2019年3月31日日曜日

世界を怪物が覆っている

世界を怪物が覆っている。
資本主義という怪物である。
現代を生きる我々の生活は、否応なしに巨大な経済システムに組み込まれている。
我々の生活は、この怪物に絶えず栄養を与えている。
このシステムに接続して労働し、対価を得て、そしてこのシステムによって消費する。
そしてシステムにうまく適応できない人々は、相対的に貧困に陥っていく。

この急激な変化をさらに推進しようとする人々がいる。
企業のスターたちである。
資本主義システムの推進力は、それを推進する人間の仕業であるものの、全体を動かしているのは個々の人間ではない。
それは、個々の人間の意志を超越した巨大な運動である。
そしてこれが、どこに向かっているかは誰も知らない。

そして今、このシステムの強い影響下にある私たちの心の深層は、深いニヒリズムで覆われているようだ。
生き方も死に方も定まらない不確定な状態をニヒリズムというならば、今は間違いなくニヒリズムの時代である。
私たちはデータに取り囲まれ、労働を採取され、創造力も向上心も搾取される。資本主義の内部のゲームを強要される。
とりあえず、自分のためや家族のためなど、一般的に了解されているような動機で納得し、あまり深く考えるのは避けた方が良いらしい。
建康、生きがい、社会貢献、コミュニティ・・・仕事をしていたり、気の合う友達と過ごしていたりすればそれなりに意味ある人生のように思えてくるので、それ以上は追求するのはやめたほうが良いのだろう。

しかし私たちの心の奥底は、なにか普遍的なものとつながっていたいという切実な欲求があるようだ。
人々の生活が自然と一体だった太古の価値観を、普遍的なものとして、生きる意味を説く人がいる。
それは、我々に古い記憶を思い起こさせ、それが本来の姿であったと思わせる。
人類は何万年も、そのような価値観で暮らしてきた。
失われた全感覚的な、非言語的な世界を思いださせるのが、芸術の役割であると説く人がいる。
もちろん、そのような精神生活がかつてあり、現代人がそれを忘れているのはよく分かっているので、それには説得力がある。
人間対自然なのではなく、人間を含めた自然なのである。

しかし今システムが、そのような古い価値観を壊しつづけているのが現実であり、今のところこの二つが融合する道は全く見えてこない。

   *

良識ある人は言う「私たちには、命があり、尊厳があり、個人の意思と自由がある」と。
それらの言葉を素直に信じることができたら、どんなに良いだろう。
そしてそれらが絶対的な原則であることを堂々と述べる人がいるとしたら、民主主義へ大きな期待を抱かせる。
民主主義と進歩へのまっすぐな期待と希望である。

しかし残念ながら今ほどそれらの言葉が薄っぺらく聞こえる時代は無い。
意思、自由・・・そのような言葉は資本主義的現実とテクノロジーの中に溶けだしてしまっている。
人間の大きさがますます小さくなっていく。・・・そしてこれからますますそうなるだろう。

しかし命と尊厳は不可侵のはずであると、説く人はいるかもしれない。
システム化が激しく進んでいる現代、システムの側からは人間は、一つのノード(ネットワークの端末)としか見られていない。
つまり、システムは、入力しているのが人間だと思っていない。
我々はスマホやコンピュータ端末に向かうたびに、システムに情報という栄養を与える源泉となっている。

尊厳を完全に維持しつづけていくにはどうしたらよいか?
命を盾にして戦い続けるしかないのかもしれない。

突き詰めていくと選択肢は2つしかなくなる。一つは徹底的な否定、つまり資本主義的な消費や生産に役立つことは何一つしないこと。
もう一つは死をもってこの社会から退場することである。
しかし、それらは勝利というより完全な敗北を意味するだろう。

実際は極端に思い詰めないほうがよいのだ。ストレスを解消しながらなんとなくやっていったほうが良い。

しかし、誠実であろうとすればするほど、私たちは自分で自分を追い詰めていく。
誠実さは、我々の時代の代表的な美徳だろう。
私たちは誠実な現代人であろうとすればするほど、自分を傷つけ、自分を殺しているのではないだろうか。

   *

否定と死という2つの選択肢をしげしげと眺めていると、ふと、或る別の空間が開かれていることに気づく。

それは、昼でも夜でもない、薄明か、黄昏のような場所である。
意味的にニュートラルな場所である。
何の色もなく、白でも黒でもなく、主語も述語もない。
主体も客体もない。支配も従属もない。意味も目的もない。
意識と無意識の間であり、覚醒と夢の間であり
その空間は、言葉とその意味される概念や情動との間にある。
単純な繰り返しであり、物語性もなく、奥行きもない。
意味づけがされず、曖昧である。そして自明である。
開かれた窓のようなもの。
基本的な論理すら成り立たない、または論理が必要ない場所である。

資本主義という怪物が暴れまわる現代の社会は、嵐のように意味と記号が吹きすさぶ。しかしその裏には、静寂と沈黙が育っているのを発見する。

それらは例えば、マルセル・デュシャンの沈黙、ルネ・マグリットの絵画にある論理矛盾、ジョン・ケージの「無音」、アンディ・ウォーホルの「消費社会が好き」という幸福そうなほほ笑みの中に、あるいは松尾芭蕉の句の中に見出すことができる。

私にはある予感がある。
全てのものは同じ価値を持ち、全ては繋がっていて同一の現象であり、
弾力があって丈夫なものが世界を支えているというような感覚。

たったひとつの原理、たったひとつの音で、すべてが生成される。
複雑に見えるものでも、それぞれ要素どおしが別々の見方をしているだけで、物事は非常に単純であるということ。

マレーヴィチやモンドリアンが志向したような抽象的な精神とは違う。
古代ギリシア人が考えたイデアとか、美学者のいう普遍的な美というものではない。

それは具体的な生活の中に存在している。
たぶん私たちはそういうことを、日常生活でしばしば目撃することがある。それはいたるところにある。
誰も居ない部屋や、空き地や、
目的もなく積み上げられたものたち、本来の目的以外の用途に使われているものたちに。
店で買ってきた任意の消費財に。

カントは世界のありのままの姿(物自体という)を知覚することは不可能と断じた。確かにどのように優れた知覚を有した生物であろうともこの世の全てを感覚することはできない。
しかし、人間には世界のありのままを「予感」することだけはできるのではないだろうか。

予感するためには特殊な能力が必要だろうか?いやそうではあるまい。
生きる意味を諦めたとき、世界全体は同一の価値に覆われる。
自分自身もその同一の価値に覆われるので、自分自身居るのか居ないのかわからなくなる。

この予感、その価値は、資本主義の現実世界の裏側にあり、すべてを見通すような静寂であり、時間もない永遠である。
そこにいる限り、何ひとつ表現はできない。
そこは居心地が良い。
そこから一歩も出たくないとさえ思う。永遠に。
永遠にそこに居ることもできるだろう。

         *

だが私たちは外に出て、再び社会のゲームに参加しなければならない。
システムと戦わなければならない。
もし表現しようとするならば、そうしなければ何もできないからである。

戦いに遭遇するたびに、この無意味な空間を参照する。意味と記号が絡めとろうとするのを振りほどいて外の空気を吸い、再び息を止めて取り掛かる。
システムは不完全だ。システムはバランスを欠いていて、決定的な欠陥がある。だからこの怪物が大きければ大きいほど、意味と記号が吹きすさぶ嵐の背後に、ますます巨大な沈黙がある。
それがわかっていながら、そしてそれがわかっているので、あえてゲームに参加する。そうでなければ表現できないから。

この怪物を自覚しつつ何かを表現しようとするならば、何ひとつ表現できない空間が必要である。
そしてひとたびそのことを了解したならば、少なくとも自分で行うことに関しては、表現することが可能となる。

そしてシステムとの戦いについては、戦いのルール自体を自分で決めることが可能となるだろう。すでにルールの外側があることが分かっているからだ。


2 件のコメント:

  1. 芭蕉の句とカントのヌーメノンに共通する゛それ゛こそが我々の本質であり、帰すべきところであり、一切を生み出している土台なのかもしれませんね。

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    1. 我々はついフェノメノンのとしての自己にアイデンティティを置いてしまいます。
      現象界の自己にアイデンティティを置くとき、資本主義をはじめとした現象界のルールに巻き込まれやすくなると言うことはあるかもしれませんね。

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