2009年11月29日日曜日

海に入る

もう冬だというのに、今年の夏の話で恐縮だが、

数年ぶりに海に入りました。

新鮮な経験でした。



比較的波の高い日で、

波が引くと底に足が着くので体を自分で支えていられるのだが、

波が押し寄せて来ると体ごと持っていかれる。

抵抗しても無駄だ。

容赦なく体が水に翻弄される。


この海は、地球の全ての海とつながっている。

北極海にも、深海にも、海溝にも、海底火山にも。

体がダイレクトに自然につながっているように思える。



風を感じるときも、似たような気持ちになるが

水の力は圧倒的なので、さらにその感覚は強い。

体の幹にガツンとくる感じだ。



私の意思や身体能力でこの巨大な力に抵抗して、
自分をコントロールすることは出来ない。

自然のリズム、
そして自然と身体の関係、
波の動きに身を委ねそれを身をもって感じること。
波は、視覚や想像力ではなくて、

直接、体を揺さぶってそのことを教えてくれる。

私の身体や生命なども、
この大きな力の前では、微小なものに過ぎないのだろうとつくづくと感じる。
無情なことだが、それは真実だ。

この力に逆らおうとすると恐怖を感じる。
だが、身を委ねようとすると、むしろ安心感を感じる。



もう一度その感触を確かめたいのだが、残念ながらいまだにその機会を持てないでいる。

もう寒くなってしまいましたが、
海に入ることは身近に感覚的世界解釈が出来る例としてお勧めです。
来年の夏に是非お試しください。

(アップした画像はいずれも伊豆で撮影)


2009年11月22日日曜日

「境界で夢をみる」

前回、キツネにだまされる話を書いた。

キツネにだまされる時はどういう状況なのだろうか?

キツネにだまされるときは、人間は或る特別な時間・空間の中にいる必要がある。
あたかも蒸気のようにそこに包まれ、現実と夢の狭間のようなその場所に。

一人山道を歩く旅人が
娘に宿屋に招待され、お風呂に入る。(気がつくと川に入っている)
道端で饅頭を売っているおばあさんから饅頭を買う。(気がつくと馬糞を食べている)

どうやら幻覚、夢、催眠状態などと関連がありそうである。

だまされた人は大抵一人でいるときにだまされている。
人里はなれた山の中、人気のいない夜、または道に迷った時などに起こっている。
人間界と別の世界との中間地点、境界地点で起こるのである。

これはつまり
「境界で夢をみる」ということだ。


現代において、このような「境界」はどこだろうか。
人間界が広がったおかげで、そのような「境界」は日常の世界からだいぶ遠く離れてしまった。、
または忘れられたように片隅に追いやられている。


火星探査機が送ってきた火星の荒涼とした地表の映像を、眺めるとき。

http://buturit.dee.cc/kasei/Kasei_Tansa.htm#4

木星の気流のとてつもないスケールの大きさを思うとき





極微の世界の力学に思いを馳せるとき






あるいは、

高山に登って周囲を眺めるとき


夜明け前に自己の奥深くの記憶と向き合い、夜明けとともに現実の風景に出会うとき



そのとき、
私たちは、あの、時間が凍結したような、灰色の地点にいる。
過去も未来もない、あるいは過去と未来がすべて積み重なって投射されたような、その地点。
思考が停止し、あるいはもっと深いところで思考しているようなその地点である。
その蒸気、その雲の中にいる。



昔は、このような雲・このような「空間」・きつねにだまされる「空間」が文化的に確立していた。
人々には、きつねにだまされる「能力」もあった。

しかし最近、経済成長や開発が進み、いつの間にかその「空間」や「能力」が絶滅してしまったのである。

私は、その文化的「空間」や、「能力」を、現代の科学技術や感性と矛盾しない形で復活させたいと思っている。
そのためにこのメッセージサイトを始めた。
まだとても小さな力だが、やがて大きな潮流となり、文化の総体的な転換が行われることを願ってやまない。



2009年11月15日日曜日

キツネにだまされる空間

昭和40年以降、日本人がキツネにだまされなくなった。

哲学者の内山 節氏は、沢釣りが好きで全国いろいろなところに釣りに出かけ
宿屋や民家に泊めてもらって土地の人と話をしたそうである。
すると、キツネや狸にだまされる話が時々出てくる。

キツネにだまされるよくあるパターンは

饅頭だと思って馬糞を食べていた
温泉だと思って冬の川に入っていた

などのことである。

「それはいつのときですか」と聞くと、決まって昭和40年より前のことだという。

昭和40年、1965年といえば東京オリンピックが終わり、高度経済成長真っ盛りのとき。
農村から都市へ人々が流れ、農村の人口が減り、村の文化も途絶えた。
また農村も電化が始まり、暗い夜が急速に少なくなっていった。
人々の学歴も上がってキツネにだまされるなどという非科学的な話を信用しなくなっていった。

私の父に尋ねたところ、まあ、確かにそのころから変わったんじゃないかと同意していた。
父もキツネにだまされかかった経験があるという。

父が少年のころ、昭和21年だったそうである。
日照りの夏、家族で夜中に畑に水をやっていた。
夜も遅いので一人家に帰された。
月の無い闇夜である。父は家路の途中の桑畑で、不思議なものを見た。
40-50人の女学生が桑畑の中でワイワイ、ガヤガヤ遊んでいるのを見たという。
父は目の前の光景を何か不思議に思って、そこを通りすぎた。
あとで家族に話したところ
「キツネにだまされたんだ」といわれたという。

内山氏は、昭和40年以降、日本人に「キツネにだまされる能力」が無くなったという。
どういうことなのか。
かつて、自然と人間は一つにつながっていた。区別するものは無かった。
その中で人々はキツネにだまされながら生活していた。
ところが戦後、都市化、開発、文明化の波が押し寄せた。
森林のほうも里山から木材をつくる伐採林に変化していった。
それが自然と人間を分けた。
その臨界点がだいだい、昭和40年だったのである。

昔の人々が生きていた空間、その文化は、再現のしようがない。文字にもできない。

科学が発達した現代において、自然とつながるといってもあまりにも多くの条件に阻まれている。

だが私は、「キツネにだまされる空間」を現代に復活させたいと思う。
現代の我々の知識や、自然科学と矛盾しない形で、
キツネにだまされるようになる方法は恐らくあるのである。

次週は、その話題を取り上げよう。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったか

2009年11月8日日曜日

村野四郎の身体詩

    霊魂の朝

    村野四郎


---「霊魂を食べて ふとるのよ」
というこえが どこかでしたので
急に胸がわるくなって目がさめた

厨房の扉があいていた
母親が瘠せた息子に もういちど
---「ベーコンを食べて ふとるのよ」
と言っているところであった

まこと肉と霊のだんだら模様の春だ
ユスラウメが咲いている

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色んな詩を読んだが、村野四郎ほど身体感覚が鋭敏な詩を書く人は見たことがない。
この詩・「霊魂の春」はダジャレの切り口によって、身体と精神のなまなましい関係を良く表している。

私たちの感覚は、視・聴・臭・味・触の5感が主であり、それらは全て体の表面の出来事だ。それも頭部に集中している。

しかし私たちの体の中では、血液の流れ、自律神経の調整、内蔵の蠕動運動、新陳代謝など、常に無数の現象が起こっている。ダイナミックな宇宙だ。

しかしその膨大な現象は、殆ど私たちの意識には上らない。
そしてそれを言語化することはなお難しい。

村野四郎はそれができる稀有な才能だ。

「体操詩集」という身体感覚の集積のような詩集も出している。

膨大な身体内の現象に比べれば
5感で感知できる世界は何と貧弱なことであろうか?
肉体の現象の海は、意識で作り上げる貧弱な知恵よりも遥かに優れて圧倒的な知恵の海なのだ。


*「霊魂の春」が冒頭に掲載されているのは 村野四郎詩集 (青春の詩集 日本篇 17) 白凰社

*ちなみに村野四郎は、童謡「ぶんぶんぶん」の作詞も手がけている人である。意外な一面もある。

2009年11月1日日曜日

イブ・クラインのモノトーンシンフォニー

イブ・クライン
50年代に活躍した前衛芸術家

感覚的世界解釈としては、彼ほどそれを具体的に行動にした人を私は知りません。
日本でもファンが多い。
日本語で読める多数のサイトがあるが、大まかな紹介はウィキペディア。

ウィキペディアでのイブ・クラインの紹介

寝転んで青い空を見ていると、その中に溶け込んでいくような感じになる--そんな感覚は誰もが経験すると思います。南仏ニース出身のクラインは、ニースの青空で十分にその感覚を味わいながら育ちました。
その空虚へ身を投じること。空虚への飛翔。彼の重要なテーマの一つです。

高いところから飛び降りるパファーマンス(飛び降りるのではなく、空虚へ身を投じたのですけど)を行い、その写真を新聞の1面に載せて発売しました。
彼の偉いところは、感覚的現象を社会的に機能するように仕掛ているところです。
理想の青い染料(インターナショナル・クライン・ブルー)を考案し、特許をとったりしています。

そんな彼が音楽も作りました。モノトーン・シンフォニー。下記のサイトで是非聞いてみてください。

モノトーンシンフォニー

(出展サイト Mr.M.Lews web site.
ART MINIMAL AND CONCEPTUAL ONLY )

聞いていると青い空を見上げているような、自分が溶け込んでしまうような感じにあります。

自分が消え入って溶け込むような感覚、それは錯覚ではなく、自分の感覚の源が本来そちらにあるというのが感覚的世界解釈の考えです。だから、空を見上げている感覚のほうが、本来の私たちの感覚なのだと考えるのです

↓こちらのサイトも興味深いです。 数多くのイブ・クラインの作品を紹介しています。
https://www.artsy.net/artist/yves-klein