2010年2月20日土曜日

物凄い古事記 さらに続き

ひどい二日酔いになると、その苦しみは格別である。

しばらく前になるが、あまりに気持ち悪くて吐いてしまった。
吐く時は、私というものが無くなり、私は吐き気そのものとなっている
忘我の瞬間。苦しみと快楽が混ぜこぜとなって強烈なものである。

内臓が一気に噴き出して、私の意識は吹き飛んでしまう。

さて、今にして思えば、生というものは、この苦しみ(と快楽)そのものではないだろうか
この強烈な感覚が、常に現象としてでてくると、
私というものは耐え切れなくてすぐに死んでしまうだろう。

だから辛うじて、私の肉体として、生理として、本能として、
意識として、そして思考や論理として
現われ出ているにすぎない。

だから本当の私とは、吐いている時の私である
あの苦しみと快楽の絶頂の世界にいるときが、本来の私なのである。
吐いている時、私は何かに、直に接触している。
全ての生の元となる何かに、感覚の分化する前の何かに。


・・・・・・
さて、古事記の作者は、そのことをよく知っているように思う。

混沌から世界が分化して作られている過程は、
感覚の分化過程において
絶頂的な苦しみや残虐にも似たものだろう。
人間の耐えられる限界を超えている。

そう考えれば古事記に出てくる、凄まじい物語も、
むしろ控えめな表現にさえ思えてくる。


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