2012年3月31日土曜日

ハイデガーの技術論3

自然-身体-精神-社会 をつなぐことを目指す私にとって、ゲシュテルの解釈は非常に重要だ。
長い熟考の末、以下のように考えるようになった。


ゲシュテルと自然は、対立するものではなくて、互いに認め合い、補い合う、2つの巨大な生き物である。




自然とは、ゲシュテルの向こうに佇む静けさ である。



一般に、人間の技術文明は、自然に反するもの、と考えられている。
しかし、ゲシュテルが歴然と存在し、そして私たち人間がその中で生活し、完全にビルトインされている以上、ゲシュテルを否定的に考える必要はない。いや、そう考えるのは間違いだ。


ゲシュテルは生命であり、私たちはゲシュテルの中で生きている。
ゲシュテルは構造ニヒリズムではない。
ゲシュテルが科学技術の形態をしていたり、経済成長を促したりすることは、ゲシュテルにとっての単なるエサであり、それが問題ではない。
ゲシュテルの活動そのものが生成そのもの。生命活動そのものだ。
もちろん自然の活動も目的も用立てもなり生成そのものだ。


この2つは同じだ。同じ材料、同じ物質で出来ている。
もちろん私の身体も同じだ。


私は自然であり、そしてゲシュテルである。


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2012年3月19日月曜日

ハイデガーの技術論2

ハイデガーの「技術への問い」は、2009年に関口浩 氏の新訳が出ていたのでそれを取り寄せて読んだ。(技術への問い  平凡社)


こんなに真剣に本を読んだのは久しぶりだ。思想の本は体力的にキツイ。関節がギリギリと音をたてるくらい読みこまないと、自分のものにならない。






技術は開蔵のひとつのしかたである。
と何度も書かれている。さて、開蔵とはなにか?
それは


<こちらへと-前へと-もたらすこと> [Her-vor-bringen]
なのであり、そしてそれは
ポイエーシス
なのである。
ポイエーシスとは、創造、または、混沌から秩序を生み出すこと というような意味だ。


現代技術をくまなく支配している開蔵は、いまやしかし、ポイエーシスの意味で〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉としての働きを展開することはない。現代技術のうちに存する開蔵は一種の挑発[Herausfordern]である。この挑発は、エネルギーを、つまりエネルギーそのものとして掘り出され貯蔵されうるようなものを引き渡せと要求[Ansinnen(無理難題)]を自然にせまる。

現代の技術そして産業、つまり私たち現代文明は、自然からの強奪によってなりたっている。いまさら説明するまでもない。強奪しすぎたなと思えば、「生態系」を「管理」するというふうに方向転換する。


われわれはいま、それ自体を開蔵するものを用象として用立てるように人間を収集するあの挑発しつつ呼びかけ、要求するものをこう名づける。―― 集-立[Ge-stell]と。


現代の技術の開蔵するやりかた、自然を用具として強奪すること-それがゲシュテル(ここでは集-立と訳されている)と定義される。


現代技術の本質は集-立にもとづいている。だから、現代技術は精密な自然科学を利用せざるをえない。このことによって、現代技術とは自然科学を応用したものであるという、虚偽の見かけが生じてくる。
科学の応用は、現代技術の本質ではない。ゲシュテルこそが、その本質なのである。




さて、強奪され、管理されるのは自然だけではない。人間もその対象である。
そのように挑発された者として、人間は、集-立の本質領域に立っている。人間は[まず人間であって、そのあとに]ようやく追加的に集-立との関係を受け入れることができるというのではまったくない。したがって、われわれはどのようにして技術の本質との関係に達するべきかという問いは、この形式ではつねに遅すぎるのである。
人間はゲシュテル(集-立)に完全にビルトインされていて、それを問うことすらできない、ということだ。


われわれは、開蔵するようにとまず第一に人間を導くあの収集しつつの派遣を命運[Geschick]と名づける。
 命運はけっして抗しがたい力としての宿命[Verhängnis]ではない。というのは、命運の領域に属し[gehörnen]、そのことによって隷属するもの[Höriger]ではなく、傾聴するもの[Hörender]になるならば、その場合にこそ人間ははじめて自由になるからである。


「傾聴する」ということにかなりの期待が込められている。
ところでいきなりここで自由という言葉が登場してびっくりするのだが、


自由は、空開しつつ伏蔵するものであり、その空け開け[Lichtung]のうちにおいてあのヴェール[Schleier]が翻る。
自由とは何かが隠されているのを発見する途上にある、という状態のようだ。そのような状態を物事の真実をチラチラみせているヴェールに例えている。
また、自由のことをこのようにも言う。
真理の生起[Geschehnis]なのである。
真理という言葉も説明なしに出てきて驚くが、一応先に進もう。




この命運は、われわれを閉じ込めて、息苦しくも強制的に、技術を盲目的に促進させたり、あるいは同じことだが、絶望的に技術に反抗させたり、技術を悪魔の所業だとして呪詛させたりは、けっしてしない。逆である。われわれが自分自身を技術の本質にたいしてことさら開くなら、思いがけず、自由にする呼びかけに自分たちが呼びかけられ、要求されていることに気づくだろう。


ハイデガーは技術を肯定も否定もしない。それどころか、自分たちを技術の本質にたいして開くことを薦める。

開蔵の命運は--(中略)--危険[Gefahr]なのである。
なぜ危険なのかというと


人間は今日、じつのところ[in Wahrheit]は、まさに自分自身、すなわち自分の本質にはもはやどこにおいてもけっして出会えないのである。人間はあまりにも決定的に集-立による挑発にしたがっているので、集-立が彼に呼びかけている要求[Anspruch]であるということを認めることができず、自分自身がよびかけられ、要求された者であることを見落としている。


人間が現代技術を作ったのではない。ゲシュテル[集-立]がそれを作っており、人間もゲシュテルによって用立てられてる。そういう構造になっている。だから、人間は自分自身の本質に出会うことがない。これこそが、人間存在の危機だ、というわけだ。




 ハイデガーは突然、ヘンダーリンの言葉の引用する。
 「しかし、危険のあるところ、救うものもまた育つ」


 「救う」とは、本質のうちに取り戻すこと、そのようにして本質をはじめてその本来の輝きにもたらすことである。
技術の本質は、救うものの成長をそれ自体に蔵しているにちがいない。
ここにおいて、はじめて希望的なことが語られ始める。


技術の本質は、ある高い意味で、両義的なものである。そのような両義性は、あらゆる開蔵の、すなわち真理の秘密へと指図する。
第一に、集-立は用立てることが荒れ狂うように挑発する。 --(中略)--そのようにして真理の本質への関連を根底から危うくする。
第二に、集-立はそれ自体のほうから、叶えるものとして、それ自体の固有性を出来(しゅったい)させる。叶えるものは、真理の本質を保護する[Wahrnis]ために必要とされるものである、という点において人間を存続させる--(中略)--このようにして救うものの起ち現れが現出するのである。


ゲシュテル(集-立)は、 人間を用立てのために利用するだけではない。真理の本質を保つために人間を存続させる、というである。
わたしの解釈だが、ここでいう真理とは、人間が存在に目覚めていること、という意味だと思う。
技術の発展が、存在の深い深い目覚めを準備する、というわけだ。




ハイデガーはもうひとつヘンダーリンの言葉を引用する。
「・・・人間はこの大地に詩人的に住む」
なぜなら、開蔵はポイエーシス( 創造、または、混沌から秩序を生み出すこと)であり、それはポエジー(詩)に通じるからだ。


技術の本質は、ポイエーシスであり、それは芸術という領域で生じる。
だから、芸術は芸術内で閉じていてはならず、技術の本質に対して開かれていなければならない。


われわれが技術においてその本質を発揮しつづけているものをたんなる技術を前にして経験できず、芸術においてその本質を発揮しつづけているものをたんなる美学を前にしてもはや見守られない
技術だけ見ていては技術の本質はわからない。芸術だけ見ていては芸術の本質はわからない。という。


われわれが危険に近づけば近づくほど、それだけ救うものへの道は明るく光りはじめ、それだけいっそうわれわれはよく問うようになる。


ハイデガーは、現代技術に哲学的な期待をかけているようだ。存在の目覚めに対しての期待を。



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さて考えてみよう。


開蔵とは、<こちらへと-前へと-もたらすこと> つまり存在の意味をわからせるものだ。




古代ギリシアでは、開蔵するものは1つしかなかった。それは芸術だった。


現代においては、技術も開蔵のひとつだ。


しかし技術は本来的でないやり方で開蔵している。用立てるという仕方で自然や人間を搾取しているのである。これがゲシュテルだ。


ところがゲシュテルは両義的で、一面では人間や自然を強奪するが、もう一つは「救い」を用意する。もちろんそれもゲシュテルの側の要求でそうなっているのであって、そのことのために人間が利用されるということには変わりない。ハイデガーは人間が主体的に何かをすることには期待していない。


人間は何をすれば良いかというとハイデガーは「傾聴する」ことを薦められる。
何もせずに、目を見開き、耳で聞いて、ゲシュテルをよく見ることだ。


もちろんここにおいて、ゲシュテルを自律的な構造であるとみており、人間はその一要素であると考えられている。
私はゲシュテルは生物であり、身体に似ているものとして考えてみると良いと思っている。




さて、もっとも注目すべき記述は、技術の本質は芸術の本質と同じ、ということだ。


両方とも、真理の、つまり存在の開蔵だというのだ。
もちろん、これも、個々の人間の努力によるのではなく、ゲシュテルのほうからの要請である。

しかし、何もせずにただ見て(傾聴して)いれば良いということではない。実は、それだけでも結構大変なことだ。現代技術の意義と芸術の意義と同じであるので、「傾聴」するためには芸術的・詩的なものの感受性を育てなければならない。これは、忙しい日常を送っている現代人にとってラクなことではない。
そしてゲシュテルを見るということは、つまりゲシュテルを認識するということは、私がいう「社会的身体の醸成」に他ならないと思う。



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2012年3月13日火曜日

ハイデガーの技術論1

ハイデガーの「技術論」を読んでいる。
昭和40年に訳本が出た、ハイデガー選集 小島威彦/アルブルスター 共訳である。


非常に難解だ。
しかし、驚くべきことが書いてある。
現代の技術(自然や人間を役に立つように挑発する、現代の科学技術全般)の本性が、芸術の領域であると結論つけている。


「・・・私たちはおののき見入る。何の前にか。一つの可能性を前にしてである。すなわち、全面的に技術の狂奔が腰を落ち付け、その果ていつ日かあらゆる技術的なるものを通して徹底的に、技術の本性(ヴェーゼン)が真理の出現のうちに成存(ヴェーゼン)するにいたるであろう可能性の前に。
技術の本性はなんら技術的なことがらではない。それゆえ、技術への本質的な思念も、また技術との決定的な対決も、一方では技術の本性と類似しながらしかも他方では根本的に相違している領域のなかで、生起しなければならない。
かかる領域が芸術なのである。・・・・」


技術の本性は、技術的なことがらではなく、芸術的なことがらであるとハイデガーは言う。
もちろん、ある種の技術が優れている様を、芸術的と比喩的にいっているのではない。


技術の本性が、芸術領域なのである。




現代の地球全体を覆っている資本主義的技術文明がの本性が、無力に見える芸術の領域と同じであるといっているのである。


さて、ハイデガーの技術論は、もっと読み込みが必要だ。
次回以降、さらに詳細を書いていこう。






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2012年3月5日月曜日

肉体=都市=自然

面白いサイトを見つけた。
「早送りで見た空」7選 という、WIRED 日本語版のサイトである。


どれも素晴らしい動画作品だ。
地球が回転して空が動き、星々が動く。そうした動きは微速度撮影でしかとらえられない。最近はよい機材に安価にアクセスできるようになったため、アマチュアを含むたくさんの写真家が微速度撮影に挑戦するようになった。
・・・記事にこのように書いてあるように、これらの慧眼は、テクノロジーの進歩によってもたらされたものであるということは強調しておこう。微速度撮影によって我々は、その場で見ていることよりもさらに別の意味を掬い取れるようになった。


そして私が注目するのは7つ目の動画。


ドミミク・ブードローの作品 The City Limits である。


都市の夜の活動と、自然の活動を平行して、同じものと捉えている。


それは、都市が生き物であり、自然と同じものとして捉えることができることを、良く表している。。
非常に示唆的な動画である。


肉体の感覚的リアリティー= 都市の感覚的リアリティー=自然の感覚的リアリティー


これがわたしの目指すところである。





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