2018年6月13日水曜日

「日常」- この異様なるもの

何か変だと思っている。ずっと前からそう思っていた。
一体どうして、このような世界に住んでいるのか?
どこで作られたのかわからない食材を食べ、本当なのかどうかわからないニュースを目にする。
人々は巨大な噂話をしていて、
メディアは人々を分断し、人々はそれぞれ孤独になる。
自然からさまざまなものを搾取して、私たちの生活は成り立っている。
宇宙は冷たい世界だ。しかし、この惑星はほぼ快適な温度に保たれている。
その地殻の上にある、ほんの表面の領域に我々は住んでいる。
土地を分割して。土地を所有して。
このことがすでに絵空事だ。土地は誰のものでもないはずだ。
言葉が世界を分割するように、我々は土地を分割する。
分け目を入れられないところに分け目を入れる。
私たちはそのような巨大な分断システムに組み込まれてしまっている。
人間の社会に住んでいる以上、そこからは逃れようもない。
私たちは大半の時間を、このシステムに投げ込まれた状態で過ごす。これが日常というものだ。
日常を過ごしている人間は、人間らしい顔をしていない。概して無表情。いや悟りきったかのように、自分のことに集中している。
その顔は、通勤中だったり、仕事をしていたりする顔だ。
休み時間に、人と談笑するとき、やっと人間らしい顔になる。
資本主義的現実に支配されたこの日常。
だが私は知っている。世界はそんなに単純ではない。
空間を折り曲げたり、ねじったりして、避難場所をつくることができる。
ある人々は主張する。この社会は表面上のことにすぎぬと。
私たちは、森羅万象を含めた深い循環の中にいて、この世界はごく一部にすぎぬ。
その目に見えない循環に従えば、このシステムの醜怪さは相対化できるのだと。
本当だろうか?僕は信じられない。
そのような人々はいうのだ。芸術の発想は、降りてくる、のだと。自分が作っているのではないのだと。芸術家としての自分は、メディアなのだと。
よく言われることだし、それを否定する気もない。しかしそのことが、私たちの現実を代弁しているとも思えない。



「日常」- この異様なるもの

 通勤の人の流れが川に似ているように、日常を過ごすのは私(主体)ではなく任意の誰かである。
 常に膨大なことが起こっている。しかし日常は何も起きなかったことにして忘却の彼方に押し流す。あえていうならば「何も起こらない」ということが起こっている。しかし誰にとって何も起こらないのか? そもそも何が起こらないのか? 
 今この瞬間「日常」に目を向けようとすると、当の日常はそこになく、あえて見ようとすれば日常は逃げ去り、見る対象は意識の中に取り残され、現実というものに名を変える。我々に見ることができるのは、日常ではなく常に現実である。日常はとどまらずに流れ、変化し、確定しない。そして見えるようになったその現実は個人個人でその意味が違う。  
 日常的行為は、目的を意識しなくても自動的に達成される。この忘却は認識を置き去りにする。
 日常は私たちの思考に空白を作るが、空白の生じる速度は自分自身の存在を認知するよりも速い。驚くべきことに、私たちは目の前で起こっているこの変換に対してあらかじめ無関心であるように作られている。
  私たちは意識的にものを見るとき、観察する対象である見える部分と、自己(の視点)という見えない部分とに分かれるが、日常はこのような視点/対象の分裂をつくらない。日常とは、自分を含めた全体性であり、日常の中に私(主体)の姿は無い。日常の中にいる人はその日常を見ることができない。

 日常にはいくつかの奇妙な特徴がある。
・脱主体。(「私」が居ない)
・視点/対象に分割できない全体性
・膨大なことが起こっているにもかかわらず、何も起こっていないかのようにみえる。
・知覚できる状態(現実)は個人によって意味が違う。
・絶えず変化し、確定されない。

 このように日常についての特徴を述べていくと、いかにも異様である。
 日常は、個人の観察や経験を、そしてあらゆる思考を超越している。しかしこの作用はほとんど顧みられていない。なぜなら、それは知覚できないからである。
 本展は、常に我々とともに在りながらも決して見ることができない「日常」を、一種異様なものとして、別の世界から来た者が見るように、全く異なった視座から捉えなおす。