2011年3月31日木曜日

「男性」であることを考え直す

今回の未曾有の大災害において、私たちの文明の脆弱さを思わないではいられません。
なぜこんな社会が作られたのだろう。 ひとつのヒントを見つけました。

「深層心理のことが面白いほどわかる本」 書名から受ける印象ほど、内容の薄い本ではありません。

女性は、母親の圧倒的影響力で自然に女性になるが、男性は母親から離れて母親を対象化し 意図的に男性に作られなければならない。 だから男性は心理的に脆弱である。

「女性は弱く、男性はそれを守る」という「男らしさ」のアイデンティティは 実は自然なものではなく作られたものではなかったか、ということです。

男は、男らしさを絶えず維持するために、常に何かを成し遂げ続けなければならないという 宿命を負っており、それは現代文明に投影され、産業革命、生産増加、はては 自然破壊に結びついている。

男性のドメスティックバイオレンスが多いのも、男性の心理的脆弱さの表れではないか、ということです。

今日、多様なコミュニケーション能力が望まれる社会において、寡黙なハンターまたは合戦の勇者であった男性は居場所を失い、適応しにくくなっています。

服装にしても、華やかな女性とは裏腹に男性は相変わらずスーツを着込んでいます。 弱い心理をヒタ隠す鎧のように。

男性優位社会は封建時代からあるもので、いうなれば近代は封建時代に準備されたのではないか?

近代は、封建時代の男性が機械というオモチャを手にして走り始めた男性文明なのではないか?
あの原子力発電所も、未知の火に憧憬する男性化の一つなのではないだろうか。
原子力を手なずけようとする男性的な支配欲に、 エネルギー問題という打算がくっついた代物ではないか?

僕たちは、「男性」であることを考え直す時かもしれない。

にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

2011年3月27日日曜日

ぐじゃぐじゃの



米糊に雑誌の紙を浸して、グジャグジャとスケッチブックになすりつけた。


津波の跡の街の映像の影響だろうか・・・




にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ にほんブログ村

2011年3月21日月曜日

辻晉堂 展


神奈川県立近代美術館で開かれている
辻晉堂展

に行ってきました。

中学生のころから好きだった作家ですが
なかなか実物をお目にかかるチャンスがなくて
今回生誕100年だそうで、まとまって作品を見るチャンス、
見逃すまいといってきました。

辻晉堂といえば、自由奔放な造形の陶彫の作品で知られています。
下記のサイトの「
陶彫」のページ - 1956「顔(寒拾)a」 1958「馬と人」「寒山a」「拾得a」など
http://www.shindo-tsuji.net/index.php?lang=jp&page=work

これらも面白かったですが、
私が特に興味をそそられたのはその後、
60-65年に盛んにつくられた 壁みたいな作品です。

突起物のような造形がほとんどなくなり、
壁のようになってしまいました。
1枚ではなくて大抵3層になっており、
いくつか穴があいています。
表面には引っかいたような跡、突起物、微妙な凹凸、などがあります。

神奈川県立近美のサイトでは該当する作品を紹介していませんが
以下のサイトの「陶彫」のページ----1961「拾得d」「颱風の四角な眼とムカデ」 1962「東山にて」 などが
そのころの作品に当たります。
http://www.shindo-tsuji.net/index.php?lang=jp&page=work


この作風の変化は何なのか?

私は辻が禅僧であることに思い至らずにいられません。
造形の面白さの探求を終えた辻は、自身の内面を深く掘り下げていったのでしょう。
3層になっている壁は、意識の深層を表しているのかもしれません。
ところどころの穴はかいま見える無意識の層でしょうか。

何か深いものを掴み取ろうとしてる感じがしました。
辻自身の文章では「空間の深まりを表はさうと考へたのであった」と書いてあり、
解説文もそのようなものでしたが、
作者の深い意識の底を、いえ、もっと普遍的な何かが見えそうな気がして
板のような作品ひとつひとつの前で、じーーっと見入っていました。
マーク・ロスコの絵画のように、深い瞑想を誘うのです。
もっと観客を包み込むように大きかったら
その効果が十分に発揮できたでしょうに。

こんな風にじーーと見ているひとも私しかいませんで、
もともと観客は数えるほどしかいませんでしたし
私の様子を見て会場の係りの人も不思議に思ったかもしれません。

辻晉堂は、極めて寡黙な作家だし、 自分のやっていることを
言葉にすることをほとんどしない人だったのでしょうが、
このころの作品の意味を自分自身で自覚的に言葉にし、
またそれを自覚して作品をつくっていたら非常に精神的に深い世界が
開けたのではないか・・・とも思います。

私は惜しい気がするのですが、
しかし、彼はそんなモダニストみたいなことは無関心だったのでしょう。
あるいはこれ以上、つっこんでも意味がないと思ったのかもしれません。
分かりませんけれども。
いや、私ではわからないくらいのレベルであって欲しいと思います。

にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

2011年3月16日水曜日

溶岩でひっかく




大地のエネルギーの破壊的な恐ろしさ。


あまりにも無力な人間のつくったシステム。


溶岩で、ダンボールを引っかいてみた。


これをやってどうなるわけでもないし


意味もないし、美しくもない。


しかしこんなことでもせずにはいられない。




2011年3月13日日曜日

恐ろしい・・・

恐ろしいことだ。

東京でも、船の上にいるように揺れた。

鉄道が止まったので、職場から10キロ歩いて帰宅した。

家族は無事だったが、子供がショックで体調を崩した。

被災地では、被害の実態が明らかになるにつれて大変な事態が明らかになってきた。

恐ろしい。本当に恐ろしい。心の底から感じる。

前にも書いたが、地殻は厚いところで10キロメートル程度の厚みしかない。
地球をリンゴにたとえると、リンゴの皮くらいの厚みしかない。

牛乳を温めると表面に薄皮ができるが、そんな感じだ。
私たちが暮らしている「不動の大地」は、この薄皮の上にある。

今回は、その薄皮がホンの少しズレただけである。
それなのにこの大災害だ。

私たちは、なんと無力なのだ。


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

2011年3月10日木曜日

主客未分化

前回は、感覚によって主客の分離を超越し
すべてを統一的に捉える試みについて話をした。

このことは、
主客に分離される以前の経験を説いた、西田幾多郎の「純粋経験」
また、すべてのものは同じものだと説いた荘子の「斉物論」に
よく似ている。

私の芸術は、それらのことを感覚の観点で実践しようとすることである。
だから私は直接的な経験、直接的な感覚を必要とする。

筆を使って何かを描くという間接的なことは、おそらくもうできないだろうし
あらかじめ絵の具として作られた工業製品を用いることもしないだろう。

筆と絵の具で描くことは、決定的に何かから遠ざかっていると
いわざるを得ない。


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

2011年3月7日月曜日

すべてのものには精神があるのか?

何かを感じ取るということは、その対象がもともと持っている精神を感じ取ることなのだろうか?


例えば石に触れてゴツゴツした感触を感じ取る。
そこにゴツゴツした感触が発生するということは、
もともとそこにゴツゴツした感触の基があって
私がそれを見出しただけなのではないだろうか?



すべてのものには、そのような感覚の基となるものが仕組まれていて
適切な感覚器が適切にそれを掘り出してくる。


無機的なただの物体であっても、そこには精神的な何かがあって
私たちは感覚によってその精神を感じ取る。



もちろん、世界は無機的なカオスであり、
各々の生物の感覚器や生存戦略に応じて
感覚世界をつくっているのだと考えることも可能だ。
世界は無意味なカオスであって、
それに意味を与えるのが、私たち生物の感覚である、というわけである。
したがって、生物種の数だけ別々の世界がある。
。。。と考えることもできる。


しかしそれは、あらゆるものに感覚の基が詰まっていて
各々の生物は、感覚器にしたがってそれを掘り出してくる
という考えを否定するものではない。

感覚器が感覚を生み出すと考えるのではなく、
絶えず生み出される感覚を中心に据えて考えると
世界の連続性がうまく説明できるような気がする。

「私」と、「石」を隔てているものは何なのか。
それは「ごつごつした感触」に他ならないではないか。
あるいは、この「ごつごつした感触」が、「私」と「石」を結び付けている。ともいえる。
極端に言えば、この「ごつごつした感触」がありさえすればよく、
「私」も「石」も必ずしも存在する必要は無い。

すべてのものに精神がある、と考えるのは、何かフィクションめいた浅はかな思い込みではないか?
一方、世界はカオスで、感覚器が世界を生み出すと考えるのも浅はかなことだ。
それらは、物体(対象)と人間(主体)があるという前提で成り立っている。

だから、感覚のみが発生しているのであって、主体(たとえば私)も、対象(例えば石)も
都合よく捏造されたものではあるまいか?

主体も対象も無いとすれば、世界は感覚の連続体なのであり、それらには分け隔てする境界がない。
「一切は同じ」という荘子の斉物論を感覚の観点から読み解くと、このようになるのかもしれない。


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

2011年3月2日水曜日

感覚は、作り出すのか?それとも、受け取るのか?



昨日の朝は、美しい青空だった。
気温も暖かく、本当に過ごしよい日だった。

近所の大きな公園に行った。
青空を飛行機が飛んでいた。飛行機雲が一直線に線を描いていた。
私は手を伸ばして、空に線を描いた。のではなくて、描く真似をした。

このような時、自然がぴったりと私に貼りついているように感じるものだ。
本当に足が大地から生え、手が空に届きそうな気がする。

この気持ちの良い伸び伸びした気分は、
私が単にそう感じているのではなくて、
どうしても、もともとそこに在ったものを私が感じ取っている、
と思わざるを得ない
・・・・ような気分になる。

私は、空や大地を、自分の身体のように感じたいと思っている。

大きな石の上に身を横たえた。
石は硬く、ごつごつしていた。この、「ごつごつした硬い感じ」は
私が勝手に感じているのではなくて、石に元々備わっている特性でもあるはず。
したがって、「ごつごつした硬い感じ」は、石と私の中間にあるように思える。
「ごつごつした硬い感じ」が石と私の出会いを決定的なものにする。
「ごつごつした硬い感じ」が、石と私の存在を定義する。

感覚は、何を起源とするものか?感覚はどこから発生するのか?

石の接触が私の触覚を刺激し、脳内で統合的解釈をつくりだす・・・・という単純なものではあるまい。

「ごつごつした硬い感じ」が、まさに世界を作り出す。現象学的に言えば、世界を開示する。
だから、どうしても「自分がつくりだす」よりは、「向こう側からやってくる」ような気がする。
僕らは何かを感じるごとに、世界を切り開いているのだ。

たぶん作り出している=解釈しているのではなく、受け取っている のでもない。
その場で発生し、その場で事件が起きている。その事件は、私と対象物が何物であるかを定義する。

どこから発生するのか?わからない。とにかくどんどん出てくるのだ。
お茶と食塩


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

霊界 と クラウドコンピューティング

私は考えるのがだが、霊界のあり場所さえわかれば・・・わからないまでも、仮説くらい立てることができれば ぐっと現実味が増してくるというものだ。

ひとつの仮説として、クラウドコンピューティングをヒントにした霊界のモデルを試みてみようと思う。

なんのことやら分からぬという方々が圧倒的と思いますが、クラウドコンピューティングとは、何かということは、ご自分で検索して調べていただくとして、要は端末となるPCは通信機にすぎず、ハードウェアやOSやアプリケーションソフトは、どこかのサーバーにあるものを借りるというシステムです。そのサーバーがどこにあるかは、ユーザは分かりません。分からなくてもいいというのがこのシステムの自由なところです。実際は、処理はいくつかまたはたくさんのサーバーに分散して行なわれており、データ内容もどこにしまってあるのか、ユーザにはわからないのです。まるで雲の中から情報や処理サービスが降ってくるようなので、クラウドと呼ばれています。

さて、私は考えるのですが、個人の経験や体験は、個人だけのものなのか、つまり、個人の脳内だけで行なわれているものなのか。

実はさまざまな人の脳がサーバーの役目をしていて、記憶や経験、感覚は個人以外の別の人の脳でも処理されているのではないか?

つまり、私が今経験している事実は、何百、何千、何万という他の人の脳で深層心理として処理され記録され、バックアップをとられているかもしれない。

人間は一人一人違っていて、隔絶していて、孤独なようでいて、実はそうではなく、人間の考えや思考、経験、生活などはほとんど類型的であり、その差異は、非常に少ない情報量で区別がつくものではないのか?

私の意に反して、私の考えや思考や経験は私だけのものではなく、私に接する多くの人に共有されており、仮に私が死んだとしても、それらのバックアップを総合的に組み立てれば、田島鉄也がもう一人出来上がるのではないか?

例えばドラマなどで、兄が死んで落胆している弟に対し、「お兄さんは死んではいない。君の心の中で生き続けている」などといって慰めるセリフがあるが、それにはかなりのリアリティがあると思うのです。

すなわち、私の脳、または私という経験的事実は、実はPC端末にすぎず、たいしたメモリもCPUもアプリソフトも持っていない。通信、入力、ディスブレイをするだけのものであって、実体はクラウドの中に・・・数限りないサーバー(つまり数限りない他者)の中にあるのではなかろうか?

私は死んだとする、しかしそれは端末としての私が死んだに過ぎない。私のことを記憶している人々がいる。だから私は決して無にならない。その記憶している人々もすべて死んだとする。私が存在したという事実や伝承や、うわさが一切無くなって、はじめて私は死ぬことができる。

しかし、私の子供が、そのまた子供を設けていたとすれば、私の遺伝子は受け継がれているので、私は決して無になることはできない。

完全に死ぬ・無になることは極めて難しいことだ。

さて、霊界と呼ばれているものは、このようなある文化圏を共有する人々全体が構成するクラウドであって、実はそれは、私たちが想像する以上に豊穣で奥が深く、何層にも分かれていて、あたかも別のいくつもの世界があるかのようなものとして、現実に働いているのではないだろうか???

端末として機能している個人は、生前せっせと情報をクラウドに送り続け、バックアップをとり続けて、死んで端末がなくなったら、クラウドの中ではあたかもひとつの人格であるかのように機能するのではないか?

文化圏ひとつに対してひとつのクラウドがあって、クラウドの中で死者は生き続け、そしてある場合にはそれがまた端末として再生される(生まれ変わり)・・・・

この世に未練を残してきた故人は、ある性能の良い端末を選んで自分の姿を見せたりする(幽霊)・・・・・

さて、この説の最大の弱点は、端末とクラウドの通信手段です。個人との会話や姿の印象だけで、その人の人格や経験などがバックアップされるというのは、確かに根拠が薄い。

人間もわずかな電磁場を感じる能力があるというので(人の気配というものは、運動する人の発する微弱電磁波を他の人が皮膚で感じ取るということらしい)、視覚・聴覚以外の感覚伝達が行なわれている可能性はあるのではないか??



にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村