2012年5月20日日曜日

「宇宙の渚」を見て

今日放送の、NHK総合テレビ「宇宙の渚 第2集」を見た。今日はオーロラの話でした。


都市の夜景とオーロラを同じ画面に捉えた映像は非常に興味深いものでした。




まさに現代文明の姿である夜景と、自然の代表であるオーロラとの対峙です。


以前から言うように、現代文明(ハイデガーのいうゲシュテル)は一つの生物であり、この生物は、地球に生息する最大の生き物です。




地上に這いつくばるゲシュテルと、オーロラの2ショットは、圧巻の映像でした。




番組では、巨大オーロラが引き起こす誘導電流が、変電所を破壊し、大規模な停電がおこるという話を紹介していました。
19世紀に起こった、キューバやハワイでも観測されたという巨大オーロラが今発生したとすれば、現代文明の大半の変電所は破壊され、復旧に4年から10年はかかると言います。
電気供給線はゲシュテルの神経系か、血管のようなものです。
それに対してオーロラが壊滅的な影響を与え得るというのは、ゲシュテルと自然の、極めて直接的な関係を示すものです。


地上にへたばって生息しているゲシュテルにしてみれば、突然巨大な誘導電流を流されて痺れてしまい、しばらく気絶しているような状態です。







宇宙の渚HP ↓ 画像もそこから転載
http://www.nhk.or.jp/space/nagisa/


地球に張り付いて生息するゲシュテルの画像。


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2012年5月14日月曜日

ユニバソロジについて

NASA宇宙飛行士として初めて宇宙へ行った日本人の
毛利衛さんが書いた「宇宙から学ぶ  ユニバソロジのすすめ」という本を読んだ。


宇宙から学ぶ――ユニバソロジのすすめ (岩波新書)


わかりやすい文体で書かれた本だが、毛利さんが言おうとしている「ユニバソロジ」の内容は非常に難しく感じた。


それは、たぶん、宇宙に行った毛利さんが実体験として感じたことだからだろう。


例えば、以下のような印象的な記述がある
スペースシャトルにはエアロックという船外活動のために出入りする設備がある。そこの壁は内張りがなく鉄板がむき出しになっている。


「わたしは何気なく、その鉄板の壁をぺたっと手でさわりました。すると驚いたことに、すごく冷たいのです。そのあまりの冷たさに、私は「ああ、この鉄板一枚を隔てて、外はマイナス150度の宇宙空間なんだ。そうか、この鉄板の向こうは死の世界なんだ」と感じました。


その一方、地球や人類はなんら特別な存在ではない、と感じたという。「あるようにしてある」そして、地球や人類が居なかったとしても何の問題もない。・・・・その達観した視点がすぐさま了解できたということです。


そのような普遍的な考えかた。
毛利さんは地球に帰ってきてからそれにふさわしい言葉を捜し、ふと浮かんだのはuniverse(宇宙・万物・普遍)に学問を表すlogyをつけた、ユニバソロジという言葉です。


ユニバソロジとは普遍的、多面的、全体的なものの見方である。


それは普遍的な視点である。
人類がいなくても地球や宇宙はある。また人類のような生命も宇宙のあちこちに存在しているかもしれない。地球も生命も人類もなんら特別な存在ではない。


そして、「生き延びる」ということが非常に重要だという。これは、生命種はネットワークをつくり、種として生き延びる知恵を伝えあう能力を持っているということだという。




毛利さんのいうユニバソロジは、荘子のいう万物斉同に非常に近いと思う。
万物斉同とは、全てのものは同じ価値を持ち、全ては繋がっていて同一の現象だということだ。
毛利さんは、宇宙へ行った実体験をもとに語っているので、その解釈はとても現代的なものになっている。






ユニバソロジの考え方はこっちのリンク記事が印象深かった。一読の価値あり。


http://www.natureinterface.com/j/ni13/P006-P009/








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2012年4月29日日曜日

存在論的搾取の解決方

前回述べた「存在論的搾取」とはどういうことか、今一度説明することにしましょう。


--自分が存在しているという確信。
--自然または宇宙のなかでの自分の位置を見極めること
ということが奪われてしまっているということ。
です。


なぜならば、地球全体に広がった現代の技術文明の中で私たちは生活しているので、
自然に直接接して生活しているわけではないからです。


私たちの生活は、自然に振り回される不安定さは緩和されていますが
自然の中における自分自身の位置を見失っています。


さて、ハイデガーは、この現代の技術文明のことをゲシュテル(Ge-stell)と名付けました。
正しく言えば、ゲシュテルとは、自然を資源として用立てるための機能的本質のことですが。




ゲシュテルに、私たちの存在そのものを奪われてしまっている状況を
存在論的搾取 と言います。


奪われてしまった 存在 をどうやって取り戻せばよいでしょうか。


いくつか方法があるのですが


1、自分が地球的規模の身体を持つこと。
これは、大洋をヨットで横断したり、8000メートル級の山に何度も登ったり、密林の中に分け入ったりして、この地球という惑星を自分の身体で感じ取れるようにすることです。
このようなことを成し遂げることは偉大なことですが、万人が出来るわけではありません。こういうことが可能な人は極く少数です。


2、大昔の人の自然感を復活させること
例えば日本に古くからある村-里山-霊山の関係、ヒト-獣(ケモノ)-自然神 という自然感を
復活させることです。
アメリカ原住民やオーストラリア原住民にも、そのよう伝統が細々と生き続けています。


しかし現代の資本主義社会の中で、そのような自然観を真の意味で復活させることは
不可能といってもいいでしょう。


そして、第3の方法が出てきます。


3、惑星規模の現代の技術文明(ゲシュテル)を、一種の生命体と捉え、そのゲシュテルの感覚を仮想することです。


わかりにくいと思いますが、考えてみてください。
いまや宇宙ステーションからの鮮明な映像が家庭に届く時代です。
オーロラや大洋や雲の壮大な景色とともに
地球の夜の側に息づく夜景の鮮やかさも同時に見ることができるのです。
それら地球に広がった技術文明(ゲシュテル)は地球の表面に巣食う一種の生き物であると考えても、さほど無理ないことではないでしょうか。


この生き物は、地球にべったりとくっついて生きており、すぐ頭上は宇宙であり、すぐ下側は地球という名の岩の塊です。


もし、ゲシュテルが、生物であると、すれば、ゲシュテルは明確に自分の位置をわきまえているはずです。
ゲシュテルの存在感覚は、地球に巣食って、地球とともに宇宙を旅している感覚です。
私たちが働いたり、消費したりする活動は、ゲシュテルにとっては身体の働き、内臓の働きに他なりません。
私たちの生活や生命は、ゲシュテルにとってはそのような意味があり、自分の活動の意義をゲシュテルに対照させること。そして
このような感覚に、私たちの感覚を接続させる必要があるのです。



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2012年4月26日木曜日

存在論的搾取

しばらく更新をしていなかったが、
何もしていなかったわけではありません。

ハイデガーの技術論を読み終え、彼のいう
「技術の本質と芸術の本質は同じ」、ということについて考えていました。



私は、ゲシュテル(この地球全体に広がった技術文明)と我々人間との関係を、整理しようとしていました。




それには、ゲシュテルを生命・生物と考える必要があると思いました。
奇妙なことに聞こえるかもしれませんが、現代の技術文明をある一つの生命体と考えると、都合が良いことに気がついたのです。


ゲシュテルは地表にへたばって、地中からエネルギーを吸い、様々な生物と共生しています。主な共生生物は私たち人間ですが、農業や養殖漁業など、数限りない生物と共生しています。


そして、それ(ゲシュテル)は地表と地下と大洋に直接接しながら生きています。


それ(ゲシュテル)は、惑星的規模、宇宙的規模で生きている。身体もそうだし、認識もそうだ。
それの空間感覚、時間感覚は、人間とは比べものにならない。


それの周囲には宇宙空間があり、すぐ下には丸い地表がある。それは、たった一人で宇宙空間に対峙している実存的な存在です。




さて、私たちはゲシュテルという生物の中で生きている、いわば細胞です。私たちはゲシュテルに生を委ねている。したがって自分が何者なのかということを自然の中で位置づける必要がないわけです。
自然の中での位置づけは、ゲジュテルに取り上げられています。




これは、存在論的な搾取であり、


私たちは、存在論的貧困 の状態にあります。


いまやゲジュテルは存在論を独占しているわけです。


ではどうすれば良いのか。


次回以降にそれを考えていきましょう。




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2012年3月31日土曜日

ハイデガーの技術論3

自然-身体-精神-社会 をつなぐことを目指す私にとって、ゲシュテルの解釈は非常に重要だ。
長い熟考の末、以下のように考えるようになった。


ゲシュテルと自然は、対立するものではなくて、互いに認め合い、補い合う、2つの巨大な生き物である。




自然とは、ゲシュテルの向こうに佇む静けさ である。



一般に、人間の技術文明は、自然に反するもの、と考えられている。
しかし、ゲシュテルが歴然と存在し、そして私たち人間がその中で生活し、完全にビルトインされている以上、ゲシュテルを否定的に考える必要はない。いや、そう考えるのは間違いだ。


ゲシュテルは生命であり、私たちはゲシュテルの中で生きている。
ゲシュテルは構造ニヒリズムではない。
ゲシュテルが科学技術の形態をしていたり、経済成長を促したりすることは、ゲシュテルにとっての単なるエサであり、それが問題ではない。
ゲシュテルの活動そのものが生成そのもの。生命活動そのものだ。
もちろん自然の活動も目的も用立てもなり生成そのものだ。


この2つは同じだ。同じ材料、同じ物質で出来ている。
もちろん私の身体も同じだ。


私は自然であり、そしてゲシュテルである。


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2012年3月19日月曜日

ハイデガーの技術論2

ハイデガーの「技術への問い」は、2009年に関口浩 氏の新訳が出ていたのでそれを取り寄せて読んだ。(技術への問い  平凡社)


こんなに真剣に本を読んだのは久しぶりだ。思想の本は体力的にキツイ。関節がギリギリと音をたてるくらい読みこまないと、自分のものにならない。






技術は開蔵のひとつのしかたである。
と何度も書かれている。さて、開蔵とはなにか?
それは


<こちらへと-前へと-もたらすこと> [Her-vor-bringen]
なのであり、そしてそれは
ポイエーシス
なのである。
ポイエーシスとは、創造、または、混沌から秩序を生み出すこと というような意味だ。


現代技術をくまなく支配している開蔵は、いまやしかし、ポイエーシスの意味で〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉としての働きを展開することはない。現代技術のうちに存する開蔵は一種の挑発[Herausfordern]である。この挑発は、エネルギーを、つまりエネルギーそのものとして掘り出され貯蔵されうるようなものを引き渡せと要求[Ansinnen(無理難題)]を自然にせまる。

現代の技術そして産業、つまり私たち現代文明は、自然からの強奪によってなりたっている。いまさら説明するまでもない。強奪しすぎたなと思えば、「生態系」を「管理」するというふうに方向転換する。


われわれはいま、それ自体を開蔵するものを用象として用立てるように人間を収集するあの挑発しつつ呼びかけ、要求するものをこう名づける。―― 集-立[Ge-stell]と。


現代の技術の開蔵するやりかた、自然を用具として強奪すること-それがゲシュテル(ここでは集-立と訳されている)と定義される。


現代技術の本質は集-立にもとづいている。だから、現代技術は精密な自然科学を利用せざるをえない。このことによって、現代技術とは自然科学を応用したものであるという、虚偽の見かけが生じてくる。
科学の応用は、現代技術の本質ではない。ゲシュテルこそが、その本質なのである。




さて、強奪され、管理されるのは自然だけではない。人間もその対象である。
そのように挑発された者として、人間は、集-立の本質領域に立っている。人間は[まず人間であって、そのあとに]ようやく追加的に集-立との関係を受け入れることができるというのではまったくない。したがって、われわれはどのようにして技術の本質との関係に達するべきかという問いは、この形式ではつねに遅すぎるのである。
人間はゲシュテル(集-立)に完全にビルトインされていて、それを問うことすらできない、ということだ。


われわれは、開蔵するようにとまず第一に人間を導くあの収集しつつの派遣を命運[Geschick]と名づける。
 命運はけっして抗しがたい力としての宿命[Verhängnis]ではない。というのは、命運の領域に属し[gehörnen]、そのことによって隷属するもの[Höriger]ではなく、傾聴するもの[Hörender]になるならば、その場合にこそ人間ははじめて自由になるからである。


「傾聴する」ということにかなりの期待が込められている。
ところでいきなりここで自由という言葉が登場してびっくりするのだが、


自由は、空開しつつ伏蔵するものであり、その空け開け[Lichtung]のうちにおいてあのヴェール[Schleier]が翻る。
自由とは何かが隠されているのを発見する途上にある、という状態のようだ。そのような状態を物事の真実をチラチラみせているヴェールに例えている。
また、自由のことをこのようにも言う。
真理の生起[Geschehnis]なのである。
真理という言葉も説明なしに出てきて驚くが、一応先に進もう。




この命運は、われわれを閉じ込めて、息苦しくも強制的に、技術を盲目的に促進させたり、あるいは同じことだが、絶望的に技術に反抗させたり、技術を悪魔の所業だとして呪詛させたりは、けっしてしない。逆である。われわれが自分自身を技術の本質にたいしてことさら開くなら、思いがけず、自由にする呼びかけに自分たちが呼びかけられ、要求されていることに気づくだろう。


ハイデガーは技術を肯定も否定もしない。それどころか、自分たちを技術の本質にたいして開くことを薦める。

開蔵の命運は--(中略)--危険[Gefahr]なのである。
なぜ危険なのかというと


人間は今日、じつのところ[in Wahrheit]は、まさに自分自身、すなわち自分の本質にはもはやどこにおいてもけっして出会えないのである。人間はあまりにも決定的に集-立による挑発にしたがっているので、集-立が彼に呼びかけている要求[Anspruch]であるということを認めることができず、自分自身がよびかけられ、要求された者であることを見落としている。


人間が現代技術を作ったのではない。ゲシュテル[集-立]がそれを作っており、人間もゲシュテルによって用立てられてる。そういう構造になっている。だから、人間は自分自身の本質に出会うことがない。これこそが、人間存在の危機だ、というわけだ。




 ハイデガーは突然、ヘンダーリンの言葉の引用する。
 「しかし、危険のあるところ、救うものもまた育つ」


 「救う」とは、本質のうちに取り戻すこと、そのようにして本質をはじめてその本来の輝きにもたらすことである。
技術の本質は、救うものの成長をそれ自体に蔵しているにちがいない。
ここにおいて、はじめて希望的なことが語られ始める。


技術の本質は、ある高い意味で、両義的なものである。そのような両義性は、あらゆる開蔵の、すなわち真理の秘密へと指図する。
第一に、集-立は用立てることが荒れ狂うように挑発する。 --(中略)--そのようにして真理の本質への関連を根底から危うくする。
第二に、集-立はそれ自体のほうから、叶えるものとして、それ自体の固有性を出来(しゅったい)させる。叶えるものは、真理の本質を保護する[Wahrnis]ために必要とされるものである、という点において人間を存続させる--(中略)--このようにして救うものの起ち現れが現出するのである。


ゲシュテル(集-立)は、 人間を用立てのために利用するだけではない。真理の本質を保つために人間を存続させる、というである。
わたしの解釈だが、ここでいう真理とは、人間が存在に目覚めていること、という意味だと思う。
技術の発展が、存在の深い深い目覚めを準備する、というわけだ。




ハイデガーはもうひとつヘンダーリンの言葉を引用する。
「・・・人間はこの大地に詩人的に住む」
なぜなら、開蔵はポイエーシス( 創造、または、混沌から秩序を生み出すこと)であり、それはポエジー(詩)に通じるからだ。


技術の本質は、ポイエーシスであり、それは芸術という領域で生じる。
だから、芸術は芸術内で閉じていてはならず、技術の本質に対して開かれていなければならない。


われわれが技術においてその本質を発揮しつづけているものをたんなる技術を前にして経験できず、芸術においてその本質を発揮しつづけているものをたんなる美学を前にしてもはや見守られない
技術だけ見ていては技術の本質はわからない。芸術だけ見ていては芸術の本質はわからない。という。


われわれが危険に近づけば近づくほど、それだけ救うものへの道は明るく光りはじめ、それだけいっそうわれわれはよく問うようになる。


ハイデガーは、現代技術に哲学的な期待をかけているようだ。存在の目覚めに対しての期待を。



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さて考えてみよう。


開蔵とは、<こちらへと-前へと-もたらすこと> つまり存在の意味をわからせるものだ。




古代ギリシアでは、開蔵するものは1つしかなかった。それは芸術だった。


現代においては、技術も開蔵のひとつだ。


しかし技術は本来的でないやり方で開蔵している。用立てるという仕方で自然や人間を搾取しているのである。これがゲシュテルだ。


ところがゲシュテルは両義的で、一面では人間や自然を強奪するが、もう一つは「救い」を用意する。もちろんそれもゲシュテルの側の要求でそうなっているのであって、そのことのために人間が利用されるということには変わりない。ハイデガーは人間が主体的に何かをすることには期待していない。


人間は何をすれば良いかというとハイデガーは「傾聴する」ことを薦められる。
何もせずに、目を見開き、耳で聞いて、ゲシュテルをよく見ることだ。


もちろんここにおいて、ゲシュテルを自律的な構造であるとみており、人間はその一要素であると考えられている。
私はゲシュテルは生物であり、身体に似ているものとして考えてみると良いと思っている。




さて、もっとも注目すべき記述は、技術の本質は芸術の本質と同じ、ということだ。


両方とも、真理の、つまり存在の開蔵だというのだ。
もちろん、これも、個々の人間の努力によるのではなく、ゲシュテルのほうからの要請である。

しかし、何もせずにただ見て(傾聴して)いれば良いということではない。実は、それだけでも結構大変なことだ。現代技術の意義と芸術の意義と同じであるので、「傾聴」するためには芸術的・詩的なものの感受性を育てなければならない。これは、忙しい日常を送っている現代人にとってラクなことではない。
そしてゲシュテルを見るということは、つまりゲシュテルを認識するということは、私がいう「社会的身体の醸成」に他ならないと思う。



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2012年3月13日火曜日

ハイデガーの技術論1

ハイデガーの「技術論」を読んでいる。
昭和40年に訳本が出た、ハイデガー選集 小島威彦/アルブルスター 共訳である。


非常に難解だ。
しかし、驚くべきことが書いてある。
現代の技術(自然や人間を役に立つように挑発する、現代の科学技術全般)の本性が、芸術の領域であると結論つけている。


「・・・私たちはおののき見入る。何の前にか。一つの可能性を前にしてである。すなわち、全面的に技術の狂奔が腰を落ち付け、その果ていつ日かあらゆる技術的なるものを通して徹底的に、技術の本性(ヴェーゼン)が真理の出現のうちに成存(ヴェーゼン)するにいたるであろう可能性の前に。
技術の本性はなんら技術的なことがらではない。それゆえ、技術への本質的な思念も、また技術との決定的な対決も、一方では技術の本性と類似しながらしかも他方では根本的に相違している領域のなかで、生起しなければならない。
かかる領域が芸術なのである。・・・・」


技術の本性は、技術的なことがらではなく、芸術的なことがらであるとハイデガーは言う。
もちろん、ある種の技術が優れている様を、芸術的と比喩的にいっているのではない。


技術の本性が、芸術領域なのである。




現代の地球全体を覆っている資本主義的技術文明がの本性が、無力に見える芸術の領域と同じであるといっているのである。


さて、ハイデガーの技術論は、もっと読み込みが必要だ。
次回以降、さらに詳細を書いていこう。






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2012年3月5日月曜日

肉体=都市=自然

面白いサイトを見つけた。
「早送りで見た空」7選 という、WIRED 日本語版のサイトである。


どれも素晴らしい動画作品だ。
地球が回転して空が動き、星々が動く。そうした動きは微速度撮影でしかとらえられない。最近はよい機材に安価にアクセスできるようになったため、アマチュアを含むたくさんの写真家が微速度撮影に挑戦するようになった。
・・・記事にこのように書いてあるように、これらの慧眼は、テクノロジーの進歩によってもたらされたものであるということは強調しておこう。微速度撮影によって我々は、その場で見ていることよりもさらに別の意味を掬い取れるようになった。


そして私が注目するのは7つ目の動画。


ドミミク・ブードローの作品 The City Limits である。


都市の夜の活動と、自然の活動を平行して、同じものと捉えている。


それは、都市が生き物であり、自然と同じものとして捉えることができることを、良く表している。。
非常に示唆的な動画である。


肉体の感覚的リアリティー= 都市の感覚的リアリティー=自然の感覚的リアリティー


これがわたしの目指すところである。





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2012年2月29日水曜日

社会は一つの怪物であり

社会は一つの怪物であり、僕たちはミクロの決死圏のようにその怪物の中をうごめいているわけだ。
時代を捉える方法として、思想・哲学がある。わたしも良く読むが、思想は人間の心の中のことを主に問題にしている。
いくら読んでみても、それより大きな認識にはなれない。
リアルな現実に対応していないからだ。
国道の横の歩道を、クルマの排気ガスをかぎながら歩くほうが、オイディプスコンプレックスについて語るよりもリアリティがある。
社会とは、政治によって動かされているわけでもなく、国民や市民によって動かされているわけでもない。確かに政治は社会の非常に大きな要因だが、それは撹乱するに過ぎない。
社会が政治の思うがままに動くかどうかは、社会が決めることだ。
したがって社会は一つの生命のように自律的なのである。
さて、ではこの社会生命の「感覚」とは、どのようなものなのだろうか。
社会の活動がすべて反映される場所は、どのような空間なのだろうか。・・・







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2012年2月27日月曜日

私たちは社会という生き物の細胞であり

スーパーに買い物にいったり、DVD屋でレンタルをしたり、インターネットをしたり、飲み会にいったり、会社で仕事をしたり・・・・


それぞれの人には、別々の思惑があることだろうが、それぞれは社会にとって活動の最小単位だ。




いうなれば私たちは社会という生き物の細胞であり、私たちの社会的活動はその中での細胞の働きである。
スーパーで買い物をすることは、赤血球が酸素を取り込んだりすることに相当するようなことだ。
メールを出すことは神経細胞の発火だ。



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2012年2月23日木曜日

埋立処分場は膀胱です

東京湾にある、埋立処分場です。
正しくは、中央防波堤埋立処分場と言います。

東京湾にあるこの人口の島

拡大
東京23区のゴミの最終処分場です。


現在は、ゴミは各区の清掃工場で分別され、高温で焼かれ
灰だけが最終処分場に運ばれます。


一昔前はポリ袋に入ったゴミのまま埋められていて、おびただしいカラスが飛び回っていましたが
今はそんなことはありません。
整然としたものです。


行ったわけではないですが、サイトやブログで見学の記録をつけてくれていて、様子は良くわかります。


このサイトなどは良く書いてある。
http://www.terayasu.sakura.ne.jp/HPdata-ta6/home1.htm




さて、私たちの家庭から出たゴミは近所のゴミ捨て場から、区の清掃工場へ集められ、ダイオキシンの発生しないような管理された焼却炉で高温で焼かれて、その灰のみが、この最終処分場に運ばれてきます。




言ってみれば、清掃工場はリンパ節か腎臓のような役割をしています。
そして、埋立処分場は膀胱です。


私たちの膀胱は、外に向かって尿を排出しますが、埋立処分場はそとに排出できません。
ずーっと溜まりっぱなしです。


排泄物をいつまでも体内に溜めておく生き物。。。。それが今現在の都市なのです。





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2012年2月16日木曜日

私は社会という生き物の一つの細胞であり・・・

都市というものは、いや都会や田舎にかかわらず人間の生息する場所とは、
大地にピッタリと張り付き、地下資源を吸収し、
農地のシステムをつかって食料を補給し、
交通機関をつかって物資や人間を移動し
さまざまな通信手段とマネーをつかって情報をやりとりする。


都市は生き物だ。器官が次々と立ち上がってネットワークをつくっていく奇怪な生き物だ。




そんなことを考えながら
仕事を終えて電車で帰ってくる。
住宅街を通って我が家へ帰ってくる。


電車を使っての移動・・・


電車は、この生き物の輸送手段であり、いってみれば血管だ。
さながらそれに乗っている私は血球のようなものか。
今日も仕事場にいって別の組織に栄養を与えてきた。


夜、飛行機で都市の上を飛んだことのある人ならわかるだろう。
さながらそれらが、大地に張りついている発光性の生き物のようで、
道路を通るクルマのライトが血管をとおる血球のように思えたであろう。


地面の上を移動しながら、そのような感覚に思いをかけていた。
これがたぶん社会的身体感覚というものだろう。



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2012年2月11日土曜日

産業と身体の類似

社会の産業に関する本と、人体図鑑を見比べて読んでいる。

そこには、似ているところが多い。

送電施設は、神経系やリンパ系と類似している。





共通概念は、オートポイエーシスだ。


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2012年2月5日日曜日

原油と血液

現代の産業構造について調べていると、石油が最重要物資であることがわかる。
最近は脱石油の動きがあるが、いまだに1次エネルギーの半分を占め、
あらゆる産業の基礎になっている。

現代社会は、石油の川の中を流れているといっても過言ではない。

石油製品(ガソリン、軽油、重油、ナフサ、コールタールなど)は、原油を精製することで
つくられる。

現代社会を身体に例えるなら、石油は血液のようなものだ。
そして、原油は造血幹細胞とも言えるだろう。

造血幹細胞とは、赤血球、白血球、リンパ球など、血液の細胞の元のなる細胞のことで骨髄でつくられる。

となると石油コンビナートとは、現代社会の骨髄の役割を果たす。



石油はこうして作られる↓
http://www.jpca.or.jp/junior/01howto/index.htm

血液の話↓
http://ketsueki.doremi3.com/2005/12/post_101.html




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2012年1月29日日曜日

Talk

昨日は個展最終日。トークでした。
聴いていただいた方々、ありがとうございました。



熱弁を奮う私。
話の内容は、後ほど掲載します。




終了後、皆でレモンのピンを抜きました。

ご協力いただき、ありがとうございました。






路上で絞ったレモン(Lemon Squeezed on the road)


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2012年1月23日月曜日

個展初日

いよいよ始まりました。

入り口隣の壁一面を占める2.5m  x3m の画面


詳細はこうなっている。レモンの輪切り

背景の画像は、現代を支えるインフラ施設の航空写真画像



私がTHE LEMONと名付けた、行為の指示のポスター






今月28日まで、28日には4時からトークがあります。



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2012年1月19日木曜日

PUT A STONE

今度の個展では、わたしがTHE LEMON という社会インフラに関わる
短い言葉で言い表される行為を
ポスターにして提示します。


A0の大きなものは壁に貼ります。
その他にA4版のミニチュアも用意し
購入できるようにしておこうと思います。


個展初日まであと4日


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2011年12月30日金曜日

千葉コンビナート地帯に行ってきました

すでに書いてきたように私は、自然-身体-精神-社会 をつなぐことを目指しているのだが
最近は身体と自然をダイレクトにつなごうとすることに無理を感じている。
なぜなら、私たちは、巨大な産業に取り囲まれており、
それがなければ実質的に生活することができなくなっているからだ。
決してダイレクトに自然に接しているわけではない。
だから、 自然-社会-身体  
というふうに順番を入れ替えなければ、ならないわけだ。


つまり、社会を自分の身体として感覚的に理解する、ということが
必要になってきている。
これは大きな課題だ。


そのような努力を続けていたある日、Google mapを見ていて気がついた。
関東の地図を見ていると、東京湾は人工的な埋め立てでできていることが良くわかる。
その中で、私が注目した箇所がある。
千葉にあるコンビナート群だ。






木更津から千葉市まで、延々20km以上にわたって、石油コンビナートが続いている。


石油精製所は多数。3つの火力発電所、2つの大きな製鉄所がある。
産業の主な素材である、粗鋼、精製石油、プラスチックの原料であるペレット、などなど、がここで作られている。
日本の産業の原料の多くがここで作られているのだろう。


「産業の身体化」を考えている私としては、是非、見に行きたい所です。


というわけでクルマで見に行ってきました。


実際言ってみて、驚いたのですが、それらコンビナートは、地上からは殆ど見ることができないのです。


国道16号線が、コンビナートに沿って走っています。
この16号とコンビナートの間には、樹木が植えられており、中の様子を見ることはできません。
もちろん中は、企業の私有地ですから、関係者以外は立ち入り禁止です。
東京湾に突き出した広大な工場の土地は、見ることはできないのです。
驚くべきことに、これだけの基幹産業施設が実質的に不可視であるわけです。

Google MapやGoogle Earthのほうが全体が見えて興味深いし、中の様子も良くわかります。



左にコンビナート工場群があります。
右の森と送電線の向こうに国道16号線があります
。ここは一種の緩衝地帯です。


国道16号線から見える煙突



樹木の間から見ることができた、
石油精製施設のごく一部
16号の枝道から入って見えた工場施設の一部


3時間ほどクルマでコンビナートの前の道をうろついて、帰って来ました。
コンビナートを間近に一望できることを期待していたのですが、それは徒労に終わり、
逆にこれまでと同様、「社会インフラは目に触れないようにされている」と確認してきたのでした。

しかし、家に戻って考えてみると、自分の身体が大きくなっているような感じがします。

「社会システムを感覚で捉えること」 「産業の身体化」は、自然を感じることにくらべて
決して気持ちの良いものではありませんが、
大きなものに触れて、すこし産業システムを実感できたようだ。

肯定も否定もすることなく実感すること。
わたしはそういう「社会的身体」を作りつつあるらしい。



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2011年12月24日土曜日

社会的身体

そもそもこのメッセージサイトのテーマは
自然-身体-精神-社会 をつなぐということだが
現実には自然と身体の間には、どうしても社会が挟まってしまっている。
自然と身体が直接つながっているというのは
現状を無視した理想的な状態だ。


私たちは、食べるもの、着る物、飲む物、すべて
産業と技術から提供されている。


私たちはあらゆる意味で社会の「中に」生きている。
その事実を無視しては、何事も進まないだろう。


だから社会と身体を直接つなぐこと、つまり
「社会的な身体」を生成することが必要だ。


たしかに人間は社会的な生き物であり、
誰であろうとも社会とかかわりを持って生きている。
しかしここでいう「社会的な身体」ということはそういうことではない。


道路、鉄道、石油コンビナートなど、およそ非人間的なものと
肉体的あるいは感覚的な関わりを持つということである。


一つは、産業や物流の構造や仕組みを良く知ることだろう。


そして産業や物流のネットワークを通じて自然との関わりを
見つめるということだ。


僕たちが胃や腸の位置を知るように、発電所やゴミ処理場などについて
知っているということだ。


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2011年12月17日土曜日

個展のお知らせ

個展をします。




THE LEMONS
2012年 1月23日-28日 
11:30-19:00 (-17:30 on 28th)


アーティストトーク 1月28日(土)  16:00-




ギャラリー現
東京都中央区銀座1-10-19 銀座一ビル3F
tel 03-3561-6869  www.jpartmuseum.com/g_gen/




梶井基次郎は、丸善で本を積み上げその上に檸檬を置き、それを爆弾と称した。そして「得体の知れぬ不吉な塊」を吹き飛ばした。基次郎の時代から80年あまりが経過したが「得体の知れぬ不吉な塊」は、ますます広く拡散している。それはグローバル資本主義経済であり、姿の見えない権力であり、世界全体を覆う人工物である。そして私はLEMONを設置する
 






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2011年12月5日月曜日

社会システムを如何にせん

現代はあまりにも複雑になりすぎたし、
現代社会で生活していくためには、非常にたくさんのことを学ばなければならない。
そういう生活の嘘っぽさを常々感じていたので、
自然-身体-精神-社会を一貫した線でつなぐ ということを始めたのだが、
どうしても超えなければならない壁が立ちはだかった。

社会システムだ。

僕たちは社会システムの中で生活している。
水さえも川から直接汲んで、直接川に返すのではなく、浄水場と水再生場という
2つのテクノロジーを経由しなければならない。
電気、ガソリン、ガス、食品、衣類、その他、その他・・・、
どこでどうやってで作られて運ばれてくるのかさっぱりわからない。

どうも、わけのわからないところに宙吊りにされているような気がしてならない。

そして、恐ろしいことにそういうことを問わなくても生きていけるのだ。

どうもすこしづつ解きほぐしていかなければならないようだ。
発電や送電の仕組み、金融の仕組み、情報ネットワークの仕組み、ありとあらゆる
社会システムの仕組みを。

社会システムは生命体のようなものだ。
つまり身体に例えられる。人体は、骨格系、筋肉系、循環系、神経系、リンパ系、消化系の
各層になっている。
それと同様に、社会システムにも重化学から情報産業まで、いろいろな系がある。

そしてたぶん、それらを一貫して理解しうるキーがあるはずだ。

身体では呼吸が自律神経を整える手段であるし、丹田という身体の中心感覚もある。

この社会システムという化け物を、手なずけるコツのようなものがあるのではないだろうか。
身体感覚と同じように、「社会システム感覚」を身に着けることができるかもしれない。

そして社会システムを、自分の身体に取り込んでいきたい。
そして、それをやった上で、再び自然に向きあうのだ。

2011年12月2日金曜日

Bioscapes

2011年のOlympus Bioscapesは、ビデオが多い。
私としては4th winnerのゾウリムシが秀逸と思う。
周囲をとりまく繊毛の細かな動き
収縮胞の動きなど
生きている迫力を感じる。



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2011年11月14日月曜日

檸檬テロ

梶井基次郎は、小説「檸檬」において、丸善の本を積み上げてその上に檸檬を置き、それを爆弾と称した。
この爆弾は「得体の知れぬ不吉な塊」を吹き飛ばすことに成功した。


基次郎の行為は、物理的には本の山の上の檸檬にすぎない。
だが、檸檬は小説となることによって人々の意識内部にて作動し始めた。
文化のメディアを纏うことによって動き始めたのだ。


さて今や我々は社会的システムに取り囲まれている。基次郎の時代とは比べ物にならぬほど何重もの層になっている。
このシステムの第1の特徴は、自然と人間を隔てる社会的なインフラである。
住宅、道路、上下水道、電力供給網、通信電波網、生産、流通、金融…。
我々は、社会という体内の中にいて、その中でのみ生きていることができる。
システムの第2の特徴は、社会の内部での支配であり、主なものは、制度と記号である。
記号の最たるものはカネであり、私たちはそのために生き、そのために死ぬといっても過言ではない。

それが我々の棲息する現場であり、我々自身の状況だ。
これらのものがどれほど我々を実在というものから遠ざけているだろうか。
そして、そのことをいかに巧妙に隠蔽しているだろうか。

「得体の知れぬ不吉な塊」は、形を変えて再生産されている。
これらの勢力は浸透力が抜群で、圧倒的であり、一見反撃の余地はないかのように思える。


しかしそうではない。社会システムをずらし、折り曲げ、別の物語を生成する場所をつくることはできる。
我々の目の前には、かけがえのない場所と現実の物体があり、私の肉体はここにある。
私は、新しい物語が息づく場所を作りたいと思う。
それは芸術という分野のみならず、我々の精神生活においても機能するような仕掛けであり、
「生きていくため」に必要な技術である。


 
・・・---・・・    ( S O S )
 
   

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