2009年12月30日水曜日

古代人の感覚的な自然解釈

いにしえの人々は、自然界を独自に解釈していた。
もちろん稚拙な解釈であるが、私はそこに
感覚的なリアリティを感じる。

たとえば、雷、稲妻である。

ある解釈によると、稲妻は天の怒りであるという。
稲妻に打たれて死ぬものは、天罰が与えられたのである。

ある解釈によれば、稲光は男性神である天が、女性神である大地に
射精することであり、豪雨が精液にあたる。
かくして大地からは植物が芽吹く。

ある解釈によると、稲妻は卒中の類比である。
大気が重くなる-思念が落ち着かなくなる
雲が沸き起こる-腹部が膨れる
稲妻がひらめく-目がらんらんと光る
雨が降る-口から泡をふく


また、人体を自然界になぞらえて説明する説も多い。
肉は土、骨は岩石、血管は河・・・という具合に。

アリストテレスは四元素説を提唱した。
さまざまな物体の特性を決定づけているのは
「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、
これらの基礎には火・空気・水・土がある。

これらは全て、「感覚で捉えられる」ものだということに
ご注目いただきたい。

古代の人々が考えたのは、あくまでも感覚で捉えられる解釈である。
もちろん間違った考えであるが、私はそこに或る説得力を感じる。

ニュートン以降、「自然は数式で書かれている」という科学の確信が生じ
それは目覚しい成果をあげてきた。
そして現在でも、その途上にある。

しかしそれによって我らは自然との感覚的なつながりの機会を失った。
抽象的で物質的な、無味乾燥な自然の理解---
---それが僕らの生活している世界の姿だ。

だが今私は、現代科学で明らかになったところの無味乾燥で物質的な自然の姿に
感覚的な解釈を加えたいと思っている。

そうすることは必要と思うし、それは可能だと思っています。

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2009年9月撮影

2009年12月27日日曜日

視床下部について


大いなる私、もう一人の、私の背後に潜み、私を支えている実体である、私
それが身体、身体の機能です。

さて、身体機能は交感神経と副交感神経という2つの神経系統に支配されています。
この2つの神経の束は、脳から脊髄を通って内臓やらなにやら身体のあらゆる箇所につながっています。身体の命令系統です。

交換神経は「シャッキリ神経系」とも言うべきもので、戦い、喧嘩、仕事中など、シャッキリしていなかればならないときに、身体をアクティブにします。
副交感神経は「マッタリ神経系」とも言うべきもので、睡眠、リラックス、排泄など、のんびり、マッタリするときに働く神経系です。
身体機能は、この2つの神経系統の綱引き、バランスによって成り立っています。

そして、これら2つの神経系統がつながっている、身体機能の親玉が、視床下部という脳の中心付近にある、小指くらいの小さな部位です。

小さいながら、とてつもなく重要な働きをします。

興奮や恐れによって、心拍数を早めたり、血糖値を高める。摂食行動を調整する。性行動を調整する。体温をコントロールする。体内時計を司る。などなど。

およそ自律神経と呼ばれているものは、視床下部を司令塔をしています。

フロイトがエスと名づけた、性衝動や攻撃性が詰まっている心理層も、この視床下部が深くかかわっているのでしょう。

私たちは、何か強烈な経験や、激しい疲労について語るときなど、「からだの芯から」という表現をしますが、まさに視床下部こそが、「からだの芯から」の機能そのものなのです。

さて、最近、自律神経失調症などという病気が一般的になったので、身体の生理学的機能、メカニックとしての身体の理解や取り扱いの方法は、広く知られています。早寝早起き、朝食を摂る、日光を浴びるなどなど・・・。

身体機能の医学的な、メカニックな理解と取り扱い方法は、ずいぶん進歩しました。そのために多くの病気が治るようになり、また取り扱いを間違えなければ、心身ともに健康でいられることは間違いないでしょう。

しかし。。。しかしです。。

だからどうしたというのか?
このような身体機能の医学的なメカニックな理解が、身体を矮小化させ、身体を即物的な実体に陥れたのではないか?
つまり、組織や神経が、解剖学的に目の前にあるように解説されることにより、我々は身体を解剖学的にしか観られないようになってしまったのではないか?

皮肉なことに、医学の進歩こそが、感覚的な身体理解を妨げる、諸悪の根源となってしまったのではないか?
身体という謎について、解剖学の目が明らかにした代わりに、我々はもう一つの感覚の目を失ってしまったのではないか?

このことは、私がこのブログを書く長い旅の始まりを意味します。次回以降で徐々に明らかになっていくでしょう。

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2009年12月23日水曜日

乾布摩擦と冷水摩擦

寒い日が続いていますが、
そういえば、乾布摩擦とか冷水摩擦とかいうものが昔
あったなあ。と思い出しました。

今では殆ど死語となっていますね。

磯野波平が庭で上半身裸になってゴシゴシしている
情景を思い出します。

庭のある家が少なくなって、乾布摩擦など絶滅したのかと思いきや、
わが国の乾布摩擦の伝統は、場所を室内に移し、
細々と、しかし脈々を受け継がれているようです。
ネットで「乾布摩擦」で調べてみると、実にたくさんの人が
乾布摩擦を実践していることがわかります。

私も、先ほど思い立ってやってみました。
乾布摩擦では刺激が足りなかったので
風呂で使うネットタオルを冷水に浸し、硬く絞って
カラダをこすりました。
やってみるとなかなか気持ちが良いものです。
終わってみると皮膚が程よく刺激され、
寒いところに出るのが億劫でなくなります。

「感覚で世界を捉える」観点でいうと、
これは外気と身体の感覚的つながりを回復するということだと思います。
夏は薄着なので人の皮膚が外気にさらされますが
冬は厚着になって外気にさらされなくなる。

秋から冬になるころ、室内と屋外の温度差が大きくなってくるのですが
身体はのんびりしているので、日に日に寒くなっているのに
気温の変化に追いつかない。
結果、風邪を引く。

乾布摩擦や冷水摩擦は、身体に外気の寒さを覚えこませる効果があるのでしょう。

私たちの意識が寒いと感じても、身体は直ちに
それに適応してくれないのです。
身体は意識と違う、別の知性であり、
私たちの意識は、もう一人の別の偉大な人物(身体)の家に間借りしているようなものです。

しかしこの人物(身体)は案外愚鈍なので、意識が「寒い」と思っても、すぐに反応してくれないのです。
この人物(身体)は、目も見えず、耳も聞こえない。
手や顔が寒いくらいでは、体温調節機構をフルに働かせてくれないのです。
だから「今は寒いですよ」などとこの人物(身体)に教えなければならないのです。
乾布摩擦は、身体との対話をするための先人の知恵なのす。

この人物(身体)は非常に興味深い人です。すこし突っ込んで研究してみようかと思う。

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近所の空き地

2009年12月20日日曜日

辻井伸行はどう感じているのか?



「ヴァン・クライバーン・コンクールに初めて優勝した日本人」「全盲の」という2つの枕言葉が付く、辻井伸行氏。
爆発的人気はまだまだ続きそうだが、
彼の奏でるビアノは、これまでのどのピアニストとも違う何かを感じる。

「純粋」「軽やか」「透明」という言葉が出てくる。

かつての名演奏家は、「知的」、「熱情的」、「力強い」、など、迫力があったのだが、辻井氏はどれとも違う。

この、「川のささやき」というオリジナル曲を聞けば、誰でも容易に川の流れる様子を想像することだろう。川の流れている「映像」や、川の流れている「音」を想像するというよりは、聞く人自身が川そのものになって、水となって流れており、小さな水のしぶきを上げている。。。そんな風になることだろう。
この幸福感は、世界とつながっている幸福感である。

もちろん、このような「音世界」は、辻井氏が全盲であったからこそ生まれたものだと思う。
彼は川そのものとなっている。
ピアノによって川を表現しているのではなく、ピアノの上で、彼は川となっているのである。


彼は子供のころ、母親に「今日の風は何色?」と聞いたことがあるという。
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眼が見えない伸行に色というものを理解させるために、
「りんごの赤」「バナナの黄色」などと教えていました。
すると伸行は「じゃ、今日の風はなに色?」と聞いてきたのです。
眼が見えない伸行にとっては、
大好きな食べ物に色というものがあるなら、
同じく大好きな風に色があっても不思議はありません。
(辻井いつ子著「今日の風、なに色?」より)
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全盲の人が色を理解することは無理だと思うのだが、
「色」というものは文字通りの色彩という意味に使うばかりではありません。
「音色」という言葉があるように私たちは音にも色があると感じます。

彼の感じている世界は、豊かな音色に彩られているに違いない。

「風が好き」というのも盲人らしい。風は触覚的な感触とともに、広さを感じさせ、
世界全体とつながっているような感覚になる。私が海に入って感じたことに似ている。

視覚は重要な情報源だが、他の感覚にくらべれば世界の実体そのものからはむしろ遠い。
入ってくる光の情報を、一度解釈しなければならないからだ。

辻井氏は、インタビューで、「一日だけ目が見えるようになったら、何を見たい?」
という質問をされたことがある。
(あるサイトでは、なんて失礼な質問をするんだと非難の嵐になっています。ちなみに辻井氏は
母の顔が見たい、という泣ける回答をしている。)
しかし、生まれつき全盲の人が一日だけ目が見えるようになっても、突然入ってくる光の洪水を
どう解釈してよいのかわからないはずだ。
生まれつき全盲の人が、角膜移植によって目が見えるようになると、最初は何がなんだかわからずパニックになり、中には再び目を閉じてしまって今までどおりの生活に戻ってしまう人もいるという。
視覚に頼って生活できるようになるためには、相当長い時間がかかる。
このように視覚は手続きの多い、複雑な感覚なのである。

もし、辻井氏が全盲でなかったならば、彼は視覚情報の処理に邪魔されて、世界にあふれている音色や触色やらを感じとることができなかっただろう。

プロのピアニストである以上「全盲の」という枕言葉は必要ないはず、という意見もあるようですが、「全盲」というのは彼の際立った個性であり、音楽家としての強みであると思います。社会的にはハンディですが、芸術家として世界の実相と向かい合うにはむしろアドバンテージであったといえるでしょう。

2009年12月19日土曜日

電磁波の海



人は光を見ます。
光を様々な色として識別することができます。

しかし、可視光はガンマ線から長波までの電磁波のごくごく一部で、
人間はこの中のわずかな波長の違いを色で識別することができます。
そんなことができるのは人間だけのようです。驚くべき能力です。

それでは、可視光以外のところは、人間にとって感じることができない、
砂漠のような領域なのでしょうか?
どうもそうでもないらしいです。

☆実は人間は電磁波を感じているらしい。
「電磁波過敏症」というものがあります。
身近な電気機器から発する電磁波で頭痛や不眠などになる症状のことです。
実は、人間は案外電磁波に敏感のようです。

☆「気配」というものは電磁波のことらしい。
電磁波は皮膚で感じるもののようです。
急に電磁波が変化すると、首筋や背中に「ゾクッ」とするような感覚を感じる人がいます。
音も聞こえないのに、「何かが動いた気配を感じる」というということはあります。
これは、人や動物が動く時に発生する、わずかな電磁波を感じることがあるという
ことなのでしょう。

☆電磁波を感知する能力は個人差が大きい。
人間は、視覚や触覚は、はっきりと識別することができますが、電磁波はその感知能力にかなり個人差があるようです。

☆犬は電磁波に敏感らしい。
あるTV番組で、主人が外出先から玄関に近づいただけで玄関に走っていく、特殊な能力を持った犬を紹介していました。
その犬は、嗅覚と同じように、電磁波もよく識別して、主人の発する特定の電磁波が判るらしいのです。
(もちろん、ぜんぜん電磁波を感じない犬もいる)

☆現代の電子機器に囲まれた生活は、気配、すなわち電磁波に「感じない」ことを強いているのではないでしょうか?
私たちは、時々静かにして、気配すなわち電磁波に「耳を澄ます」必要があると思います。
そのとき、私たちは、電磁波ノイズのあまりに多いことに気づくかもしれません。



俺は今日も生きている。。。。

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2009年12月14日月曜日

レベッカ・ホルン展にいってきました。



東京現代美術館のレベッカ・ホルン展にいってきました。

すでにレビューのブログがたくさん出ていますので、「レベッカ・ホルン」で検索してご覧ください。

レベッカ・ホルンは現代美術の第一級の作家であり、
その実力、センス、高名さ、どれをとっても超一流です。
私も昔ゲッゲンハイムの美術館の分厚いカタログを買ったほど敬愛する作家の一人です。

今回の展示にも身震いするようなセンスのよさ、
そして、背骨や睾丸をひっかかれるような
生理的な(快感のような嫌悪のような)
なんともいえない感覚を感じました。

しかし・・・
今、私の推進する「感覚で世界を捉える」観点でみると、
レベッカ・ホルンの作品群や方法は
密室の中でバラバラにされ、行き場を失った身体という感じがします。

身体や精神は見えない部分が多いのですが、
レベッカ・ホルンは科学的ともいえるような視点で
それを照明の元にさらけ出し、見えるようにしてくれます。

まるで、病気にかかった人が、
点滴のチューブや心電図のような機械につながれて
自分の肉体を再発見するような感じです

(それは、レベッカ自身が、長期入院の回復過程で
現在の作風を確立したということと関係があると思います。)

つまり、科学的・医学的な空間(実験室や病院)の中でバラバラにされ、
そしていまだにその実験室の中から出られないでいるのです。
いえ、出ようとも思っていないらしい。
冷たいメスや注射針が身体につきささるのを美だと思っているのか?


・・・・
と、ここまで書いて私は思います。
私はそこから確実に出ているか?
私の身体は、私の視点・感覚、そしてそれを表す作品は、
科学的・医学的呪縛から離れているか?


出ようとしていて、まだ出ていないのではないか?
いや、出ようとしている途中なのだろう。


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2009年12月10日木曜日

夜の森林

感覚で世界を捉える者にとって、
森林は非常に示唆に富む場所です。

特に夜の森林は。

冬は虫も鳴いていません。沈黙が支配する世界です。
沈黙?・・・・いや、そうではありません。

小枝が落ちる音。
わずかな風が葉を揺らす音。
地に落ちた枯葉が夜の冷気で少し膨れるときのすれたような音・・・・

夜の中に冴えた聴覚を広げると 、微妙な森の活動を感知します。

(この黒い画面の中に、曇りの夜空を背景にした木々が写っています。
拡大してよーく見てください。)

茫洋とした光を放つ曇りの夜空に照らされ、
木々が闇の中に掴み取れるかのように実体を晒しています。
闇が目の前に実体として立ちはだかっているようです。

そこは、「兆候」・「予感」・「気配」が支配する世界です。
感知できるか出来ないか、ぎりぎりの現象が無数にうごめく空間です。
私たちの感覚は、そのようにして、本来あるべきものに戻るのです。

それに対し現代は、「記号」・「情報」が支配する世界です。
私たちの「兆候」・「予感」・「気配」への感受性は、日々鈍くなっています。
精神は記号ばかりを追って社会の奴隷になっています。
感覚が使われないので、身体は精神から分離して
僕らの精神は疲れきってしまっています。
これが現代の病理です。

時には感覚を広い空間に広げ、感覚の流れる線を
確かめる必要があるのです。

多くの人はジョギングなどの運動をして、健康を維持し新陳代謝をよくしようとしています。
感覚も同じことで、滞った流れを良くしておくことが必要なのです。


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2009年12月8日火曜日

新作







もひとつ新作です。

コラージュで120cmx110cm

クリックするとでっかい画面になります。
よく見ればわかるように雑誌からヘアスタイルを切り抜いて貼ってあります。
一見抽象絵画のようにも見えませんか?

特殊撮影した太陽の表面のような自然現象を再構築しました。

これも科学や医学によってバラバラになった現代の身体表現の一つと考えています。


しかし私はバラバラになったことを悪く捕らえているばかりではありません。
バラバラになった身体をこのように一気に、直接的に自然現象としてすること、
そのことに希望を見出してもいます。

現代は科学によって、信じられないほど知識が増え、かつて迷信の中にいた人々の
精神生活を見通しのよい、晴れ渡ったところに連れて行ってくれました。

僕らの身体のバラバラさ加減は、そういった、科学によって拡張された精神世界全体を
一気に身体として再構築できる可能性をもっているのではないかと。
そういうものを目指すべきではないかと。
そう思うのです。


私の新作のもう1枚はこちら12月6日のページ


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2009年12月7日月曜日

河口龍夫展にいってきました


東京国立近代美術館の
河口龍夫展に行ってきました。(遅ればせながら)


人間のスケールを超えた時間、空間、感覚を捉えている作品群です。
たぶん、これほど的確に現代の感覚を捉えている作家はいないでしょう。

彼の作品は考古学、天文学、量子力学などの科学に裏打ちされ、
しかも感覚の奥深いところに訴えるように
よく工夫されています。

電流を利用したエネルギー、暗闇、途方もなく長い時間、光と物質、言葉・・・
さまざまな感覚や概念が身体を通過する体験ができます。

私の考える、感覚で世界を捉える ということを
まさに実現している貴重な人です。

すでに展覧会の模様はいろいろな方がブログに掲載しているので
詳細情報を見ようとすればweb上にいろいろな情報がありますが
やっぱり実作を見なければわからないです。

残念ながら12月13日まで、あと6日しかありません。
まだご覧になっていない方は、是非ご覧ください。


東京国立近代美術館 河口龍夫展


河口龍夫公式ホームページ



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2009年12月6日日曜日

新作 



新作ができました。

120x110cmのコラージュです。

タウン情報のフリーペーパーからネイルサロンの指の部分を切り取って貼り付けた。
左のほうは美容院の広告や女性誌のモデルのヘアースタイルのところを切り取って貼ったもの。

何かがぐちゃぐちゃと増殖しているようです。

現代の私たちの身体は、科学や産業(そしてもちろん私たちの仕事も)によってバラバラになっています。
私たちの身体感覚もバラバラです。

これは望ましいこととは思いませんが、私はそれならそれを使って一挙に自然の現象に昇華させようと考えました。
我々の時代の身体表現です。


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2009年12月3日木曜日

たなごころ


「たなごころ」とは、手の平の真ん中のへこんでいるところです。
「手の心」という意味なのだそうです。

私は何かを触覚で感じようとするとき、この部分でものを掴みます。

特に、手ごろな大きさの石などをこの「たなごごろ」でしっかりと掴むと、
感触が腕を通って肺や心臓のあたりまで到達します。

硬さや冷たさから、この石が出来上がったエネルギーの強さを感じ取ることができます。


また、周囲の空気や気配を感じ取ろうとするとき、この「たなごころ」を上にむけて
手をいっぱいに広げて感じ取ろうとします。

傍からみると滑稽でしょうが、まるでレーダーのように、または植物が葉を広げるように、
周囲の雰囲気を「たなごころ」に集めようとします。

「たなごころ」は東洋医学でも重要な部分らしいです。
私の感じかたでも、体の芯が露出しているところ、とでもいう感じがします。
つまり、体幹から腕をとおって、「たなごころ」で露出しているというような感じです。

似たようなところは、足の裏の「つちふまず」でしょうか。

皆さんもご自分の体の感覚を見つめて直してみてください。