2011年4月29日金曜日

美しい新緑をどうやって表現したら・・・・




この美しい新緑を、どうやって表現したらいいのだろうか。
私がここでいう表現とは、単に伝える、ということではなく、
自分が感じている様子を、現実の物体として表しだすということです。


緑色の絵の具を使って、紙やキャンパスの上に描くということは、違う気がする。
あの葉脈に水分が流れる光輝く木の葉と、工場で作られた妙な匂いのする緑色の絵の具とは何の関係もない。


岡本太郎はこんなことを書いている。
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 私はいわゆる美術品に興味がない。芸術家でありながら、展覧会に行ったり、画集をひらいて見るなどということは、むしろ苦痛だ。それは狭い枠のなかに窒息してしまっている。なにか惨めな気がする。
 人間の生活はいつも全体であり、幅いっぱいにあふれ、ふくらんでいるはずなのに、その一部だけを引き抜いて固定し、形式化して味わうのだ。白々しい。

「美の呪力 Ⅰイヌクシュクの神秘」
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私も同じ考えだ。
芸術である、ということ自体が、敗北なのである。

できうるならば、私は新緑そのものでありたい。あの瑞々しい葉脈を張り巡らした若葉そのものとなりたい。
であるならば、若葉を客体として観察し、色や形を描き写すということが、いかに空しい作業であることか。
私は若葉そのものとなって独白したいのだ。それが完璧な表現となる。
いや、それは違う。
そのときは、すでに独白をする必要はないであろう。表現をする必要はなくなっている。

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2011年4月22日金曜日

緑とはこれほど美しい色か・・・



この時期の新緑の美しさには、ハッとさせられる。 眼を奪われる。その明るい緑色に包まれてしまう。
新緑を見るとき、私はすでに新緑になっている。
私の体から芽が吹き出ている。あるいは木から無数の私がにょきにょき出ている。


桜の木には、ガクの赤い色が隠れている なかなか面白い形だ。
植物の色形は実に官能的だと思う。命の中身がむき出しになっているかのようだ。


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2011年4月17日日曜日

中之条に下見に行ってきました

8月20日から行なわれる中之条ビエンナーレの会場下見にいってきました。

私に当てられた会場は3つ。廃校になった小学校の教室と体育館、そして交流センター「つむじ」。


廃校になった小学校の教室。ここが私の会場


体育館。ここも会場。何をするかはお楽しみ。
交流センター「つむじ」は画像を取ってこなかったけれどもこちら

町役所の唐沢さん、総合ディレクターの山重さん、つむじ担当の柴田さんらに会ってきました。


中之条は群馬県高崎から吾妻線という1時間に1本しかない電車で50分。
さしたる産業もないこの自治体は、文化事業での町おこしの道を選んだのです。
中之条ビエンナーレは、町の税金を投入して行なわれる手作り的なイベントです。
前回は16万人は訪れたというからたいしたものです。

このたびの地震の影響で温泉の観光客が減り、町のビエンナーレへの期待はますます高まっているようす。


中之条ビエンナーレは8月20日から行なわれます。
プレイベントの「温泉郷美術祭」は7月16日から行なわれます。

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2011年4月11日月曜日

正しい道を歩め

僕は、まだ何かに怯えている。
この恐怖の正体は何か。
大地が揺れることがそんなにも恐ろしいのか。


そうだ。私たちの肉体は、この恐怖を内包している。


もう一度訊く。何が怖いのだ。


自然が蓄える、巨大な、途方も無いエネルギーに
強い畏怖の念を感じるのだ。
そうして生身の身体に突き当たったときに。
自分の肉体では内包できない暴力と衝突したときに
私は心の底から叫びをあげる。


単に大地が揺れているのではない。
太古から在る、膨大な力が、
奥底から湧き上がってきて、
小さな皮膚の一端のような我々の肉体をゆすぶるのだ。




しかし、私はその恐怖を、私自身のものとしなければ。
大いに恐れ、大いに恐怖し、その恐れの本質を
その畏怖すべき巨大なエネルギーを
肉体の真に繋ぎ止めなければならない。


薄っぺらい恐怖ではない。
表面上の恐怖に戸惑うのではない。
肉体の内部が大地と呼応する、その凄まじさ。
それをしっかりと受け止めるのだ。
私は
絶えず自分の肉体に尋ねるという
正しい道を歩まねばならない。


辛い仕事だが、それをしなければ、
私は私自身を失うだろう。

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2011年4月3日日曜日

ぐじゅぐじゅのその後


今日は寒い。
避難所の人たちも寒いだろう。


神戸の時と違って今回は被災地の範囲が広いので
ガソリン不足で物資がいきわたらないと聞いています。


ガソリンや灯油を被災地に優先的に回すようにできないのか。



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2011年3月31日木曜日

「男性」であることを考え直す

今回の未曾有の大災害において、私たちの文明の脆弱さを思わないではいられません。
なぜこんな社会が作られたのだろう。 ひとつのヒントを見つけました。

「深層心理のことが面白いほどわかる本」 書名から受ける印象ほど、内容の薄い本ではありません。

女性は、母親の圧倒的影響力で自然に女性になるが、男性は母親から離れて母親を対象化し 意図的に男性に作られなければならない。 だから男性は心理的に脆弱である。

「女性は弱く、男性はそれを守る」という「男らしさ」のアイデンティティは 実は自然なものではなく作られたものではなかったか、ということです。

男は、男らしさを絶えず維持するために、常に何かを成し遂げ続けなければならないという 宿命を負っており、それは現代文明に投影され、産業革命、生産増加、はては 自然破壊に結びついている。

男性のドメスティックバイオレンスが多いのも、男性の心理的脆弱さの表れではないか、ということです。

今日、多様なコミュニケーション能力が望まれる社会において、寡黙なハンターまたは合戦の勇者であった男性は居場所を失い、適応しにくくなっています。

服装にしても、華やかな女性とは裏腹に男性は相変わらずスーツを着込んでいます。 弱い心理をヒタ隠す鎧のように。

男性優位社会は封建時代からあるもので、いうなれば近代は封建時代に準備されたのではないか?

近代は、封建時代の男性が機械というオモチャを手にして走り始めた男性文明なのではないか?
あの原子力発電所も、未知の火に憧憬する男性化の一つなのではないだろうか。
原子力を手なずけようとする男性的な支配欲に、 エネルギー問題という打算がくっついた代物ではないか?

僕たちは、「男性」であることを考え直す時かもしれない。

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2011年3月27日日曜日

ぐじゃぐじゃの



米糊に雑誌の紙を浸して、グジャグジャとスケッチブックになすりつけた。


津波の跡の街の映像の影響だろうか・・・




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2011年3月21日月曜日

辻晉堂 展


神奈川県立近代美術館で開かれている
辻晉堂展

に行ってきました。

中学生のころから好きだった作家ですが
なかなか実物をお目にかかるチャンスがなくて
今回生誕100年だそうで、まとまって作品を見るチャンス、
見逃すまいといってきました。

辻晉堂といえば、自由奔放な造形の陶彫の作品で知られています。
下記のサイトの「
陶彫」のページ - 1956「顔(寒拾)a」 1958「馬と人」「寒山a」「拾得a」など
http://www.shindo-tsuji.net/index.php?lang=jp&page=work

これらも面白かったですが、
私が特に興味をそそられたのはその後、
60-65年に盛んにつくられた 壁みたいな作品です。

突起物のような造形がほとんどなくなり、
壁のようになってしまいました。
1枚ではなくて大抵3層になっており、
いくつか穴があいています。
表面には引っかいたような跡、突起物、微妙な凹凸、などがあります。

神奈川県立近美のサイトでは該当する作品を紹介していませんが
以下のサイトの「陶彫」のページ----1961「拾得d」「颱風の四角な眼とムカデ」 1962「東山にて」 などが
そのころの作品に当たります。
http://www.shindo-tsuji.net/index.php?lang=jp&page=work


この作風の変化は何なのか?

私は辻が禅僧であることに思い至らずにいられません。
造形の面白さの探求を終えた辻は、自身の内面を深く掘り下げていったのでしょう。
3層になっている壁は、意識の深層を表しているのかもしれません。
ところどころの穴はかいま見える無意識の層でしょうか。

何か深いものを掴み取ろうとしてる感じがしました。
辻自身の文章では「空間の深まりを表はさうと考へたのであった」と書いてあり、
解説文もそのようなものでしたが、
作者の深い意識の底を、いえ、もっと普遍的な何かが見えそうな気がして
板のような作品ひとつひとつの前で、じーーっと見入っていました。
マーク・ロスコの絵画のように、深い瞑想を誘うのです。
もっと観客を包み込むように大きかったら
その効果が十分に発揮できたでしょうに。

こんな風にじーーと見ているひとも私しかいませんで、
もともと観客は数えるほどしかいませんでしたし
私の様子を見て会場の係りの人も不思議に思ったかもしれません。

辻晉堂は、極めて寡黙な作家だし、 自分のやっていることを
言葉にすることをほとんどしない人だったのでしょうが、
このころの作品の意味を自分自身で自覚的に言葉にし、
またそれを自覚して作品をつくっていたら非常に精神的に深い世界が
開けたのではないか・・・とも思います。

私は惜しい気がするのですが、
しかし、彼はそんなモダニストみたいなことは無関心だったのでしょう。
あるいはこれ以上、つっこんでも意味がないと思ったのかもしれません。
分かりませんけれども。
いや、私ではわからないくらいのレベルであって欲しいと思います。

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2011年3月16日水曜日

溶岩でひっかく




大地のエネルギーの破壊的な恐ろしさ。


あまりにも無力な人間のつくったシステム。


溶岩で、ダンボールを引っかいてみた。


これをやってどうなるわけでもないし


意味もないし、美しくもない。


しかしこんなことでもせずにはいられない。




2011年3月13日日曜日

恐ろしい・・・

恐ろしいことだ。

東京でも、船の上にいるように揺れた。

鉄道が止まったので、職場から10キロ歩いて帰宅した。

家族は無事だったが、子供がショックで体調を崩した。

被災地では、被害の実態が明らかになるにつれて大変な事態が明らかになってきた。

恐ろしい。本当に恐ろしい。心の底から感じる。

前にも書いたが、地殻は厚いところで10キロメートル程度の厚みしかない。
地球をリンゴにたとえると、リンゴの皮くらいの厚みしかない。

牛乳を温めると表面に薄皮ができるが、そんな感じだ。
私たちが暮らしている「不動の大地」は、この薄皮の上にある。

今回は、その薄皮がホンの少しズレただけである。
それなのにこの大災害だ。

私たちは、なんと無力なのだ。


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2011年3月10日木曜日

主客未分化

前回は、感覚によって主客の分離を超越し
すべてを統一的に捉える試みについて話をした。

このことは、
主客に分離される以前の経験を説いた、西田幾多郎の「純粋経験」
また、すべてのものは同じものだと説いた荘子の「斉物論」に
よく似ている。

私の芸術は、それらのことを感覚の観点で実践しようとすることである。
だから私は直接的な経験、直接的な感覚を必要とする。

筆を使って何かを描くという間接的なことは、おそらくもうできないだろうし
あらかじめ絵の具として作られた工業製品を用いることもしないだろう。

筆と絵の具で描くことは、決定的に何かから遠ざかっていると
いわざるを得ない。


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2011年3月7日月曜日

すべてのものには精神があるのか?

何かを感じ取るということは、その対象がもともと持っている精神を感じ取ることなのだろうか?


例えば石に触れてゴツゴツした感触を感じ取る。
そこにゴツゴツした感触が発生するということは、
もともとそこにゴツゴツした感触の基があって
私がそれを見出しただけなのではないだろうか?



すべてのものには、そのような感覚の基となるものが仕組まれていて
適切な感覚器が適切にそれを掘り出してくる。


無機的なただの物体であっても、そこには精神的な何かがあって
私たちは感覚によってその精神を感じ取る。



もちろん、世界は無機的なカオスであり、
各々の生物の感覚器や生存戦略に応じて
感覚世界をつくっているのだと考えることも可能だ。
世界は無意味なカオスであって、
それに意味を与えるのが、私たち生物の感覚である、というわけである。
したがって、生物種の数だけ別々の世界がある。
。。。と考えることもできる。


しかしそれは、あらゆるものに感覚の基が詰まっていて
各々の生物は、感覚器にしたがってそれを掘り出してくる
という考えを否定するものではない。

感覚器が感覚を生み出すと考えるのではなく、
絶えず生み出される感覚を中心に据えて考えると
世界の連続性がうまく説明できるような気がする。

「私」と、「石」を隔てているものは何なのか。
それは「ごつごつした感触」に他ならないではないか。
あるいは、この「ごつごつした感触」が、「私」と「石」を結び付けている。ともいえる。
極端に言えば、この「ごつごつした感触」がありさえすればよく、
「私」も「石」も必ずしも存在する必要は無い。

すべてのものに精神がある、と考えるのは、何かフィクションめいた浅はかな思い込みではないか?
一方、世界はカオスで、感覚器が世界を生み出すと考えるのも浅はかなことだ。
それらは、物体(対象)と人間(主体)があるという前提で成り立っている。

だから、感覚のみが発生しているのであって、主体(たとえば私)も、対象(例えば石)も
都合よく捏造されたものではあるまいか?

主体も対象も無いとすれば、世界は感覚の連続体なのであり、それらには分け隔てする境界がない。
「一切は同じ」という荘子の斉物論を感覚の観点から読み解くと、このようになるのかもしれない。


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2011年3月2日水曜日

感覚は、作り出すのか?それとも、受け取るのか?



昨日の朝は、美しい青空だった。
気温も暖かく、本当に過ごしよい日だった。

近所の大きな公園に行った。
青空を飛行機が飛んでいた。飛行機雲が一直線に線を描いていた。
私は手を伸ばして、空に線を描いた。のではなくて、描く真似をした。

このような時、自然がぴったりと私に貼りついているように感じるものだ。
本当に足が大地から生え、手が空に届きそうな気がする。

この気持ちの良い伸び伸びした気分は、
私が単にそう感じているのではなくて、
どうしても、もともとそこに在ったものを私が感じ取っている、
と思わざるを得ない
・・・・ような気分になる。

私は、空や大地を、自分の身体のように感じたいと思っている。

大きな石の上に身を横たえた。
石は硬く、ごつごつしていた。この、「ごつごつした硬い感じ」は
私が勝手に感じているのではなくて、石に元々備わっている特性でもあるはず。
したがって、「ごつごつした硬い感じ」は、石と私の中間にあるように思える。
「ごつごつした硬い感じ」が石と私の出会いを決定的なものにする。
「ごつごつした硬い感じ」が、石と私の存在を定義する。

感覚は、何を起源とするものか?感覚はどこから発生するのか?

石の接触が私の触覚を刺激し、脳内で統合的解釈をつくりだす・・・・という単純なものではあるまい。

「ごつごつした硬い感じ」が、まさに世界を作り出す。現象学的に言えば、世界を開示する。
だから、どうしても「自分がつくりだす」よりは、「向こう側からやってくる」ような気がする。
僕らは何かを感じるごとに、世界を切り開いているのだ。

たぶん作り出している=解釈しているのではなく、受け取っている のでもない。
その場で発生し、その場で事件が起きている。その事件は、私と対象物が何物であるかを定義する。

どこから発生するのか?わからない。とにかくどんどん出てくるのだ。
お茶と食塩


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霊界 と クラウドコンピューティング

私は考えるのがだが、霊界のあり場所さえわかれば・・・わからないまでも、仮説くらい立てることができれば ぐっと現実味が増してくるというものだ。

ひとつの仮説として、クラウドコンピューティングをヒントにした霊界のモデルを試みてみようと思う。

なんのことやら分からぬという方々が圧倒的と思いますが、クラウドコンピューティングとは、何かということは、ご自分で検索して調べていただくとして、要は端末となるPCは通信機にすぎず、ハードウェアやOSやアプリケーションソフトは、どこかのサーバーにあるものを借りるというシステムです。そのサーバーがどこにあるかは、ユーザは分かりません。分からなくてもいいというのがこのシステムの自由なところです。実際は、処理はいくつかまたはたくさんのサーバーに分散して行なわれており、データ内容もどこにしまってあるのか、ユーザにはわからないのです。まるで雲の中から情報や処理サービスが降ってくるようなので、クラウドと呼ばれています。

さて、私は考えるのですが、個人の経験や体験は、個人だけのものなのか、つまり、個人の脳内だけで行なわれているものなのか。

実はさまざまな人の脳がサーバーの役目をしていて、記憶や経験、感覚は個人以外の別の人の脳でも処理されているのではないか?

つまり、私が今経験している事実は、何百、何千、何万という他の人の脳で深層心理として処理され記録され、バックアップをとられているかもしれない。

人間は一人一人違っていて、隔絶していて、孤独なようでいて、実はそうではなく、人間の考えや思考、経験、生活などはほとんど類型的であり、その差異は、非常に少ない情報量で区別がつくものではないのか?

私の意に反して、私の考えや思考や経験は私だけのものではなく、私に接する多くの人に共有されており、仮に私が死んだとしても、それらのバックアップを総合的に組み立てれば、田島鉄也がもう一人出来上がるのではないか?

例えばドラマなどで、兄が死んで落胆している弟に対し、「お兄さんは死んではいない。君の心の中で生き続けている」などといって慰めるセリフがあるが、それにはかなりのリアリティがあると思うのです。

すなわち、私の脳、または私という経験的事実は、実はPC端末にすぎず、たいしたメモリもCPUもアプリソフトも持っていない。通信、入力、ディスブレイをするだけのものであって、実体はクラウドの中に・・・数限りないサーバー(つまり数限りない他者)の中にあるのではなかろうか?

私は死んだとする、しかしそれは端末としての私が死んだに過ぎない。私のことを記憶している人々がいる。だから私は決して無にならない。その記憶している人々もすべて死んだとする。私が存在したという事実や伝承や、うわさが一切無くなって、はじめて私は死ぬことができる。

しかし、私の子供が、そのまた子供を設けていたとすれば、私の遺伝子は受け継がれているので、私は決して無になることはできない。

完全に死ぬ・無になることは極めて難しいことだ。

さて、霊界と呼ばれているものは、このようなある文化圏を共有する人々全体が構成するクラウドであって、実はそれは、私たちが想像する以上に豊穣で奥が深く、何層にも分かれていて、あたかも別のいくつもの世界があるかのようなものとして、現実に働いているのではないだろうか???

端末として機能している個人は、生前せっせと情報をクラウドに送り続け、バックアップをとり続けて、死んで端末がなくなったら、クラウドの中ではあたかもひとつの人格であるかのように機能するのではないか?

文化圏ひとつに対してひとつのクラウドがあって、クラウドの中で死者は生き続け、そしてある場合にはそれがまた端末として再生される(生まれ変わり)・・・・

この世に未練を残してきた故人は、ある性能の良い端末を選んで自分の姿を見せたりする(幽霊)・・・・・

さて、この説の最大の弱点は、端末とクラウドの通信手段です。個人との会話や姿の印象だけで、その人の人格や経験などがバックアップされるというのは、確かに根拠が薄い。

人間もわずかな電磁場を感じる能力があるというので(人の気配というものは、運動する人の発する微弱電磁波を他の人が皮膚で感じ取るということらしい)、視覚・聴覚以外の感覚伝達が行なわれている可能性はあるのではないか??



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2011年2月27日日曜日

身体感覚を取り戻す

現実に、自分が物理的に存在していることを、腹の底から実感するには
どうしたらいいだろうか。

私がたどり着いた結論

やはり、身体  なのです。

身体こそが、自分が物理的に存在していることを証明する唯一のものです。

私が25歳にして無謀にもラグビーを始めたのも
今にして思えばそういう身体的実感を求めていたのだろうと思います。

しばらく前に、この本を手にしました。

動画を追加
今では超有名人となった斎藤孝氏の数ある著書のなかでも
一番のお勧めです。
冒頭部分を引用します。


"最近、自己の存在感の希薄化がしばしば問題にされる。自分がしっかりここに存在していると感じられるためには、心理面だけでなく、身体感覚の助けも必要である。現在の日本で、自分のからだに一本しっかりと背骨が通っていると言うことができる者はどれだけいるであろうか。あるいは、「腰が据わっている」や「肚(はら)ができている」や「地に足がついている」といった感覚を自分の身において実感できている者はどれだけいるであろうか"

---身体感覚は、「技」である、ということは目から鱗であった。
存在する、ということは、哲学の問題ではなく、身体の問題、身体の技術の問題なのだ。
「存在するための技術」があったのだ。


日本には、身体の感覚をつくる技があって、もっとも重視されたのが「肚(はら)」である。
具体的にはヘソの下の部分。臍下丹田(せいかたんでん)と呼ばれている身体の中心である。

浴衣やハッピを着るとその上で帯を締めるようになっていて、なるほどと思ったものだ。
さて、この丹田の感覚、身体の中心感覚は、技として作っていくものです。
そして約1年前、私は、丹田の形成を始めました。

丹田について(2010年3月6日)

丹田形成 その後(2010年3月10日)


それから1年、粘り強く 丹田呼吸法をやって、最近は下腹に充実感を感じるようになりました。
つねに帯を締めていて、ギュっと締まっているような感覚です。

これが身体の中心感覚なのか、と実感しています。
こうして私は、自分が物理的に存在していること、の実感を、技として手に入れることができました。
精神と身体がぴったりとくっついている感じ。。。。penetrationの感じを獲得しつつあります。

ただ、私が以前感じていた、世界との遠さ・・・感覚の窓を通じてしか世界とコミュミニケートできないという、いわば現象学的な遠さ・・・それは、完全に克服されたわけではありません。
いえ、それは克服は不可能で、カントがいうように「物自体の認識は不可能」なのですから。


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2011年2月25日金曜日

penetration(貫き通す)の感覚

penetration(貫き通す)の感覚は、私にとって非常に重要である。

何かと同一化しているかのように刺し貫かれていること。
ぴったりとくっついて、串刺しになっている感じである。

焼き鳥が串に刺し貫かれているように、
ホッチキスが紙を刺し貫いて止めているように。

私は、自然-身体-精神-社会をpenetrationすることを、唱えはじめた。

自然と身体について:身体は自然現象そのものであり、自然現象にぴったりとくっついている。

身体と精神について:人によっては精神は身体と独立しているかのような言い方をする人もいる。
だが、物質界に生まれ、精神が物質によって規定されているならば、精神は身体という物質に
分かちがたく結びついていると考えなければならない。

精神と社会: こう書くと、なにか絶望的な気分にもなる。精神は社会にどのような影響を
与えているだろうか?社会は、精神によって出来上がっているであろうか。
社会とは、経済のことではないだろうか?
だが私は、社会とは精神であると、言いたい、いえるくらいに活動しなければならない。


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2011年2月24日木曜日

死後の世界の前に・・・今生きているこの世界

さて、私は「あの世」とやらから、
この地上界(物質界)にやってきた。
あーだこーだと苦労しながら生きている。

しかし、物質界にいるというのに、自分の肉体が
本当に物質でできていて、物質が作用してさまざまな
生理的な反応が行われているということを
実感しているのかというと、実は怪しいところがある。

今の季節、外の空気は冷たいし、アスファルトの硬さは
靴を通して足に伝わってくる。
食べ物を食べると胃が膨らむ感じがするし、
風呂に入ると確かに暖かい。

しかし、しかし。。。一体私は、どれほどのことがわかっていると
いうのか?
自分の乏しい感覚器官を通じてしか、これらのことをわかり得ないではないか。
私たちは、現実世界の一部分しか知りえず、しかもそれも
私たちの解釈に合わせて捻じ曲げられ、仮想的な世界を作っている。
歯が痛いとしたら、私は歯の痛みを作っている。
それが、私の肉体とのコミュニケーションだ。

私は、自分が完全に物理的実体であることを、わかり切りたいと思う。
世界が存在すると確証したいと思う。


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2011年2月23日水曜日

死後の世界・・・生きている俺・・

そもそもいったい何の為に生まれてきたのか・・
しばしば疑問に思うことがある。
スピリチュアリズムは、以下のように答える。

生前のあなたは、あの世にいて、自らの霊性を高めるために
地上界(物質界)で学ぶことを決意しました。
より完全な魂をはぐくむために、地上界で修行としようと降りてきました。
地上界において生まれると、生前の決意のことは忘れてしまっていますが、
あなたはこの世で苦難や試練があったとしても、
それは必然的に与えられた修行なのです。
この世で起きることにはすべて必然的な意味があります。
立派に務めあげましょう。


このようにいわれると、大抵の悩みや苦難は、解決の方向に向かい
困難に立ち向かい、または柔軟に受け流し、
豊かで、喜びを生み出す方向に転換できるような気がするものだ。
私は、霊性を高めるため、魂を磨くため、決意をもって
物質界に修行に来ているのだ

このようにスピリチュアリズムは、人生を意義深いものにしてくれる。
この世で起こることは、意味のない偶然の現象の連続ではなく、
背面にある世界が、しっかりと意味づけして支えてくれている。
自分の生まれてきた目的は当然のこと、どんな些細な、
意味の無いように思えることも、すべて意味がある。

実にすっきりとした美しい考えだ。

ただひとつの疑問さえなければ。
その背面支持世界、霊界、私が生前いて、そしてまた帰っていく、あの世は、
一体どこにあるというのか?

ここに来て、言葉を失うのだ。
一体どこにあるというのか?

そして霊界との魂の行き来は、実際どのように行われているのか?

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2011年2月22日火曜日

死後の世界の考え方・・・

前回のテーマの調査を終えて、私は考えている。
もっともらしいことを書いたが、何か気に入らない。
なんだかこじつけがましい。

自然-身体-精神-社会をつなぐことは
「あの世」の想定をしていない。
この世の経験こそ、リアルなものである、という基調があるので
宿題を死後に持って帰らないのだ。

もし、死後の世界を想定すると、
自然-身体-精神-社会の経験が相対化されてしまうのである。

つまり、自然-身体-精神-社会をつなぐことは
「魂を磨く」ための単なる手段の一つになるだけなのである。

死後の世界を信じる者に言わせると
すべては必然であり、この世の経験すべては魂の学びである、という。

何か辛い目にあう人は、自分ではどうにもならないことを経験する
という試練をうけるべく生まれたのだというのである。

私が、自然-身体-精神-社会をつなぐなどと考え、活動していることも
前の世で私の魂が立てた学びの志のひとつであるのだろうか?

2011年2月14日月曜日

死後の世界の考え方について

自然-身体-精神-社会をつなぐことを目指す私は、やがて文化総体を見直すという大きなテーマに直面せざるを得ないと思います。「死後の世界の考えかた」は、文化圏の文化の形を考える鏡のようなものです。というのも、「死後の世界はあると思うか」という質問にはその人の死生観、人生観など重要な要素が入ってくるのであり、それら一つ一つの回答を集めると文化総体の姿が現れてくると思います


こちら↓に、「死後の世界を考えたことがありますか?」というトピックがありました。


http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0831/259967.htm?g=03


問いかけは以下の内容です。
-------------------------------------------------------------
57歳、男性です。

最近また死後の世界をよく考えるようになりました。
「また」とは、もう随分昔、学生時代には毎日のように考えていました。今居るこの自分が消滅すること、もう自分の存在がなくなることの恐怖に耐え兼ねて毎晩電気を点けっ放しで眠ったことを今でもよく覚えています。この恐怖を当時の学友に理解してもらおうと、どんなに話しても分ってもらえず、死んだらもうそれで終わり、それまでだから、考えても仕方がない。殆んど皆がこんな返事で、取り合ってくれませんでした。

その時描いていた死後の世界は、文字通り何もない、存在しない世界だったから怖くなったんだと思います。以降徐々にそんなことは考えないようになり、この年になるまで深刻に考えるようなことはありませんでした。ところがまた良くこの死後の世界を考えるようになりました。きっかけは分りませんが、最近年の余り違わない人が立て続けに亡くなり、葬儀が続いたことが一番大きな要因と思われます。

死後に何らかの世界があるなんて私には気休めにもならず、全くそんなことは考えられません。それだけに恐怖なんです。こんなことを考えるのは私だけでしょうか?
-----------------------------------------------------------------



これに対し、たくさんの回答が寄せられていました。
問いかけが真面目で切実な内容だったので、回答も真摯なものが多く、
私は、現代日本人の死生観を知るのによい資料と思いましたので、これを一つ一つ読んでいきました。

回答は実にさまざまなものがありましたが、似通っているものもあり、とりあえず分類してみることにしました。
全部で112件の回答が寄せられました。
私は、「死後の世界はある」「死後の世界はない」という軸と「死ぬのはこわい」「こわくない」という軸の4象限にわけて分類を試みました。エクセル表に分類していきさらによく読みこんで、共通する意見をまとめ、以下のように表にしました。(クリックして拡大してごらんください)



回答内容のほとんどは、トピックを立てた人を励ますためか、死ぬのは怖くないという回答です。



怖くない&死後の世界があるという人たちの多数を占めるのは
「現世はあの世で次のステージにいくための修行/学び/魂を磨くための場」という考え方です。



現世の辛いことも悲しいことも、また利己的な気持ちを持たないことも、自分の魂を高める修行であるという高い倫理性を感じさせる内容です。
それらの人たちの感覚を表す言葉で、「(死後の世界に)還る」「光になる/風になる」という言葉が目につきます。つまり、死後の世界こそ、オリジナルな、かけがえの無い固有の価値があるというのです。




怖くない&死後の世界は無い、という人たちで、多数を占めるのは「死んだら無になるので、恐れる自分もいなくなる」という単純な考えです。そして「消えて無くなることに安堵感を感じる」というむしろ死後の世界が無いことを望む声も少なくありません。


また「今日一日を生ききることが大事。今この瞬間を大切に生きる。」という回答も目に付きます。死後の世界が無いと思う人は、決して刹那的/快楽的/利己的ではなく、一度きりしかない生涯を精一杯生きるというような高い倫理を持っています。

重要な違いのように見えるのは、「死後の世界在る」派は「魂を磨く」という考えを持っていることです。
自分の心を慈愛に満ちた、清浄で透明なものにしていくという発想です。
「死後の世界無い」派は、そのような発想がありません。死んで残すような財産はないのです。しかし二度と繰り返さないこの時を普遍的な価値あるものにしようとし、他者への奉仕や喜びを分かち合うことにも重きを置いています。

「魂を輝かせる」か、「今という瞬間を輝かせるか」の違いであり、価値の極大化を図ろうとする態度は同じといえます。
互いにその心情は理解できないにもかかわらず、もう一派の考えを受容することができるという構造を持っています。
同じ文化圏の中で両立可能であるということです。



これは、決して文化の矛盾や混乱ではなく、生きる価値の極大化という一致する価値観を持っているからであろうと思います。

次回は、「死後の世界」のいくつかのモデルパターンについて考察したいと思います。



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