2010年1月20日水曜日

幻の民 ケルト





http://www.ponycanyon.co.jp/video/celts/


先週、「幻の民 ケルト人」という
BBCのドキュメンタリー番組を収録したDVDを借りてきて
6話6時間を全部みた。

古い番組だが、本当に新鮮だった。



ケルト人----紀元前1世紀ほど前にヨーロッパで栄えた民族
高度な金属細工技術を伝え、
水を神聖なものとして祭り、動物と人間を区別しない多神教。
定住せず、移動を続けた放浪の民。

生と死を連続したものと見て、
戦いを重んじ、剣をつかった戦いのゲームを好んだ。
既に鉄器を知っていた彼らは、戦士や戦いを尊び、
それゆえ、ローマから好戦的とか、野蛮というレッテルを貼られていた。


多種の魅力的な神話を持ち、その数々の神話が
今日のイギリス文学を生み出す元となった。


派手な衣装をまとい、ヨーロッパ一カラフルな民族と呼ばれた。
文字をもたず、口承で分化を伝えていた。


神々に生贄をささげ、
人間の頭部を特別な力があると考えて
敵の頭部を切り取って祭っていた。

後にローマ帝国に追われ、
アイルランド、ウェールズ、スコットランド、そしてフランスのブルターニュに
その文化の痕跡を残すのみ。

(画像は、ここからお借りしました。http://www.nichiai.net/gallery/top.html
荒涼とした、しかし湿気を帯びた大地。
静寂の河や湖。
馬を駆って走るケルトの民。

ケルトは僕らの想像力を刺激してやまない。


ケルトの持つ世界観は、非常に感覚的であり、
身体的、そして直観的だ。

感覚とか、身体的とか直観的とかいうのは
知識や理屈抜きで、いっぺんに全部を理解できてしまう、という意味だ。
取引や、享楽や、自然との関係を、
現代の私たちとは全く違ったしかたで理解していたのだ。

それに匹敵するものとして日本には縄文があった。

いつかアイルランドへ、そしてウェールズへ行きたい。




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2010年1月17日日曜日

神田神保町の「路地と人」に搬入





神田神保町のギャラリースペース「路地と人」に


パックされた本の作品7つ置いてきました。


1つ1500円。

私の著書、〈野性〉論 も置かせてもらいました。

4月からの本格オープン前のプレ企画だそうで、

ハデな催しではありませんがアットホームな感じのいい場所です。

路地を入ったわかりにくい場所にあるため、

地図をプリントアウトしていったほうがいいですよ。

「路地と人」ホームページ↓

http://rojitohito.exblog.jp/





近くにあった建物の壁


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大地の暴力

今日1月17日は、阪神淡路大震災の起きた日です。


そして数日前、ハイチで巨大地震が起きました。
さて、僕たち人間は「巨大」地震といっていますが、
地球の大きさに比べると本当に微々たるものです。



地球の直径は1万3千キロメートルくらいで、
僕たちの住んでいる大陸の地殻は
厚さが僅か30キロメートルくらいです。


つまり、地球を直径1メートル30センチくらいの
大きなボールと考えると、大陸の厚みは僅か3ミリです。
リンゴに例えれば内部のコアがリンゴの芯で、
果肉は対流するマントル、
大地はリンゴの皮の部分です。


大地とは、マントル対流の上に載った、薄皮のようなものです。


牛乳を鍋で熱すると表面に皮膜ができますけれども、
私たちの暮らしている大地は、まさにそんなようなものです。


巨大地震というものは、その薄皮の表面の一部が、
ちょこっと揺れた程度のものです。


しかし、そのちょこっと揺れた程度のことが
私たちの生活に決定的な大打撃をあたえるわけです。




僕は、地震が大嫌いで、
この大地の暴力の強大さに身震いします。


岩石は非常に硬いものですが、
もともとは、海の底に溜まったやわらかい泥だったはずです。
それが、このような硬い岩石になった、ということは
よほど巨大な力が加わったと思います。


僕は、岩石を自分の手のひらの中心部分(たなごごろ)で握ると、
その暴力的な力を感じます。



(「たなごごろ」については以下を参照)
http://te-tajima.blogspot.com/2009/12/blog-post.html





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2010年1月14日木曜日

神田で本の展示

私の本の作品が、本の町、神田神保町で展示されます。
本好きな私としては嬉しい限り・・・

展示されるのは、このときの作品の何冊かです。販売もしますが、価格は変わっています。
http://te-tajima.blogspot.com/2009_07_01_archive.html



以下、イベント主催者の言水ヘリオさんからの案内をコピペでお伝えします。
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このたび、神田神保町にて展示やイベントを行うスペースを共同運営することになりましたのでお知らせいたします。

スペース名:路地と人

運営メンバー:安岐理加、大村みよ子、言水へリオ、原田淳子
住所:101-0051 東京都千代田区神田神保町1-14 英光ビル 2F
アクセス:地下鉄神保町駅A5出口より徒歩2分

連絡先:現在準備中につき1月のイベントについては各運営メ ンバーまでお願いいたします
ホームページ:http://rojitohito.exblog.jp/

※正式オープンは2010年4月上旬です。3月まで は準備期間として展示やイベントを予定しております。

--------------------------
まず、1月は……

『逃げろ!半分書店~国際ブック・アート・ピクニックを西に見 て』です!
場所:路地と人(神田神保町)
日時:2010年1月15日(金)~1月31 日(日) 
水木曜日定休13時~19時(最終日はイベント開催のため16時で終了 します)

本を持って逃げる。
本は「逃げるとき」に持っていける。
通勤と本、旅と本。時間の洪水と本。そこには何でも書いてある。
美術作品は逃げるときに持っていけるだろうか?逃げるときに(美術を)行うことはできる?

大阪の「やっぱり本が好き!国際ブック・アート・ピクニック」(2010 年1/19~31  http:// bookartpic.exblog.jp/ )の開催にともない、東京でも本と美術に ついて「書店」「展示」「飲食歓談」という3つのセクション を通して考えてみよう、という試みです。

「書店」では美術館やギャラリーなどの刊行物、美術家の本、作品 集を販売します。
「展示」では本にまつわる美術作品を展示します。
上野慶一、淤見 一秀、コイズミアヤ・関口涼子、平良亜弥、田島鉄也、利根川友 理、原田淳子、福田尚代、ふるさかはるか、以上各氏の作品展示と なります。

「飲食歓談」ではゲストを招き、本と美術を話題に飲食歓談しま す。今回のゲストは、「気どるな、力強くめしをくえ!」を掲げ る、ライターの遠藤哲夫さんです。→ブログ「ザ大衆食つまみぐい」http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/

■ 1/15(金)日没~ (1 drink order & free foods)
「ただいま準備中、路地と人」
「路地と人」を公開する初めての日を祝ったパーティです。
みなさんと情報交換などできたら嬉しいです。
お誘い合わせのうえぜひいらしてください。

会期中、運営メンバーによる三日間限定喫茶と、大阪レポートも開催いたします。
■1/22(金)~1/24(日)13:00~19:00  
(入場無料)
「安岐理加 半分喫茶」自家焙煎珈琲とひらめきおやつ(その他の 飲み物も有り)
半分書店で半分喫茶。
そこは時間の隙間? 
それともつかの間の居場所?それぞれの路地をつないでたどりつく人々。
オープンからクローズまで3日間だけ美術と本と喫茶を試みます。

■1/29(金)19:00~20:00 (入場無料・予約不要)
「ザ大阪スライドショー」
1月23日(土)に大阪で行われる二つのイベント「OCA! シンポジウムアートの力を信じる。~釜ヶ崎での取り組みを事例に、地域とアー ト、社会とアートのかかわりをさぐる。そして、世界とであいなお す。」(レポーター:原田淳子)と、「やっぱり本が好き!国際 ブック・アート・ピクニック国際交流セミナー ブックアートをめ ぐって」(レポーター:言水ヘリオ)に行ってきた感想とレポート。


最終日は飲食歓談で締め。
■1/31(日)16:00~19:00 (会費1,000円  1 drink & 1おでん付。定員15名)
飲食歓談「半酒場」

今年1月5日のブログで、うらわ美術館の「オブジェの 方へ─変貌する『本』の世界」へ出かけ楽しんだ様子を書かれてい た、エンテツさんこと遠藤哲夫氏(別名「大衆食堂の詩人」)。エ ンテツさんを囲んでの飲食歓談です。
この「半酒場」では、エンテ ツさんに話していただくというだけでなく、みんなでワイワイ飲み 会しましょう。追加ドリンクや追加おでんもご用意しております。会場 の関係で、定員15名。ご予約ください。(予約先 rojitohito@gmail.com )以上、みなさまのお越しを心よりお待ちしております。

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言水ヘリオ
---------------
言水制作室101-0051東京都千代田区神田神保町1-14英光ビル205号室03-3292-9229(ファクス共)http://www.kotomizpress.jp/helio@kotomizpress.jp

2010年1月7日木曜日

新しい神話へ

神話は「感覚の論理」によって語られているといいます。
観たり、聞いたり、嗅いだり、触ってべたべた、ざらざら、
という感覚を素材にして展開されます。
人類学者のレヴィ=ストロースは数千もの神話を収集し、様々な神話を
数学でいう変形群のように捉えて、その論理を明らかにしていきました。
神話は、生/死、生もの/火にかけたもの、乾いたもの/湿ったもの、熱い/つめたい
などの対比でもって展開されていて、
人間はどこから来て、どこへいこうとしているのか
人間がいまあるようになったのはなぜか、などのことが語られています。

神話は、起源に関する話であり、しかもそれが社会の中に生かされていました。
主に祭礼の根幹として機能していました。
しかもそれが身体性・感覚をもとにして語られているわけです。


さて、科学というものも実は神話であるということができます。
元素、分子、ゲノム、ビックバンなども、起源に関する物語であり、
一方私たちの生活を支える科学技術や産業をささえる基盤となって
います。


しかし私が残念に思うのは、科学は私たちの身体性、感覚性から、はるかに
遠くなってしまいました。
科学・医学で語られている言葉は、私たちの身の丈にあったものとは
言いがたいです。

だからといって、科学を一般の人にも親しみやすく、解りやすくしていこうとか
いうことではありません。全然違います。


私は、感覚というものの範囲を広げ、
全ての事象にはそれに見合う感覚が最初からあって、
人間とはその広い感覚レンジの極一部が顕在化したもの、
いうならば居場所を見つけて集まった小さな吹き溜まりのようなものと
考えるのです。

素粒子物理やトポロジーがいくら難しくても、決して抽象的・観念的なものではなく、
すでにそれに見合う感覚が張り付いているのだが、人間の感覚の幅が狭いから
解りにくいだけなのだというわけです。
いやむしろ感覚のほうが先にあって、物質や現象はその後からつくられているのです。
宇宙創成のときは、時空の発生なのではなくて、実は感覚の発生であり、
それが、徐々に様々な感覚に分化したのだと。
人間とは、人間の5感とは、極狭い領域に非常に多様な感覚が分化発現している
状態なのです。
この宇宙は、感覚の渦巻く世界、感覚の調和の世界であると捉えることです。

現在、人間と自然との関係は、殺伐とした、即物的な関係です。
自然は産業資源の採取場のようになってしまい、いかに効率よく利用するかということに
主眼がおかれるようになりました。
そして、自然がきしみはじめると「生態系」を「保護」すべき対象とされました。

私は、科学が明らかにする自然の真実の世界に、
再び神話のような感覚の論理を持ち込んで
再構成したいと考えています。

「感覚で世界を捉える」とは、そのような拡張された感覚を元に、
現代の新しい神話を形作っていこうということです。
そしてそれは、もちろん私たちの身体や生活感覚によって
機能していくものに違いありません。



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冬の池でカモが寝ている。暖かいのか寒いのか・・

2010年1月5日火曜日

自分で死を選択する時代へ


iPS細胞の出現によって、人工臓器の実現はより現実的なものになりました。
事故によって脊髄を損傷し、歩けなくなった人や
心臓や肝臓に病気をもっていて臓器提供者を待っている人のために
その実用化が一日も早くくることを祈らずに居られません。
自分の髪の毛や口内から取った細胞で、自分用の臓器を作ってそれを
移植すれば、もともと自分のものだから拒否反応はないし
ドナーの出現を待つ必要もない。
自分用の血液を作って保管しておけば、いざというときの輸血にも役立ちます。


さて、当然ながら、老化とともに衰える身体のスペアパーツとして
各種の身体を作っておくビジネスが開始されるようになると思います。

そうすると、人間はかなり長生きできるようになる。

でも、脳はどうか。

今、いわれているのは、記憶のバックアップをとっておいて
クローン制作した脳にその記憶を戻せば、脳もリフレッシュするというわけです。
まだまだSFめいた話ですが、かなり人間の欲望に訴える
(つまりビジネスとしては需要の大きい)ことなので、
近い将来実現する可能性はあると思います。

そうなると人間は死ななくなる。
カネで寿命を買えるようになるわけです。
千年くらい生きている人がざらにいるようになるかもしれません。
1万年生きる人も出てくるかも。
千年万年生きているとどうなちゃうんでしょうか。
人間、年をとると穏やかになってきて、豊かな人生経験から考えも柔軟になり
ものすごい人生経験と知恵がついて、
屋久杉のように神々しくなってくるかもしれません。

そういう人生の先達のような人相が、どうみても皺ひとつない20代の顔だったとしたら・・・・
これって、お釈迦様とか、仏陀とか、そういう人相に近くなってくるのではないでしょうか?

このように悟りきった人が、延命処置を延々と続けるとも考えにくい。
あるところで折り合いをつけて死を受け入れるようになるでしょう。

あるいは、責任感が強くて、もっとこの世で働きたい、
または好奇心が強くて、もっと自然界の謎を知りたいと思い、
延命処置を続ける人もいるかもしれません。
それはそれで生き生きとした人生を長く続けることでしょう。

なぜこんな話をするかというと、これもゲノムの可能性のひとつであるからです。
このような人工的な生、自然の摂理に反した新しい生の可能性。
それも生の在りようとして承認しなければならなくなるでしょう。

そして、人間は自分で生と死を選択するようになると思います。
「終わる」ということを自分で選びとること。
肉体の限界で仕方なく死ぬのではなく、死を受け入れるのでもなく
自ら「終わりにすること」に意味を見出し、積極的に死を選び取るということです。

これは「もし仮にそうなったら、その時の話さ」と仮想的な話ではなくて、
不死を手に入てなおかつ死に意味があるかという
究極的な生命倫理の問題です。

永遠の生といえば、ニーチェの「永遠回帰」を思い出しますが、
ニーチェは永遠回帰に耐えられる者として超人を想定しました。

永遠の生に絶えられるな倫理がない限りは、僕らの生の構造的枠組みであるところの
ゲノムの大空間に耐えられる生は築けないでしょう。

2010年1月2日土曜日

分子生物学的な私



私というものは、何なのか?

私というものは、結局は、何でも無いのでしょう。
私は、私でなくても良かった。
貴方でもよかったし
彼でも彼女でも良かった。
たまたま、私は私だったのです。

私は、2つの事象に漂う表層です。

一つは自然界の現象の中に。
・・・・多くの人は、自分は自然の一部であり、
自然に生かされているということに反論はしないだろう。

もう一つはゲノムの海の中に。
・・・人間のDNAは60億の塩基配列でつくられている。
だからそのパターンは4の60乗の数だけある。
書き記すことさえ困難な膨大な数です。


分子生物学は、このような(まだ実現していない可能性も含めて)
可能性の空間・可能性の生命圏を発見しました。
実に画期的なことです。

私とは、私の自我とは、
木の板に表されているように見える人の顔、
星をつないで形を作り星座に見えるようなもの。
ゲノムの中の一つの可能性に過ぎぬものに
仮想的な表象を与えられたものです。

もちろんゲノム全体の中で、実際に実現された塩基パターンは
(つまり実際に実在した生命は)極々少数に過ぎない。

だから、殆どのゲノムの可能性は、見えない暗黒として
深淵のまま横たわっています。
人間はそれを利用し、
遠からぬ未来に人工身体や人工生命体が実現するでしょう。

私たちは大自然の営みは畏怖と敬意をもって見つめるのですが
一方このゲノム空間ともいうべき大空間を、
あまりにも過小評価していないでしょうか。

もちろん、このゲノムというシステムを作ったのは
長い地球の歴史の進化の産物なのですが、
ゲノム自身はそれとは別の構造的な、広大な、
実現されていない未知の空間を作り出したのです。

自我というものは、表面に現われた薄い層で、その裏には地球の膨大な過去の
歴史があり、一方、それは未だに暗黒に満ちたゲノムの可能性に対して
開かれています。




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2009年12月30日水曜日

古代人の感覚的な自然解釈

いにしえの人々は、自然界を独自に解釈していた。
もちろん稚拙な解釈であるが、私はそこに
感覚的なリアリティを感じる。

たとえば、雷、稲妻である。

ある解釈によると、稲妻は天の怒りであるという。
稲妻に打たれて死ぬものは、天罰が与えられたのである。

ある解釈によれば、稲光は男性神である天が、女性神である大地に
射精することであり、豪雨が精液にあたる。
かくして大地からは植物が芽吹く。

ある解釈によると、稲妻は卒中の類比である。
大気が重くなる-思念が落ち着かなくなる
雲が沸き起こる-腹部が膨れる
稲妻がひらめく-目がらんらんと光る
雨が降る-口から泡をふく


また、人体を自然界になぞらえて説明する説も多い。
肉は土、骨は岩石、血管は河・・・という具合に。

アリストテレスは四元素説を提唱した。
さまざまな物体の特性を決定づけているのは
「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、
これらの基礎には火・空気・水・土がある。

これらは全て、「感覚で捉えられる」ものだということに
ご注目いただきたい。

古代の人々が考えたのは、あくまでも感覚で捉えられる解釈である。
もちろん間違った考えであるが、私はそこに或る説得力を感じる。

ニュートン以降、「自然は数式で書かれている」という科学の確信が生じ
それは目覚しい成果をあげてきた。
そして現在でも、その途上にある。

しかしそれによって我らは自然との感覚的なつながりの機会を失った。
抽象的で物質的な、無味乾燥な自然の理解---
---それが僕らの生活している世界の姿だ。

だが今私は、現代科学で明らかになったところの無味乾燥で物質的な自然の姿に
感覚的な解釈を加えたいと思っている。

そうすることは必要と思うし、それは可能だと思っています。

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2009年9月撮影

2009年12月27日日曜日

視床下部について


大いなる私、もう一人の、私の背後に潜み、私を支えている実体である、私
それが身体、身体の機能です。

さて、身体機能は交感神経と副交感神経という2つの神経系統に支配されています。
この2つの神経の束は、脳から脊髄を通って内臓やらなにやら身体のあらゆる箇所につながっています。身体の命令系統です。

交換神経は「シャッキリ神経系」とも言うべきもので、戦い、喧嘩、仕事中など、シャッキリしていなかればならないときに、身体をアクティブにします。
副交感神経は「マッタリ神経系」とも言うべきもので、睡眠、リラックス、排泄など、のんびり、マッタリするときに働く神経系です。
身体機能は、この2つの神経系統の綱引き、バランスによって成り立っています。

そして、これら2つの神経系統がつながっている、身体機能の親玉が、視床下部という脳の中心付近にある、小指くらいの小さな部位です。

小さいながら、とてつもなく重要な働きをします。

興奮や恐れによって、心拍数を早めたり、血糖値を高める。摂食行動を調整する。性行動を調整する。体温をコントロールする。体内時計を司る。などなど。

およそ自律神経と呼ばれているものは、視床下部を司令塔をしています。

フロイトがエスと名づけた、性衝動や攻撃性が詰まっている心理層も、この視床下部が深くかかわっているのでしょう。

私たちは、何か強烈な経験や、激しい疲労について語るときなど、「からだの芯から」という表現をしますが、まさに視床下部こそが、「からだの芯から」の機能そのものなのです。

さて、最近、自律神経失調症などという病気が一般的になったので、身体の生理学的機能、メカニックとしての身体の理解や取り扱いの方法は、広く知られています。早寝早起き、朝食を摂る、日光を浴びるなどなど・・・。

身体機能の医学的な、メカニックな理解と取り扱い方法は、ずいぶん進歩しました。そのために多くの病気が治るようになり、また取り扱いを間違えなければ、心身ともに健康でいられることは間違いないでしょう。

しかし。。。しかしです。。

だからどうしたというのか?
このような身体機能の医学的なメカニックな理解が、身体を矮小化させ、身体を即物的な実体に陥れたのではないか?
つまり、組織や神経が、解剖学的に目の前にあるように解説されることにより、我々は身体を解剖学的にしか観られないようになってしまったのではないか?

皮肉なことに、医学の進歩こそが、感覚的な身体理解を妨げる、諸悪の根源となってしまったのではないか?
身体という謎について、解剖学の目が明らかにした代わりに、我々はもう一つの感覚の目を失ってしまったのではないか?

このことは、私がこのブログを書く長い旅の始まりを意味します。次回以降で徐々に明らかになっていくでしょう。

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2009年12月23日水曜日

乾布摩擦と冷水摩擦

寒い日が続いていますが、
そういえば、乾布摩擦とか冷水摩擦とかいうものが昔
あったなあ。と思い出しました。

今では殆ど死語となっていますね。

磯野波平が庭で上半身裸になってゴシゴシしている
情景を思い出します。

庭のある家が少なくなって、乾布摩擦など絶滅したのかと思いきや、
わが国の乾布摩擦の伝統は、場所を室内に移し、
細々と、しかし脈々を受け継がれているようです。
ネットで「乾布摩擦」で調べてみると、実にたくさんの人が
乾布摩擦を実践していることがわかります。

私も、先ほど思い立ってやってみました。
乾布摩擦では刺激が足りなかったので
風呂で使うネットタオルを冷水に浸し、硬く絞って
カラダをこすりました。
やってみるとなかなか気持ちが良いものです。
終わってみると皮膚が程よく刺激され、
寒いところに出るのが億劫でなくなります。

「感覚で世界を捉える」観点でいうと、
これは外気と身体の感覚的つながりを回復するということだと思います。
夏は薄着なので人の皮膚が外気にさらされますが
冬は厚着になって外気にさらされなくなる。

秋から冬になるころ、室内と屋外の温度差が大きくなってくるのですが
身体はのんびりしているので、日に日に寒くなっているのに
気温の変化に追いつかない。
結果、風邪を引く。

乾布摩擦や冷水摩擦は、身体に外気の寒さを覚えこませる効果があるのでしょう。

私たちの意識が寒いと感じても、身体は直ちに
それに適応してくれないのです。
身体は意識と違う、別の知性であり、
私たちの意識は、もう一人の別の偉大な人物(身体)の家に間借りしているようなものです。

しかしこの人物(身体)は案外愚鈍なので、意識が「寒い」と思っても、すぐに反応してくれないのです。
この人物(身体)は、目も見えず、耳も聞こえない。
手や顔が寒いくらいでは、体温調節機構をフルに働かせてくれないのです。
だから「今は寒いですよ」などとこの人物(身体)に教えなければならないのです。
乾布摩擦は、身体との対話をするための先人の知恵なのす。

この人物(身体)は非常に興味深い人です。すこし突っ込んで研究してみようかと思う。

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近所の空き地

2009年12月20日日曜日

辻井伸行はどう感じているのか?



「ヴァン・クライバーン・コンクールに初めて優勝した日本人」「全盲の」という2つの枕言葉が付く、辻井伸行氏。
爆発的人気はまだまだ続きそうだが、
彼の奏でるビアノは、これまでのどのピアニストとも違う何かを感じる。

「純粋」「軽やか」「透明」という言葉が出てくる。

かつての名演奏家は、「知的」、「熱情的」、「力強い」、など、迫力があったのだが、辻井氏はどれとも違う。

この、「川のささやき」というオリジナル曲を聞けば、誰でも容易に川の流れる様子を想像することだろう。川の流れている「映像」や、川の流れている「音」を想像するというよりは、聞く人自身が川そのものになって、水となって流れており、小さな水のしぶきを上げている。。。そんな風になることだろう。
この幸福感は、世界とつながっている幸福感である。

もちろん、このような「音世界」は、辻井氏が全盲であったからこそ生まれたものだと思う。
彼は川そのものとなっている。
ピアノによって川を表現しているのではなく、ピアノの上で、彼は川となっているのである。


彼は子供のころ、母親に「今日の風は何色?」と聞いたことがあるという。
--------------------------------------------
眼が見えない伸行に色というものを理解させるために、
「りんごの赤」「バナナの黄色」などと教えていました。
すると伸行は「じゃ、今日の風はなに色?」と聞いてきたのです。
眼が見えない伸行にとっては、
大好きな食べ物に色というものがあるなら、
同じく大好きな風に色があっても不思議はありません。
(辻井いつ子著「今日の風、なに色?」より)
--------------------------------------------

全盲の人が色を理解することは無理だと思うのだが、
「色」というものは文字通りの色彩という意味に使うばかりではありません。
「音色」という言葉があるように私たちは音にも色があると感じます。

彼の感じている世界は、豊かな音色に彩られているに違いない。

「風が好き」というのも盲人らしい。風は触覚的な感触とともに、広さを感じさせ、
世界全体とつながっているような感覚になる。私が海に入って感じたことに似ている。

視覚は重要な情報源だが、他の感覚にくらべれば世界の実体そのものからはむしろ遠い。
入ってくる光の情報を、一度解釈しなければならないからだ。

辻井氏は、インタビューで、「一日だけ目が見えるようになったら、何を見たい?」
という質問をされたことがある。
(あるサイトでは、なんて失礼な質問をするんだと非難の嵐になっています。ちなみに辻井氏は
母の顔が見たい、という泣ける回答をしている。)
しかし、生まれつき全盲の人が一日だけ目が見えるようになっても、突然入ってくる光の洪水を
どう解釈してよいのかわからないはずだ。
生まれつき全盲の人が、角膜移植によって目が見えるようになると、最初は何がなんだかわからずパニックになり、中には再び目を閉じてしまって今までどおりの生活に戻ってしまう人もいるという。
視覚に頼って生活できるようになるためには、相当長い時間がかかる。
このように視覚は手続きの多い、複雑な感覚なのである。

もし、辻井氏が全盲でなかったならば、彼は視覚情報の処理に邪魔されて、世界にあふれている音色や触色やらを感じとることができなかっただろう。

プロのピアニストである以上「全盲の」という枕言葉は必要ないはず、という意見もあるようですが、「全盲」というのは彼の際立った個性であり、音楽家としての強みであると思います。社会的にはハンディですが、芸術家として世界の実相と向かい合うにはむしろアドバンテージであったといえるでしょう。

2009年12月19日土曜日

電磁波の海



人は光を見ます。
光を様々な色として識別することができます。

しかし、可視光はガンマ線から長波までの電磁波のごくごく一部で、
人間はこの中のわずかな波長の違いを色で識別することができます。
そんなことができるのは人間だけのようです。驚くべき能力です。

それでは、可視光以外のところは、人間にとって感じることができない、
砂漠のような領域なのでしょうか?
どうもそうでもないらしいです。

☆実は人間は電磁波を感じているらしい。
「電磁波過敏症」というものがあります。
身近な電気機器から発する電磁波で頭痛や不眠などになる症状のことです。
実は、人間は案外電磁波に敏感のようです。

☆「気配」というものは電磁波のことらしい。
電磁波は皮膚で感じるもののようです。
急に電磁波が変化すると、首筋や背中に「ゾクッ」とするような感覚を感じる人がいます。
音も聞こえないのに、「何かが動いた気配を感じる」というということはあります。
これは、人や動物が動く時に発生する、わずかな電磁波を感じることがあるという
ことなのでしょう。

☆電磁波を感知する能力は個人差が大きい。
人間は、視覚や触覚は、はっきりと識別することができますが、電磁波はその感知能力にかなり個人差があるようです。

☆犬は電磁波に敏感らしい。
あるTV番組で、主人が外出先から玄関に近づいただけで玄関に走っていく、特殊な能力を持った犬を紹介していました。
その犬は、嗅覚と同じように、電磁波もよく識別して、主人の発する特定の電磁波が判るらしいのです。
(もちろん、ぜんぜん電磁波を感じない犬もいる)

☆現代の電子機器に囲まれた生活は、気配、すなわち電磁波に「感じない」ことを強いているのではないでしょうか?
私たちは、時々静かにして、気配すなわち電磁波に「耳を澄ます」必要があると思います。
そのとき、私たちは、電磁波ノイズのあまりに多いことに気づくかもしれません。



俺は今日も生きている。。。。

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2009年12月14日月曜日

レベッカ・ホルン展にいってきました。



東京現代美術館のレベッカ・ホルン展にいってきました。

すでにレビューのブログがたくさん出ていますので、「レベッカ・ホルン」で検索してご覧ください。

レベッカ・ホルンは現代美術の第一級の作家であり、
その実力、センス、高名さ、どれをとっても超一流です。
私も昔ゲッゲンハイムの美術館の分厚いカタログを買ったほど敬愛する作家の一人です。

今回の展示にも身震いするようなセンスのよさ、
そして、背骨や睾丸をひっかかれるような
生理的な(快感のような嫌悪のような)
なんともいえない感覚を感じました。

しかし・・・
今、私の推進する「感覚で世界を捉える」観点でみると、
レベッカ・ホルンの作品群や方法は
密室の中でバラバラにされ、行き場を失った身体という感じがします。

身体や精神は見えない部分が多いのですが、
レベッカ・ホルンは科学的ともいえるような視点で
それを照明の元にさらけ出し、見えるようにしてくれます。

まるで、病気にかかった人が、
点滴のチューブや心電図のような機械につながれて
自分の肉体を再発見するような感じです

(それは、レベッカ自身が、長期入院の回復過程で
現在の作風を確立したということと関係があると思います。)

つまり、科学的・医学的な空間(実験室や病院)の中でバラバラにされ、
そしていまだにその実験室の中から出られないでいるのです。
いえ、出ようとも思っていないらしい。
冷たいメスや注射針が身体につきささるのを美だと思っているのか?


・・・・
と、ここまで書いて私は思います。
私はそこから確実に出ているか?
私の身体は、私の視点・感覚、そしてそれを表す作品は、
科学的・医学的呪縛から離れているか?


出ようとしていて、まだ出ていないのではないか?
いや、出ようとしている途中なのだろう。


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2009年12月10日木曜日

夜の森林

感覚で世界を捉える者にとって、
森林は非常に示唆に富む場所です。

特に夜の森林は。

冬は虫も鳴いていません。沈黙が支配する世界です。
沈黙?・・・・いや、そうではありません。

小枝が落ちる音。
わずかな風が葉を揺らす音。
地に落ちた枯葉が夜の冷気で少し膨れるときのすれたような音・・・・

夜の中に冴えた聴覚を広げると 、微妙な森の活動を感知します。

(この黒い画面の中に、曇りの夜空を背景にした木々が写っています。
拡大してよーく見てください。)

茫洋とした光を放つ曇りの夜空に照らされ、
木々が闇の中に掴み取れるかのように実体を晒しています。
闇が目の前に実体として立ちはだかっているようです。

そこは、「兆候」・「予感」・「気配」が支配する世界です。
感知できるか出来ないか、ぎりぎりの現象が無数にうごめく空間です。
私たちの感覚は、そのようにして、本来あるべきものに戻るのです。

それに対し現代は、「記号」・「情報」が支配する世界です。
私たちの「兆候」・「予感」・「気配」への感受性は、日々鈍くなっています。
精神は記号ばかりを追って社会の奴隷になっています。
感覚が使われないので、身体は精神から分離して
僕らの精神は疲れきってしまっています。
これが現代の病理です。

時には感覚を広い空間に広げ、感覚の流れる線を
確かめる必要があるのです。

多くの人はジョギングなどの運動をして、健康を維持し新陳代謝をよくしようとしています。
感覚も同じことで、滞った流れを良くしておくことが必要なのです。


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2009年12月8日火曜日

新作







もひとつ新作です。

コラージュで120cmx110cm

クリックするとでっかい画面になります。
よく見ればわかるように雑誌からヘアスタイルを切り抜いて貼ってあります。
一見抽象絵画のようにも見えませんか?

特殊撮影した太陽の表面のような自然現象を再構築しました。

これも科学や医学によってバラバラになった現代の身体表現の一つと考えています。


しかし私はバラバラになったことを悪く捕らえているばかりではありません。
バラバラになった身体をこのように一気に、直接的に自然現象としてすること、
そのことに希望を見出してもいます。

現代は科学によって、信じられないほど知識が増え、かつて迷信の中にいた人々の
精神生活を見通しのよい、晴れ渡ったところに連れて行ってくれました。

僕らの身体のバラバラさ加減は、そういった、科学によって拡張された精神世界全体を
一気に身体として再構築できる可能性をもっているのではないかと。
そういうものを目指すべきではないかと。
そう思うのです。


私の新作のもう1枚はこちら12月6日のページ


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2009年12月7日月曜日

河口龍夫展にいってきました


東京国立近代美術館の
河口龍夫展に行ってきました。(遅ればせながら)


人間のスケールを超えた時間、空間、感覚を捉えている作品群です。
たぶん、これほど的確に現代の感覚を捉えている作家はいないでしょう。

彼の作品は考古学、天文学、量子力学などの科学に裏打ちされ、
しかも感覚の奥深いところに訴えるように
よく工夫されています。

電流を利用したエネルギー、暗闇、途方もなく長い時間、光と物質、言葉・・・
さまざまな感覚や概念が身体を通過する体験ができます。

私の考える、感覚で世界を捉える ということを
まさに実現している貴重な人です。

すでに展覧会の模様はいろいろな方がブログに掲載しているので
詳細情報を見ようとすればweb上にいろいろな情報がありますが
やっぱり実作を見なければわからないです。

残念ながら12月13日まで、あと6日しかありません。
まだご覧になっていない方は、是非ご覧ください。


東京国立近代美術館 河口龍夫展


河口龍夫公式ホームページ



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2009年12月6日日曜日

新作 



新作ができました。

120x110cmのコラージュです。

タウン情報のフリーペーパーからネイルサロンの指の部分を切り取って貼り付けた。
左のほうは美容院の広告や女性誌のモデルのヘアースタイルのところを切り取って貼ったもの。

何かがぐちゃぐちゃと増殖しているようです。

現代の私たちの身体は、科学や産業(そしてもちろん私たちの仕事も)によってバラバラになっています。
私たちの身体感覚もバラバラです。

これは望ましいこととは思いませんが、私はそれならそれを使って一挙に自然の現象に昇華させようと考えました。
我々の時代の身体表現です。


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2009年12月3日木曜日

たなごころ


「たなごころ」とは、手の平の真ん中のへこんでいるところです。
「手の心」という意味なのだそうです。

私は何かを触覚で感じようとするとき、この部分でものを掴みます。

特に、手ごろな大きさの石などをこの「たなごごろ」でしっかりと掴むと、
感触が腕を通って肺や心臓のあたりまで到達します。

硬さや冷たさから、この石が出来上がったエネルギーの強さを感じ取ることができます。


また、周囲の空気や気配を感じ取ろうとするとき、この「たなごころ」を上にむけて
手をいっぱいに広げて感じ取ろうとします。

傍からみると滑稽でしょうが、まるでレーダーのように、または植物が葉を広げるように、
周囲の雰囲気を「たなごころ」に集めようとします。

「たなごころ」は東洋医学でも重要な部分らしいです。
私の感じかたでも、体の芯が露出しているところ、とでもいう感じがします。
つまり、体幹から腕をとおって、「たなごころ」で露出しているというような感じです。

似たようなところは、足の裏の「つちふまず」でしょうか。

皆さんもご自分の体の感覚を見つめて直してみてください。

2009年11月29日日曜日

海に入る

もう冬だというのに、今年の夏の話で恐縮だが、

数年ぶりに海に入りました。

新鮮な経験でした。



比較的波の高い日で、

波が引くと底に足が着くので体を自分で支えていられるのだが、

波が押し寄せて来ると体ごと持っていかれる。

抵抗しても無駄だ。

容赦なく体が水に翻弄される。


この海は、地球の全ての海とつながっている。

北極海にも、深海にも、海溝にも、海底火山にも。

体がダイレクトに自然につながっているように思える。



風を感じるときも、似たような気持ちになるが

水の力は圧倒的なので、さらにその感覚は強い。

体の幹にガツンとくる感じだ。



私の意思や身体能力でこの巨大な力に抵抗して、
自分をコントロールすることは出来ない。

自然のリズム、
そして自然と身体の関係、
波の動きに身を委ねそれを身をもって感じること。
波は、視覚や想像力ではなくて、

直接、体を揺さぶってそのことを教えてくれる。

私の身体や生命なども、
この大きな力の前では、微小なものに過ぎないのだろうとつくづくと感じる。
無情なことだが、それは真実だ。

この力に逆らおうとすると恐怖を感じる。
だが、身を委ねようとすると、むしろ安心感を感じる。



もう一度その感触を確かめたいのだが、残念ながらいまだにその機会を持てないでいる。

もう寒くなってしまいましたが、
海に入ることは身近に感覚的世界解釈が出来る例としてお勧めです。
来年の夏に是非お試しください。

(アップした画像はいずれも伊豆で撮影)


2009年11月22日日曜日

「境界で夢をみる」

前回、キツネにだまされる話を書いた。

キツネにだまされる時はどういう状況なのだろうか?

キツネにだまされるときは、人間は或る特別な時間・空間の中にいる必要がある。
あたかも蒸気のようにそこに包まれ、現実と夢の狭間のようなその場所に。

一人山道を歩く旅人が
娘に宿屋に招待され、お風呂に入る。(気がつくと川に入っている)
道端で饅頭を売っているおばあさんから饅頭を買う。(気がつくと馬糞を食べている)

どうやら幻覚、夢、催眠状態などと関連がありそうである。

だまされた人は大抵一人でいるときにだまされている。
人里はなれた山の中、人気のいない夜、または道に迷った時などに起こっている。
人間界と別の世界との中間地点、境界地点で起こるのである。

これはつまり
「境界で夢をみる」ということだ。


現代において、このような「境界」はどこだろうか。
人間界が広がったおかげで、そのような「境界」は日常の世界からだいぶ遠く離れてしまった。、
または忘れられたように片隅に追いやられている。


火星探査機が送ってきた火星の荒涼とした地表の映像を、眺めるとき。

http://buturit.dee.cc/kasei/Kasei_Tansa.htm#4

木星の気流のとてつもないスケールの大きさを思うとき





極微の世界の力学に思いを馳せるとき






あるいは、

高山に登って周囲を眺めるとき


夜明け前に自己の奥深くの記憶と向き合い、夜明けとともに現実の風景に出会うとき



そのとき、
私たちは、あの、時間が凍結したような、灰色の地点にいる。
過去も未来もない、あるいは過去と未来がすべて積み重なって投射されたような、その地点。
思考が停止し、あるいはもっと深いところで思考しているようなその地点である。
その蒸気、その雲の中にいる。



昔は、このような雲・このような「空間」・きつねにだまされる「空間」が文化的に確立していた。
人々には、きつねにだまされる「能力」もあった。

しかし最近、経済成長や開発が進み、いつの間にかその「空間」や「能力」が絶滅してしまったのである。

私は、その文化的「空間」や、「能力」を、現代の科学技術や感性と矛盾しない形で復活させたいと思っている。
そのためにこのメッセージサイトを始めた。
まだとても小さな力だが、やがて大きな潮流となり、文化の総体的な転換が行われることを願ってやまない。



2009年11月15日日曜日

キツネにだまされる空間

昭和40年以降、日本人がキツネにだまされなくなった。

哲学者の内山 節氏は、沢釣りが好きで全国いろいろなところに釣りに出かけ
宿屋や民家に泊めてもらって土地の人と話をしたそうである。
すると、キツネや狸にだまされる話が時々出てくる。

キツネにだまされるよくあるパターンは

饅頭だと思って馬糞を食べていた
温泉だと思って冬の川に入っていた

などのことである。

「それはいつのときですか」と聞くと、決まって昭和40年より前のことだという。

昭和40年、1965年といえば東京オリンピックが終わり、高度経済成長真っ盛りのとき。
農村から都市へ人々が流れ、農村の人口が減り、村の文化も途絶えた。
また農村も電化が始まり、暗い夜が急速に少なくなっていった。
人々の学歴も上がってキツネにだまされるなどという非科学的な話を信用しなくなっていった。

私の父に尋ねたところ、まあ、確かにそのころから変わったんじゃないかと同意していた。
父もキツネにだまされかかった経験があるという。

父が少年のころ、昭和21年だったそうである。
日照りの夏、家族で夜中に畑に水をやっていた。
夜も遅いので一人家に帰された。
月の無い闇夜である。父は家路の途中の桑畑で、不思議なものを見た。
40-50人の女学生が桑畑の中でワイワイ、ガヤガヤ遊んでいるのを見たという。
父は目の前の光景を何か不思議に思って、そこを通りすぎた。
あとで家族に話したところ
「キツネにだまされたんだ」といわれたという。

内山氏は、昭和40年以降、日本人に「キツネにだまされる能力」が無くなったという。
どういうことなのか。
かつて、自然と人間は一つにつながっていた。区別するものは無かった。
その中で人々はキツネにだまされながら生活していた。
ところが戦後、都市化、開発、文明化の波が押し寄せた。
森林のほうも里山から木材をつくる伐採林に変化していった。
それが自然と人間を分けた。
その臨界点がだいだい、昭和40年だったのである。

昔の人々が生きていた空間、その文化は、再現のしようがない。文字にもできない。

科学が発達した現代において、自然とつながるといってもあまりにも多くの条件に阻まれている。

だが私は、「キツネにだまされる空間」を現代に復活させたいと思う。
現代の我々の知識や、自然科学と矛盾しない形で、
キツネにだまされるようになる方法は恐らくあるのである。

次週は、その話題を取り上げよう。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったか

2009年11月8日日曜日

村野四郎の身体詩

    霊魂の朝

    村野四郎


---「霊魂を食べて ふとるのよ」
というこえが どこかでしたので
急に胸がわるくなって目がさめた

厨房の扉があいていた
母親が瘠せた息子に もういちど
---「ベーコンを食べて ふとるのよ」
と言っているところであった

まこと肉と霊のだんだら模様の春だ
ユスラウメが咲いている

------------------------------------

色んな詩を読んだが、村野四郎ほど身体感覚が鋭敏な詩を書く人は見たことがない。
この詩・「霊魂の春」はダジャレの切り口によって、身体と精神のなまなましい関係を良く表している。

私たちの感覚は、視・聴・臭・味・触の5感が主であり、それらは全て体の表面の出来事だ。それも頭部に集中している。

しかし私たちの体の中では、血液の流れ、自律神経の調整、内蔵の蠕動運動、新陳代謝など、常に無数の現象が起こっている。ダイナミックな宇宙だ。

しかしその膨大な現象は、殆ど私たちの意識には上らない。
そしてそれを言語化することはなお難しい。

村野四郎はそれができる稀有な才能だ。

「体操詩集」という身体感覚の集積のような詩集も出している。

膨大な身体内の現象に比べれば
5感で感知できる世界は何と貧弱なことであろうか?
肉体の現象の海は、意識で作り上げる貧弱な知恵よりも遥かに優れて圧倒的な知恵の海なのだ。


*「霊魂の春」が冒頭に掲載されているのは 村野四郎詩集 (青春の詩集 日本篇 17) 白凰社

*ちなみに村野四郎は、童謡「ぶんぶんぶん」の作詞も手がけている人である。意外な一面もある。

2009年11月1日日曜日

イブ・クラインのモノトーンシンフォニー

イブ・クライン
50年代に活躍した前衛芸術家

感覚的世界解釈としては、彼ほどそれを具体的に行動にした人を私は知りません。
日本でもファンが多い。
日本語で読める多数のサイトがあるが、大まかな紹介はウィキペディア。

ウィキペディアでのイブ・クラインの紹介

寝転んで青い空を見ていると、その中に溶け込んでいくような感じになる--そんな感覚は誰もが経験すると思います。南仏ニース出身のクラインは、ニースの青空で十分にその感覚を味わいながら育ちました。
その空虚へ身を投じること。空虚への飛翔。彼の重要なテーマの一つです。

高いところから飛び降りるパファーマンス(飛び降りるのではなく、空虚へ身を投じたのですけど)を行い、その写真を新聞の1面に載せて発売しました。
彼の偉いところは、感覚的現象を社会的に機能するように仕掛ているところです。
理想の青い染料(インターナショナル・クライン・ブルー)を考案し、特許をとったりしています。

そんな彼が音楽も作りました。モノトーン・シンフォニー。下記のサイトで是非聞いてみてください。

モノトーンシンフォニー

(出展サイト Mr.M.Lews web site.
ART MINIMAL AND CONCEPTUAL ONLY )

聞いていると青い空を見上げているような、自分が溶け込んでしまうような感じにあります。

自分が消え入って溶け込むような感覚、それは錯覚ではなく、自分の感覚の源が本来そちらにあるというのが感覚的世界解釈の考えです。だから、空を見上げている感覚のほうが、本来の私たちの感覚なのだと考えるのです

↓こちらのサイトも興味深いです。 数多くのイブ・クラインの作品を紹介しています。
https://www.artsy.net/artist/yves-klein

2009年10月27日火曜日

細胞分裂の感覚

細胞分裂。
Youtubeで動画をさがしてみた。
なるべく感覚に訴えそうなものを。





どうです?細胞分裂って、中学か高校の生物で教わったものでしょう。
しかし、教科書の中でおこっているのではありません。今、この瞬間もあなたのカラダの中でブチブチを起こっているのです。
そういう自覚はないでしょう。私たちの哀れな意識は。
カラダがやっている大変な苦労を何も知らないのです。

動画をみていると、細胞はなんだか非常に苦労しているように見えます。

人間が人間を生むのも大変なことですが、細胞は自分が分裂するという大変なことをやっているわけで、分裂中は遺伝子の損傷も受けやすく、細胞としては一世一代時間です。
細胞分裂の感覚というものは、苦しみと恍惚が入り混じった、なんともいえぬ瞬間なのでしょう

2009年10月21日水曜日

心のありか

この前のブログで、「心なんて無い」ということを書きました。
読んだ方は、この人は無味乾燥な物質的な考えをもっているのではないかと受け取られたかもしれません。
しかしそうではありません。
私自身の強烈な体験から、そう結論したのです。

私は中学生くらいのときに、神経症を患いました。今では「パニック障害」という言葉でいわれているもので、最近では長嶋島一茂さんが、その病気の体験を語っています。
私の場合は、乗り物に乗れなくなってしまうというものでしたが、長嶋さんもそうだったようです。

この病気の特徴は、発作を起こすと過呼吸になって気分が悪くなり、ひどくなると気を失うというものです。私は気を失ったことはありませんが。
この病気は心の使い方が適切でないために起こります。
発作はなぜ起こるのかといいますと、
不安な気持ち、いつ不安発作がくるかわからない不安な気持ち。それに気持ちを集中してしまうとますます不安になり、心臓が高鳴り、呼吸があらくなり、そして発作がおこる・・・・
つまり、「発作がおこるのが怖い」という気持ちによって発作がおこるのです。
この矛盾。。。

私は、森田正馬という人が創設した療法で直しました。森田療法の特徴は、「あるがまま」ということです。なんのことはありません。
不安があってもそれがあるがままにして、日常生活を送れというものです。
不安があってもいいのだ。たまに発作が起きてもいいのだ。それで生活ができればいい。いつのまにか不安は消えていく、、、というわけです。
しかし乗り物に乗らなければならないときは・・・・大変です。・・森田療法ではそれを「恐怖突入」といっています。
恐怖に突入し、目的を遂げる。この場合はたとえば、電車に乗って目的地にいき帰ってくる。それだけのことです。しかし神経症の人にとっては、命を掛けた戦いなのです。

こうして、私は何度も恐怖突入し、そのたびに悲壮な決意と覚悟をもって目的を遂げてきました。何年もかかって、やがて症状は緩和していきました。

私は学びました。心には実体がないのだ。不安や恐怖には実体がない。あたかもそれが実体であるかのようにそれを凝視すると、ますます不安になり、ますます恐怖が大きくなり、自分で制御不能になるのです。

人間は怒りのために人を殺したり、悲しみのあまり自殺したりします。そのような極端な行動をとる契機として感情が語られるとき、あたかも感情が実体であるかのように語られます。そうではない。感情に基づいた行動をとるから、それが殺人や自殺という実体となって現れるのです。

2009年10月13日火曜日

スピリチュアル文化

スピリチュアル・カルチャーともいうべき潮流が今すごく盛んだ。

江原啓之氏の「スピリチュアル・カウンセリング」が大変な人気を得ているなど、前世などの考え方がかなり一般化しているようだ。

オウム事件の反省もあってだろうが、体系化・組織化された宗教には誰しも抵抗があるようだが、その代わり垣根が低いスピリチュアル文化が広く普及している。

ということは、現代日本の心的な風景は、オウム事件があったときと同じ、またはそれ以上に悪いのでしょう。共同体の喪失、人と人との絆の希薄さが一般化し、孤独で浮遊した現代人が不安や不満をかかえている。

僕はスピリチュアル文化にはかなり胡散臭さを感じているし、前世とか霊とかを無条件に受け入れる気にはなれません。
多くの人がそういう物語を必要としているということには、何か違和感を感じます。

ニューエイジ・サイエンスというのも、ちょっと・・・

スピリチュアル文化の根本には、心というものが何かの実体、または実体的な世界を作っているという発想があると思いますが、そもそも心ってなんでしょう?

心なんて、あるんでしょうか。
在るとしたら、どこにあるんでしょうか。

いや、お前は心があるはずだ、その証拠にこの文章を打っているではないかと反論する方もあろうと思います。
確かに何かの一連の現象が私にこの文章を打たせていますが、だからといって心という実体があるとは限りません。

実は心という実体は無いのでしょう。
心的な現象があるだけで、私という人も、私の心というものも、無いのでしょう。
楽しんでいるとか、怒っているとかの状態はあるのでしょう。しかし心という概念的なものは無いのです。
たとえて言えば気象ともいうべきもので、雨が降ったり風が吹いたりする現象はありますが、「気象」という抽象的な概念はどこにも無いのです。

心のほうもたくさんの種類があります。怒っている、悲しんでいる、笑っている、考えている・・・などなどその時々でいろいろな状態があります。
私というものも、色々あります。夫である私、会社員である私、通行人である私、アーティストである私、男である私。。。いろいろな私があり、どれも違います。だから、私という括り、私という作り物をこしらえて私の同一性を解釈するわけです。

昔と違って地域の共同体が希薄な今日、浮遊する現代人の精神は、私とか、私の心とかいうものの保障をもとめて、スピリチュアルの世界に駆け込むのでしょうか。

2009年10月10日土曜日

読んだ本

「哲学入門」  ヤスパース 草薙正夫訳 新潮文庫
高校2年のときに夏休みの課題図書の一つとして読んだ。
ヤスパースの著作の中では易しいといわれているが、やはり少し難しい。
今再読してみるとヤスパースの哲学する者としての態度は襟を正したくなる。
私の座右の書にしたい名著

「オウム帝国の正体」 一橋文哉 新潮文庫
オウムと暴力団の関係を描いたルポ。

「村野四郎 詩集」 彌生書房
アンコウの解体を描いた詩が教科書に載っていたので有名な詩人。
身体感覚・内臓感覚の描き方が秀逸。
私はこれも座右の書に上げたい。

「オウム真理教事件 完全解読」 竹岡俊樹 勉誠出版
「田島鉄也はどのように生きているか」思索篇をご覧ください。

「99.9は仮説」 竹内薫 光文社新書
ベストセラーの一つです。
ホーキングが虚時間を導入したいきさつが面白かった。
彼は計算のつじつまがあえば良く、虚時間が何かなんて考えもしない。
そもそも時間とは何かとか、どうでもよい問題ということ。
この世が実在しているかということには頓着しない。この諦観。
まるで荘子の「胡蝶の夢」を地でいってる。

「ブラジルの混沌」   ㈱アルク
この本借りるのは2度目です。
カーニバル、サッカー、アマゾン、ブラジリア近代建築。
矛盾に満ちた国の魅力を伝える本。
ブラジル現代美術の紹介が後半を占める。

2009年7月20日月曜日

展覧会初日

展覧会初日です。


















派手な本屋さんといった感じのシックで、しかしカラフルな空間。

















作品の極く一部






























一つ¥1,000.という超安値もあって今日だけで15個販売しました。


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非決定論的かつ未知な空間の販売


多種の本。オリジナル絵画で包まれ、封印、真空パックされており、本の題と中身を見ることはできない。1冊1000円。そのまま所有するか、パックと封印を破り本を読むか、購入者の決定に委ねられる。

2009年7月19日日曜日

搬入

明日から行われる展覧会の搬入をしてきました。
展示はカッコイイと思いますけど
一部未完成の部分があるので、明日朝手直し。
暑いでしょうけど来て損はしないと思います。