2014年5月20日火曜日

Joy Division--- カオスのコントロール




かつて、Joy Divisionというイギリスのバンドがあった。活動していたのは1976年から1980年。私はリアルタイムには聞いていないが、90年前後に彼らを知ってその世界にどっぷりと浸かってしまった。以来時々彼らが出した2枚のアルバムを折りに触れて聞いている。

「Joy Divisionの魅力は何か?」と聞かれると、困ってしまう。

このバンドは「暗い」と良く言われる。
確かに暗い。
しかし「暗い」のが最大の魅力なのだろうか?


違うだろう。

説明するのが難しいが、Joy Divisionの曲を聴くことは
たとえば
「なぜこの自分の手が、自分のものなのだろうか?」
「なぜ、私は私であってあなたではないのか?」
「なぜこれは、ここにあって、あっちには無いのか?」
「なぜここから向こうまで動いて行くのに時間がかかるのか?」
「なぜ壁の向こうのことはわからないのか?」

というような認識論的な疑問を抱かせる。

人間は、世界をありのままに認識することは出来ない。すでに認識のパターンが出来ていて、それによって現象をつくりだす。
これが、カントの「コペルニクス的転回」といわれる、認識論の元祖である。


それゆえに、もしこの認識のパターンがうまく働かない場合は、世界が壊れるような不安感を覚える。

そもそも、「生のままの世界」は、秩序も、分類も、原因と結果も成り立たないカオスである。
ヴォーカルと作詞を担当していたイアン・カーティスは、この認識のパターンが一部機能不全を起こしていて、その結果膨大なカオスが洪水にように心の機能に流れ込んでいるのだろう。
それは様々なビジョンを見せる。
そのビジョンは、不条理に満ちている。
イアン・カーティスの詞を見ると、そのことが良く分かる。


たとえばDisorderという曲の歌詞



ディスオーダー

案内人がやって来て
手を引いて導いてくれるのを待っていた
こういう衝撃が僕に
正常な人間の歓びを感じさせてくれるのか
新しい衝撃は無害なものだが
それはまたの機会にとっておこう
僕には精神があっても感情がない
ショックも感じない
Disorder
I've been waiting for a guide to come
and take me by the hand
Could these sensations make me feel
the pleasures of a normal man
New sensations bear the innocence -
leave them for another day
I've go the spirit, lose the feeling
take the shock away
出展
http://weare.hacca.jp/joydivision/pages/joy_main1.html?Joy%20Main=lyrics_substance.html


ここでは明らかに、認識と感覚の不整合を感じさせる。

認識のパターンが一部壊れた人は、詩人や文学者に多い。詩人の萩原朔太郎も典型的にそういう類の人だ。
イアン・カーティスの詞も一つの文学作品のようだ。


何よりもライブパフォーマンスの時のイアン・カーティスの目を見ると、尋常でない異様な印象を受ける。
いわゆるイッテしまっている目だ。

↓こちらをご覧ください。

FageOner
https://www.youtube.com/watch?v=zsHoOIHDutE

認識が壊れてしまうかも知れない恐怖。世界が吹き飛んでしまうかも知れない不安---それがJoy Divisionの曲の暗さの源流なのだろう。

そして、実はそれは快楽でもある。感覚が、決まったパターンから解放される快楽だ。Joy Divisionの曲は、恐怖と快楽の両方を同時に私たちに突きつける。

そして当然ながらこのカオスをコントロールすることは、膨大な心的エネルギーを必要とする。
イアン・カーティスは、バンドが多忙になるにつれて心身ともにボロボロになっていき、家庭の愛人問題もあいまって、自ら命を絶つことになる。
享年23歳。
夭折する天才は数多いが、かなり早いほうだ。




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2014年5月16日金曜日

量子と意識2

5月4日放送のNHK「サイエンスゼロ」の超能力特集において、人間の意識が量子的現象に影響を及ぼすという実験について紹介していた。
それについて考えたことを以下に書きます。

そもそもわたしが思うに、意識よりも身体のほうがたくさんのことを行なっており、意識はたいしたことはやっていないように思います。
世界という不定のものに対して、人間は人間独自の見方しかできないもので、 世界そのものをそれ自体として認識することはできず、人間がすでに持っている認識のパターンにしたがって解釈します。カントはこのことをコペルニクス的転回といいましたが、すでに東洋思想では、心の所在のそのような性質を認めていました。
 最近の科学の進展によって、認識は脳内の神経モジュールによって構成されるというモデルが作られています。現代の脳科学がやっとそれを裏づけ始めたというわけです。

 受動意識仮説をとなえる前野隆司氏は、自らコペルニクス的転回といっていますが、その先例はカントであり、スピノザであり仏教の認識論もそうでした。荘子の考え方もそうです。

 さて意識というものはあとから組みあがるもので、普段の生活は圧倒的に身体による自動的な処理、無意識の働きによるものです。
例えば、あなたがこの文書を読んでいる間、周囲には様々な音がしているはずです。今まで気がつかなかったでしょうが。部屋でテレビをつけているかもしれないし、また音がしていないようでも、冷蔵庫の冷却器の音など、部屋にある電化製品はなんらかの音を出しているものです。身体(耳と脳 そして神経系)は、ちゃんとそれを聞いています。しかし、意識のできることは限られているので、それを任意に処理しているに過ぎません。
 私たちは歩きながらものを考えることもできるし、食事をしながら話すこともできます。話しているときも言葉は半ば自動的に出てきます。言葉を選ぶという意識的活動をしない限り。

 私たちとは誰か。それは私たちは身体です。身体の働きです。身体の機能です。意識(自分が自分であると思い込まされている脳の機能)は、その中のごく一部であるに過ぎません。

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 さて、ところが意識は特殊な特徴を持ちます。
 意識が量子力学的現象であるということです。

 量子力学的な現象は、原子の大きさ以下の極微のみの世界の現象と思われるとしたらそれは間違いで、たとえば2枚のスリットを通る電子が干渉縞をつくる、というような目に見えるくらい大きな現象にもなります。意識もある意味「目に見えるくらいの大きさでおこる」量子力学的現象なのです。

 意識現象と量子現象は似たような特徴があります。

1、観測問題:自分の意識を見ることはできません。見ようとすることによって決定的に意識が変わってしまいます。

2、不確定性:これは1と良く似ています。心の状態を捉えようとすると、心はすでにそこにありません。

3、共鳴:意識同士は共鳴します。言葉や表情の交換などによって共鳴する関係をつくることができます。

 意識のこのような量子力学的性質は、なにを意味するのでしょうか。

 もちろんそこには意味があるのだろうし、進化の過程で意識を獲得してきたので、必然的な理由があるに違いありません。意識が量子力学的な性質をもっているのもちゃんとした理由があるはずです。
 残念ながら、今日の段階では、私は仮説でさえ書くことができません。
 しかし近いうちに必ず仮説を唱えたいと思います。






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2014年5月7日水曜日

量子と意識

5月4日放送のNHK「サイエンスゼロ」は、超能力特集だった。
その中で私の興味を引いたのは、人々の意識の高揚によって乱数発生器の乱数の出方に偏りが生じるというものだった。

アメリカのネバダ州の砂漠で7万人が集まるというイベントでそのシンボルである巨大な「バーニングマン」という人形が燃やされるとき、乱数発生器の0と1の発生に著しい偏りがみられるということです。

乱数発生器の原理は量子的現象で、粒子がトンネル効果で物体を通りぬけられるか否かによって発生する0か1かが決定されます。つまり予測不可能な確率的現象です。

人間の意識が、この量子力学的な現象に影響を及ぼすということは、どういうことなのでしょうか?


すぐ思いつくのは、意識は量子的現象であるとするロジャー・ペンローズの説です。
量子は光であると同時に波であるという性質があり、人間が観測しようとするとその位置と運動量は変わってしまう。
観測によってそのものが変化するという、人間のこころと同じような性質があるということは、直感的に理解できます。

また、「量子もつれ」という従来考えられていた相互作用とは全く違った作用による相関現象もあるということです。
量子力学は確立して100年あまり経っていますが、「コペンハーゲン解釈」とか「多世界解釈」というような様々な「流派」が存在することも面白い。
どうも量子論は、人間のこころの在りようと深く関わっているものであり、最近の科学の精緻な測定技術によっていままで隠されていた作用があきらかになりつつあるようです。
面白くなるのはこれからのようです。


私はかつて、ある文章に以下のように書いたことがあります。

 私たちの感覚は、普段は無意識に家事や仕事や娯楽などの目的に従っていますが、
それがにわかに主人公となって私たちを襲うのです。
 私たちは、ヒトとか人間とか言われる者とは別の種類のモノに変わります。
この世界に投げ出され、世界と自分の有り様をまざまざと体験している、或る奇妙なモノとなります。
かつて無かった、いや発見できなかったモノです。
天空に散りばめられた星をつないで星座をつくるように、壁のシミを見て人の顔と思うように、
不定の何かに或る見解を与えられて辛うじて一つのまとまりであるような、そのような種類のモノとなります。

私の意識は、個人としてあらねばならないという外部環境による強制から捏造されたものであるような気がしてなりません。

ありのままの姿があるとすればもっとばらばらで、統一されていないようなものではないだろうかと思います。
そしてそれは、量子の状態と良く似ていると思うのです。


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