2010年6月17日木曜日

ヨーゼフ・ボイスのこと 2

「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」(人智学出版)に、
「生命体への参入」という1977年ドクメンタでの講演が収められている。

「私は三つの異なるものを調和させることを試みたい。すなわち生命体の概念、
革命家の概念、そして社会彫刻の概念である。」

ボイスはこの中で、創造する人(これをボイスは革命家という)が、どのように創造を生起し、
それを社会的に表すか、言葉をいくつも変えて繰り返し述べている。
社会彫刻とは、そのように社会的に現われた活動全体であり、このような活動の全体像を
「生命体」と呼んでいる。

貨幣は単なる権利調整物となり、利潤、所有、賃金依存などは消滅すると述べている。

確かに、現在の労働市場に創造性は最も必要とされることとなった。
しかしそれは、新しいビジネスを作り出すための創造性であって
人間が全存在をかけて取り組む創造ではない。

いまや、大なり小なり創造的であることを強いられる社会である。

IBMはいう「世界をスマートに」。
もちろんそれは目的ではなくて手段だ。
しかしあたかもそこには、世界をスマートにすることが
目的になってしまう危険性をはらんでいる。
もちろんIBMの目的は、世界をスマートにすることによって
自分が利益を上げることである。

巷ではビシネス思考法が盛んになっている。
ロジカルシンキング、クリティカルシンキング、はてはクリエイティブシンキング・・・
それはそれでスキルとして面白いのだけれど、
これは手段に過ぎない。

私たちはこのような2重3重の細紐に絡め取られいつの間にか資本主義的な身体を
作り上げられてしまうのである。
だまされてはいけない。

ボイスは言った「思考は彫刻である」と。
創造的思考、革命的思考は、革命的な身体、〈野性〉的身体をつくるのだ。
資本主義をメディアとして、手段として使いこなすには、
私たちは全員、「革命家」にならなければならない。


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2010年6月14日月曜日

強力粉のハンドペインティング


↑クリックすると大きくなります。

強力粉を水で溶き、食用竹炭をまぜたもの。
手で塗っています。
やってる最中は目をつむっています。
描いているときの感覚(触感)がとても大事です。
下に落ちて溜まったのは、手ですくってまた塗ってます。

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2010年6月8日火曜日

ヨーゼフ・ボイスのこと

自然-身体-精神-社会をつなぐ、ということを看板として掲げている以上、
ヨーゼフ・ボイスのことに触れないわけにはいかない。
彼のいう「社会彫刻」「拡張された芸術概念」もそうですが
結局私の目指すところはボイスのように社会の改革に通じています。
25年前に来日したボイスですが、バブル前の日本では
ボイスのいうことを理解できなかったようです。

いまやエコロジーが当たり前になり
NGOなどの非営利団体の活動が活発になった。
今、ボイスが昔言っていたことを具体的に考えることは難しいことではない。

また、こんなことをいう人もいる。
「晩年のボイスが考えていたのは、日常的な「労働」という営為をいかに「芸術」として捉えなおすということだったのではないか。それはそもそも彼が提唱した「社会彫刻」のひとつの完成型であり、「誰もが芸術家である」という有名なテーゼの実現でもあった。けれども80年代以降の産業構造の急激な変化はボイスのユートピアを追い越してしまった。今では誰でも(売れない)芸術家のように生きられることを強いられている。現在労働市場で最も求められているのは創造力やコミュニケーション力である。ボイスの夢は実現したけれど、皮肉なことにそれはユートピアではなかった。資本主義のしたたかさを考えるために今一度、80年代のボイスを思い起こすことが必要である。」社会学者/東京芸術大学准教授 毛利嘉孝氏
http://moonlinx.jp/headline/art/000681.php


80年代以降の産業構造の変化は、確かに資本=創造というボイスの思想を表したかのように見える。
資本主義は、人間の創造力を、資本の流れる方向に導き、資本のために使わせるのである。
だが、ボイスは創造者=革命家であるといったことも力説せねばならない。
ボイスの思想が実現したというには、骨抜きになって拡散したといったほうがいい。

今、革命家としての身体がどこにあるというのか、
身体は戦場であることを自覚しているひとが如何に少ないことか。
「創造者」は多くなったが「革命家」はいなくなったのだ。
「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」(人智学出版社)を読んだ。
その中の「生命体への参入」という講演を記録を読み直した。
革命家の内部で何が起こっているか、についての考えが述べられている。

ボイスについは数限りないサイト・記事があるが、私が本日見たなかではこのブログが一番ためになった。
http://hiroshi-s.at.webry.info/201002/article_1.html


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2010年6月5日土曜日

西田幾多郎 「善の研究」を読む


お知らせ
今、展覧会の開催中。
関連ページ
次の展覧会
「米糊ペインティング」の意義


さて、今日の話題
難解といわれる西田の哲学だが
「感覚で世界を捉える」観点で読むとするすると入ってくる。

特に第2篇 第3章 実在の真景 には、なるほどと思わせるものがある。
「普通には・・(中略)・・精神と物体の両実在があると考えているが、それは凡て誤である。」
「事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲といったが、天文学者はこれを詩人の囈語《げいご》として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われているかも知れない。」
「 万象の擬人的説明ということは太古人間の説明法であって、また今日でも純白無邪気なる小児の説明法である。いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去るであろう、勿論この説明法は幼稚ではあるが、一方より見れば実在の真実なる説明法である。科学者の説明法は知識の一方にのみ偏したるものである」


知情意の合一、主観客観の区別ない「純粋経験」によって凡てを説明しようという西田幾多郎の基本的な態度は、感覚一元論を解く私の考えと元々非常に類似している。
また読むにつけこの哲学者の知的な誠実さには胸を打たれる。


「善の研究」は青空文庫より無料で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/card946.html
http://my.reset.jp/~comcom/sozai/large/zennokenkyuu_ruby.pdf


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2010年6月1日火曜日

記号化されない身体

河瀬 昇 氏のwebサイト「アメリカ現代作家論」を読み返した。
都市の記号システムという首尾一貫した観点で
50年代-80年代のアメリカ美術のスリリングな展開を読み解く手際は
実に鮮やかだ。

河瀬氏が「都市の記号システム」というのと、
私が〈野性〉論で「資本主義システム」といっているのは
殆ど同じものである。
美術家たちが、どのようにそれらの記号化と戦ってきたか
数十年にわたる戦いの歴史は、壮観だ。

翻って現在、
とっくの昔に私たちの身体は記号化されている。
ぎしぎし音を立てているようだ。
かさぶたを剥がすようにそれらの記号を剥ぎ取っていきたい。
しかしかさぶたは私たちの身体の一部であり、体中に貼り付いている。
剥がしたとたんに血まみれになるだろう。

記号化されていない身体なんて、どこにある?

あるとすれば、それは私たちのリアルな身体感覚だ。
内臓の動きであり、呼吸であり、心臓の鼓動であり、血液の流れだ。
腱のきしみであり、骨の鳴る音だ。
それは何十億年の前からの進化の現在地点であり、
感覚の源泉である。

今日も私は身体に耳を澄ます。
記号でない、リアルなものを見る。それしかない。


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2010年5月30日日曜日

「米糊ペインティング」の意義

昨日、現代Heightsで公開制作を行いました。
その模様をyoutubeにupしました。

↓画像をクリックするとYoutubeにリンクします。






さて、実は私は、この行為を「制作」とか「Painting」とかいうことに抵抗がある。
私の目的は、自然-身体-精神-社会を結びつけることだ。
かつて、神話がその役を担っていたが、現代では完全にそれらは分断されている。
現代社会の根本的な問題である。
私は食べ物を使うことによって自然-身体をつなぎ
行為をなすことによって身体と精神をつなぎ
ギャラリーで発表することによって社会につなぐ。

私たちの身体は自分の意思にかかわらず、常に活動している。
血液は循環し、腸は蠕動運動し、腎臓は尿を濾しとっている。
身体はもっとも身近な自然だ。
私はそのことを外に現そうとしたとき、どうしても既成の絵具は使えなくなってしまった。
身体に親和性のあるもの-食べ物-を使うしかなかったのだ。
私は身体の内部感覚を、手の感覚を通じて壁に貼られた紙に直接つなぐ。

だから「絵を描いている」のでもなく、「モノを制作している」のでもない。
自然-精神-身体-社会を結びつけているのだ。

私は、今では稀にしか見られない、回路を生成している。
私の目的は、この回路を太く、大きく、強くしていき、
現在の人間社会を矯正していくことである。



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2010年5月29日土曜日

今日は公開制作

今日は公開制作の準備で
朝からご飯を炊いています。
なぜご飯を炊くかというと
私はご飯のりを使って手で描くという
行為をするからです。

詳しくはこちら↓
次の展覧会

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2010年5月28日金曜日

個展が始まった

現代Heughsでの個展初日です。








作品や、私の思想についての話になることがありますが
自然-身体-精神-社会をつなぐという私の思想を
正しく伝えるのは難しいとつくづく思いました。
こういう話題は日頃から言説をキチッと整理しておくべきと
思います。


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2010年5月23日日曜日

人工生命の誕生 と 荒川修作の死


人工ゲノムを持った「人工細菌」の電子顕微鏡写真=サイエンス提供

人工生命が出来たというニュースがあったので読んでみたら
合成したDNAを細菌に入れ込んで、分裂することを確認したということだった。
膜や、そのほかの代謝機能を合成したわけではないが
完全な人工生命の達成に近づいていることは確かのようだ。

生命誕生が誕生するとしたら、感覚史(感覚がどうやって現われ出でてきたかという
私の造語です)にとって、非常に大きな出来事だ。
実験室の中で生命ができるとなると、感覚史にとってまた新しい段階になる。
・・・私は考えるのですが、、この種の人工生命は
何かを「感じて」いるのでしょうか。
「感覚器がないんだから感じるわけがない」というのが普通の答えです。
感覚器があっても意識がなければ感じない-という風に考える人います。
しかし私はそうは考えません。刺激に対する反応がある現象は
すべて感覚とみなすようにします。
これは極端で大げさな考え方ですが、
自然-身体-精神-社会をつなぐことを目指す以上、
避けることができない考えであると思っています。

ところで、「死なない」ことをテーマとしていた荒川修作氏が亡くなった。
「死なない、死なない」と言い続けていたが、やっぱり死んでしまった。
死なないといえば、まえにも言ったが、再生医療が発達してくると、人間は死ななくなる。
自分の身体パーツを作っておいて悪くなると取り替える。
脳も記憶をバックアップしておいて、再生させることが可能となるだろう。
そのことを知ってか知らずか、荒川氏は亡くなった。
彼の著作を何冊か読んだが、難解この上なかった。
しかし言えるのは彼はとても、〈野性〉的な人であったということです。


田島5月末の展覧会の予定 、↓下のブログをご覧ください。

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2010年5月20日木曜日

次の展覧会








次回の展覧会のチラシが出来ました。

場所は下北沢の 現代Hightsカフェ兼、ギャラリー兼、CDショップでなかなか良い雰囲気です。Gallery Den .stという小さいほうのスペースであの言水制作室の企画シリーズのトップでやります。会期 5月27日-6月8日 (6月2日の水曜休み )時間 13:00-22:00 (お店は午前1時までやってます)


さて、5月29日(土)の17:00より公開制作を行います。


やることは米糊と竹炭のハンドペインティングです。
狭い会場ですが、これを1面だけでなく3つの連続した壁面に対して行います。


↓画像をクリックするとYouTubeにつながります。


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2010年5月18日火曜日

まだまだ続く

自然、身体、精神、社会、
これらを結びつけるという壮大な目標を掲げて
たった一人で出発しました。

何度も道を見失い、達成する糸口さえ見出せず
文字通り手探りで
微かな兆候などを見失わないようにしながら
少しづつ歩んできました。

絶対に出来るはずだという根拠の無い確信だけは
あります。


なぜかあります。

自然、身体、精神、社会、が
ばらばらになったこの世の中で
もう一度これらをつなぐ仕組みが
作り出せるはずである。

そして、そうしなければならないと思うのです。




竹炭、指によるドローイング  ↑クリックすると大きくなります
タイトル 「みずからのちからで こうなっている」


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2010年5月9日日曜日

次の展覧会 5/27-6/8

次回の展覧会のお知らせです。
場所は下北沢の 現代Hights
カフェ兼、ギャラリー兼、CDショップで
なかなか良い雰囲気です。
Gallery Den .stという小さいほうのスペースで
あの言水制作室の企画シリーズのトップでやります。

会期 5月27日-6月8日 (6月2日の水曜休み )
時間 13:00-22:00 (お店は午前1時までやってます)

さて、5月29日(土)の17:00より公開制作を行います。
やることは米糊と竹炭のハンドペインティングです。
↓こんな感じでやります(関連記事)
http://te-tajima.blogspot.com/2010/05/blog-post_05.html


壁全面展開する予定。ギャラリーのご厚意により、制作した作品をその後の日程でも
展示できることになりました。(ただし、(ないとは思いますが)腐ったりした場合は即撤去して、他の展示に差し替えます)


5月27日と28日はコラージュの展示です。

あと、もう一つ、未発表作品を展示します。


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2010年5月5日水曜日

米糊と竹炭のペインティングの動画



ご飯糊と竹炭を混ぜたものでペインティングをする様子をビデオで撮りました。↓



YouTubeにもアップしてます。↓


これは、私の身体深部感覚を外に現すものであり手を通じて何かを「見て」いるという感じがぴったりきます。米糊と食用竹炭という、食べ物をつかうのも、内臓感覚にできるだけ近いものを選択した結果です。
手で描くのは、身体に直接的で、とても気分が良いです。
ジャクソン・ポロックはキャンバスを、行為する空間ととらえ
アクション・ペインティングの先駆けとなりました。
私のは言うなれば身体感覚ペインティングです。


2010年5月4日火曜日

意識 感覚 現前 表象 クオリア




自分が存在している、ということの強い感じ。
室内のひんやりした空気、
聞こえてくる周囲の音
尻に当たる椅子の硬い感じ
床に当たっている足
内臓のもったりした感じ
目に映る室内の光景
肉体を覆っている衣服の感触

あらゆる感覚が私にとって、現れ出でている。

僕が常々不思議だと思うのは、
意識とか、現前とか、表象とか、クオリアとか呼ばれる
これら一連の
確かに、ありありと、そこに在る、という感覚の問題だ。
なぜ、そうなのか?これは本当か?
さて前野隆司氏は、「意識はイリュージョンである」と言い切る。
意識の全ては、作り出さされたものであり、
脳神経の諸機能が働いて、クオリアを作り出しているという
「受動的意識仮説」を展開する。
僕も前野氏の考えに賛同するが、一方で前野氏は
クオリアが出来あがる過程そのものについては無関心だ。
それは心身二元論として、本書のような一元論とは相容れないと考えてるらしい。
もう一方の茂木健一郎氏は、
あくまでクオリアにこだわっている、
クオリアは分割できない対象と考えており
クオリアが出来上がる仮定に迫っている。
しかし、デビッド・チャーマーズの言うところの「難しい問題」に
まともに取り組んでいるだけに、その成果はあまり多くない。
問題は「難しい問題」の取り扱いかただと思う。
前野氏のいうように、クオリアとはイリュージョンである、と考えれば
問題はことごとく解けると思う。
しかしクオリアを「難しい問題」と捉えて、そこにこだわると
とたんに解決は困難になる。
意識問題は問いの立て方が構造的な問題のように思える。

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2010年4月26日月曜日

小麦粉と竹炭で、内臓感覚の絵画を。


↑クリックすると大きくなります。

ふたたび、食物を使った制作です。
小麦粉を水で溶き、竹炭をまぜて、滑らかな紙の上に手で広げました。
紙の広さは50cmX40cm程度。
最初はネタネタしていて、拡がり易いですが
そのうち乾いてきて、表面から剥がれるようになります。
小麦粉はご飯のりと違って、ややざらざらした質感があります。
写真は、制作後、12時間以上経ったものです。



なぜ食物を使うのか、自分でもわかりません。
とにかく今では売っている絵具を買ってきて使うなど考えられないのです。



僕にとって感触・触感はとても重要で、今のところ、滑らかさの面では、ご飯糊が一番だと思います。



前にも書いたことですが、これは、僕にとって、意識できていない身体の機能、内臓の動きとか、視覚以前、視覚をつくる身体の機能などを示すことです。
昨日、「肉体こそが大きな理性」ということを書きましたがその「大きな理性」を現す方法なのだと思います。


奇妙に聞こえるでしょうが、何かを「見ている」感じです。
「見る」ということは、電磁波(光)の洪水の中から、何かを解釈し作り出していることに他なりません
つまり受動的なものではなく、積極的に作り出していることです。
手を伸ばして、まさぐるように造形している様子は、「見ている」のと同じような感じです。


関連リンク





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2010年4月25日日曜日

肉体こそが大きな理性



肉体は一つの大きい理性である。
一つの意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である。

私の兄弟よ、君が「精神」と名づけている君の小さい理性も、君の肉体の道具なのだ。君の大きい理性の小さい道具であり、玩具である。


ニーチェ「ツァラトゥストラ」手塚富雄 訳


ニーチェの慧眼には感服するばかりです。


私も肉体と精神の関係について、観察し、思索し、実践を重ね自分の精神や意識が、いかに肉体の条件に支配されているか、良くわかります。

それは、例えば体調の悪いときは気が弱くなるというような狭い話ではありません。

僕らが外界を捉えるやり方そのものが、私たちが備えている感覚器とその処理のしかたによって作られているものであるということです。

例えば、私たちは色を見ますが、実は自然界に色というものはありません。光の波長があるだけです。しかし私たちは波長500ナノメートルの光は緑、600ナノメートルは赤、というふうに小さな可視光線の範囲を微妙に区別して、豊かな色彩の世界をつくっています。そういった私たちの身体の感覚器とその処理の仕方は、最初から肉体に備わっていたのであって、私たちの精神の働き以前のものです。大いなる肉体の秩序です。

本当に、肉体こそが、巨大な秩序を持った本当の理性であって、私たちが「理性」と呼んでいる自分の精神は肉体の玩具ともいうべき小さな付属品に過ぎないのではないでしょうか。。。




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2010年4月24日土曜日

映画 ザ・ムーン を観て: 「全ては一つだ」



このDVDは面白い。

月に行った宇宙飛行士たちのインタビューと
宇宙空間や月面の映像を駆使したドキュメンタリー。

似たようなドキュメンタリーは他にもあるが
この映画は映像や構成が特に優れている。

月面の映像は、いままで見た中で一番鮮明で
神々しさを間近に感じる。
もうロードショー上映は終了したが、サイトはまだ掲載されている。

インタビューはどれも興味深いものだった。

中でも私の目を引いたのはアポロ14号のエドガーミッチェッルの言葉。
以下、字幕を引用します。

「最高の喜びは帰路に待っていた
窓から2分ごとに
地球 月 太陽が見え
そして見渡す限りの
広大な宇宙空間
圧倒されるような経験だった。
そして気づいた 己の肉体の分子も
宇宙船の分子も
クルーの仲間の肉体の分子も
その原型ははるか昔に宇宙で
つくられたものだと
すべてはつながっていて一体なのだと
他と私ではなく万物は1つなのだと
そしてエクスタシーに包まれた
真の自己に 悟りに触れたのだ」

全ては一つであり、つながっている。
あらゆるものは同じである。

荘子はこれを万物斉同と言っている
ニーチェが言うには 大いなる正午

このことはいろいろな人が、いろいろな仕方で言っているが
言っていることは大同小異で、
全ては同じでつながっているということと、そして強烈な幸福感である。

さて、私が憂慮するのはこのようなアイデアの社会の側の扱いである。
このようなことを「神秘体験」「特殊体験」として隔離し
「到達すべき悟りの世界」と捉えるような見方である。

こういうことは
むしろ普遍的なこと、当たり前でなんでもないことという風に考える風潮のほうが
望ましいと思う。むしろ日常的な話題にさえなるような。
いや、そのようにしなければならないと思う。

ところが、我々の現時点の社会では、このことが特殊な文化となってしまってるし
怪しげな分野に押し込められている。
(エドガーミッチェルの物言いも、ニューエイジ系の味付けがあるような気がする)

このようなアイデアを神秘主義から解き放ち、きちんと社会的に機能するような
文化的な回路をつくること。
それが私の目指しているものである。


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2010年4月21日水曜日

認識は・・・

認識は、意識されない肉体の活動の反映である。

ニーチェの言葉だったと思うが定かではない。

この言葉は、一見間違っている。
認識とは、意識されている筈だ。

私の目の前のキーボードも、マウスも、
座っている椅子も、意識されて初めて認識に上るのではないのか?

しかし、、。。どうだろう・・・・
マウスは硬いとか、キーボードが黒いとか、
それは、私の肉体の活動であり、肉体の感覚がそれを作っているのではないのか?
私がマウスを握って感じることは、少なくとも私の指の肉よりは、硬くて冷たいということだ。
それらのことは、私の肉体を通じて得られることに違いない。
そして、そのプロセスは、全く意識されていない。
私にとってマウスは、マウスとして突如として現われる。

世界は無尽蔵であって、私たちは肉体の活動によって、
その世界の一部を
認識の俎上に載せることができる。

だから、認識は意識されない肉体の活動の反映である。


枯れたと思っていたアサガオに芽が出た。


4ヶ月前


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2010年4月19日月曜日

内臓を認識する訓練

解剖図を見ながら
普段は意識できないカラダの各部分を
指し示す。


胃、肝臓、膵臓、胆のう、小腸、肺、心臓、腎臓、
副腎、甲状腺、大脳、小脳、延髄、下垂体、視床下部


一つ一つ、その機能を確認しながら
内臓の位置と働きを確認する。


今も、小腸は蠕動し
腎臓は血液から尿を漉し取り
肺胞はヘモグロビンに酸素を与えている。


はっきりとは感じ取れないが
内臓は、それぞれ独立した役割をする独立した部署である。
脳はその内臓の中の一つに過ぎない。


しかし脳は、どうしてこれほど、各内臓の働きについて知らないのだろう。
身体は、最も身近な自然現象であるというのに、
私にとってはむしろ「外部」である。


私にぴったりと寄り添っている、
もっとも身近な他人。それが私の身体。


私はこの人のことを
もっと知らなければならない。





水溜りの中と、木の影と、水面に映る光景・・・交錯する3つの世界。



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2010年4月16日金曜日

アエラの取材を受けました

朝日新聞出版の週刊誌「アエラ」の編集記者の取材を受けました。

連絡をいただいたのは古川雅子さんという、女性記者。

「裸健康法」(自宅で裸で居る健康法というのがあるらしいのです)のテーマ記事で、身体についての考察を求め、私のブログの「乾布摩擦と冷水摩擦」という記事に行き着いたことが、今回の取材申し込みのきっかけだという。
http://te-tajima.blogspot.com/2009/12/blog-post_23.html



自宅でインタビューを受けたのですが、健康法の話はさておいて、自然-身体-社会、神話、感覚などいろいろなことを語りました。

というのは、古川さんは私の「〈野性〉論」を買って、あちこちに線を引っ張って熱心に読んでくれていました。
古川さん自身、介護現場など様々な取材をとおして、また子供を持って働く女性として、また出版界の競争の中にいて、現在の社会システムに問題意識を持ち、
この社会は何かオカシイと思っていたとのことです。
そして私の本を読んで、この状況をキチッと説明する言葉に出会い感銘を覚えたということです。
私という取材対象の事前調査というものを超えた、エモーショナルなものを感じました。
このような理解者にお会いできて、私も嬉しい。

テーマ記事の内容は外せないので、その「裸健康法」なるものの、たぶん身体についての内容の一部として田島の話が載るだろうということです。5月初旬か中旬に発売されるアエラのに掲載されるとのことです。


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2010年4月12日月曜日

なぜそれは秘密なのか



感覚で伝えられる文化は、大抵が秘密だ。

例えば
錬金術は、厳しい秘密主義が守られていた。
アボリジニの儀式の内容も参加者以外には秘密にされている。
チベット医学にはテキストがなく、師弟による直接の教授によって学ぶしかない。

神話が語られる時と場所は限定されていて、
特定の時の限られた人にしか話されない特別な話だった。
今のように神話が書物に書かれているのは
後世の文明社会が「研究」のために書いたものが多い。

感覚を頼りにする以上、言葉で表現することは非常に難しい。
テキストに書くことができない、もし書いたとしても誤解を招くことになり
非常に危険だ。
また言葉によって流通することによって、消費され、
求心力を失うことにもなりかねない。

何よりも、その感覚が充足した「空間」が必要なのである。
その感覚は、再現したり、伝えたりすることが非常に難しい。

さて、あらゆるものを消費するこの現代社会にあって
感覚的な空間を作り出すことが可能だろうか。

その空間を保持し、言葉によらずして他者に解らせ、
広めていくことが可能だろうか。


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