2010年7月17日土曜日

村野四郎の言葉

 「もしも実在というものが、誰の感性や意識とも直接にふれることができるものなら、詩というものなどはいらないだろう。いやそのとき、ぼくらすべては詩人になるはずである。しかし実際には、ぼくらはどんな実在をも見てはいないのだ。ぼくらが見たり、きいたりするものは、単にぼくらの功利的行為の手先として、もろもろの感覚がえらんでくれたものにすぎない。実在の本質のうち、実際にぼくらの実用に役立つもの以外は、ことごとく抑圧されてしまっているのである。知覚のはたらきは、或る型にはまって、事物は初めから、ぼくらにどう利用できるかを目当てに分類されてしまっているのだ。ぼくらが知覚するのは、事物の真相ではなくて、むしろこの分類なのだ。ぼくらは事物の相をみるのではなくて類型を見るにすぎないといわれる。こうして人間意識の類型化は、文明がその物質的条件で、ぼくたちを圧迫すればする程、その度合は進んでいく。かくして「存在忘却の夜」は深まっていくのである。」
詩集〈亡羊記〉 「後書」 より
「村野四郎詩集」 思潮社 収録



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2010年7月16日金曜日

呼吸入門



呼吸をしなかった日はあるまい。
呼吸の仕方を教わったこともない。
呼吸しなければ死んでしまう。
しかし呼吸は他の内臓の動きと違って意識して止めたり速めたりすることができる。
命をつなぐものであるはずなのに、自分で制御できる。
だから呼吸は、肉体と意思の間にある。


著者の齋藤孝氏は明確に言っている。「呼吸は身体と精神をつなぐものである」と。

日本には身体の文化があったと、齋藤氏は主張する。
腰肚(コシ・ハラ)の文化である。
丹田にある身体の中心感覚、まっすぐ立つ、歩くなどの技。
この豊かな身体文化は、長い時間をかけて培ったものであるが。
昭和初期に軍国主義と結びつき、極端な精神主義となった。
そして戦後、日本の豊かな身体文化は壊滅した。
いま目立つのは日本人の姿勢の悪さである。


保守の論客と言われている人たちの言うことを聞いていると
日本の伝統や文化に言及している場合も、説教臭い。
外国に対抗して、日本人であらねばならないというような
何か観念的なものを感じる。

齋藤氏は、ずたずたになった日本の身体文化の断片を拾い集め、
自分の身体を通じて復活させたのである。

身体を精神の結合は、観念や直観という類のものではなく
技・技術なのである。

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2010年7月5日月曜日

身体の意味次元

身体にはいくつもの次元が突き刺さっている。

身体をめぐる問題の系列にさまざまな次元がある。
考察を深めるために、すこしそれらの問題を整理してみよう。


自然としての身体
身体はもっとも身近な自然である。何も海や山に出かけなくても自然は自分にぴったりと寄り添っている。体内でおこる様々な現象はまさに自然現象そのもの。身体は地球を作っている物質と全く同じ成分で成り立ち、基本的な物理作用も全く同じだ。

進化の歴史としての身体
僕らの身体は、地球の生命誕生以来、脈々とつながってきた進化の歴史の一断面である。身体の中に地球の歴史が入っているといってよい。 内臓の配置もその複雑な機能も、進化の試行錯誤の驚くべき成果である。


見えない身体
目の裏側には視神経があるのだが、私たちはその存在を意識することはない。頭痛の時以外は、脳の存在を意識することもない。咀嚼、嚥下、胃の満腹感、呼吸などは意識できるが、血液循環、腎臓や肝臓の働きは意識できない。身体は、闇であり、外部であり、謎である。自分の身体よりも、目の前にある物のほうがはるかに良くわかり、確かに認識できる。


感覚の源泉としての身体
私たちは、感覚を外部から、または内部から与えられるものとして
その発生の源泉として、身体を認識する。
皮膚に触るものがあると、接触感覚の源泉として皮膚を発見する。
食事をして胃が膨れると、いっぱいになった感覚の源泉として胃を発見する。
身体は絶えず、感覚の源泉なのである。



医学的身体 分子的身体
近代医学は解剖から始まった。
何と何がつながっているのか、何かの作用の原因は何か、その機械的な理解が近代医学なのである。病気があると、内臓の機能不全とか、菌とかウィルスなどの実体のあるものの作用を発見してきた。その網の目は、着々と整備されここ半世紀は分子のレベルで説明されてきている。まさに身体は分子のレベルに分解しているのである。

健康維持の対象としての身体 または持病を持つ身体
健康維持の努力または病気の話は、どんな場合でも人々の興味の対象である。このことは現代の人々が、どれほどこのことに関心を持っているかを表している。

見られる身体、他者との関係としての身体
幼児が鏡を見ることから、自分を一個のまとまりのある主体として認識するという。
他者として認識され、そして他者との関係によって、我々は一個の主体となる。自分の身体認識も、他者を抜きにして語れない。他人から見られていることについて、私たちは自身の身体について特に気を使うのである。

権力的身体 管理される身体
学校がその好例だが、制服を着用し、出席番号で呼ばれ、気をつけ・礼によって授業をし、服装、態度、絶えざる試験による格付け。こうして生徒として相応しい態度物腰を身に着けた主体ができあがる。また社会人となると、スーツに身をつつみ、就業規定によって時間的・空間的に管理される。近代とは、近代の権力とは、このような身体管理のテクノロジーの発達に他ならない。

記号的意味を持つ身体
身体は記号が書き込まれる格好の場所である。まず名前がある。服装、刺青、化粧、髪型など、さまざまな記号によって人間を区別してきた。江戸時代には服装によって身分・職業が判別できた。
もちろん現代でも人々は好むと好まざるとに関わらず記号を身にまとう。女性または男性であることを強調する身なりの記号、仕事なのか休暇なのかの服装の記号、持ち物、時計、服など、あらゆるものが記号的意味を持つ。

・・・これで全部だろうか。いや、まだ、まだありそうだ。
思った以上の大変な作業だ。身体には非常に多くの意味がある。
後半になればなるほど、悪臭ただよう身体論になっている。社会が身体を生産の道具として利用することを前提とするためである。もちろん、記号化は社会的生物としての人間にとって本質的なことである。しかし、現代の社会は記号化によって身体を取り囲んでしまい、「自然としての身体」「進化の歴史としての身体」「感覚の源泉としての身体」と、あまりにも乖離してしまうのである。

だが、もう一つある。 希望の持てる身体のあり方だ。
文化的身体
これは、瞑想やヨガ、東洋医学の取り組み、呼吸法、アメリカ原住民らの儀式、などに見られる身体の使い方、身体を自然や感覚につなげる働きをする文化である。
様々な意味の絡まる複雑な身体は、よく練られた技を通じてしか本来の姿に戻ることはできないのである。このような身体文化が、記号化と同じくらい重要な意味を持ちうる社会になることが必要である。服装や持ち物と同じくらいに、身体の内面が重視される社会にすることが、私の目的でもある。



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2010年6月28日月曜日

新作 「森の中の小路を蛇が渡る」


「蛇渡る長き一瞬ありにけり」
新聞の俳句欄に載っていた句である。

森の中を切り開いた小路。
一匹の蛇が悠然として横切る。
戦慄の長い一瞬。

このビジョンは、私の中に印象的な場面として染み付いた。

森は自然である。
森を分断する道は文明である。道は森を幾何学的に分断している。
しかし森は絶えず増殖し、道はやがて森に飲み込まれる運命である。
蛇は、自然と文明をつなぐもの。自然から出て、文明に入り、そして自然に帰るもの。
つまり、人間の身体。つまり私にとっては私の身体である。

私は、このビジョンを、描き留めたいと思った。
しかし鉛筆や絵具を使うことは思ってもいなかった。
森の木とか、道路とか、蛇の姿とかを写実的に描いたところで、
それは間接的なイラストレーションに過ぎない。

強力粉を練り、竹炭を少し加え、手で描いた。このやり方が感覚に直接的で良い。


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2010年6月26日土曜日

雑誌アエラに少しだけ掲載されます

先日、アエラ記者・古川雅子さんの取材を受けたが
記事掲載についての連絡が来た。
7月5日(月)発売号にて「乾布摩擦・裸健康法」という記事の中で
以下の文が載ります。


 芸術家であり、精密機器メーカーに勤める田島鉄也さん(47)は、自分の体で感じる「感覚」で世界を捉える試みとして、芸術活動に取り組んでいる。最近、その思考実験の一環として、乾布摩擦も試したところ、
「気温や、風の流れといったものに、いかに自分が鈍感になっているか、気づいた」 
 と田島さんは言う。その効用について、
「現代人が目に見える何かを得たかわりに『失った何か』。その〈野性〉を取り戻し、外気と身体の感覚的つながりを回復する機会になるのではないか」
 と考えている。


古川さんとはたくさんの話をしたけれども、彼女の取材テーマが「乾布摩擦・裸健康法」なので、私の問題意識の全体像のうち、皮膚感覚に関する部分のみ切り取った形です。

古川さんは事前に私の「〈野性〉論」を買い求め、線を引いて非常に熱心に読んでくれていました。「〈野性〉論」は他のどの書物にも書いてないことを書きました。しかもできるだけわかりやすく。そのことをよく理解してくれていました。彼女は「〈野性〉論」の良き理解者の一人です。

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2010年6月21日月曜日

ヨーゼフ・ボイスのこと3

ヨーゼフ・ボイスの言説は、難解だ。例えばこんな調子だ。
自らの身体性として現前しているものを動かすことによって、
言語の身体的側面を通じて情報を伝達することができるという事実を経験するのである

(1977年ドクメンタ6における講演 「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」(人智学出版)より)

・・・要するにただ、「口で話す」ということだが、そうは言わない。
カント以来のドイツ観念論の精神文化史に深く傾倒しているボイスは
時には哲学用語を駆使して聴衆を煙に巻く。


ボイスの言葉使いは独特である。
しかし彼の言説の周囲には、なんともいえない不穏なものが流れており
何かが起こりそうな予感がするのである。

この謎にはまってしまうと、混沌とした言説と作品群とアクションの森の中に
さまよい始めることとなる。

彼の言説は どう考えても賛成しかねるところがあり、思わず反発したくなる。
そうなると、もう私たちの思考はボイスの作品にしばしば登場する脂肪のように
とろけて流動しはじめているのである。
すなわち、私たち自身がボイスのいう社会彫刻の一部として機能し始めているのだ。

問われるべきは、そもそも革命はいかにして生起しうるかという問いであろう。 革命家はそこで、自ら実験することにより、たとえば自らの四周に現前するものを 観る事によって、さらなる操作性へと入ってゆかねばならない。 この知覚において彼は自らに問わねばならないであろう。
「この知覚とは何であろう。この知覚の中には、 自由な創造性の存在の基礎づけを可能とするようなエレメントへと自分を導くようなものが 存在するのであろうか。 」

(1977年ドクメンタ6における講演 「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」(人智学出版)より)

・・・・どうも各自の知覚や思考が、革命の始まりであるといいたいようだし、また社会全体が一つの生命体として機能するとでも言いたいらしい。
ボイスはいう。人間は、本来、創造者であり、すなわち芸術家であり、革命家である。
この創造=芸術は社会を動かす力、すなわち資本である。

情報化社会の現在、人間の創造的な力が、社会を動かす力となっていることは明らかである。
しかし、それは、社会構成員が資本主義社会から創造的であることを求められている ということである。
創造性は去勢され、革命的な力は、資本主義を前進させることに利用されているのである。
そしてインターネットの情報網は生命体のように増殖している。
ボイスの理想は実現した。その言説の不穏な部分だけを取り残して。

しかし、ボイスの言説の不穏な部分、みずからボイスの言説について考え始めたら、すでにボイスの彫刻の一部になっているという不穏さ。
その粘着的な性格。つまり、掴もうとして手を出すと逆に粘着してとれなくなるという厄介さ。

彼は死んでから、消化され、消費され、無害な男になっていった。それは彼の意図ではなかったと思う。
ボイス的なるもの、ボイス的な不穏さ、関わったら傍観者ではいられない粘着的な言説。 そういうものは、何度でも復活されなければならない。

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2010年6月17日木曜日

ヨーゼフ・ボイスのこと 2

「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」(人智学出版)に、
「生命体への参入」という1977年ドクメンタでの講演が収められている。

「私は三つの異なるものを調和させることを試みたい。すなわち生命体の概念、
革命家の概念、そして社会彫刻の概念である。」

ボイスはこの中で、創造する人(これをボイスは革命家という)が、どのように創造を生起し、
それを社会的に表すか、言葉をいくつも変えて繰り返し述べている。
社会彫刻とは、そのように社会的に現われた活動全体であり、このような活動の全体像を
「生命体」と呼んでいる。

貨幣は単なる権利調整物となり、利潤、所有、賃金依存などは消滅すると述べている。

確かに、現在の労働市場に創造性は最も必要とされることとなった。
しかしそれは、新しいビジネスを作り出すための創造性であって
人間が全存在をかけて取り組む創造ではない。

いまや、大なり小なり創造的であることを強いられる社会である。

IBMはいう「世界をスマートに」。
もちろんそれは目的ではなくて手段だ。
しかしあたかもそこには、世界をスマートにすることが
目的になってしまう危険性をはらんでいる。
もちろんIBMの目的は、世界をスマートにすることによって
自分が利益を上げることである。

巷ではビシネス思考法が盛んになっている。
ロジカルシンキング、クリティカルシンキング、はてはクリエイティブシンキング・・・
それはそれでスキルとして面白いのだけれど、
これは手段に過ぎない。

私たちはこのような2重3重の細紐に絡め取られいつの間にか資本主義的な身体を
作り上げられてしまうのである。
だまされてはいけない。

ボイスは言った「思考は彫刻である」と。
創造的思考、革命的思考は、革命的な身体、〈野性〉的身体をつくるのだ。
資本主義をメディアとして、手段として使いこなすには、
私たちは全員、「革命家」にならなければならない。


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2010年6月14日月曜日

強力粉のハンドペインティング


↑クリックすると大きくなります。

強力粉を水で溶き、食用竹炭をまぜたもの。
手で塗っています。
やってる最中は目をつむっています。
描いているときの感覚(触感)がとても大事です。
下に落ちて溜まったのは、手ですくってまた塗ってます。

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2010年6月8日火曜日

ヨーゼフ・ボイスのこと

自然-身体-精神-社会をつなぐ、ということを看板として掲げている以上、
ヨーゼフ・ボイスのことに触れないわけにはいかない。
彼のいう「社会彫刻」「拡張された芸術概念」もそうですが
結局私の目指すところはボイスのように社会の改革に通じています。
25年前に来日したボイスですが、バブル前の日本では
ボイスのいうことを理解できなかったようです。

いまやエコロジーが当たり前になり
NGOなどの非営利団体の活動が活発になった。
今、ボイスが昔言っていたことを具体的に考えることは難しいことではない。

また、こんなことをいう人もいる。
「晩年のボイスが考えていたのは、日常的な「労働」という営為をいかに「芸術」として捉えなおすということだったのではないか。それはそもそも彼が提唱した「社会彫刻」のひとつの完成型であり、「誰もが芸術家である」という有名なテーゼの実現でもあった。けれども80年代以降の産業構造の急激な変化はボイスのユートピアを追い越してしまった。今では誰でも(売れない)芸術家のように生きられることを強いられている。現在労働市場で最も求められているのは創造力やコミュニケーション力である。ボイスの夢は実現したけれど、皮肉なことにそれはユートピアではなかった。資本主義のしたたかさを考えるために今一度、80年代のボイスを思い起こすことが必要である。」社会学者/東京芸術大学准教授 毛利嘉孝氏
http://moonlinx.jp/headline/art/000681.php


80年代以降の産業構造の変化は、確かに資本=創造というボイスの思想を表したかのように見える。
資本主義は、人間の創造力を、資本の流れる方向に導き、資本のために使わせるのである。
だが、ボイスは創造者=革命家であるといったことも力説せねばならない。
ボイスの思想が実現したというには、骨抜きになって拡散したといったほうがいい。

今、革命家としての身体がどこにあるというのか、
身体は戦場であることを自覚しているひとが如何に少ないことか。
「創造者」は多くなったが「革命家」はいなくなったのだ。
「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」(人智学出版社)を読んだ。
その中の「生命体への参入」という講演を記録を読み直した。
革命家の内部で何が起こっているか、についての考えが述べられている。

ボイスについは数限りないサイト・記事があるが、私が本日見たなかではこのブログが一番ためになった。
http://hiroshi-s.at.webry.info/201002/article_1.html


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2010年6月5日土曜日

西田幾多郎 「善の研究」を読む


お知らせ
今、展覧会の開催中。
関連ページ
次の展覧会
「米糊ペインティング」の意義


さて、今日の話題
難解といわれる西田の哲学だが
「感覚で世界を捉える」観点で読むとするすると入ってくる。

特に第2篇 第3章 実在の真景 には、なるほどと思わせるものがある。
「普通には・・(中略)・・精神と物体の両実在があると考えているが、それは凡て誤である。」
「事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲といったが、天文学者はこれを詩人の囈語《げいご》として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われているかも知れない。」
「 万象の擬人的説明ということは太古人間の説明法であって、また今日でも純白無邪気なる小児の説明法である。いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去るであろう、勿論この説明法は幼稚ではあるが、一方より見れば実在の真実なる説明法である。科学者の説明法は知識の一方にのみ偏したるものである」


知情意の合一、主観客観の区別ない「純粋経験」によって凡てを説明しようという西田幾多郎の基本的な態度は、感覚一元論を解く私の考えと元々非常に類似している。
また読むにつけこの哲学者の知的な誠実さには胸を打たれる。


「善の研究」は青空文庫より無料で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/card946.html
http://my.reset.jp/~comcom/sozai/large/zennokenkyuu_ruby.pdf


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2010年6月1日火曜日

記号化されない身体

河瀬 昇 氏のwebサイト「アメリカ現代作家論」を読み返した。
都市の記号システムという首尾一貫した観点で
50年代-80年代のアメリカ美術のスリリングな展開を読み解く手際は
実に鮮やかだ。

河瀬氏が「都市の記号システム」というのと、
私が〈野性〉論で「資本主義システム」といっているのは
殆ど同じものである。
美術家たちが、どのようにそれらの記号化と戦ってきたか
数十年にわたる戦いの歴史は、壮観だ。

翻って現在、
とっくの昔に私たちの身体は記号化されている。
ぎしぎし音を立てているようだ。
かさぶたを剥がすようにそれらの記号を剥ぎ取っていきたい。
しかしかさぶたは私たちの身体の一部であり、体中に貼り付いている。
剥がしたとたんに血まみれになるだろう。

記号化されていない身体なんて、どこにある?

あるとすれば、それは私たちのリアルな身体感覚だ。
内臓の動きであり、呼吸であり、心臓の鼓動であり、血液の流れだ。
腱のきしみであり、骨の鳴る音だ。
それは何十億年の前からの進化の現在地点であり、
感覚の源泉である。

今日も私は身体に耳を澄ます。
記号でない、リアルなものを見る。それしかない。


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2010年5月30日日曜日

「米糊ペインティング」の意義

昨日、現代Heightsで公開制作を行いました。
その模様をyoutubeにupしました。

↓画像をクリックするとYoutubeにリンクします。






さて、実は私は、この行為を「制作」とか「Painting」とかいうことに抵抗がある。
私の目的は、自然-身体-精神-社会を結びつけることだ。
かつて、神話がその役を担っていたが、現代では完全にそれらは分断されている。
現代社会の根本的な問題である。
私は食べ物を使うことによって自然-身体をつなぎ
行為をなすことによって身体と精神をつなぎ
ギャラリーで発表することによって社会につなぐ。

私たちの身体は自分の意思にかかわらず、常に活動している。
血液は循環し、腸は蠕動運動し、腎臓は尿を濾しとっている。
身体はもっとも身近な自然だ。
私はそのことを外に現そうとしたとき、どうしても既成の絵具は使えなくなってしまった。
身体に親和性のあるもの-食べ物-を使うしかなかったのだ。
私は身体の内部感覚を、手の感覚を通じて壁に貼られた紙に直接つなぐ。

だから「絵を描いている」のでもなく、「モノを制作している」のでもない。
自然-精神-身体-社会を結びつけているのだ。

私は、今では稀にしか見られない、回路を生成している。
私の目的は、この回路を太く、大きく、強くしていき、
現在の人間社会を矯正していくことである。



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2010年5月29日土曜日

今日は公開制作

今日は公開制作の準備で
朝からご飯を炊いています。
なぜご飯を炊くかというと
私はご飯のりを使って手で描くという
行為をするからです。

詳しくはこちら↓
次の展覧会

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2010年5月28日金曜日

個展が始まった

現代Heughsでの個展初日です。








作品や、私の思想についての話になることがありますが
自然-身体-精神-社会をつなぐという私の思想を
正しく伝えるのは難しいとつくづく思いました。
こういう話題は日頃から言説をキチッと整理しておくべきと
思います。


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2010年5月23日日曜日

人工生命の誕生 と 荒川修作の死


人工ゲノムを持った「人工細菌」の電子顕微鏡写真=サイエンス提供

人工生命が出来たというニュースがあったので読んでみたら
合成したDNAを細菌に入れ込んで、分裂することを確認したということだった。
膜や、そのほかの代謝機能を合成したわけではないが
完全な人工生命の達成に近づいていることは確かのようだ。

生命誕生が誕生するとしたら、感覚史(感覚がどうやって現われ出でてきたかという
私の造語です)にとって、非常に大きな出来事だ。
実験室の中で生命ができるとなると、感覚史にとってまた新しい段階になる。
・・・私は考えるのですが、、この種の人工生命は
何かを「感じて」いるのでしょうか。
「感覚器がないんだから感じるわけがない」というのが普通の答えです。
感覚器があっても意識がなければ感じない-という風に考える人います。
しかし私はそうは考えません。刺激に対する反応がある現象は
すべて感覚とみなすようにします。
これは極端で大げさな考え方ですが、
自然-身体-精神-社会をつなぐことを目指す以上、
避けることができない考えであると思っています。

ところで、「死なない」ことをテーマとしていた荒川修作氏が亡くなった。
「死なない、死なない」と言い続けていたが、やっぱり死んでしまった。
死なないといえば、まえにも言ったが、再生医療が発達してくると、人間は死ななくなる。
自分の身体パーツを作っておいて悪くなると取り替える。
脳も記憶をバックアップしておいて、再生させることが可能となるだろう。
そのことを知ってか知らずか、荒川氏は亡くなった。
彼の著作を何冊か読んだが、難解この上なかった。
しかし言えるのは彼はとても、〈野性〉的な人であったということです。


田島5月末の展覧会の予定 、↓下のブログをご覧ください。

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2010年5月20日木曜日

次の展覧会








次回の展覧会のチラシが出来ました。

場所は下北沢の 現代Hightsカフェ兼、ギャラリー兼、CDショップでなかなか良い雰囲気です。Gallery Den .stという小さいほうのスペースであの言水制作室の企画シリーズのトップでやります。会期 5月27日-6月8日 (6月2日の水曜休み )時間 13:00-22:00 (お店は午前1時までやってます)


さて5月29日(土)の17:00より公開制作を行います。


やることは米糊と竹炭のハンドペインティングです。
狭い会場ですが、これを1面だけでなく3つの連続した壁面に対して行います。


↓画像をクリックするとYouTubeにつながります。


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2010年5月18日火曜日

まだまだ続く

自然、身体、精神、社会、
これらを結びつけるという壮大な目標を掲げて
たった一人で出発しました。

何度も道を見失い、達成する糸口さえ見出せず
文字通り手探りで
微かな兆候などを見失わないようにしながら
少しづつ歩んできました。

絶対に出来るはずだという根拠の無い確信だけは
あります。


なぜかあります。

自然、身体、精神、社会、が
ばらばらになったこの世の中で
もう一度これらをつなぐ仕組みが
作り出せるはずである。

そして、そうしなければならないと思うのです。




竹炭、指によるドローイング  ↑クリックすると大きくなります
タイトル 「みずからのちからで こうなっている」


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2010年5月9日日曜日

次の展覧会 5/27-6/8

次回の展覧会のお知らせです。
場所は下北沢の 現代Hights
カフェ兼、ギャラリー兼、CDショップで
なかなか良い雰囲気です。
Gallery Den .stという小さいほうのスペースで
あの言水制作室の企画シリーズのトップでやります。

会期 5月27日-6月8日 (6月2日の水曜休み )
時間 13:00-22:00 (お店は午前1時までやってます)

さて、5月29日(土)の17:00より公開制作を行います。
やることは米糊と竹炭のハンドペインティングです。
↓こんな感じでやります(関連記事)
http://te-tajima.blogspot.com/2010/05/blog-post_05.html


壁全面展開する予定。ギャラリーのご厚意により、制作した作品をその後の日程でも
展示できることになりました。(ただし、(ないとは思いますが)腐ったりした場合は即撤去して、他の展示に差し替えます)


5月27日と28日はコラージュの展示です。

あと、もう一つ、未発表作品を展示します。


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2010年5月5日水曜日

米糊と竹炭のペインティングの動画



ご飯糊と竹炭を混ぜたものでペインティングをする様子をビデオで撮りました。↓



YouTubeにもアップしてます。↓


これは、私の身体深部感覚を外に現すものであり手を通じて何かを「見て」いるという感じがぴったりきます。米糊と食用竹炭という、食べ物をつかうのも、内臓感覚にできるだけ近いものを選択した結果です。
手で描くのは、身体に直接的で、とても気分が良いです。
ジャクソン・ポロックはキャンバスを、行為する空間ととらえ
アクション・ペインティングの先駆けとなりました。
私のは言うなれば身体感覚ペインティングです。


2010年5月4日火曜日

意識 感覚 現前 表象 クオリア




自分が存在している、ということの強い感じ。
室内のひんやりした空気、
聞こえてくる周囲の音
尻に当たる椅子の硬い感じ
床に当たっている足
内臓のもったりした感じ
目に映る室内の光景
肉体を覆っている衣服の感触

あらゆる感覚が私にとって、現れ出でている。

僕が常々不思議だと思うのは、
意識とか、現前とか、表象とか、クオリアとか呼ばれる
これら一連の
確かに、ありありと、そこに在る、という感覚の問題だ。
なぜ、そうなのか?これは本当か?
さて前野隆司氏は、「意識はイリュージョンである」と言い切る。
意識の全ては、作り出さされたものであり、
脳神経の諸機能が働いて、クオリアを作り出しているという
「受動的意識仮説」を展開する。
僕も前野氏の考えに賛同するが、一方で前野氏は
クオリアが出来あがる過程そのものについては無関心だ。
それは心身二元論として、本書のような一元論とは相容れないと考えてるらしい。
もう一方の茂木健一郎氏は、
あくまでクオリアにこだわっている、
クオリアは分割できない対象と考えており
クオリアが出来上がる仮定に迫っている。
しかし、デビッド・チャーマーズの言うところの「難しい問題」に
まともに取り組んでいるだけに、その成果はあまり多くない。
問題は「難しい問題」の取り扱いかただと思う。
前野氏のいうように、クオリアとはイリュージョンである、と考えれば
問題はことごとく解けると思う。
しかしクオリアを「難しい問題」と捉えて、そこにこだわると
とたんに解決は困難になる。
意識問題は問いの立て方が構造的な問題のように思える。

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