2011年3月2日水曜日

感覚は、作り出すのか?それとも、受け取るのか?



昨日の朝は、美しい青空だった。
気温も暖かく、本当に過ごしよい日だった。

近所の大きな公園に行った。
青空を飛行機が飛んでいた。飛行機雲が一直線に線を描いていた。
私は手を伸ばして、空に線を描いた。のではなくて、描く真似をした。

このような時、自然がぴったりと私に貼りついているように感じるものだ。
本当に足が大地から生え、手が空に届きそうな気がする。

この気持ちの良い伸び伸びした気分は、
私が単にそう感じているのではなくて、
どうしても、もともとそこに在ったものを私が感じ取っている、
と思わざるを得ない
・・・・ような気分になる。

私は、空や大地を、自分の身体のように感じたいと思っている。

大きな石の上に身を横たえた。
石は硬く、ごつごつしていた。この、「ごつごつした硬い感じ」は
私が勝手に感じているのではなくて、石に元々備わっている特性でもあるはず。
したがって、「ごつごつした硬い感じ」は、石と私の中間にあるように思える。
「ごつごつした硬い感じ」が石と私の出会いを決定的なものにする。
「ごつごつした硬い感じ」が、石と私の存在を定義する。

感覚は、何を起源とするものか?感覚はどこから発生するのか?

石の接触が私の触覚を刺激し、脳内で統合的解釈をつくりだす・・・・という単純なものではあるまい。

「ごつごつした硬い感じ」が、まさに世界を作り出す。現象学的に言えば、世界を開示する。
だから、どうしても「自分がつくりだす」よりは、「向こう側からやってくる」ような気がする。
僕らは何かを感じるごとに、世界を切り開いているのだ。

たぶん作り出している=解釈しているのではなく、受け取っている のでもない。
その場で発生し、その場で事件が起きている。その事件は、私と対象物が何物であるかを定義する。

どこから発生するのか?わからない。とにかくどんどん出てくるのだ。
お茶と食塩


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霊界 と クラウドコンピューティング

私は考えるのがだが、霊界のあり場所さえわかれば・・・わからないまでも、仮説くらい立てることができれば ぐっと現実味が増してくるというものだ。

ひとつの仮説として、クラウドコンピューティングをヒントにした霊界のモデルを試みてみようと思う。

なんのことやら分からぬという方々が圧倒的と思いますが、クラウドコンピューティングとは、何かということは、ご自分で検索して調べていただくとして、要は端末となるPCは通信機にすぎず、ハードウェアやOSやアプリケーションソフトは、どこかのサーバーにあるものを借りるというシステムです。そのサーバーがどこにあるかは、ユーザは分かりません。分からなくてもいいというのがこのシステムの自由なところです。実際は、処理はいくつかまたはたくさんのサーバーに分散して行なわれており、データ内容もどこにしまってあるのか、ユーザにはわからないのです。まるで雲の中から情報や処理サービスが降ってくるようなので、クラウドと呼ばれています。

さて、私は考えるのですが、個人の経験や体験は、個人だけのものなのか、つまり、個人の脳内だけで行なわれているものなのか。

実はさまざまな人の脳がサーバーの役目をしていて、記憶や経験、感覚は個人以外の別の人の脳でも処理されているのではないか?

つまり、私が今経験している事実は、何百、何千、何万という他の人の脳で深層心理として処理され記録され、バックアップをとられているかもしれない。

人間は一人一人違っていて、隔絶していて、孤独なようでいて、実はそうではなく、人間の考えや思考、経験、生活などはほとんど類型的であり、その差異は、非常に少ない情報量で区別がつくものではないのか?

私の意に反して、私の考えや思考や経験は私だけのものではなく、私に接する多くの人に共有されており、仮に私が死んだとしても、それらのバックアップを総合的に組み立てれば、田島鉄也がもう一人出来上がるのではないか?

例えばドラマなどで、兄が死んで落胆している弟に対し、「お兄さんは死んではいない。君の心の中で生き続けている」などといって慰めるセリフがあるが、それにはかなりのリアリティがあると思うのです。

すなわち、私の脳、または私という経験的事実は、実はPC端末にすぎず、たいしたメモリもCPUもアプリソフトも持っていない。通信、入力、ディスブレイをするだけのものであって、実体はクラウドの中に・・・数限りないサーバー(つまり数限りない他者)の中にあるのではなかろうか?

私は死んだとする、しかしそれは端末としての私が死んだに過ぎない。私のことを記憶している人々がいる。だから私は決して無にならない。その記憶している人々もすべて死んだとする。私が存在したという事実や伝承や、うわさが一切無くなって、はじめて私は死ぬことができる。

しかし、私の子供が、そのまた子供を設けていたとすれば、私の遺伝子は受け継がれているので、私は決して無になることはできない。

完全に死ぬ・無になることは極めて難しいことだ。

さて、霊界と呼ばれているものは、このようなある文化圏を共有する人々全体が構成するクラウドであって、実はそれは、私たちが想像する以上に豊穣で奥が深く、何層にも分かれていて、あたかも別のいくつもの世界があるかのようなものとして、現実に働いているのではないだろうか???

端末として機能している個人は、生前せっせと情報をクラウドに送り続け、バックアップをとり続けて、死んで端末がなくなったら、クラウドの中ではあたかもひとつの人格であるかのように機能するのではないか?

文化圏ひとつに対してひとつのクラウドがあって、クラウドの中で死者は生き続け、そしてある場合にはそれがまた端末として再生される(生まれ変わり)・・・・

この世に未練を残してきた故人は、ある性能の良い端末を選んで自分の姿を見せたりする(幽霊)・・・・・

さて、この説の最大の弱点は、端末とクラウドの通信手段です。個人との会話や姿の印象だけで、その人の人格や経験などがバックアップされるというのは、確かに根拠が薄い。

人間もわずかな電磁場を感じる能力があるというので(人の気配というものは、運動する人の発する微弱電磁波を他の人が皮膚で感じ取るということらしい)、視覚・聴覚以外の感覚伝達が行なわれている可能性はあるのではないか??



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2011年2月27日日曜日

身体感覚を取り戻す

現実に、自分が物理的に存在していることを、腹の底から実感するには
どうしたらいいだろうか。

私がたどり着いた結論

やはり、身体  なのです。

身体こそが、自分が物理的に存在していることを証明する唯一のものです。

私が25歳にして無謀にもラグビーを始めたのも
今にして思えばそういう身体的実感を求めていたのだろうと思います。

しばらく前に、この本を手にしました。

動画を追加
今では超有名人となった斎藤孝氏の数ある著書のなかでも
一番のお勧めです。
冒頭部分を引用します。


"最近、自己の存在感の希薄化がしばしば問題にされる。自分がしっかりここに存在していると感じられるためには、心理面だけでなく、身体感覚の助けも必要である。現在の日本で、自分のからだに一本しっかりと背骨が通っていると言うことができる者はどれだけいるであろうか。あるいは、「腰が据わっている」や「肚(はら)ができている」や「地に足がついている」といった感覚を自分の身において実感できている者はどれだけいるであろうか"

---身体感覚は、「技」である、ということは目から鱗であった。
存在する、ということは、哲学の問題ではなく、身体の問題、身体の技術の問題なのだ。
「存在するための技術」があったのだ。


日本には、身体の感覚をつくる技があって、もっとも重視されたのが「肚(はら)」である。
具体的にはヘソの下の部分。臍下丹田(せいかたんでん)と呼ばれている身体の中心である。

浴衣やハッピを着るとその上で帯を締めるようになっていて、なるほどと思ったものだ。
さて、この丹田の感覚、身体の中心感覚は、技として作っていくものです。
そして約1年前、私は、丹田の形成を始めました。

丹田について(2010年3月6日)

丹田形成 その後(2010年3月10日)


それから1年、粘り強く 丹田呼吸法をやって、最近は下腹に充実感を感じるようになりました。
つねに帯を締めていて、ギュっと締まっているような感覚です。

これが身体の中心感覚なのか、と実感しています。
こうして私は、自分が物理的に存在していること、の実感を、技として手に入れることができました。
精神と身体がぴったりとくっついている感じ。。。。penetrationの感じを獲得しつつあります。

ただ、私が以前感じていた、世界との遠さ・・・感覚の窓を通じてしか世界とコミュミニケートできないという、いわば現象学的な遠さ・・・それは、完全に克服されたわけではありません。
いえ、それは克服は不可能で、カントがいうように「物自体の認識は不可能」なのですから。


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2011年2月25日金曜日

penetration(貫き通す)の感覚

penetration(貫き通す)の感覚は、私にとって非常に重要である。

何かと同一化しているかのように刺し貫かれていること。
ぴったりとくっついて、串刺しになっている感じである。

焼き鳥が串に刺し貫かれているように、
ホッチキスが紙を刺し貫いて止めているように。

私は、自然-身体-精神-社会をpenetrationすることを、唱えはじめた。

自然と身体について:身体は自然現象そのものであり、自然現象にぴったりとくっついている。

身体と精神について:人によっては精神は身体と独立しているかのような言い方をする人もいる。
だが、物質界に生まれ、精神が物質によって規定されているならば、精神は身体という物質に
分かちがたく結びついていると考えなければならない。

精神と社会: こう書くと、なにか絶望的な気分にもなる。精神は社会にどのような影響を
与えているだろうか?社会は、精神によって出来上がっているであろうか。
社会とは、経済のことではないだろうか?
だが私は、社会とは精神であると、言いたい、いえるくらいに活動しなければならない。


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2011年2月24日木曜日

死後の世界の前に・・・今生きているこの世界

さて、私は「あの世」とやらから、
この地上界(物質界)にやってきた。
あーだこーだと苦労しながら生きている。

しかし、物質界にいるというのに、自分の肉体が
本当に物質でできていて、物質が作用してさまざまな
生理的な反応が行われているということを
実感しているのかというと、実は怪しいところがある。

今の季節、外の空気は冷たいし、アスファルトの硬さは
靴を通して足に伝わってくる。
食べ物を食べると胃が膨らむ感じがするし、
風呂に入ると確かに暖かい。

しかし、しかし。。。一体私は、どれほどのことがわかっていると
いうのか?
自分の乏しい感覚器官を通じてしか、これらのことをわかり得ないではないか。
私たちは、現実世界の一部分しか知りえず、しかもそれも
私たちの解釈に合わせて捻じ曲げられ、仮想的な世界を作っている。
歯が痛いとしたら、私は歯の痛みを作っている。
それが、私の肉体とのコミュニケーションだ。

私は、自分が完全に物理的実体であることを、わかり切りたいと思う。
世界が存在すると確証したいと思う。


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2011年2月23日水曜日

死後の世界・・・生きている俺・・

そもそもいったい何の為に生まれてきたのか・・
しばしば疑問に思うことがある。
スピリチュアリズムは、以下のように答える。

生前のあなたは、あの世にいて、自らの霊性を高めるために
地上界(物質界)で学ぶことを決意しました。
より完全な魂をはぐくむために、地上界で修行としようと降りてきました。
地上界において生まれると、生前の決意のことは忘れてしまっていますが、
あなたはこの世で苦難や試練があったとしても、
それは必然的に与えられた修行なのです。
この世で起きることにはすべて必然的な意味があります。
立派に務めあげましょう。


このようにいわれると、大抵の悩みや苦難は、解決の方向に向かい
困難に立ち向かい、または柔軟に受け流し、
豊かで、喜びを生み出す方向に転換できるような気がするものだ。
私は、霊性を高めるため、魂を磨くため、決意をもって
物質界に修行に来ているのだ

このようにスピリチュアリズムは、人生を意義深いものにしてくれる。
この世で起こることは、意味のない偶然の現象の連続ではなく、
背面にある世界が、しっかりと意味づけして支えてくれている。
自分の生まれてきた目的は当然のこと、どんな些細な、
意味の無いように思えることも、すべて意味がある。

実にすっきりとした美しい考えだ。

ただひとつの疑問さえなければ。
その背面支持世界、霊界、私が生前いて、そしてまた帰っていく、あの世は、
一体どこにあるというのか?

ここに来て、言葉を失うのだ。
一体どこにあるというのか?

そして霊界との魂の行き来は、実際どのように行われているのか?

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2011年2月22日火曜日

死後の世界の考え方・・・

前回のテーマの調査を終えて、私は考えている。
もっともらしいことを書いたが、何か気に入らない。
なんだかこじつけがましい。

自然-身体-精神-社会をつなぐことは
「あの世」の想定をしていない。
この世の経験こそ、リアルなものである、という基調があるので
宿題を死後に持って帰らないのだ。

もし、死後の世界を想定すると、
自然-身体-精神-社会の経験が相対化されてしまうのである。

つまり、自然-身体-精神-社会をつなぐことは
「魂を磨く」ための単なる手段の一つになるだけなのである。

死後の世界を信じる者に言わせると
すべては必然であり、この世の経験すべては魂の学びである、という。

何か辛い目にあう人は、自分ではどうにもならないことを経験する
という試練をうけるべく生まれたのだというのである。

私が、自然-身体-精神-社会をつなぐなどと考え、活動していることも
前の世で私の魂が立てた学びの志のひとつであるのだろうか?

2011年2月14日月曜日

死後の世界の考え方について

自然-身体-精神-社会をつなぐことを目指す私は、やがて文化総体を見直すという大きなテーマに直面せざるを得ないと思います。「死後の世界の考えかた」は、文化圏の文化の形を考える鏡のようなものです。というのも、「死後の世界はあると思うか」という質問にはその人の死生観、人生観など重要な要素が入ってくるのであり、それら一つ一つの回答を集めると文化総体の姿が現れてくると思います


こちら↓に、「死後の世界を考えたことがありますか?」というトピックがありました。


http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0831/259967.htm?g=03


問いかけは以下の内容です。
-------------------------------------------------------------
57歳、男性です。

最近また死後の世界をよく考えるようになりました。
「また」とは、もう随分昔、学生時代には毎日のように考えていました。今居るこの自分が消滅すること、もう自分の存在がなくなることの恐怖に耐え兼ねて毎晩電気を点けっ放しで眠ったことを今でもよく覚えています。この恐怖を当時の学友に理解してもらおうと、どんなに話しても分ってもらえず、死んだらもうそれで終わり、それまでだから、考えても仕方がない。殆んど皆がこんな返事で、取り合ってくれませんでした。

その時描いていた死後の世界は、文字通り何もない、存在しない世界だったから怖くなったんだと思います。以降徐々にそんなことは考えないようになり、この年になるまで深刻に考えるようなことはありませんでした。ところがまた良くこの死後の世界を考えるようになりました。きっかけは分りませんが、最近年の余り違わない人が立て続けに亡くなり、葬儀が続いたことが一番大きな要因と思われます。

死後に何らかの世界があるなんて私には気休めにもならず、全くそんなことは考えられません。それだけに恐怖なんです。こんなことを考えるのは私だけでしょうか?
-----------------------------------------------------------------



これに対し、たくさんの回答が寄せられていました。
問いかけが真面目で切実な内容だったので、回答も真摯なものが多く、
私は、現代日本人の死生観を知るのによい資料と思いましたので、これを一つ一つ読んでいきました。

回答は実にさまざまなものがありましたが、似通っているものもあり、とりあえず分類してみることにしました。
全部で112件の回答が寄せられました。
私は、「死後の世界はある」「死後の世界はない」という軸と「死ぬのはこわい」「こわくない」という軸の4象限にわけて分類を試みました。エクセル表に分類していきさらによく読みこんで、共通する意見をまとめ、以下のように表にしました。(クリックして拡大してごらんください)



回答内容のほとんどは、トピックを立てた人を励ますためか、死ぬのは怖くないという回答です。



怖くない&死後の世界があるという人たちの多数を占めるのは
「現世はあの世で次のステージにいくための修行/学び/魂を磨くための場」という考え方です。



現世の辛いことも悲しいことも、また利己的な気持ちを持たないことも、自分の魂を高める修行であるという高い倫理性を感じさせる内容です。
それらの人たちの感覚を表す言葉で、「(死後の世界に)還る」「光になる/風になる」という言葉が目につきます。つまり、死後の世界こそ、オリジナルな、かけがえの無い固有の価値があるというのです。




怖くない&死後の世界は無い、という人たちで、多数を占めるのは「死んだら無になるので、恐れる自分もいなくなる」という単純な考えです。そして「消えて無くなることに安堵感を感じる」というむしろ死後の世界が無いことを望む声も少なくありません。


また「今日一日を生ききることが大事。今この瞬間を大切に生きる。」という回答も目に付きます。死後の世界が無いと思う人は、決して刹那的/快楽的/利己的ではなく、一度きりしかない生涯を精一杯生きるというような高い倫理を持っています。

重要な違いのように見えるのは、「死後の世界在る」派は「魂を磨く」という考えを持っていることです。
自分の心を慈愛に満ちた、清浄で透明なものにしていくという発想です。
「死後の世界無い」派は、そのような発想がありません。死んで残すような財産はないのです。しかし二度と繰り返さないこの時を普遍的な価値あるものにしようとし、他者への奉仕や喜びを分かち合うことにも重きを置いています。

「魂を輝かせる」か、「今という瞬間を輝かせるか」の違いであり、価値の極大化を図ろうとする態度は同じといえます。
互いにその心情は理解できないにもかかわらず、もう一派の考えを受容することができるという構造を持っています。
同じ文化圏の中で両立可能であるということです。



これは、決して文化の矛盾や混乱ではなく、生きる価値の極大化という一致する価値観を持っているからであろうと思います。

次回は、「死後の世界」のいくつかのモデルパターンについて考察したいと思います。



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2011年2月7日月曜日

安齊重男さんにActionの写真プリントをいただきました。


アート・フォトグラファーの安齊重男さんに
私の最終日のアクションの写真を撮っていただき、プリントをいただきました。

こう撮ってもらうと、たぶん実物よりもカッコいい。(だろうと思う)
デジタルの時代に、白黒フィルムを使い、印画紙に焼き付ける
この技の全体が、何ともいえずカッコいい。
これは完全に安齊さんの作品。私は安齊さんの視点によって解釈され、表現されています。

ありがとうございます。安齊さん。


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2011年2月3日木曜日

Action!!






アーティストの飯沢康輔さんの撮ってくれた写真。

ご自身のブログでも我が意を得たりの内容を書いてくれています。



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2011年1月30日日曜日

芸術家の社会的役割について

1月23日-29日の個展において、私は会場で文章を発表した。
以下に転載します。

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自然-身体-精神-社会をつなぐ     


        田島鉄也

 米糊に食用の竹炭を入れ、手で塗る。
 私はこの行為について、「制作」「ペインティング」「描く」などの言葉を使わないようにしている。
 これは、自然-身体-精神-社会をつなぐ、ダイレクトな行為である。
 私たちの身体は自然そのものであり、私たちの意図に関係なく代謝、呼吸、循環、排泄などの精緻な過程が滞りなく行なわれている。当たり前だと思っているが、考えてみれば気が遠くなるほど凄いことだ。
 それを表現しようとしたとき、私は既存の絵具は使えなくなってしまった。もっと身体に直接響くもの、食べ物を使うしかなかった。
 それを手で塗り、視覚的な形とすることによって、身体と精神をつなぐ。
 ギャラリーやWebサイトで発表することによって社会につなぐ。

 古代の社会では神話・儀式・祭など、自然-身体-精神-社会をつなぐ仕組みが首尾一貫した形であった。というのも自然の力が圧倒的だったので、人間は祈ることくらいしか出来なかったのだ。
 最近の100年、論理と勤勉の力で、人間は自然を分析し、効率的に養殖や栽培し計画的に資源を社会に投入できるようになった。
 衛生と医学知識の進歩によって、身体に対する考えも変わった。いまや健康診断が一般化し、コレステロール等の専門用語を用いて「健康」を物質の測定値から「管理」できるようになった。
 誠に結構なことだが、何かが失われているのではないか?私の心の本質が問うのだ。何かが違っているのではないか?人間は自然との直接的関係を失い、身体の居場所がさだまらず、精神が漂流しはじめている。
 自然は産業として利用される工場となってしまった。地球の温暖化が進んでいると報告されると環境問題が取りざたされる。しかし環境問題は重要だが、それは実は経済問題だ。基本路線は同じなのだ。
 自然に触れる旅に出たりする。しかしその必要はない。私達には身体があり、大いなる自然を持ち歩いているのだから。
 ガイアなどの新しいパラダイムが提唱される。それも必要ない。自分の身体で起こっていることを思えば自明なことではないか。

 私は、古代の人間が常識として持っていたことを改めて言い始めた。今は、芸術というワクの中での発言だが、いずれそのワクを超え出て人々の生活信条とも共鳴し、いつしかこの歪んだ社会が適正化されることを願うのだ。
 今わが国は、人々がどの方向を向いて良いのかわからず混迷している。私はあえて、内側を見るべしと申し上げる。自分達の足元をみつめ、自分の身体と自然とのつながりを意識し、土地や文化のつながりを意識し地域社会を再生すること。私は、この日本が、自然から社会へ一貫性をもってつながる世界で最初の社会になって欲しいと願うのである。

2011/01/25
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補足を申し上げる。

芸術には社会的な役割と、社会的な責任がある。
もちろん、芸術家は自分の好きなものを好きなように追求すればよいと考える方もいるであろう。
それはそれで結構。それは本質的なことだ。
しかし、多くの人が芸術に何かを期待し、沢山の地方で芸術祭が行なわれ、
そして(何と!)国家や自治体が少なからぬ予算を費やしているという事実を見ると
一体芸術家は何をすべきなのか、芸術家本人も少しは自覚したほうが良いと思う。

「いやそういうことはプロデューサーやキュレーターの役目だよ、そんな公務員みたいな芸術家がいるもんか。世間の目を気にして去勢されるつもりか」
と批判する方もあるかもしれないが、それは誤解だ。
私は「世の中のためになるアート」なんていう馬鹿馬鹿しいことを言っているのではない。

少なくとも自分が今どこにいて、どちらの方向に向かっているのか、芸術家本人も見定めておかなければならないだろう。

15年も前の話だが、コンセプチュアル・アーティストのローレンス・ワイナーのセミナーを受けたことがある。
講義の合間にベランダにいると、ワイナーがやってきた。
その時の私は、ミニマリズムのあとのニューペィンティング現象や、ポストモダンなどの流行を見て、現代美術が何をしているのかわからなくなっていた。


私が片言の英語で「多くの人が『芸術のための芸術』(Art for Art)をやっているように思える」と言うと、彼は言った
「No. Art for People」
(いや、人々のための芸術だ)

思わぬ回答に、私は質問を返す間もなく、次の講義の時間になってこの会話はそれきりになってしまったが、
以来、Art for people は私の中での課題となったのだ。



長い間かけて以下のように考えるようになった。



作品は1つのPと2つのCから成っている。

Concept (作者の意図。作品の核心部分)
Presentation(表現方法。芸術としての本質的なところ)

そして
Context:文脈(その作品を発表することの社会的な意味、作品を成り立たせている社会的な基盤)

多くの制作者はConceptとPresentationに圧倒的な時間をかける。Conceptを練り上げ、Presentationに命を削る。
しかし、Contextも、前二者と同様、絶えず批判を加え、再構築していく必要があるものだ。
Contextの中にはPeopleが大きな位置を占めるであろう。もちろん自分を含めてのPeopleなんですが。


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Action Movie



米糊を塗る行為の動画です。

撮影は2月29日の14:00の回


Youtubeにも公開しました。

http://www.youtube.com/watch?v=QAH6ez8ILJI



同日の17:00の回では、アート・フォトグラファーの
安斎重男さんがいらっしゃって写真を撮っていただきました。

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2011年1月27日木曜日

大きな壁面と格闘




昨日は東の壁と南側の壁に取り組んだ。
南側の壁は一番大きな画面である。

隅から隅まで力を込めて塗るので、精神的にも肉体的にもエネルギーをつかう。

終わったら息が切れている。
身体と精神がつながっている。来た人と話をし、社会とつながる感じもしている。


最終日(1月29日)のActionは14:00と16:00です。



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個展  終了まであと1日

2011年1月26日水曜日

Action !
























1月24日、1回目のActionです。

会場にて佐藤毅さんのご厚意で撮影していただけました。


紙に手で塗りこめるときの、米糊のぬるぬるどろどろした手の感触は重要なことです。肉体的行為が手の感覚で、視覚芸術(精神)に直接つながる瞬間です。

呼吸を整えたあと、米糊に一礼するのは、食べ物として作られたものへの敬意を表します。

今日(1月26日)17:30と18:30からActionです。

最終日(1月29日)は14:00と16:00です。



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個展  終了まであと3日



2011年1月23日日曜日

個展搬入!














搬入してきました。

壁いっぱいの大画面。4面すべての塗り行為をするのは、体力的にきつかった。

明日、初日は

17:30より1面

18:30より1面

それぞれ新しい紙を貼りなおして塗りなおします。


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個展初日まで、あと1日

2011年1月21日金曜日

死後の世界の考え方について

現代の価値観の再構築を考えている私としては
死んだらどうなるのか、という問題 つまり死後の世界については
無関心ではいられない。

ネットで調べてみるといろいろな考えの人がいます。
死んだら何も無くなる。無である。と考える人は多いです。
これはシンプルで良いのですが、何か収まりが悪いです。

死後の世界はある、と考える人の中でたぶん一番多いのが
死後の世界は高級から低級まで(前者を極楽、後者を地獄というパターンが典型)たくさんの階層があって、人はあの世からチャンスを与えられてこの世に修行にきていて、
この世で徳をつめば、あの世ではよりグレードの高い階層にいける
というものです。

このようなシステマチックな世界が出来ているのか、わかりませんが
私には何か逆転された現世利益ともとれなくもありません。

そのほか、死んだら一時的に魂が目に見えぬところで漂い、しばしば沢山の魂が集まって
集合体となって、いつかまたそこから分離して生まれ変わるようになる。という考え。


死後の世界は無い、と考える人にも、死んだら肉体の分子は分離し、土や海や大気となって散らばり、再び自然の活力となることに意義を見出してる人もいます。


そんなことを考えるよりも、今を精一杯生きるのみ、と言って回答を断じてしまう人もいます。


私が興味深いのは、皆回答がバラバラだということ。
バラバラだけれども、何か共通性が見いだせそうな気がするということです。
死後の世界の考え方は、自然-身体-精神-社会 をつらぬくラインと平行して走っている問題です。

どうもしばらく私の問いは続きそうな気がする。


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個展初日まで、あと3日

2011年1月16日日曜日

感覚トレーニング



水を飲むと胃のあたりが硬くなるような感じがする。
そして、その下の腸が充実した感じがする。
腸から水が吸収されているのがわかる。


内臓やら循環器などの器官は僕達の意識(自我)とは独立したもので
意識で動かしたり止めたりすることはできない。


実は身体の主導権を握っているのは彼ら消化器官の方かもしれない。


そして生命誕生から今日まで脈々とその秘密を守り通し、伝え貫いてきたのも彼ら内臓である。


自我は本当に小さいものであり、それら大いなる身体にとっては不調のときに掲示する掲示板程度のものかもしれない。

そうです。自分の身体は自分のものではありません。自然が与えてくれた大いなる知恵です。

自我が考えることなど、それに比べれば大したことはない。

だから自然-身体-精神の つながりは、当たり前すぎるほど当たり前のことなのです。

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個展初日まで、あと8日

2011年1月10日月曜日

感覚トレーニング

今日はちょっと濃度と粘りの調整に苦労した。
利き手は右手なので左手のコントロールがうまくできない。
紙の「たるみ」でシワができてしまうことがある。




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2011年1月8日土曜日

感覚トレーニング

まだ暖かい米糊を塗るのは快感である。
アクションと感覚が一体となる。
ややストロークを大きくしたが、その辺の感じが出ているだろうか・・




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DM発送!



DMを発送しました。

2-3日経っても届かない方で欲しい方がいたら
DMくれと 
te-tajima@jcom.home.ne.jp  までご連絡ください。

情報は
こちらでも確認できます。







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2011年1月4日火曜日

感覚トレーニング

トレーニングしているのは触感だけではなく
全感覚的なものなので、
感覚トレーニングということにする。

これをやるまえには、必ず黙想し、
丹田呼吸をおこなう。
内臓感覚も取り入れるためである。

塗る前に米糊を入れたボウルに一礼。
食べ物に対する敬意である。
ストロークを大きくし、身体スケールに連動させた。




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2011年1月2日日曜日

聖なる一月

皆様
明けましておめでとうございます。

年があけて正月。
近くの環七を通るクルマの数も少ないのか、朝外に出ると静かだ。

ニーチェの「悦ばしき知識」第四書のタイトルは「聖なる一月」という。 まさにそんな気分だ。

新しい年に望んで。---なお私は生きており、なお私は考える。(ニーチェ「悦ばしき知識」第四書「聖なる一月」より 信太正三 訳)

さて、元日の日本経済新聞の1面の見出しは「先例なき時代に立つ」というものだった、我々はかつてない社会の内部からの変化に晒されている。

(以下は日経に載っていた内容とはすこし違うが、私が日本の社会的変化の特徴を上げる)
・類例を見ない少子高齢化、人口減。
・莫大な公債発行額
・年金・医療保険などの社会保障の崩壊に現実味
・無縁社会といわれる社会構造の変化
・新興国の台頭

日経の論調は、「日本は明治維新、戦後復興という2度の奇跡を成し遂げた。しかしそれはいずれも外圧によるものであった。初めての訪れた内部からの変化に3度目の奇跡を起こすことができるであろうか」
という内容で問題提起していた。

私の考えはまだまとまっていない。しかしその構想をたどたどしいながら記しておこう。

私は、ここで問題をとらえる軸を変えることを提案する。


行政を維持していくために、増税はやむをえないだろう。
しかしそのあと、社会のあるべき方向は、いままでと同じ路線ではありえないと思う。
人々が目指す方向を失い、停滞することが、社会の崩壊を招く。


明治維新、戦後復興も、モダニスムに沿った改革であった。はっきり言えば資本主義的な革命であった。
そして、モダニスムが行き詰った現在、モダニスムではない方向、先史時代に学ぶ方法を提起する。
自らの身体を見つめ、身体の文化に沿った方法である。
自然-身体-精神-社会を一本につなぐ仕組みを持たなければならない。
もちろん昔のものを復活させるのはナンセンスだ。
太古の時代は、神話、儀式、シャーマンなどがその役割を負っていたが、
現代では、生命科学、脳科学などが明らかにする生命や意識の姿がそのバックボーンとなるのだ。
そもそも今、人々がどの方向を向いて良いのかわからず、混迷していることが問題である。
私はハッキリと、内側を見るべしと申し上げる。
自分達の足元をみつめ、自分の身体と自然とのつながりを意識し、地域社会を再生する。
私は、この日本が、自然から社会へ一貫性をもってつながる
世界で最初の社会になって欲しいと願うのである。


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