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2014年5月16日金曜日

量子と意識2

5月4日放送のNHK「サイエンスゼロ」の超能力特集において、人間の意識が量子的現象に影響を及ぼすという実験について紹介していた。
それについて考えたことを以下に書きます。

そもそもわたしが思うに、意識よりも身体のほうがたくさんのことを行なっており、意識はたいしたことはやっていないように思います。
世界という不定のものに対して、人間は人間独自の見方しかできないもので、 世界そのものをそれ自体として認識することはできず、人間がすでに持っている認識のパターンにしたがって解釈します。カントはこのことをコペルニクス的転回といいましたが、すでに東洋思想では、心の所在のそのような性質を認めていました。
 最近の科学の進展によって、認識は脳内の神経モジュールによって構成されるというモデルが作られています。現代の脳科学がやっとそれを裏づけ始めたというわけです。

 受動意識仮説をとなえる前野隆司氏は、自らコペルニクス的転回といっていますが、その先例はカントであり、スピノザであり仏教の認識論もそうでした。荘子の考え方もそうです。

 さて意識というものはあとから組みあがるもので、普段の生活は圧倒的に身体による自動的な処理、無意識の働きによるものです。
例えば、あなたがこの文書を読んでいる間、周囲には様々な音がしているはずです。今まで気がつかなかったでしょうが。部屋でテレビをつけているかもしれないし、また音がしていないようでも、冷蔵庫の冷却器の音など、部屋にある電化製品はなんらかの音を出しているものです。身体(耳と脳 そして神経系)は、ちゃんとそれを聞いています。しかし、意識のできることは限られているので、それを任意に処理しているに過ぎません。
 私たちは歩きながらものを考えることもできるし、食事をしながら話すこともできます。話しているときも言葉は半ば自動的に出てきます。言葉を選ぶという意識的活動をしない限り。

 私たちとは誰か。それは私たちは身体です。身体の働きです。身体の機能です。意識(自分が自分であると思い込まされている脳の機能)は、その中のごく一部であるに過ぎません。

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 さて、ところが意識は特殊な特徴を持ちます。
 意識が量子力学的現象であるということです。

 量子力学的な現象は、原子の大きさ以下の極微のみの世界の現象と思われるとしたらそれは間違いで、たとえば2枚のスリットを通る電子が干渉縞をつくる、というような目に見えるくらい大きな現象にもなります。意識もある意味「目に見えるくらいの大きさでおこる」量子力学的現象なのです。

 意識現象と量子現象は似たような特徴があります。

1、観測問題:自分の意識を見ることはできません。見ようとすることによって決定的に意識が変わってしまいます。

2、不確定性:これは1と良く似ています。心の状態を捉えようとすると、心はすでにそこにありません。

3、共鳴:意識同士は共鳴します。言葉や表情の交換などによって共鳴する関係をつくることができます。

 意識のこのような量子力学的性質は、なにを意味するのでしょうか。

 もちろんそこには意味があるのだろうし、進化の過程で意識を獲得してきたので、必然的な理由があるに違いありません。意識が量子力学的な性質をもっているのもちゃんとした理由があるはずです。
 残念ながら、今日の段階では、私は仮説でさえ書くことができません。
 しかし近いうちに必ず仮説を唱えたいと思います。






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2012年9月23日日曜日

死後の世界について


しばらくこのサイトを更新していませんでしたが、
もちろん何もしていなかったわけではありません。

死後の世界について調べていました。
いろいろな本やサイトを調べていました。

死後の世界に関心を持っていると言いましたが、実は死後の世界そのものに関心があるわけではありません。

死後の世界があるか・ないかという人々の考え方に興味があるのです。

死後の世界についての人々の見解は、非常に面白いもので、死後の世界があるかという問いに対して、、大抵の人はどちらかの答えを持っています。わからないと答えるひとは少ないです。

また、あるにしてもないにしても根拠は薄弱で、どちらかといえば「あってほしい」「無いほうが良い」という希望が、ほぼそのまま「あるに違いない」「無いに決まっている」という確信になっているのです。実に不思議なことです。

私は死後の世界があるとかないとかいうことの直接の回答を求めようとは思いません。

しかし、死後の世界について語ること、死後の世界について話しあうことは、私たちの文化・人生についての枠組みを決めることであると思います。だから私はこの問題に関心があります。

つまり死後の世界について語ることは、今の私たちの人生観を語ることだろうと思うからです。

来年1月に予定されている私の個展のアーティストトークで、「死後の世界はあるか」というテーマで語ろうかと思っているくらいです。

しかし最近ある程度論点がわかってきたのですが、「この問題に関わることはあまり生産的でないのではないか」と思い始めてきました。

やはりリアルな生について語ったほうが、説得力があるし臨場感が沸きます。

死後の世界について語ることは、盛り上がるし、ある種の議論の活性材料になるとは思うのですが、新しい価値観を提示することにはなりそうもありません。

なぜかというと、死後の世界があると思っているひとは、それを前提として生きており、無いと思っている人は、やはりそれを前提に生きているからです。

両者の価値観は基本的に変わることがありませんし、お互いを理解する必要もありません。

死後の世界があると思う人は、現世は修行の場であり、魂を磨くところであると考えてその日その日を精一杯生きています。
一方無いと思っている人は、この現世しかないのだから、現在の価値を最大限にしようとして、今この時を精一杯生きています。どちらも高いモラルがあるのです。

自己完結している問題に何か問題提起するならば別の視点からの問題提起が必要になります。
それはなんだろうかと、つらつら考えている今日このごろです。


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2011年5月23日月曜日

メカニックなものとしての芸術

身体の機能や動きは、基本的にメカニックなもの(力学的、機械的なもの、つまり説明できるもの)として理解可能だ。近代医学はそのように発展してきた。


実は人の心理もそうである。
複雑と思える人の心も、外から分からないだけで、心の内部では快楽、衝動、葛藤、社会欲求などの要因が働いていて、個人は結果としてその場に即した行動をとるのみである。
心の内部まで深く追求した場合に、説明できない行動をとることはないと言っていいだろう。
本人には説明つかないことであっても、意識の奥にある心理までその力学を広げていくと、人間の心理はメカニックなものとして説明可能だ。


自分を律することができる人格を備えている人は、このような心理のメカニックが良く分かった人である。


たとえ、たましいというものを持ち出す場合であっても、霊には霊の作用があるのであるから、それも含めて力学的な体系が出来ていなければならない筈である。


メカニックな働きは、芸術作品にも当てはまる。


あらかじめ全ての芸術作品のパターンは決まっていて、創作される現場では、心理、身体、社会環境、状況、そして使われる素材によって、どのような作品が顕在化するかというだけの問題なのではあるまいか。


芸術作品は、まったくゼロから、作られるわけではなく、どのようなものをどのように出してくるかという問題なのではあるまいか。


構造主義が明らかにしたところによると、人類の知や生活様式はすでに決まっていて、それぞれの文化によって何が顕在化されるかが決まるというが、それと同じことなのではないだろうか。


戦後、絵画がキャンパスに載った絵の具であると定義されたときから、作品は科学的な解明ができると信じていたような論があった。
フォーマリズムと言われる一連の論調を思い出す方もあるだろう。


フォーマリズムの興味範囲は、支持体や画面などの効果であったが、現在の芸術作品をめぐるメカニズムは、フォーマリズムとは違った、もっと大きな意味合いにおいて、働いている。
このメッセージサイトのテーマでもある「自然-精神-身体-社会をつなぐ」ということも、ひとつのメカニックな働きである。


このようにいうと、あたかも私は芸術家の熱情や、言葉にならぬ想いや、世界に対する深い愛について冷淡であるような印象を与えるかもしれない。


しかしその熱情や愛が、芸術家本人の固有のものでありその人しか持ち得ないものか、それとも誰でも持ちうる普遍的なものかというと、もちろん後者のほうだろう。


つまり芸術家が普遍性に対してオープンであるならば、もっとも最適化されたメカニズムをもった方法を選択するであろう。もっとも効率のよい力学的な方法を選ぶであろう。


もっとも優れた芸術家とは、その人がいなくても作品が成り立つような人のことだろう。
つまり、芸術家というものは既にいなくて、もっとも最適化された、普遍的な方法のみが生き残るであろう。


そのような状況が一般化すれば、芸術は、真の意味でその役割を終えた状態と言える。



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2011年3月2日水曜日

霊界 と クラウドコンピューティング

私は考えるのがだが、霊界のあり場所さえわかれば・・・わからないまでも、仮説くらい立てることができれば ぐっと現実味が増してくるというものだ。

ひとつの仮説として、クラウドコンピューティングをヒントにした霊界のモデルを試みてみようと思う。

なんのことやら分からぬという方々が圧倒的と思いますが、クラウドコンピューティングとは、何かということは、ご自分で検索して調べていただくとして、要は端末となるPCは通信機にすぎず、ハードウェアやOSやアプリケーションソフトは、どこかのサーバーにあるものを借りるというシステムです。そのサーバーがどこにあるかは、ユーザは分かりません。分からなくてもいいというのがこのシステムの自由なところです。実際は、処理はいくつかまたはたくさんのサーバーに分散して行なわれており、データ内容もどこにしまってあるのか、ユーザにはわからないのです。まるで雲の中から情報や処理サービスが降ってくるようなので、クラウドと呼ばれています。

さて、私は考えるのですが、個人の経験や体験は、個人だけのものなのか、つまり、個人の脳内だけで行なわれているものなのか。

実はさまざまな人の脳がサーバーの役目をしていて、記憶や経験、感覚は個人以外の別の人の脳でも処理されているのではないか?

つまり、私が今経験している事実は、何百、何千、何万という他の人の脳で深層心理として処理され記録され、バックアップをとられているかもしれない。

人間は一人一人違っていて、隔絶していて、孤独なようでいて、実はそうではなく、人間の考えや思考、経験、生活などはほとんど類型的であり、その差異は、非常に少ない情報量で区別がつくものではないのか?

私の意に反して、私の考えや思考や経験は私だけのものではなく、私に接する多くの人に共有されており、仮に私が死んだとしても、それらのバックアップを総合的に組み立てれば、田島鉄也がもう一人出来上がるのではないか?

例えばドラマなどで、兄が死んで落胆している弟に対し、「お兄さんは死んではいない。君の心の中で生き続けている」などといって慰めるセリフがあるが、それにはかなりのリアリティがあると思うのです。

すなわち、私の脳、または私という経験的事実は、実はPC端末にすぎず、たいしたメモリもCPUもアプリソフトも持っていない。通信、入力、ディスブレイをするだけのものであって、実体はクラウドの中に・・・数限りないサーバー(つまり数限りない他者)の中にあるのではなかろうか?

私は死んだとする、しかしそれは端末としての私が死んだに過ぎない。私のことを記憶している人々がいる。だから私は決して無にならない。その記憶している人々もすべて死んだとする。私が存在したという事実や伝承や、うわさが一切無くなって、はじめて私は死ぬことができる。

しかし、私の子供が、そのまた子供を設けていたとすれば、私の遺伝子は受け継がれているので、私は決して無になることはできない。

完全に死ぬ・無になることは極めて難しいことだ。

さて、霊界と呼ばれているものは、このようなある文化圏を共有する人々全体が構成するクラウドであって、実はそれは、私たちが想像する以上に豊穣で奥が深く、何層にも分かれていて、あたかも別のいくつもの世界があるかのようなものとして、現実に働いているのではないだろうか???

端末として機能している個人は、生前せっせと情報をクラウドに送り続け、バックアップをとり続けて、死んで端末がなくなったら、クラウドの中ではあたかもひとつの人格であるかのように機能するのではないか?

文化圏ひとつに対してひとつのクラウドがあって、クラウドの中で死者は生き続け、そしてある場合にはそれがまた端末として再生される(生まれ変わり)・・・・

この世に未練を残してきた故人は、ある性能の良い端末を選んで自分の姿を見せたりする(幽霊)・・・・・

さて、この説の最大の弱点は、端末とクラウドの通信手段です。個人との会話や姿の印象だけで、その人の人格や経験などがバックアップされるというのは、確かに根拠が薄い。

人間もわずかな電磁場を感じる能力があるというので(人の気配というものは、運動する人の発する微弱電磁波を他の人が皮膚で感じ取るということらしい)、視覚・聴覚以外の感覚伝達が行なわれている可能性はあるのではないか??



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2011年2月23日水曜日

死後の世界・・・生きている俺・・

そもそもいったい何の為に生まれてきたのか・・
しばしば疑問に思うことがある。
スピリチュアリズムは、以下のように答える。

生前のあなたは、あの世にいて、自らの霊性を高めるために
地上界(物質界)で学ぶことを決意しました。
より完全な魂をはぐくむために、地上界で修行としようと降りてきました。
地上界において生まれると、生前の決意のことは忘れてしまっていますが、
あなたはこの世で苦難や試練があったとしても、
それは必然的に与えられた修行なのです。
この世で起きることにはすべて必然的な意味があります。
立派に務めあげましょう。


このようにいわれると、大抵の悩みや苦難は、解決の方向に向かい
困難に立ち向かい、または柔軟に受け流し、
豊かで、喜びを生み出す方向に転換できるような気がするものだ。
私は、霊性を高めるため、魂を磨くため、決意をもって
物質界に修行に来ているのだ

このようにスピリチュアリズムは、人生を意義深いものにしてくれる。
この世で起こることは、意味のない偶然の現象の連続ではなく、
背面にある世界が、しっかりと意味づけして支えてくれている。
自分の生まれてきた目的は当然のこと、どんな些細な、
意味の無いように思えることも、すべて意味がある。

実にすっきりとした美しい考えだ。

ただひとつの疑問さえなければ。
その背面支持世界、霊界、私が生前いて、そしてまた帰っていく、あの世は、
一体どこにあるというのか?

ここに来て、言葉を失うのだ。
一体どこにあるというのか?

そして霊界との魂の行き来は、実際どのように行われているのか?

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2011年2月22日火曜日

死後の世界の考え方・・・

前回のテーマの調査を終えて、私は考えている。
もっともらしいことを書いたが、何か気に入らない。
なんだかこじつけがましい。

自然-身体-精神-社会をつなぐことは
「あの世」の想定をしていない。
この世の経験こそ、リアルなものである、という基調があるので
宿題を死後に持って帰らないのだ。

もし、死後の世界を想定すると、
自然-身体-精神-社会の経験が相対化されてしまうのである。

つまり、自然-身体-精神-社会をつなぐことは
「魂を磨く」ための単なる手段の一つになるだけなのである。

死後の世界を信じる者に言わせると
すべては必然であり、この世の経験すべては魂の学びである、という。

何か辛い目にあう人は、自分ではどうにもならないことを経験する
という試練をうけるべく生まれたのだというのである。

私が、自然-身体-精神-社会をつなぐなどと考え、活動していることも
前の世で私の魂が立てた学びの志のひとつであるのだろうか?

2011年2月14日月曜日

死後の世界の考え方について

自然-身体-精神-社会をつなぐことを目指す私は、やがて文化総体を見直すという大きなテーマに直面せざるを得ないと思います。「死後の世界の考えかた」は、文化圏の文化の形を考える鏡のようなものです。というのも、「死後の世界はあると思うか」という質問にはその人の死生観、人生観など重要な要素が入ってくるのであり、それら一つ一つの回答を集めると文化総体の姿が現れてくると思います


こちら↓に、「死後の世界を考えたことがありますか?」というトピックがありました。


http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0831/259967.htm?g=03


問いかけは以下の内容です。
-------------------------------------------------------------
57歳、男性です。

最近また死後の世界をよく考えるようになりました。
「また」とは、もう随分昔、学生時代には毎日のように考えていました。今居るこの自分が消滅すること、もう自分の存在がなくなることの恐怖に耐え兼ねて毎晩電気を点けっ放しで眠ったことを今でもよく覚えています。この恐怖を当時の学友に理解してもらおうと、どんなに話しても分ってもらえず、死んだらもうそれで終わり、それまでだから、考えても仕方がない。殆んど皆がこんな返事で、取り合ってくれませんでした。

その時描いていた死後の世界は、文字通り何もない、存在しない世界だったから怖くなったんだと思います。以降徐々にそんなことは考えないようになり、この年になるまで深刻に考えるようなことはありませんでした。ところがまた良くこの死後の世界を考えるようになりました。きっかけは分りませんが、最近年の余り違わない人が立て続けに亡くなり、葬儀が続いたことが一番大きな要因と思われます。

死後に何らかの世界があるなんて私には気休めにもならず、全くそんなことは考えられません。それだけに恐怖なんです。こんなことを考えるのは私だけでしょうか?
-----------------------------------------------------------------



これに対し、たくさんの回答が寄せられていました。
問いかけが真面目で切実な内容だったので、回答も真摯なものが多く、
私は、現代日本人の死生観を知るのによい資料と思いましたので、これを一つ一つ読んでいきました。

回答は実にさまざまなものがありましたが、似通っているものもあり、とりあえず分類してみることにしました。
全部で112件の回答が寄せられました。
私は、「死後の世界はある」「死後の世界はない」という軸と「死ぬのはこわい」「こわくない」という軸の4象限にわけて分類を試みました。エクセル表に分類していきさらによく読みこんで、共通する意見をまとめ、以下のように表にしました。(クリックして拡大してごらんください)



回答内容のほとんどは、トピックを立てた人を励ますためか、死ぬのは怖くないという回答です。



怖くない&死後の世界があるという人たちの多数を占めるのは
「現世はあの世で次のステージにいくための修行/学び/魂を磨くための場」という考え方です。



現世の辛いことも悲しいことも、また利己的な気持ちを持たないことも、自分の魂を高める修行であるという高い倫理性を感じさせる内容です。
それらの人たちの感覚を表す言葉で、「(死後の世界に)還る」「光になる/風になる」という言葉が目につきます。つまり、死後の世界こそ、オリジナルな、かけがえの無い固有の価値があるというのです。




怖くない&死後の世界は無い、という人たちで、多数を占めるのは「死んだら無になるので、恐れる自分もいなくなる」という単純な考えです。そして「消えて無くなることに安堵感を感じる」というむしろ死後の世界が無いことを望む声も少なくありません。


また「今日一日を生ききることが大事。今この瞬間を大切に生きる。」という回答も目に付きます。死後の世界が無いと思う人は、決して刹那的/快楽的/利己的ではなく、一度きりしかない生涯を精一杯生きるというような高い倫理を持っています。

重要な違いのように見えるのは、「死後の世界在る」派は「魂を磨く」という考えを持っていることです。
自分の心を慈愛に満ちた、清浄で透明なものにしていくという発想です。
「死後の世界無い」派は、そのような発想がありません。死んで残すような財産はないのです。しかし二度と繰り返さないこの時を普遍的な価値あるものにしようとし、他者への奉仕や喜びを分かち合うことにも重きを置いています。

「魂を輝かせる」か、「今という瞬間を輝かせるか」の違いであり、価値の極大化を図ろうとする態度は同じといえます。
互いにその心情は理解できないにもかかわらず、もう一派の考えを受容することができるという構造を持っています。
同じ文化圏の中で両立可能であるということです。



これは、決して文化の矛盾や混乱ではなく、生きる価値の極大化という一致する価値観を持っているからであろうと思います。

次回は、「死後の世界」のいくつかのモデルパターンについて考察したいと思います。



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2010年12月26日日曜日

先住民の価値観に学べ

インディアン、アボリジニなど、世界の先住民について書いた本を何冊か読んでいる。
彼らと自然との関係について考えさせられる。
彼らにとって自然は圧倒的なので、彼らはその背後に霊的な力があると信じていた。
それらは精霊とか大いなる力とか呼ばれていた。




先住民の宗教は、キリスト教・仏教・イスラム教のような宗教とは違って創始者はいない。
神話と儀式、実際の生活にいたるまで一貫した生活思想である。
まさに、自然-身体-精神-社会をつなげる仕組みとして機能していた。

翻って現代、自然は遠くなった。
私達はどこか私達の知らない海でとれた魚、
知らないところで育った動物の肉、
計画的に栽培され、収穫された野菜を食べている。

しかし目を内側に向けてみよう。
私達は自然を持って運んでいる。
この肉体によって。
何十億年も前、我らの遠い遠い先祖が、海から陸に上がって
海の生存環境を肉体に閉じ込めて持って上がった。
そう考えるだけで畏敬の念を感じる。
自分がどこで何をしていようと関係ない。
私達は自然を持ち運んでいる。
エコロジー、CO2削減も大切だが、それは本質的なことではない。

我らは奇跡のような身体を持っており
私達の自我は、そこにほんの少し間借りしているわけだ。
中心が自我の方にあると、思い違えてしまうことがあるが
自然-身体の方がメインストリームである。
そこを外してしまうといろいろなトラブルが起こるだろう。

巷の世評では今の日本は閉塞しているという。
私に言わせれば60年代からずっと閉塞していた。
経済的に成長していない状況を指して、閉塞というのであれば笑止である。

私達は、もっと深くあるべきである。
経済発展ではなく、我々は「深化」すべきだ。
足元を見つめ、内部を見つめて、価値を自分のオリジンに定めるべきである。


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2010年9月27日月曜日

「たましい」は在るか? その3

「たましい」の話題である以上、死について書かないわけにはいかないだろう。
死は基本的には物理的な現象であって、私の心がいくら死を嫌がっていようとも、私の肉体は絶えず崩壊に向かっているので、それは避けようもない。じたばたしても仕方がない。受け入れるしかない。

しかし私は実際に不治の病を宣告され、余命数ヶ月と言われたら、たぶん私は驚愕し、自分の不遇に怒り、嘆き、悲しみにくれて号泣するだろう。動揺は数日間は収まらないだろう。そうしてやがてそれを受け入れ、人生を終わらせる準備を始めるだろう。そういう精神状態にたどり着くまでに2週間くらいかかると思う。しかし時間はないのだ。やり残したことを整理し、お世話になった人に感謝してお礼を言う。たぶん、いままでの人生で一番忙しい時間だろう。やがて病状は悪化し、苦しんで、死ぬだろう。

希望があるとすれば、以下の2点である。
一つは、後世に残る仕事をしてから死にたいということである。私には自然-身体-精神-社会をつなぐというテーマがあるが、それを達成しえないまま、人生を閉じなけばならないとすれば誠に残念だ。残りが数ヶ月しかないとすれば、大幅に計画を変更し大急ぎで成果をまとめなければならない。
もう一つはやはり愛するものに看取られたいということである。そして私という人間が、人々の記憶として生き続けてくれればと思う。

それらの一連の過程のなかで、私は「あの世」について口にするかもしれない。
病床で、家族や見舞いに来てくれた人に「先に行って待ってるよ」とか、言うかもしれない。
もう2度と会えなくなるのではなく、一時的に会えなくなるに過ぎないというフィクションを口にする可能性はある。そうすることによって私は、その人との絆を確認するだろう。ただそれは、慣習以上の意味は持っていない。
病が内臓、神経、循環系を侵し、耐え難い苦痛に襲われ、身体の機能が衰弱していくのを感じ、やがて意識が朦朧として、そして死ぬだろう。
私の肉体は物質に帰る。
しかし、私の遺伝子はわが子に受け継がれ、また私に関わった人々には私の記憶が生き続け、私のいくばくかの業績は残るかもしれない。私は死ぬが、私が生きていたという事実は決して死ぬことはない。

生きる意味とは、自分の身体で多様な価値を生成できることだ。死んでしまったらそれはできない。願わくば十分納得できる価値を生み出した後、「もう十分に生きた、満足だ。あとは死ぬだけだ」という心境になってから死にたいものだと思う。

私は「たましい」の不死を必要としない。ただ私という人間が生きていたというそのことの価値は、決して死ぬことがない。


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2010年9月22日水曜日

「たましい」は存在するか? その2

 前回の更新で、私は「たましい」は存在しない、と述べた。
 私が無味乾燥な思想の持ち主と誤解されるかもしれないと思うので、弁明しておこう。 実をいうと「存在しない」と主張するのとは違っている。「たましい」が必要な世界感を持っていない、と言ったほうが良い。
 
 私は自然が好きだ。野や山や海に行って、幽玄の森を眺めたり、海の波を見てそのたおやかなリズムに心酔するのが大好きだ。私は、自分が自然であり、自然そのものであると日頃から強く実感している。


 しかし、自然とはそのような場所に行かなければ出会えないのであろうか?

 違う。自然はどこに行かなくても、私にぴったりと張り付いている。自然とは、私の身体・肉体・カラダそのもののことである。自然とは私の目の前に広がっているのではない。私自身のことなのだ。自分の身体が自然だ。自然とは私の身体そのものだ。宇宙の物質のあらゆる進化の現在の段階で、精緻極まる生体システムを詰め込まれた驚くべき成果が、この私の身体だ。
 私とは、私の身体であり、私という大自然である。 私という森である海である。

 私は自然そのものである。これは確固たる安心である。
それは決して私から離れないし、裏切らない。絶対の信頼をおけるものだ。宇宙すべてと全く同じ原理が私自身の身体に適応されている。そのような安心、信頼がある。


 もちろん、それは私の頭の中で起こっていることも例外ではない。私の思考・意識・感覚も自然である。私の意識や思考は、本質的には森の木々が風にざわめいたり、波が砂浜に打ち付けられたりするのと何ら変わりがない。私の血管を廻る血液も、栄養と吸収する腸の働きも、神経細胞の発火システムである私の意識や思考も、全ては自然そのものである。


 したがってここにおいて、「私」という自由な意志をもった何者か、という機能は存在しない。なぜなら意思や行為は、身体の自然によって選択されるのであるから。意思や行為は身体の自然にとって必然的なのである。したがって、「たましい」という超越的な何者かが物質を操っているという仕組みを想定する必要はない。

 「たましい」の一番優れた機能は、自然と自分を貫くような感覚だろう。つまり直接自分に作用しているという「直接感覚」ともいうような、自分を含むすべてを貫き、統一した原理で働いているかのような感じをうけるからだと思う。
 そして、それと同じ感じは、私が上述した「身体=自然」の世界感においても十分成し遂げられる。

 ゆえに、私は「たましい」を必要としない。私は、知覚することができない世界(背面世界)がこの世を支えているという世界観を必要としない。

 もし、「たましい」を必要とするとするならば、それは自分が自然そのものであるということを実感できない、または実感しにくいからではないだろうか。

 古代の人にとっては、人間の身体は神秘そのものであった。食べること、排泄すること、生殖することなどは、すべて未知の世界に閉ざされていた。そして自然との一体を確保するために、目に見えないものが自分に作用していると仮設を立てた。「たましい」というものを考え出し、それによる統一的説明を試みた。それはとてもうまく行った。人間の「たましい」は、動物や自然の中にある「たましい」(精霊)と呼応するとし、自然とのつながりを確保する装置として機能した。

 「たましい」の発明は画期的だった。これは自分たちの意識や感覚と自然世界との一体感を説明できる装置として、極めて納得性の高いものだった。そしてそれは現在においてもそうである。

 そしてこの説明は、「たましい」とは何か、という問いをほぼ禁じることによって成り立っている。
 この、目に見える世界と、目に見えない世界という2重構造による世界解釈は、非常に良くできており、「たましい」が疑問に脅かされることもない。

 「たましい」が存在するかしないか、という直接的な質問は議論しにくい。なぜならば「たましい」は問われることを拒否する性質を持っているからだ。
 だから私は、「たましい」が在るとする世界観と、無くても良いとする世界感を整理してみたかったのだ。

 実は私は、「たましい」なるものが存在しても別に良いし、この物質の世界が背面世界の運動の反映であるとしても別にかまわない。なぜならその背面世界を含めて「自然」であるので。
 「たましい」があるとするならば私はそれを含めて「自然」として認めるのみである。 そのほうが「自然」が大きく広がって面白いとは思うが。


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