輿が始まったのは実は2006年からだ。
さて、この現代において、祭がなぜ生き続け、再生を続けているのだろうか。

祭とは、その土地の物語を肉体で理解することである。
神輿は神社で清めをうけ、街中を練り歩く。
私は、わが町が氷川神社の体系に登記されていることを祭を通じて知った次第である。

住む土地とのつながりが希薄になった現代において、土地とつながる数少ないチャンスなのである。
ゆえに、これはなかなか無くならない。また、再生産のサイクルに成功すれば拡大することもできる。

さて、この祭システムには特徴がある。
法被を着ている人のみが祭に参加できることである。
道を歩いている普通の人が、Tシャツに短パンで神輿を担ぐわけにはいかない。

このことのメリットは、強い仲間意識を築くことである。これは強い求心力として働き、祭システムの維持に貢献している。
一方その意味で閉鎖しているので、一般化できにくいというデメリットもある。つまり特殊なので広がらないのだ。

さて、再三申し上げているように、私は現代において、自然-身体-精神-社会がつながる、価値体系を模索している。
祭は大きなヒントになっている。

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