2010年6月1日火曜日

記号化されない身体

河瀬 昇 氏のwebサイト「アメリカ現代作家論」を読み返した。
都市の記号システムという首尾一貫した観点で
50年代-80年代のアメリカ美術のスリリングな展開を読み解く手際は
実に鮮やかだ。

河瀬氏が「都市の記号システム」というのと、
私が〈野性〉論で「資本主義システム」といっているのは
殆ど同じものである。
美術家たちが、どのようにそれらの記号化と戦ってきたか
数十年にわたる戦いの歴史は、壮観だ。

翻って現在、
とっくの昔に私たちの身体は記号化されている。
ぎしぎし音を立てているようだ。
かさぶたを剥がすようにそれらの記号を剥ぎ取っていきたい。
しかしかさぶたは私たちの身体の一部であり、体中に貼り付いている。
剥がしたとたんに血まみれになるだろう。

記号化されていない身体なんて、どこにある?

あるとすれば、それは私たちのリアルな身体感覚だ。
内臓の動きであり、呼吸であり、心臓の鼓動であり、血液の流れだ。
腱のきしみであり、骨の鳴る音だ。
それは何十億年の前からの進化の現在地点であり、
感覚の源泉である。

今日も私は身体に耳を澄ます。
記号でない、リアルなものを見る。それしかない。


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