2020年8月17日月曜日

戦争はなぜ起こったかの調査シリーズ 「日米開戦の正体」

 前表紙

日米開戦の正体  なぜ真珠湾攻撃という道を歩んだのか  孫崎享 著

さまざまな資料や著書から拾ってきたものを集めて構成している。

日露戦争直後から、日本は目をつけられていて、アメリカは、どのようにして日本に先制攻撃させるかを練っていた。日本はそれに載せられた。という論旨である。

2020年7月23日木曜日

「Centers」と「侍女たち(ラス・メニーナス)」

ビデオ作品「Centers」と、ベラスケスの「侍女たち(ラス・メニーナス)」
Webサイトによる展覧会を開催中です。「新しい空間の快楽」https://te-tajima.wixsite.com/mysite

その中のビデオ作品「Centers」についての新しい解説。 主体による造形ということを説明するのに「侍女たち」は良く知られているので便利なのでこれで説明します。 「侍女たち」の場合、 本来絵の外部にいるはずの3つの主体、「画家」「モデル」「鑑賞者」が、絵画の中に取り込まれています。 1 画家= 絵にかき込まれている画家(ベラスケス)本人 2 モデル= 中央の奥にある鏡に映る王  3 鑑賞者= 開かれたドアの向こうで、室内に起こっている全てをみている男 外部にあるはずの3つの主体が絵画の中に取り込まれていて、あたかも絵の外側は存在せず、全ては目に見えるように表されています。ミシェル・フーコーの「言葉と物」によれば、このようにすべてを一覧表のように表すことが、17世紀の基本的な世界の捉え方なのだそうです。 「Centers」の場合、 「Centers」は、巳巳がYoutubeに流れている渋谷スクランブル交差点のライブカメラを指差す様子を、手に持っているiPhoneのスクリーンキャブチャーで撮った映像です。 1 画家=映像の中でiPhoneのスクリーンキャプチャーをしている巳巳 2 モデル=映像に映る巳巳。 鏡=カメラを差す指(象徴的に視線を投げ返している) 3 鑑賞者=これも巳巳です。なぜなら、このビデオ作品は巳巳の持っているiPhoneのスクリーンキャプチャーによって撮られており、その画面を鑑賞者が共有しているからです。それは、「侍女たち」において後ろからすべてを見ている「3 ドアの向こうの男=鑑賞者」と同じです。 つまり巳巳が画家、モデル、鑑賞者(そして鏡)の3役(4役)をやっています。外部にある主体がすべてビデオの中に入っており、このシンプルな構造の中に原理的に「侍女たち」の表象空間と同じものが再現されています。 ただ違うのは、ビデオに映っている通行人です。 彼らの大部分はスマートフォンを持ち、この映像を見る潜在能力をもっています。 したがって通行人は「侍女たち」の「ドアの向こうの男」と同じような鑑賞者になり得ます。 そして通行人の誰もが巳巳と同じように、カメラに撮られることによってモデルになり、画面キャプチャーによって画家になり得ます。 そして、巳巳の指は、まっすぐに鑑賞者(つまりあなた)を指差しています。 表象されるのはあなた自身です。 あなたはこの空間に取り込まれています。

2020年1月4日土曜日

初夢未来予想

初夢未来予想(国際編)(長文です)
明けましておめでとうございます。
突然ですが、お正月だし、ここはひとつ思いっきり明るい未来予想の話をしようと思う。
これから話すのは今から50年後、2070年の世界です。
「こうあって欲しい」という姿をあえて思い描くことで、もしかしたら少しでもそれに近づくかもしれません。
-----------------
【概要】
2070年、世界的には貧困も格差も2020年の状態からはるかに改善され、深刻な問題ではなくなっている。
戦争や紛争もない。もっとも大きな変化は、世界から国家も国境も無くなったことだ。
行政単位としての国はあるのだが、大きな自治体という程度の機能となってしまった。
最高の決定機関は国際連邦である。それぞれの国には、もはや独自の軍隊は存在しない。
世界人口は約100億人で平衡状態に入っている。
温暖化の問題は、脱炭素社会が2030年までに目処がつき、気温上昇は産業革命以前の±ゼロに抑えられている。
【国際連邦】
最高の決定機関は「国際連邦」となっている。
21世紀になってからずっと、環境、食糧、経済問題は、国の単位で考えることに限界があることは明らかとなり、
国際的な意思決定がますます重要になってきた。
そんな中、国連の機能が徐々に強化されていき、ついに2040年に環境と経済問題を主導する連邦政府が樹立された。
連邦政府の政策は国際協力によって作られたAIが立案するが、AIは可能な政策とリスク分析をするのみで、政策の決定は人間の連邦議会が行なう。
連邦政府はつぎつぎと効果的な施策を実行してきた。
途上国は飛躍的な経済発展を遂げ、先進国と途上国の経済格差が無くなり、先進国、途上国という言葉も死語となった。
各国政府は、特に既得権益が強い国ほど、国際連邦政府の方針を受け入れることに抵抗を示したが、
連邦政府の施策を受け入れる国は、次々と問題を解決していったので、最終的には連邦政府に組み込まれざるを得なくなった。
当初は連邦政府の独裁を懸念する声もあったが連邦政府の調整能力は抜群で、環境・経済の問題以外は各国の自治なので、これまで一度として強権を使うことはなかった。
【国境の解除】
自由貿易は拡大をつづけ、資本も労働力も物品も移動に制限がなくなった。
一方で貧しい国がどんどん豊かになっていったので、経済難民も出稼ぎ移民の問題もない。
犯罪も極端に少なくなり、伝染病も最近20年間発生していない。
こうして次第に国境には意味がなくなっていったのである。
もう一つ、人々の土地に対する考えが全く変わってしまった。「土地を所有する」という考えは過去のものとなった。
土地に付随する水資源や天然資源も同様である。
基本的に全て土地は共有であり、個人や法人は、自治体から土地を借りて運用している。
土地は資産ではなく、相続するものではなくなった。もちろん、土地に投機はできない。
それとともに、領土という考えも古いものになってしまった。すべての土地は最終的には国際連邦のものであり
国境紛争というものも意味がなくなった。
土地の観念が根本的に変化したので、土地に根差したあらゆる問題は無くなってしまった。
大国が地域の紛争に関与する地域紛争は無くなってしまい、紛争に基づく憎悪も無くなり、
その結果、テロ組織も消滅した。
帝国主義時代に、列強によって無理やり引かれたアフリカや中東の国境線は長い間紛争のタネとなっていたが
国境に意味が無くなったので、問題自体が無くなってしまった。
バレスチナ問題も解消し、いまやパレスチナ地域ではアラブ人とユダヤ人が混ざり合って生活している。
【国家の武装解除と連邦への移管】
2040年ころから、各国は段階的に軍事力を連邦政府に移管し、唯一軍事力を有しているのは連邦のみとなった。
2050年には、戦争を含めたあらゆる人為殺傷を国際犯罪とする国際連邦法が施行された。
人類は、初めて戦争をすることそのものが犯罪であるという時代に入ったのである。
【経済格差の解消】
貧困は過去のものとなり、貧しい地域と富める地域の格差はいまやほとんどない。
資本主義も大きな変化があった。
株価に変わる、社会貢献度と信用度を示す指標が導入され、その会社がいかに社会に貢献するかということが高い要因で反映されるようになった。
従業員自身の評価もそれに反映され、過酷な労働をさせることは制度的に不可能になった。
行き過ぎた格差も是正されている。
その地域の平均収入の100倍以上の収入を得ることは違法となったので、企業のトップは毎年所得の調整をするようになった。
【教育、文化、医療の発展】
極度に進んだグローバル化の反動で、地域の文化に立ち返る動きも盛んになっている。
自民族の伝統衣装を着ることを楽しみ、世界中で古典芸能がかつてないほど盛んになっている。
教育は知育よりも、感情教育に重きが置かれるようになった。感情を安定させ、自己肯定するスキルである。
虐待などで心に傷をうけた子供が将来子供にネガティブな感情を植えつけないようにするためである。
負の感情の連鎖は止められ、犯罪の発生は極端に減り、自殺も劇的に少なくなった。
医療も進歩し世界の平均寿命は120歳程度である。
【さらなる未知の領域へ】
人類は初めて、戦争も貧困も憎悪もない社会を実現した。すべての人がその成果を誇っている。
そして人類はさらなる挑戦を始めている。
火星移住計画は10年前から進行している。
さらにもう一つ、2060年、50光年離れたところの天体から知的生命体からと思われる通信を得ている。意味の解読はできていないが自然にはありえない配列であり、知的生命体から発せられたものと間違いない。研究チームが組まれ、通信の解読と返信をどうするか研究を重ねている。
地上の問題を解決した人類は、あたらしい領域に踏み出した。





初夢未来予想(日本編)
ニュースによるとアメリカがイランの司令官を殺害し、両国の関係はさらに悪化している。
正月からどうも殺伐とした話だが、しかし私はあえて申し上げたい。明るい未来を。
昨日の国際編に続き、今日は2070年の日本の明るい未来予想です。
「くだらない夢物語」と思うかもしれませんが、私は「あり得る」、いや「本当にしたい」と思っています。
------------------------------------------
【人口・労働】
日本の人口は8000万人で平衡状態にある。
21世紀に入って日本の人口は減少していったが、人々は懸命に創造的な仕事を続け、一人当たりのGDPはむしろ上がっていった。
2025年から段階的クオータ制によって、2040年には国会も地方議会でも男女比は50%となった。
偏りのある労働採用は見直され、正規/非正規という言葉は遥か以前に死語となっている。
人々はどの年齢の段階からでも再教育や、やりなおしができるようになっている。
専門性の低い仕事はロボットが主に行い、人間はそのロボットを制御する仕事が主要な労働となっている。
社会は効率化され、一日に4時間程度働けば必要な収入は得られる。
多くの人がスポーツや文化的な活動に時間を費やすようになり、それがまた新しい経済活動を生んでいる。
一方、介護、教育など、人間が直接行なわなければならない仕事は専門職として高い収入が得られるようになっている。
【多様性を認める社会】
同調圧力が強いと言われたかつての日本社会だが、いまや学校では様々な人種と民族、宗教の子供が教育を受けており
多様性は当たり前となっている。他人と同じであることはむしろ恥ずかしいという風潮になっている。
感情を安定化する教育が広く行われ、それは社会を人々の心の深いところから変えていった。
いじめ、自殺、鬱、引きこもりなどは極度に少なくなっている。
若者も中高年も、自分を他人と比較することはなく、自分のやりたいことを思う存分でき、それを支援する制度も整っている。
日本国民全体の顔に自信がみなぎり、自分たちが作ってきた生活や文化に誇りをもっている。
【東アジア圏の国境解除】
国際連邦の設立は東アジアにも強い影響を与え、
北朝鮮は金政権が2030年ころから開放路線をとり、韓国と国境を開き朝鮮半島が統一されたのは2050年である。
思想の自由を基調とする連邦と中国共産党は対立すると思われたが、中国共産党が段階的民主化の政策に踏み切ったので
2050年には中国共産党は民主政権となり、中国は民主化した。
2060年には中国も国境を解除した。
【日本近代史の編纂活動】
日本は明治以来の、特に第二次大戦までの歴史を本格的に認識しなおすこととなった。
2025年、政府主導の日本近代史研究会が発足し、公的な歴史書を編纂する活動が始まった。
特にアジア太平洋戦争に至った経緯については、東京裁判で戦勝国に裁かれるという形で終わってしまっていたが、
公式に初めて日本自身の手でその原因や経緯を詳しく深く分析することとなった。研究会には諸外国の歴史研究者も加わった。
そして2045年、第二次大戦終結100年の年に、「日本近代歴史書」が完成し、データベースで公開された。
考察は広く深く及んでおり、歴史書というより哲学書といって良い内容である。
この書は教育の場で共有され、日本国民全体に、歴史に基づく哲学や倫理を根付かせることとなった。
この日本の真摯な態度を諸外国も高く評価し、諸外国との関係は深い意味で改善されていった。
【人生の回帰】
ところで私、巳巳は2070年には100歳を超えているが存命である。抗老化薬によって50歳程度の体力を維持したまま生活している。
2070年では、抗老化医療の発達で、生きようと思えばいつまでも生きていることができる。
したがって、死ぬ時を自分で決めることができるようになった。
死という言葉の代わりに「回帰」という言葉が使われる。それは人生で何か事を成し遂げ、自らの意思で尊厳的に生を終結させることを意味する。
周囲に回帰を宣言して、眠りにつく。葬儀は卒業式のようなもので、むしろ祝い事となっている。
私は150歳で回帰すると決めている。





2019年6月6日木曜日

巳巳 個展-Exhibition "Mi chiamano Mimi"

個展を行ないます。
巳巳(元 田島鉄也)による改名後初個展
作家のパフォーマンスを記録した初のビデオ作品。
墨汁に浸けられボロボロになった「本」。(写真は「セザンヌ展 1974年 国立西洋美術館 図録」)
そして多数のドローイングを出します。是非ご高覧お願いいたします。
場所は2階がギャラリー、1階が立ち飲み屋という珍しいところです。
First solo exhibition after Tetsuya Tajima changed the name to "Mimi".
Artist's first performance video, Broken books soakted  by ink  and a lot of drawings.It is nice place, the second floor is gallery and the first floor is standing bar.

Mi chiamano Mimi
2019 June 15 sat- 30 sun
代田橋 納戸(Daitabashi Nando)/gallery DEN5 
〒168-0063 東京都杉並区和泉1-3-15 市場入口 izumi1-3-15 suginami-ku, Tokyo
京王線 代田橋駅北口より徒歩5分
5minutes on foot from Noth gate of Daitabashi Station, Keio-line

納戸Nando(standing bar) 平日weekday 17:00-23:00, 土日weekend 16:00-23:00
gallery DEN5 平日weekday16:00-21:30, 土日weekend 15:00-21:30
毎水曜日定休 Every Wednesday Closed
直通mob 070-6469-6908
daitabashi.nando@gmail.com  
insta/nando.galleryden5

2019年3月31日日曜日

世界を怪物が覆っている

世界を怪物が覆っている。
資本主義という怪物である。
現代を生きる我々の生活は、否応なしに巨大な経済システムに組み込まれている。
我々の生活は、この怪物に絶えず栄養を与えている。
このシステムに接続して労働し、対価を得て、そしてこのシステムによって消費する。
そしてシステムにうまく適応できない人々は、相対的に貧困に陥っていく。

この急激な変化をさらに推進しようとする人々がいる。
企業のスターたちである。
資本主義システムの推進力は、それを推進する人間の仕業であるものの、全体を動かしているのは個々の人間ではない。
それは、個々の人間の意志を超越した巨大な運動である。
そしてこれが、どこに向かっているかは誰も知らない。

そして今、このシステムの強い影響下にある私たちの心の深層は、深いニヒリズムで覆われているようだ。
生き方も死に方も定まらない不確定な状態をニヒリズムというならば、今は間違いなくニヒリズムの時代である。
私たちはデータに取り囲まれ、労働を採取され、創造力も向上心も搾取される。資本主義の内部のゲームを強要される。
とりあえず、自分のためや家族のためなど、一般的に了解されているような動機で納得し、あまり深く考えるのは避けた方が良いらしい。
建康、生きがい、社会貢献、コミュニティ・・・仕事をしていたり、気の合う友達と過ごしていたりすればそれなりに意味ある人生のように思えてくるので、それ以上は追求するのはやめたほうが良いのだろう。

しかし私たちの心の奥底は、なにか普遍的なものとつながっていたいという切実な欲求があるようだ。
人々の生活が自然と一体だった太古の価値観を、普遍的なものとして、生きる意味を説く人がいる。
それは、我々に古い記憶を思い起こさせ、それが本来の姿であったと思わせる。
人類は何万年も、そのような価値観で暮らしてきた。
失われた全感覚的な、非言語的な世界を思いださせるのが、芸術の役割であると説く人がいる。
もちろん、そのような精神生活がかつてあり、現代人がそれを忘れているのはよく分かっているので、それには説得力がある。
人間対自然なのではなく、人間を含めた自然なのである。

しかし今システムが、そのような古い価値観を壊しつづけているのが現実であり、今のところこの二つが融合する道は全く見えてこない。

   *

良識ある人は言う「私たちには、命があり、尊厳があり、個人の意思と自由がある」と。
それらの言葉を素直に信じることができたら、どんなに良いだろう。
そしてそれらが絶対的な原則であることを堂々と述べる人がいるとしたら、民主主義へ大きな期待を抱かせる。
民主主義と進歩へのまっすぐな期待と希望である。

しかし残念ながら今ほどそれらの言葉が薄っぺらく聞こえる時代は無い。
意思、自由・・・そのような言葉は資本主義的現実とテクノロジーの中に溶けだしてしまっている。
人間の大きさがますます小さくなっていく。・・・そしてこれからますますそうなるだろう。

しかし命と尊厳は不可侵のはずであると、説く人はいるかもしれない。
システム化が激しく進んでいる現代、システムの側からは人間は、一つのノード(ネットワークの端末)としか見られていない。
つまり、システムは、入力しているのが人間だと思っていない。
我々はスマホやコンピュータ端末に向かうたびに、システムに情報という栄養を与える源泉となっている。

尊厳を完全に維持しつづけていくにはどうしたらよいか?
命を盾にして戦い続けるしかないのかもしれない。

突き詰めていくと選択肢は2つしかなくなる。一つは徹底的な否定、つまり資本主義的な消費や生産に役立つことは何一つしないこと。
もう一つは死をもってこの社会から退場することである。
しかし、それらは勝利というより完全な敗北を意味するだろう。

実際は極端に思い詰めないほうがよいのだ。ストレスを解消しながらなんとなくやっていったほうが良い。

しかし、誠実であろうとすればするほど、私たちは自分で自分を追い詰めていく。
誠実さは、我々の時代の代表的な美徳だろう。
私たちは誠実な現代人であろうとすればするほど、自分を傷つけ、自分を殺しているのではないだろうか。

   *

否定と死という2つの選択肢をしげしげと眺めていると、ふと、或る別の空間が開かれていることに気づく。

それは、昼でも夜でもない、薄明か、黄昏のような場所である。
意味的にニュートラルな場所である。
何の色もなく、白でも黒でもなく、主語も述語もない。
主体も客体もない。支配も従属もない。意味も目的もない。
意識と無意識の間であり、覚醒と夢の間であり
その空間は、言葉とその意味される概念や情動との間にある。
単純な繰り返しであり、物語性もなく、奥行きもない。
意味づけがされず、曖昧である。そして自明である。
開かれた窓のようなもの。
基本的な論理すら成り立たない、または論理が必要ない場所である。

資本主義という怪物が暴れまわる現代の社会は、嵐のように意味と記号が吹きすさぶ。しかしその裏には、静寂と沈黙が育っているのを発見する。

それらは例えば、マルセル・デュシャンの沈黙、ルネ・マグリットの絵画にある論理矛盾、ジョン・ケージの「無音」、アンディ・ウォーホルの「消費社会が好き」という幸福そうなほほ笑みの中に、あるいは松尾芭蕉の句の中に見出すことができる。

私にはある予感がある。
全てのものは同じ価値を持ち、全ては繋がっていて同一の現象であり、
弾力があって丈夫なものが世界を支えているというような感覚。

たったひとつの原理、たったひとつの音で、すべてが生成される。
複雑に見えるものでも、それぞれ要素どおしが別々の見方をしているだけで、物事は非常に単純であるということ。

マレーヴィチやモンドリアンが志向したような抽象的な精神とは違う。
古代ギリシア人が考えたイデアとか、美学者のいう普遍的な美というものではない。

それは具体的な生活の中に存在している。
たぶん私たちはそういうことを、日常生活でしばしば目撃することがある。それはいたるところにある。
誰も居ない部屋や、空き地や、
目的もなく積み上げられたものたち、本来の目的以外の用途に使われているものたちに。
店で買ってきた任意の消費財に。

カントは世界のありのままの姿(物自体という)を知覚することは不可能と断じた。確かにどのように優れた知覚を有した生物であろうともこの世の全てを感覚することはできない。
しかし、人間には世界のありのままを「予感」することだけはできるのではないだろうか。

予感するためには特殊な能力が必要だろうか?いやそうではあるまい。
生きる意味を諦めたとき、世界全体は同一の価値に覆われる。
自分自身もその同一の価値に覆われるので、自分自身居るのか居ないのかわからなくなる。

この予感、その価値は、資本主義の現実世界の裏側にあり、すべてを見通すような静寂であり、時間もない永遠である。
そこにいる限り、何ひとつ表現はできない。
そこは居心地が良い。
そこから一歩も出たくないとさえ思う。永遠に。
永遠にそこに居ることもできるだろう。

         *

だが私たちは外に出て、再び社会のゲームに参加しなければならない。
システムと戦わなければならない。
もし表現しようとするならば、そうしなければ何もできないからである。

戦いに遭遇するたびに、この無意味な空間を参照する。意味と記号が絡めとろうとするのを振りほどいて外の空気を吸い、再び息を止めて取り掛かる。
システムは不完全だ。システムはバランスを欠いていて、決定的な欠陥がある。だからこの怪物が大きければ大きいほど、意味と記号が吹きすさぶ嵐の背後に、ますます巨大な沈黙がある。
それがわかっていながら、そしてそれがわかっているので、あえてゲームに参加する。そうでなければ表現できないから。

この怪物を自覚しつつ何かを表現しようとするならば、何ひとつ表現できない空間が必要である。
そしてひとたびそのことを了解したならば、少なくとも自分で行うことに関しては、表現することが可能となる。

そしてシステムとの戦いについては、戦いのルール自体を自分で決めることが可能となるだろう。すでにルールの外側があることが分かっているからだ。


2018年6月13日水曜日

「日常」- この異様なるもの

何か変だと思っている。ずっと前からそう思っていた。
一体どうして、このような世界に住んでいるのか?
どこで作られたのかわからない食材を食べ、本当なのかどうかわからないニュースを目にする。
人々は巨大な噂話をしていて、
メディアは人々を分断し、人々はそれぞれ孤独になる。
自然からさまざまなものを搾取して、私たちの生活は成り立っている。
宇宙は冷たい世界だ。しかし、この惑星はほぼ快適な温度に保たれている。
その地殻の上にある、ほんの表面の領域に我々は住んでいる。
土地を分割して。土地を所有して。
このことがすでに絵空事だ。土地は誰のものでもないはずだ。
言葉が世界を分割するように、我々は土地を分割する。
分け目を入れられないところに分け目を入れる。
私たちはそのような巨大な分断システムに組み込まれてしまっている。
人間の社会に住んでいる以上、そこからは逃れようもない。
私たちは大半の時間を、このシステムに投げ込まれた状態で過ごす。これが日常というものだ。
日常を過ごしている人間は、人間らしい顔をしていない。概して無表情。いや悟りきったかのように、自分のことに集中している。
その顔は、通勤中だったり、仕事をしていたりする顔だ。
休み時間に、人と談笑するとき、やっと人間らしい顔になる。
資本主義的現実に支配されたこの日常。
だが私は知っている。世界はそんなに単純ではない。
空間を折り曲げたり、ねじったりして、避難場所をつくることができる。
ある人々は主張する。この社会は表面上のことにすぎぬと。
私たちは、森羅万象を含めた深い循環の中にいて、この世界はごく一部にすぎぬ。
その目に見えない循環に従えば、このシステムの醜怪さは相対化できるのだと。
本当だろうか?僕は信じられない。
そのような人々はいうのだ。芸術の発想は、降りてくる、のだと。自分が作っているのではないのだと。芸術家としての自分は、メディアなのだと。
よく言われることだし、それを否定する気もない。しかしそのことが、私たちの現実を代弁しているとも思えない。



「日常」- この異様なるもの

 通勤の人の流れが川に似ているように、日常を過ごすのは私(主体)ではなく任意の誰かである。
 常に膨大なことが起こっている。しかし日常は何も起きなかったことにして忘却の彼方に押し流す。あえていうならば「何も起こらない」ということが起こっている。しかし誰にとって何も起こらないのか? そもそも何が起こらないのか? 
 今この瞬間「日常」に目を向けようとすると、当の日常はそこになく、あえて見ようとすれば日常は逃げ去り、見る対象は意識の中に取り残され、現実というものに名を変える。我々に見ることができるのは、日常ではなく常に現実である。日常はとどまらずに流れ、変化し、確定しない。そして見えるようになったその現実は個人個人でその意味が違う。  
 日常的行為は、目的を意識しなくても自動的に達成される。この忘却は認識を置き去りにする。
 日常は私たちの思考に空白を作るが、空白の生じる速度は自分自身の存在を認知するよりも速い。驚くべきことに、私たちは目の前で起こっているこの変換に対してあらかじめ無関心であるように作られている。
  私たちは意識的にものを見るとき、観察する対象である見える部分と、自己(の視点)という見えない部分とに分かれるが、日常はこのような視点/対象の分裂をつくらない。日常とは、自分を含めた全体性であり、日常の中に私(主体)の姿は無い。日常の中にいる人はその日常を見ることができない。

 日常にはいくつかの奇妙な特徴がある。
・脱主体。(「私」が居ない)
・視点/対象に分割できない全体性
・膨大なことが起こっているにもかかわらず、何も起こっていないかのようにみえる。
・知覚できる状態(現実)は個人によって意味が違う。
・絶えず変化し、確定されない。

 このように日常についての特徴を述べていくと、いかにも異様である。
 日常は、個人の観察や経験を、そしてあらゆる思考を超越している。しかしこの作用はほとんど顧みられていない。なぜなら、それは知覚できないからである。
 本展は、常に我々とともに在りながらも決して見ることができない「日常」を、一種異様なものとして、別の世界から来た者が見るように、全く異なった視座から捉えなおす。

2017年11月4日土曜日

実体と表象の間で:ブログ名の変更について

ブログを改訂するにあたって・・・
長らく「感覚で世界を捉える」というタイトルのブログを続けてきたが、タイトルを「実体と表象の間で」と改めることにしました。その理由は以下です。


私は15歳のときに神経症で電車に乗れなくなりました。長じて寛解してから、心の病気は私個人の問題というよりは、人間の大量輸送を作り出した近代的な社会システムと、私の精神構造が葛藤した、と考えるようになり、近代のシステムに対する強い疑いを抱きました。

以来、社会と身体との違和感を、ある時は直接的に、ある時は思弁的に確認してきました。

身体と社会、それをつなぐものとして感覚ということを発想しました。感覚によって近代の軋轢を乗り越えることを目指し、2009年から「感覚で世界を捉える」というこのブログを立ち上げました。「感覚で・・・」というブログの名前の時に書かれた最後の記事は、2017年3月11日です。


8年に渡って感覚をもとにそれを追求してきましたが、最近、問題設定を広げる必要性を感じました。自分の中に在る近代、自分の中にある権力・・・自分の中にある思考様式や感覚の様式を見直す必要があると。
近代的な権力は言葉を使います。言葉だけでなく、あらゆる表象つまり情報を駆使し、イメージを喚起させます。権力関係を乗り越えるには、言葉を捉えなおさなければなりません。

これからは、その思考や方法そのものを表現の操作の対象とすることとしたいと思います。
社会と身体は「実体」であり、芸術は「表象」です。私が注目したいのはその間です。
こう宣言する前から、この考え方の萌芽がありました。このブログの比較的最近の記事(永遠について(2016年5月3日)すべてのもの(2016年3月19日)高松次郎展「ミステリーズ」(2015年2月15日))などは、その傾向の強い記事です。

「実体」に対する「表象」。「物」に対する「イメージと言葉」。その間隙に、ある種の空間と時間が広がっています。
そこはエネルギーの噴出する場所。理性の威力が届かないカオスであり、生成の場所です。そこは不穏な、未知の場所であり、不安と恐怖の渦巻く場所でもあります。不可解な、何とも収まりのつかない、統御できない場所です。
しかし可能性の場所でもあります。われわれはそこで息をすることができ、手足を広げることができ、あるいは遊ぶことができ、表現することができる。危険で、注意しなければならないが、創発が行われうる可能性を持つ場所でもあります。
そこでは今まで当たり前のように制約のある環境下で、すっかり慣れ親しんだ姿勢や構えを一度取り外す必要があると思います。

そして今、実体と表象の間の目に見えない深い谷を見下ろし、奥に続く細い道をさがしている。そんな状況です。


2017年3月10日金曜日

3月11日の前日に

明日は3月11日だ。
この間の6年間に私は何を考え、どう行動し、どのような精神の醸成をしたのか、ここでまとめておきたい。
2011年3月の震災発生後に書いた私のブログを読むと、私は何かを恐れていた。
自然の力を恐れている。まだ余震も続いていたころだ。私はあえて恐怖を自分の中に刻み込もうとした。

http://te-tajima.blogspot.jp/2011/03/blog-post_13.html
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/04/blog-post_11.html

自然保護という言葉があるが、私たちは自然を飼いならしたかのように錯覚していた。
しかし本当は、我々人類など地球の表面にへばりついて生きているに過ぎず
地震というのはわずか厚さ10キロメートル程度の地殻が揺れ動いたに過ぎない現象にもかかわらず
その上に暮らす我々人間には大ショックであった。

その時から、そしてその後の約1年を通じて、私たちは今までにない経験をした。
普段隠されている社会のインフラの仕組みが露呈したのだ。それが身をもってわかった。
ヒリヒリするような生身の皮膚感覚でもって、社会の仕組みとその向こうにある自然と接触していたのだ。

原発事故のことは言うまでもないことだが、
他にも例えば計画停電の行われる地域が順番にアナウンスされると、普段は隠れている電気の配電のネットワークが良くわかった。
ガソリンや灯油が不足した。
人々は日用品を買い溜めし、物不足の事態も起こった。
災害によって、普段は隠れている世の中の仕組みが姿を現したのだった。


私は、社会全体が自分の身体とリンクするイメージを捉えようとしていた。社会の仕組みは自分のからだの機能と良く似ていると思った。

http://te-tajima.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html
http://te-tajima.blogspot.jp/2012/02/blog-post_11.html


私は、被災地にはあえて行かなかった。
東京に居て、私自身の問題として、社会の仕組みを捉えようとした。

自分のところに来る水道、そして下水道がどうなっているのか、実際に荒川の下水道施設を訪ねてみた。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/07/blog-post.html

東京湾に到着する原油や鉄鋼、液化ガスなどを精製し、原料として日本全体に供給する地帯(千葉コンビナート地帯)に行ってきた。
http://te-tajima.blogspot.jp/2011/12/blog-post_30.html

そんなとき、ハイデガーの「技術への問い」に出会った。最初は良く分からなかったが、これは自分の求めるものが書いてあるのだと考えて、良く読んだ。

http://te-tajima.blogspot.jp/2012/03/3.html


ハイデガーは、「技術への問い」の中で、
現代の技術文明の正体をGe-stell (ゲシュテル)と言ってる。
ゲシュテルとは自然や人間から資源や労働を収集し、生産に活用する現代社会特有の目に見えない構造のことである。
川の流れから電力を引っ立て、農地や太陽や空気中の窒素から作物を引っ立て、鉱山から鉱物を引っ立てる。
このような「引っ立てる体制」のことをゲシュテルと言う。「徴用性」「総かり立て体制」「巨大-収奪機構」と訳す場合もある。
さらにゲシュテルは、人間をかりたてる。生産において労働をかり立て、巧みに消費をかり立てる。
ゲシュテルは目に見えない構造であって、全体を動かす中枢的な何者かがいるわけではない。
毛細血管のように、世の中の事象の隅々までいきわたり、栄養分を吸い取り、また逆に栄養をいきわたらせている。
私たちはゲシュテルの支配から逃れることはほぼできない。

長い間かかって、私はゲシュテルの実態を捉えた。そして自分の身体に重ね合わせようとした。

このようにして2014年に「ハイデガーの技術論」という個展を行なった。
http://te-tajima.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html

その成果はこのときのブログの記述に詳しく書いてある。
ここで私は、ゲシュテルに支配された現代のモード(社会を成り立たせる様式)を、変換させる可能性が育っていることを確信した。

そしてその後、2015年に「ぬか漬けされた資本論」という作品を作った。社会を食べて、自分の身体に取り込む、というコンセプトの作品だ。
https://www.te-tajima.com/untitled-c1ndd

「技術への問い」の終盤で、ハイデガーは、もしゲシュテルの支配を脱したとしたら「人間はこの大地に詩人的に住む」という言葉を書いている。

ゲシュテルの上に登った私は、どのようにして詩人になるか、今、試みているところである。


2016年5月3日火曜日

永遠について



私は、絶望と希望の間の灰色の領域にいる。

あらゆる物に名がなく、ものの一切が動かないその場所。

すべての物が意味から取り外されている。
外に抜け出す梯子(はしご)は取り外され、その中でしか生きていけぬ、その深い谷。
その中立的な領域において、私は見極めようとしている。

何を?

永遠を!



永遠とは深淵に誘う巨大な闇か?

そして人間は、永遠というものに耐えられるのか?

永遠とは変化しないこと。つまり死。

永遠を愛するとは、死を愛すること。ということは滅びを愛することか?

永遠に生きるということは、ゆっくりと死んでいくことか?

それともみずみずしい新鮮さを永遠に保ちつつ生き続けることは出来るのか?

同じことの繰り返しがなく、つねに新鮮な状態で。


+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   


しかし、私は、時間の流れが常に滅びに向かうことを知っている。

熱力学の第二法則。

無秩序さは常に増大する。すべてはカオスに向かっていく。

最終的には、すべてが一様均一になり、熱力学的な死を迎える。偶然のノイズ以外には何も起こらない状態が宇宙全体を覆ってしまう。

そうだ、やはり永遠は無かったのだ。

永遠とは現実に存在しない、仮定の産物なのだ。


+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   


そう、そのとおり、しかしだからと言ってそれがどうしたというのだろう!

永遠とは一種の仮定である。

仮定である以上、熱力学第二法則を無視したとしても一向にかまわない。
永遠の前提として、いつまでたっても無秩序さが増大しない世界を想定しても良い。



+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   


さて、そうだとして、
永遠の定義からして、変化がいつまでも続くということである。
つまり全く違うパターンが永遠に出続ける。
永遠とはそういうことなのか?

例えば円周率は無理数である。
無理数にはいつまでたっても繰り返しのパターンが出てこない。
だからといって、無理数は永遠であると言えるのだろうか?


+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   


しかし人間の生は物理法則や無理数とは違う。

私が今生きているこの時間は、私にとっては取り換えの効かぬ唯一のものである。
そして私にとって大切な人々も、取り換えの効かぬ唯一のものだ。

もし何度も生まれ変わって、その都度違う人々に会い、いろいろな異なる境遇に晒されたとする。
その都度の出会いは前回の繰り返しではなくその一度限りのものであり、私はその都度の邂逅に没入している。

そこにおいて、前回との比較は成り立たない。
その一回の出会いが絶対、唯一である。
これらの出来事は何回起こっても一回一回が独立しているはずだ。
一度きりのことはその時のことであり、前回のことも、次回のことも関係ない。

無限に変化が進行するのだが、私はその都度それに没頭していて、その先のことは考えていられない。
常に今しかないはずである。



永遠とは、「今」が永遠に続くこと。
その前も後も見えない。
「今」の前後は霧の中のようだ。

永遠を愛すとは、「今」を愛することである。


もし永遠が、変化の無い状態またはただのノイズだとしたら、それは死と同じだ。
しかし時間の前後から裁ちはなたれ、「今」しか見えないのだとしたら、永遠の変化は可能であるはずだ。

永遠は一気に襲ってこない。永遠は、「今」という札を順番に我々に示していくのみである。



もしある日、貴方のもとにデーモンがやってきて、一粒の黄金色に輝く丸薬を示し、「この薬を飲めば永遠に生きられる」と勧めたとしよう。

そうしたら、是非その薬を飲みたまえ。

恐れることはない。

「今」を愛するなら、永遠のことなど考える必要すらないからだ。



+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   



上記で私は或る考察に行き着いたが、はたしてこれでよいのだろうか? 

人間は「今」しかわからないから、永遠を感知できない。
それゆえ、永遠は在っても無くても同じこと。
人間は永遠を把握できない、ということがこの考察の結論なのか?
私はとんでもない思い違いをしていないか?



+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   



そのとおり、私の直観は私に次のように教える。

やはり永遠は、一瞬にして把握されるべきものなのだ!

そうでなければ、永遠という言葉の意味自体が成り立たない。


そうである。ここに永遠がある。
宇宙が始まるとか終わるとかということとは関係ない。
永遠は、今まさにここに、そして何百年前も何百年後も、いつの時代のどんな時にもあった。

そしてこれからも在り続ける。

なぜかというと、それが永遠だから。



永遠とは、時間がどこまでも続く状態ではない。
逆である。時間が永遠から発生する。

時間とは、永遠の中に発生するさざ波であり、その波と波の間の谷に我々の宇宙があって、そこに人類は住んでいる。

波と波の間の狭い谷を見渡して、我々人類は宇宙全体を見たつもりになっている。

しかし実際は巨大な永遠の大洋の表面に生じたさざ波に過ぎず、その波も極短い時間で消え失せてしまうのだ。


この大洋が表面を覆う惑星は無限に大きい。
つまり、その惑星の表面は、平坦であり、どこまでいってもその惑星を一周することはできない。
無限の数の大陸、
無限の数の島々がある。
無限の数の台風が発生し、
無限の数のモンスーンが流れる。
惑星の気象は、無限に多様であり、同じことの繰り返しは出てこない。



+   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   



我々が、ビッグバンとか宇宙の終焉とか言っているものは、すべて永遠の中にあり、永遠のごく一部である。
宇宙が生まれて137億年だそうだが、その時間は砂粒が砂時計の首を通り抜けるよりも短い。
永遠の時間の長さをいくら比喩的に説明しても無駄だろう。
なぜかというと永遠だから。比較する対象がない。


永遠を一つの塊のようなものとして捉えられないだろうか?
いや、それは無理だ。
塊として捉えると、その塊以外のもの、つまり永遠でないもの、を考えざるを得なくなるから。




永遠は一つ、唯一である。

永遠は遍在していて、どこにでも一様にある。

この宇宙のどこにでも、そしてこの宇宙以外のどこにでも。
永遠の外側を考えることは、その定義からして不可能だ。




永遠は私たちと共にある。

私たちは、永遠と一体である。

永遠を愛すとは、永遠と一体である必然性を肯定することなのである。










2016年3月19日土曜日

すべてのもの


認識
ブラシで汚れを除去

recognition
removing dirt by brush



世界には付け加えるべき何物も無い。
表現すべき何物もない。
したがって取り除くことしかできない。
だから表現すべき対象は、すべてである。私を含むすべて。

私は世界全体の一部であり、
私とは私に関わるすべてのものである。
だから、私はすべてである。
地球から遥かに離れた、或る恒星の、名も無き惑星上にある、
ほんの小さな石片でさえ、私である。

私はすべてである。
良いも悪いも、
美しいも醜いも、
優れているも劣っているも、
真面目も不真面目も、
厳格も無秩序も、
禁欲も享楽も、
優しいも残酷も、
関心も無関心も、
感動も無感動も、
意識も無意識も、
男も女も、
老人も子供も、
ライオンもウィルスも、
爪の垢も銀河系も、
極大から極微まで

すべて私である。





2015年2月15日日曜日

高松次郎展 ミステリーズ

国立近代美術館で行なわれている「高松次郎ミステリーズ」に行ってきた。
高松次郎氏は以前より私が敬愛する作家である。
わかりにくいこの作家の思考世界を丁寧な解説でみせてくれている好展示だった。
説明文が多い展覧会でもある。作品タイトルの下に長々と説明がある。観客はその文書を読みながら、高松氏の思考をたどっていく。時間はかかるがこのような丁寧な展示方法は非常にありがたい。


---------------------------------
□ 或る問題

世界というものは、自分も含めた世界全体というものは、どういう仕組みで成り立っているのか?
それは大問題だ。
なぜなら答えを出すべき本人が、この世界の中に居るからだ。
もし世界全体を目の前に取り出して、机の上に置いて観察するような感じで見ることができたら、どんなに良いだろう。
しかし残念ながらそうはいかない。
なぜなら、その机の上の世界は、私を含んでいない。
世界についての答えを出そうとするならば、答えるべき主体である私も問題の中に組み込まれなければならない。
答えることは不可能な問いだ。
そして高松氏は、果敢にもその不可能に挑戦する。

---------------------------------
□ 点について

高松氏は、まず世界を成り立たせることの一つに遠近法の消失点を求めた。
遠近法の消失点は、実際にはないはずの点である。しかしそれが遠近法的空間を成り立たせている。
在るはずなのに、実際には存在しない「点」。
高松氏はここにおいて、「不在」を発見した。
不在の発想は、その後の彼の作品にとって決定的なものである。

高松氏はこのことを世界を成り立たせる最小の物質の単位、素粒子になぞらえる。量子力学では、素粒子は粒子であるとともに波である。これも在と不在の間の揺らぎだ。
素粒子は在であり、そして不在でもある。それはつねに揺らいでおり時間と切り離せない。


-------------------------
□ いくつかの言葉


気になったいくつかの言葉があるので整理してみたい。

在 または 存在
これは、変化または時間のこと。変化しないもの、最終的に消滅しないものは「存在」しない。石のように変化しないと思われるものでも何億年もたつと変化する。

不在
これも実は存在と同じ意味ではないか?存在のほうは変化しないことのほうを強調しているのだが、不在は、存在の中にある不在性を強調しているということであろう。


潜在的なエネルギーがギューッと詰め込まれた状態。何もないのではない。その膨大なエネルギーが発現されていないだけ。存在ほど生き生きとした状態ではない。放っておくと何も起きない。

非在
存在にあらず。無のことではないかと思う。

実在
現実の物質で彩られた、我々が日常接しているもの。
・・・しかし本当にそうなのか疑問が残るが。


反実在
どうも、不在が増殖してできたような、この世の向こう側の世界のようなものらしい。決して到達し得ない世界だが、高松氏はそこへの道筋を考えて実行した。
高松氏は以下のように述べる。
「あたらしい純白のキャンバスに、その純白のキャンバスを描写すること。(中略)それは実在と、それ自身の虚像をぴったりと合わせることを意味します。そのとき、物体は実在でありながら同時に虚像であることによって0を掛けられた数式のようにその実在性は否定されます。(中略)僕が意図しているのは、物体をエネルギーだけに変えることによって不在化してしまう、原子力的方法です」(特集・新世代の画家への7つの質問、美術手帳第276号)
 物質的実在(絵の対象物)と非物質的実在(対象物の影)を衝突させて消してしまうこと。これが彼の「影」シリーズであった。
(この解説は、今回の「高松次郎ミステリーズ」の企画者の一人、蔵屋美香氏による)

-----------------------------------
□ 高松氏が読んだ本


この展覧会では、高松次郎氏のアトリエの大きさが再現され、片隅に高松氏の書庫にあった本が置いてあった。(もちろん美術館が新しく買い揃えたものだろう)。
高松氏の関心領域を示す興味深いものだと思うので書き留めておいた。


セザンヌの手紙  ポール・セザンヌ
消しゴム  ロブ・グリエ
論理哲学論考   ヴィドゲンシュタイン
老子   福永光司
城  カフカ
意味と無意味  メルロ・ポンティ
抽象絵画-意味と限界  ハインリヒ・リュッツェラー

------------------------------------
□ 芸術は作者の内面の表現ではない。


高松氏のアトリエの大きさが再現された場所の壁に高松氏の言葉が書いてあった。
ぼくはいつも“芸術は"芸術は作者の内面を表現するものでない方がよい”と考えている。これまでの芸術は、自然なり物体なりを作者が見てそれに触発されて感情の表現をされてきた。だが、本当に純粋な絵画というものは、キャンバスがキャンバス自身を表現する、とおいうことではないだろうか。(「自分を無にすること」1980)

-------------------------------------
□ 密度

 「高松次郎ミステリーズ」を見て思ったのは、ある強い「密度」だ。この世界は隙間なく何かで埋まっているというような感じだ。不在というものを認めた瞬間に、不在の場所も塞がれてしまい、この世はぎっしりと埋まってしまうことになる。スカスカのところなど少しもない。スカスカと思われていたところも、「不在」で埋め尽くされているからだ。我々の住むこの世界は、この上なく充実している。そして見せかけの表面や一時の感情を超えて、硬く揺るがない、一方で柔軟で変化に富んだ、そのものに目を凝らしたいと思う。

-------------------------------------
□ 盟友の人物評

最後に高松次郎氏の死後発刊された、著作を集めた書物「不在への問い」に盟友・赤瀬川源平氏が書いた紹介文が表紙にあったので引用しよう。


長身で
一本気で
明快で
突進力があり
そのために悩んで
その末に在りえない世界の入り口を見つけて
そのわずかな隙間から
身をこじ入れて
行ってしまった
高松次郎      明快なグレー
---------------------------------






にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ にほんブログ村

2014年8月28日木曜日

量子力学の爽快さ -量子力学と仏教哲学-

前回、「量子力学の気持ち悪さ」というタイトルで文章を書いた。なぜ気持ち悪いかというと、粒子は「あるんだか無いんだかわからない」「見てないときには何をしてるのかわからない」「客観的に観測したいのに、見ただけで自分がその現象に関わってしまう」という点にある。
見ていないときにはどうなっているのか全くわからず、見た瞬間にそれかどういう状態なのか決まるということなので、客観的に観察したいのに、それが許されない。その場はまるで粘液のように見る人の視線に絡みつき、振りほどこうとしてもネットリくっついてきて離れないのだ。


しかし、それらの気持ち悪さは、「現象は私達の存在とは独立して存在するものだ」という私たちの思い込みから来ている。
どうやら私たちは現実に対する認識を変えなければならないようだ。

この鍵は仏教哲学にある。
仏教哲学と量子力学の類似性は古くから指摘されていたが、格好の文献があった。
大野公士さんが紹介してくれた以下の本です。


掌の中の無限

パスツール研究所で分子生物学の博士号を取ったあと、チベット仏教の僧侶となったマチウ・リカールと、ベトナム生まれで仏教の伝統の下で育ち、アメリカにわたって天体物理学の専門家となったチン・スアン・トゥアンの対話集である。


マチウ・リカール(左)とチン・スアン・トゥアン

元科学者のマチウ・リカールと、現役の天体物理学者のチン・スアン・トゥアンとは通じるものがある。議論は素粒子論、認識論、存在論、宇宙論と多岐にわたる。どの部分も興味深いが、前半部分は量子力学と仏教哲学の共通点について触れている。
驚くことに量子力学の言う現実の奇妙な性質は、仏教によってはるか前にすでに記述されていた。


仏教は、独立した実在の存在に意義を唱え、相反的な関係および因果性という考えに行き着きます。つまり、出来事というのは、他の要因との関連において、それに依存してのみ出現するのです。ー(マチウ・リカール)
観察行為がまったくない状況の下で存在する「客観的な」現実について語るのは意味がない。それは決してとらえられないからです。つかまえられるのは、観測者とその測定機器に依存する電子の主観的な現実だけです。この現実が取る形は、われわれの存在と絡み合っている。われわれはもはや、原子の世界の騒然たるドラマを前にした受け身の観客ではなくて、完全な演技者なんです。ー(チン・スアン・トゥアン)
 われわれは素粒子を、測定機器との、あるいは観測者の意識との相互作用の働きによって、はじめて物質化される潜在性と考えるべきです。完全に独立した現実とか、元来は対象に帰属するような測定とかを想定して、それを観測のプロセスから切り離すことはどうしてもできませんね。だから現実を主体と客体に分断することは不可能です。-(チン・スアン・トゥアン)
(量子力学が示すような現象の全体性をそのまま受け入れることは)仏教の基本的な方法なのです。単に知の方法としてではなく、人間的変革の実践としてもです。空性の理解へといたる分析は、一見きわめて知的に見えるかもしれないけれど、そこから生じる直接的認識は、私達を執着から解き放ち、したがって人間の生き方に深い影響を及ぼすのです。ー(マチウ・リカール)

かれらの対話を聞いていると、客観的かつ永続的な物質や粒子は存在しないものであり、たえず揺れ動く存在の潜在性のみがある。粒子なり物質なりが認識可能であるのは、観測者の意識と相互作用した結果なのであって、それは現象の本来の姿とはいえない。

言ってみればありのままの現実世界とは、我々人間の意識も含めて一体のものであり、決して切り離すことはできない。客観的事実があるなどという唯物論的な説明はきわめて粗野なものであり、非現実的ある。

彼らは、クォークや超ひも理論も唯物主義的な方便という捕らえ方とをしているようだ。また多世界解釈については、波と粒子の相補性原理を受け入れられない人がムリヤリ考えた理屈であるかのように否定的だ。

宇宙の不可分性の根拠として、彼らはEPR相関(量子もつれ)と、フーコーの振り子の2つを上げている。
マチウ・リカールはEPR相関(量子もつれ)について、宇宙がビッグバンから始まる1点から生まれたとしたら全宇宙は相関によってつながっているはずだと示唆する。またチン・スアン・トゥアンは、フーコーの振り子は地球の自転を証明するだけではなくて、宇宙全体に対して基準面を持っていることから、地球で起こっていることは全宇宙と関連していると指摘する。


難解に思えた量子力学の原理だが、見方を変えればとても簡単なことだ。

物質とはモノではない。存在とは、確定的なものではない。本質的に不確定である。もし確定したかのように思えるなら、人間の意識が関与して存在を確認したという幻想を作り出したのである。

 前回の芸人の例でいえば、わたちたちは誰ひとり観客でいることはできない。全員が芸人である。誰一人として、傍観者でいることはできず、全員は現実を主体的に作っているのである。

前回述べた量子力学の「気持ち悪さ」は、私たちが「客観的現実が存在するはず」という幻想にとらわれ、自らの現実への関与を恐れて何もできない、神経症患者のようなものだったのだ。
ようやく我が文明は神経症から治癒する段階に来たといえるのではないか。

イメージで語るとすればこういうことだ。現実とは、私たちが一般に考えるような確定的で、客観的で、よそよそしく、頑として動かず、融通の利かないものではない。
柔軟で優しく、見方によって様々に姿を変え、変幻自在で多様性に富んだものだ。

現実は不確定であることを認め、自らが現実を積極的につくることを認め、世界は自分も含めて全てつながっていることを会得すれば、全ての謎は解ける。
清流が小石を洗い流すかのように爽快なものだ。


さて意識と量子の世界が不可分であるからには、私が「量子と意識」「量子と意識2」の回で述べたように、多数の人々の感情の高ぶりが、乱数発生器に影響を与えても、おかしくはない。
突飛なことを言い出すようだが、現象は不可分であり全てはつながっているのであれば、乱数発生が全宇宙から独立した現象であると考えることはできない。直接の理由は未だ不明だが、量子現象と意識現象が、同一の次元で議論できる状況が今後出てくるのではないだろうか。

意識現象と量子現象の類似性というか同一性は、私たちの意識と全宇宙との連続性を意味している。もしこれが証明され、統一的に解釈できる理論が確立したら、私たちの現実への関与は、全く新たなものになるだろう。



にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ にほんブログ村

2014年7月20日日曜日

量子力学の気持ち悪さ

寄席に行くといろいろな芸がある。落語もあれば漫才もあり奇術も曲芸もある。

奇妙な例えだとは思うが、物理学を寄席芸に例えるとしてみよう。科学というものは楽しいもので、ある意味エンタテインメントとしてみることもできるからだ。
そういう例え話で見てみると、相対性理論に比べて量子力学がいかに気持ち悪いものか、良くわかると思う。
大学で物理学を専攻した私ですが、学生時代は「量子力学とは、とにかくこういうものだ。」という風に教わって、計算ばかりしていました。この歳になってあらためて(専門書でなくて一般向けの本を)読んでみると、「量子力学ってすっきりしない、気持ちの悪いものだなあ」とつくづく思います。

------------------------

「相対性理論」という芸がある。この芸はアインシュタイン一人によって創作され、演じられた芸だ。
アインシュタインはすぐにスターになった。切れ味鋭いその芸は、人々に頭をガーンと殴られるようなショックを与え、「そんなバカなことがあるか」と当惑する客を翻弄し、夢中にさせ、寝る間を惜しんで考えさせてしまい、熱病に浮かされたようになって、最後には「そういうもの」として受け入れざるを得ないところに追い込む。入り、見せ場、オチの全てを完璧に兼ね備えた芸だ。そのネタは実に華麗だ。

相対性理論の芸は、何よりショッキングだ。すこしご紹介しよう。
【光速度一定】 二人の芸人が光の速度の90%で擦れ違い、お互いの速度を計る。当然光速の180%で擦れ違うと思うだろうが、実はどう計っても光速を超えることはない。
【歪む空間】 質量の重い芸人が出てくると、その背景が歪んで見える。重力によって空間が歪んでいるからだ。芸人の重力は増え続け、ついには光も出てくることができないブラックホールになる。
【質量=エネルギー】 芸人の一人が突然消滅すると大爆発を起こす。原子核分裂によって質量をエネルギーに変え、爆発したのである。

どれをとっても派手で、わかりやすくて、スキャンダラスな芸風だ。



その一方で、気持ち悪い芸がある。「量子力学」という芸だ。
この量子力学という芸は、始末が悪い。まず、芸人が何をやっているのかわからない。見せ場が分かるのに時間がかかる。そしてオチがない。客は宙ぶらりんの状態に投げ出されたまま、放っておかれてしまう。面白いのだけれど、その面白さがわかるまでには時間がかかるし、オチがないので、なんだか妙な気持ちのままそのあと過ごさなければならない。
そしてなぜか「量子力学」という芸は演じ手が多い。マックス・プランク、ニルス・ボーア、ハイゼンベルク、ルイ・ド・ブロイ、シュレーディンガー、ウォルフガング・パウリ・・・キラ星の如く名人たちがいる。そしてその芸は21世紀の今になっても現存する研究者によって引き継がれていて、そしてその芸の気持ち悪さはエスカレートする一方だ。

ニルス・ボーア
シュレーディンガー

量子力学のネタをいくつかご紹介しよう。

【見えざる芸】
これは、面白さを理解するのが非常に難しい芸だ。このネタは、観客が舞台を見ていないときに演じられ、観客が舞台を見た瞬間、芸人たちは動きを止め演じるのをやめてしまう。
観客は、芸人がどのあたりにいて、どういう動きをするのか、その可能性だけは分かっているのだが実際芸人が活動している姿を直接見ることはだけは絶対にできない。この芸は、観客が見た瞬間に芸人が何をやっているか決まる。あらかじめ芸人は舞台で何かをやっていてそれを観客が偶然見るのではない。観客が見ることによって、芸人の舞台上での位置を決めるのである。
では観客はどうやって楽しめば良いのか?
実をいうと、見ることができない芸というそのこと自体がこの芸の最大の魅力でもあるのだ。なんとも不可解な芸なので、大抵の観客は????となってしまう。

【限りない分身】
上記の【見えざる芸】の楽しみ方がどうしても分からない人たちのために考え出された芸の鑑賞方法の一つ。観客が舞台を見た瞬間に、あらゆる芸人の振る舞いに対して、観客自身を含めて世界が分かれて存在すると解釈する。つまり1度見れば何百の世界が出来るので、すさまじい数の世界が同時並行して出来てしまう。たとえばある客が、舞台を見た瞬間に芸人が舞台の中央に居た場合、「わたしはたまたま芸人が舞台の中央に居る世界にいたのだ」と解釈する。【見えざる芸】の面白さがわからない人のために、なんとか理解できるように考えられたこの芸の鑑賞法である。しかし、これも【見えざる芸】と同様に気持ちの悪い話だ。

【もつれ】
2人一組で演じられる曲芸のような芸。この二人の芸人は、いくら遠くはなれていても(舞台の端から端、東京と大阪、地球と火星、いや宇宙の端から端だろうと)、一瞬にしてお互いの衣装をそろえてしまう。一人が青いスーツを着ていればもう一人も必ず青いスーツを着ている。これは、最初にお互いに示し合わせて青いスーツを着ているわけではない。本当にお互いに相方の衣装は知らないのだが、観客が一方の芸人の衣装を見た瞬間に遠くはなれた相方の衣装も決まるのだ。光より速いスピードで情報を伝えることはできないはずなのだが、この芸はタネも仕掛けもないのに出来てしまう。

【場に合わせ】
漫才の一種。ある規則にしたがって芸人が自分の姿や性質を変えてしまう芸。2人の芸人が出てくる、「相方は性質が違っていること」という決まりがあって、その決まりに合わないと芸人自身が性質を変えてしまう。
例えば二人の男の芸人が出てくる。しかしマイクの前に立つと、突然、一人が女に変わってしまう。
決まりはいくつかあって、「背が高い/低い」「太っている/痩せている」という特徴もその規則に加えることができる。二人の、痩せた背の高い男性の芸人が舞台に出てきて、マイクの前に立ったとたん、一人が太った背の高い女性になり、もう一人は痩せた背の低い男性になる。



上の説明の、芸人を光子や電子などの粒子に置き換えれば、量子力学そのもの解説となっている。
【見えざる芸】は、不確定性原理
【限りない分身】は、多世界解釈
【もつれ】は、量子もつれ
【場に合わせ】は、状況依存性
を表している。

芸に例えてみると量子力学がいかに奇妙で気持ち悪いかを良くわかると思う。

しかし、量子力学は、現在の私達の世界で起こっていることを説明する非常に良い理論であって、その結論には毛の先ほどの疑義が出ていない。いまのところ量子力学は常に正しい。
また私達の生活は量子力学の恩恵をうけている。私は今こうしてPCで文字を打っているが、エレクトロニクスは量子力学なくして存在しえない。PCを初めとした電子制御が関係する仕事は量子力学の影響なくして生まれなかった。私達の社会は量子力学に深く依存している。

量子力学は奇妙で気持ち悪いけれども、これがこの世界の真実である。したがって、私達の住むこの世界は、相当奇妙で気持ち悪いものであるということだ。

しかし真実である以上、いつまでも気持ち悪いとも言っていられない。なんとかしてこの気持ち悪さを当然のこととして受け入れる考え方を身につけないと、私たちはこの世の中に適合できない。

さて、実はこの気持ち悪さを解消し、スッキリする考え方がある。次回はそれについて述べたいと思う。


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ にほんブログ村

2014年5月16日金曜日

量子と意識2

5月4日放送のNHK「サイエンスゼロ」の超能力特集において、人間の意識が量子的現象に影響を及ぼすという実験について紹介していた。
それについて考えたことを以下に書きます。

そもそもわたしが思うに、意識よりも身体のほうがたくさんのことを行なっており、意識はたいしたことはやっていないように思います。
世界という不定のものに対して、人間は人間独自の見方しかできないもので、 世界そのものをそれ自体として認識することはできず、人間がすでに持っている認識のパターンにしたがって解釈します。カントはこのことをコペルニクス的転回といいましたが、すでに東洋思想では、心の所在のそのような性質を認めていました。
 最近の科学の進展によって、認識は脳内の神経モジュールによって構成されるというモデルが作られています。現代の脳科学がやっとそれを裏づけ始めたというわけです。

 受動意識仮説をとなえる前野隆司氏は、自らコペルニクス的転回といっていますが、その先例はカントであり、スピノザであり仏教の認識論もそうでした。荘子の考え方もそうです。

 さて意識というものはあとから組みあがるもので、普段の生活は圧倒的に身体による自動的な処理、無意識の働きによるものです。
例えば、あなたがこの文書を読んでいる間、周囲には様々な音がしているはずです。今まで気がつかなかったでしょうが。部屋でテレビをつけているかもしれないし、また音がしていないようでも、冷蔵庫の冷却器の音など、部屋にある電化製品はなんらかの音を出しているものです。身体(耳と脳 そして神経系)は、ちゃんとそれを聞いています。しかし、意識のできることは限られているので、それを任意に処理しているに過ぎません。
 私たちは歩きながらものを考えることもできるし、食事をしながら話すこともできます。話しているときも言葉は半ば自動的に出てきます。言葉を選ぶという意識的活動をしない限り。

 私たちとは誰か。それは私たちは身体です。身体の働きです。身体の機能です。意識(自分が自分であると思い込まされている脳の機能)は、その中のごく一部であるに過ぎません。

-------------------------------------------------

 さて、ところが意識は特殊な特徴を持ちます。
 意識が量子力学的現象であるということです。

 量子力学的な現象は、原子の大きさ以下の極微のみの世界の現象と思われるとしたらそれは間違いで、たとえば2枚のスリットを通る電子が干渉縞をつくる、というような目に見えるくらい大きな現象にもなります。意識もある意味「目に見えるくらいの大きさでおこる」量子力学的現象なのです。

 意識現象と量子現象は似たような特徴があります。

1、観測問題:自分の意識を見ることはできません。見ようとすることによって決定的に意識が変わってしまいます。

2、不確定性:これは1と良く似ています。心の状態を捉えようとすると、心はすでにそこにありません。

3、共鳴:意識同士は共鳴します。言葉や表情の交換などによって共鳴する関係をつくることができます。

 意識のこのような量子力学的性質は、なにを意味するのでしょうか。

 もちろんそこには意味があるのだろうし、進化の過程で意識を獲得してきたので、必然的な理由があるに違いありません。意識が量子力学的な性質をもっているのもちゃんとした理由があるはずです。
 残念ながら、今日の段階では、私は仮説でさえ書くことができません。
 しかし近いうちに必ず仮説を唱えたいと思います。






にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ にほんブログ村

2014年5月7日水曜日

量子と意識

5月4日放送のNHK「サイエンスゼロ」は、超能力特集だった。
その中で私の興味を引いたのは、人々の意識の高揚によって乱数発生器の乱数の出方に偏りが生じるというものだった。

アメリカのネバダ州の砂漠で7万人が集まるというイベントでそのシンボルである巨大な「バーニングマン」という人形が燃やされるとき、乱数発生器の0と1の発生に著しい偏りがみられるということです。

乱数発生器の原理は量子的現象で、粒子がトンネル効果で物体を通りぬけられるか否かによって発生する0か1かが決定されます。つまり予測不可能な確率的現象です。

人間の意識が、この量子力学的な現象に影響を及ぼすということは、どういうことなのでしょうか?


すぐ思いつくのは、意識は量子的現象であるとするロジャー・ペンローズの説です。
量子は光であると同時に波であるという性質があり、人間が観測しようとするとその位置と運動量は変わってしまう。
観測によってそのものが変化するという、人間のこころと同じような性質があるということは、直感的に理解できます。

また、「量子もつれ」という従来考えられていた相互作用とは全く違った作用による相関現象もあるということです。
量子力学は確立して100年あまり経っていますが、「コペンハーゲン解釈」とか「多世界解釈」というような様々な「流派」が存在することも面白い。
どうも量子論は、人間のこころの在りようと深く関わっているものであり、最近の科学の精緻な測定技術によっていままで隠されていた作用があきらかになりつつあるようです。
面白くなるのはこれからのようです。


私はかつて、ある文章に以下のように書いたことがあります。

 私たちの感覚は、普段は無意識に家事や仕事や娯楽などの目的に従っていますが、
それがにわかに主人公となって私たちを襲うのです。
 私たちは、ヒトとか人間とか言われる者とは別の種類のモノに変わります。
この世界に投げ出され、世界と自分の有り様をまざまざと体験している、或る奇妙なモノとなります。
かつて無かった、いや発見できなかったモノです。
天空に散りばめられた星をつないで星座をつくるように、壁のシミを見て人の顔と思うように、
不定の何かに或る見解を与えられて辛うじて一つのまとまりであるような、そのような種類のモノとなります。

私の意識は、個人としてあらねばならないという外部環境による強制から捏造されたものであるような気がしてなりません。

ありのままの姿があるとすればもっとばらばらで、統一されていないようなものではないだろうかと思います。
そしてそれは、量子の状態と良く似ていると思うのです。


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ にほんブログ村

2014年2月2日日曜日

個展レビュー 「ハイデガーの技術論」

先日(2014.1.27-2.1)ギャラリー現 で行なわれた私の個展「ハイデガーの技術論 -自然-身体-社会をつなぐ」を振り返ってみようと思います。

会場
Q:なぜ「技術論」というテーマを選んだのか?
A:
私は中学生のときに神経症になり、電車に乗れなかったことがあります。その時は自分が悪いのだろうと思っていましたが、長じてからは、私の病は、社会との関係であることに気づきました。つまり、私は人間の大量輸送というシステムに、強い違和感を抱いてそれに馴染めなかったということです。
また私たちの身体は自然そのものであるといえますが、私は自然(身体)と社会の間に、またぎ越せないほどの大きな溝を感じるのです。
現代の技術社会に対する根本的な疑問・違和感・居心地の悪さ、不快・・・それらは、私の生来の疑問であり生きていく上でのテーマです。技術について問うことは私の生存の条件ともいえます。



会場


Q:そもそもハイデガーって誰?
A:
20世紀ドイツの哲学者で、「存在と時間」という大ベストセラーを書きました。
フライブルク大学の学長にもなりました。
そのころ、ナチスに積極的に参画しています。世界的な大哲学者となり、学長にもなって、哲学で世界を変えられると勘違いしていたのかも知れません。
戦後、ハイデガーはナチス参画の経歴を恥じて、山荘にこもり著述の生活をしました。その時書いたのが「技術への問い」です。

Q:では、なぜ「ハイデガーの技術論」なのか?
A:ハイデガーの「技術への問い」が、私の疑問にまともに答えようとしているテキストだからです。他にそのような書物は私は知りません。
ハイデガーも、人間の生きる問題と社会性を追求していくうちに、ナチスという歪んだ近代性に加担してしまったのですが、その自分の過ちを真に受け止めて総括したのがこの文章といえます。


Q:なぜこれほど難しいのか?
A:
いままでに無い思想を打ち立てるには、いままでに無い考えを表す用語を作らなければなりません。そのため、ハイデガーは新しい言葉を作っています。確かにそのような見慣れない新語の意味をちゃんと捉えていないと分かりにくいと思います。逆にいえばその用語の意味を捉えていれば、だいぶ分かり易くなると思います。以下にいくつかキーワードを説明します。

キーワード1: Ge-stell (ゲシュテル)
ハイデガーは、「技術への問い」の中で、現代の技術文明の正体をGe-stell (ゲシュテル)と言っています。
ゲシュテルlとは自然や人間から資源や労働を収集し、生産に活用する現代社会特有の目に見えない構造のことです。
川の流れから電力を引っ立て、農地や太陽や空気中の窒素から作物を引っ立て、鉱山から鉱物を引っ立てる。このような「引っ立てる体制」のことをゲシュテルと言います。「徴用性」「総かり立て体制」「巨大-収奪機構」という訳語もあります。
さらにゲシュテルは、人間をかり立てます。生産において労働をかり立て、巧みに消費をかり立てます。
ゲシュテルは目に見えない構造であって、全体を動かす中枢的な何者かがいるわけでもありません。毛細血管のように、世の中の事象の隅々までいきわたり、栄養分を吸い取り、また逆に栄養をいきわたらせています。
私たちはゲシュテルの支配から逃れることはほぼできないのです。

キーワード2: 開蔵(Entbegen)
「現れていない可能性を発揮する」というような意味。非常に意味の広い言葉です。
開蔵の例としては
(1)自然現象
(2)(人間の身体による)技
(3)科学技術
の3つがあります。
ここで(3)の科学技術が、(1)、(2)と同列であるということが非常に重要です。開蔵という概念に、ゲシュテルの支配を相対化する鍵があるとに思います。

キーワード3: モード(Mode)
これは、ハイデガーではなく、私(田島)が考えた言葉です。従来のモード(Mode)という言葉の意味(様式、形式、気分、体制)とは、違う意味で使っています。
ここでいうモードとは、或る社会において、人々の社会的な行動や考え方を律している規範のことです。
たとえば古代ギリシアでは「デルフォイの神託」という巫女のお告げがギリシア社会全体に大きな影響力を持っていました。また日本の封建時代には、主君や家のために自分を犠牲にすることが当たり前という価値の中にいました。
言って見れば、社会観、自然観、美徳、死生観、身体感覚/肉体の使い方までが或るひとつの首尾一貫した価値観の中にあり、それ以外の考えが成立しにくい社会状況、それがモードです。
現代はゲシュテルのモードにいます。ゲシュテルのつくりだす用象(何事も役立てるために駆り立てること)の中にすっぽりと覆われています。 

Q:文章ではなく、なぜ芸術作品として発表するのか?
A:
紙やキャンバスに絵の具でドローイングすることと、紙に文字をつかって書くこととは、媒体を入れ替えただけで、同じことなのです。
今回設定したテーマが非常に範囲の大きなものだったので「思考のドローイング/ペインティング」活動として、一度大きな紙の上に思考を展開し、人々の考えを招き入れ、再構築する必要があったのです。体の現象を行為として表すとしたら紙にハンドペイントすることなのですが、社会をモチーフとするとしたら、言語をつかって考え、それを書き表すしかない。それはドローイングまたはペインティングということができます。
公式には初日と最終日がその「ライブペインティング」の日だったのですが、実は毎夜、展覧会終了後に会場に行き、自分の思考を展開していました。

Q:今回の展覧会の成果は何か?
A:
成果は3つあります。
成果1 :ゲシュテルがなかったときのモードを書き記すことができたこと

私がこだわったのは、ゲシュテルが無かったときのモードを書き表すことです。
人々の行動規範は基本的に土地または血縁に縛られていて、自然と人間の精神の境目があいまいで、キツネにだまされていることを人々が不思議に思わない社会です。また記述された歴史をもっていない社会です。
そういうゲシュテルの無かったころのモードがあることを示すことにより、現代のゲシュテル社会を相対化することができるのです。現在私たちが暮らしている社会のモードは、ゲシュテルが無かった時のモードからゲシュテルが支配する現在のモードに変換した結果であるということです。

成果2: モード変換は、もう一度起こるということを確信したこと

現在のゲシュテルが支配している社会は、あまりにもバランスを欠いているので、変換はもう一度起こるだろうということは以前から何となく思っていましたが今回それを確信しました。
科学技術は、「自然&身体」対「人間&社会」との関係を差し替えました。関係が変質することによって、モード変換は起こるであろうということを確信しました。
それに至るヒントになったのは、ハイデガーの言う「救うもの」という言葉です。
ハイデガーのテキストに、「危険があるところ、救うものもまた育つ」「技術の本質は、救うものの成長をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。」という言葉があります。
「救うもの」は、ゲシュテルを排除したり、避けたりすることではなく、ゲシュテルそのものが「救うもの」を用意するという意味です。
そのとき参照されるのが、例の開蔵です。自然現象と人間の技が科学技術と同じものであるということです。
我々は科学によって超ミクロから超マクロまで、そして何百億年の昔までさかのぼってこの自然を見ることができるようになりました。
このことが、人間と自然との関係を新しいものにし、「救うもの」を準備するのです。特に、宇宙から地球を見る経験をした人が増えてきたということも、そのモード変換を後押しするでしょう。

成果3: 芸術の意味をモード変換の前哨として位置づけることができたこと

現在、芸術家が、個々ばらばらにやっている作業は、来るべきモード変換のための準備であると位置づけることができます。
ゲシュテルに支配されていない太古の残余でもあると思うのですが、そのような普遍性を生き残らせる領域として、芸術があります。
あたかも飽和溶液の中から結晶が析出するように、モード変換はどこからともなく起こります。
それは潜在的な可能性であって、もしかしたら何も起こらないまま終わるかもしれませんが、可能性としてはいつまでもあります。そしてそれはゲシュテルの成長とともに「育っている」のです。したがって可能性も常に大きくなっていきます。
芸術家の営みは、そのような変換を常に準備しているのです。

そしてモード変換をなしえたときの姿が、ハイデガーの謎めいた言葉「人間はこの大地に詩人的に住む」ということなのでしょう。

技術は開蔵のひとつのしかたである。



[技術は開蔵のひとつのしかたである。]
 ・自然現象(そして最も身近な自然である身体も) ・人間の身体による技 ・科学技術
*開蔵(Entbegen)とは、「現れていない可能性を開く」というような意味で、ハイデガーは、開蔵の例として自然現象、人間の身体による技、科学技術 の3つを上げている。

これらは原感覚の分化に他ならないのではないか?

我々は、ハイデガーと同じ「太古の目」を持つべきではないか?
 愛人のハンナ・アレントはハイデガーを太古の人と言っていた。



Ge-stellが無かった時のMode(モード) (死生観、社会観、自然観、美徳、身体感覚/肉体の使い方)、 その中にすっぽりと入ってしまうような空間、空気、雲)

記述された歴史がない。オーラルヒストリー  → 書かれた歴史。制度史

キツネにだまされる能力をもっている→ キツネにだまされる能力をもたない

音がない 静か → モーター、電子音、クルマの走行音、下水道の流れる音、エアコンの音・・・

肉体が土地の上にある → 肉体が土地から離れている

先祖が作ったものの上に生きている → 今、またはこれから作るもののうえに生きている

人間関係は固定 個人の自由は少ない → 人間関係は流動的、複雑、多面的(一個人が複数の社会的役割を持つ。
個人の自由(職業選択、結婚等)はある。

我々は、自然現象などから用象(役に立つこと)を引き出し、利用して、そして人間そのものもその体系の中に組み込んでしまう目に見えないしくみをこう名づける― Ge-stell と。


[我々は、自然現象などから用象(役に立つこと)を引き出し、利用して、そして人間そのものもその体系の中に組み込んでしまう目に見えないしくみをこう名づける― Ge-stell と。]

Ge-stellは、あまりにも当たり前に作用しているので、私たちの生活、思考、行動様式を律しているものであると気付くことはない。
Ge-stellは、網のような、血管のようなもの。広がり、からみつき、利用できるものを吸いとり、また栄養を行きわたらせ、人間の生存のモードを変換する。
Ge-stellは人間を利用する。労働力として。消費の単位として。

人間は今日、まさに自分自身、すなわち自分の本質には、もはやどこにおいても決して出会えないのである。



[人間は今日、まさに自分自身、すなわち自分の本質には、もはやどこにおいても決して出会えないのである。] 
このことのほうが危険な考えでは?

豊かな生活
伸びる寿命
ゴラクに触れる機会の増加

戦争
原発事故
格差
自然モードを忘れる人間

Ge-stellは、好ましい面と残酷な面を持っており、たびたび残酷な面のみが取り上げられて近代批判や自然回帰に利用される。


1978年、 田島鉄也は神経症になり、電車に乗れなくなる。
  病は社会的なもの
  意識は社会の表象
  身体は社会の皮膚



1945年 沢渡温泉の旅館主の焼き畑の火が燃え広がり温泉街全てを焼失させた。疎開児童にじゃがいもを食べさせたかったという。

Ge-stellの最も恐ろしいことは、人間が自分の本質に出会えないようにすること。すなわち自分が関係性であることを忘れさせ、あたかも精神や意志を独立して持っているかのような見せかけを作り出し用象の体系の中に自らすすんで入り込みそれが世界の全ての姿であると信じて疑わないようにさせること。
ゲシュテルをのさばらせ、ただしたがっているだけで良いのか?
しかし、Ge-stellに盲目的に追従することも、また反抗を試みることも同様に、私たちを不自由にする。どうしたらよいのか?
人間はあまりにもゲシュテルによる挑発にしたがっているので、ゲシュテルが彼に呼びかけている要求であることを認めることができない。

ゲシュテルが支配するところには最高の意味で危険がある。

しかし危険があるところ、救うものもまた育つ。

技術の本質は、救うものの成長をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。






Ge-stell が変化する
Ge-stellの変化はその表象である人間の意識を変える

Ge-stellは何ものに変わるのか?
「救うもの」とは何か?
技術の本質がそれを蔵しているならば
技術の本質とは何か?
それは開蔵(Entbegen)ではないか。



用立て(Ge-stellのこと)の止めがたさと救うものの控えめさとはあたかも天体の運行における惑星の軌道のようにたがいの傍らを擦れ違っていく
ここに偶然隣り合った3つの書評はいずれもGe-stellに関係する言説である。


ゾミア  Ge-stellの支配を逃れ、太古のモードを維持した民が各地に普遍的に居る。

ウォール街の物理学者  Ge-stellそのものの運動を数理モデルで解析しようとする努力

人類が絶滅する6のシナリオ  Ge-stellの暴走によって自然のバランスを崩し、破局するパターンの例示

  これらは開蔵(Entbegen)ではないのか?



技術を徹底的に問いなおすこと、技術と決定的に対決することは、技術と親しいが一方でそれとは全く違うひとつの領域で生じる。
そのような領域が芸術である



現代を支配するものはGe-stell
しかしGe-stellが挑発する開蔵であり
開蔵は自然や人間の肉体の現象(人間の身体による技)でもあることを
思えば、Ge-stellを相対化することは
可能だろう。




現在、そのような相対化は、個々人の固有の時間の中で行なわれているが、
それは集合的無意識の共鳴によって起こる。
もちろん、意図的には起こせない。
Ge-stellが個々人の人間の心とは別に起こった構造であるのと同様に
それも個々人の心とは別に起こる。
しかし、現代の「芸術」という形態では起きないのではないか?
それはModeの変換であり、或る時から急速に起こる。いつかわからない。
我々は太古の目を準備しておき、そのMode変換に
備えておいた方が良い。

人間はこの大地に詩人的に住む

にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ にほんブログ村