2020年7月23日木曜日

「Centers」と「侍女たち(ラス・メニーナス)」

ビデオ作品「Centers」と、ベラスケスの「侍女たち(ラス・メニーナス)」
Webサイトによる展覧会を開催中です。「新しい空間の快楽」https://te-tajima.wixsite.com/mysite

その中のビデオ作品「Centers」についての新しい解説。 主体による造形ということを説明するのに「侍女たち」は良く知られているので便利なのでこれで説明します。 「侍女たち」の場合、 本来絵の外部にいるはずの3つの主体、「画家」「モデル」「鑑賞者」が、絵画の中に取り込まれています。 1 画家= 絵にかき込まれている画家(ベラスケス)本人 2 モデル= 中央の奥にある鏡に映る王  3 鑑賞者= 開かれたドアの向こうで、室内に起こっている全てをみている男 外部にあるはずの3つの主体が絵画の中に取り込まれていて、あたかも絵の外側は存在せず、全ては目に見えるように表されています。ミシェル・フーコーの「言葉と物」によれば、このようにすべてを一覧表のように表すことが、17世紀の基本的な世界の捉え方なのだそうです。 「Centers」の場合、 「Centers」は、巳巳がYoutubeに流れている渋谷スクランブル交差点のライブカメラを指差す様子を、手に持っているiPhoneのスクリーンキャブチャーで撮った映像です。 1 画家=映像の中でiPhoneのスクリーンキャプチャーをしている巳巳 2 モデル=映像に映る巳巳。 鏡=カメラを差す指(象徴的に視線を投げ返している) 3 鑑賞者=これも巳巳です。なぜなら、このビデオ作品は巳巳の持っているiPhoneのスクリーンキャプチャーによって撮られており、その画面を鑑賞者が共有しているからです。それは、「侍女たち」において後ろからすべてを見ている「3 ドアの向こうの男=鑑賞者」と同じです。 つまり巳巳が画家、モデル、鑑賞者(そして鏡)の3役(4役)をやっています。外部にある主体がすべてビデオの中に入っており、このシンプルな構造の中に原理的に「侍女たち」の表象空間と同じものが再現されています。 ただ違うのは、ビデオに映っている通行人です。 彼らの大部分はスマートフォンを持ち、この映像を見る潜在能力をもっています。 したがって通行人は「侍女たち」の「ドアの向こうの男」と同じような鑑賞者になり得ます。 そして通行人の誰もが巳巳と同じように、カメラに撮られることによってモデルになり、画面キャプチャーによって画家になり得ます。 そして、巳巳の指は、まっすぐに鑑賞者(つまりあなた)を指差しています。 表象されるのはあなた自身です。 あなたはこの空間に取り込まれています。

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