2010年5月4日火曜日

意識 感覚 現前 表象 クオリア




自分が存在している、ということの強い感じ。
室内のひんやりした空気、
聞こえてくる周囲の音
尻に当たる椅子の硬い感じ
床に当たっている足
内臓のもったりした感じ
目に映る室内の光景
肉体を覆っている衣服の感触

あらゆる感覚が私にとって、現れ出でている。

僕が常々不思議だと思うのは、
意識とか、現前とか、表象とか、クオリアとか呼ばれる
これら一連の
確かに、ありありと、そこに在る、という感覚の問題だ。
なぜ、そうなのか?これは本当か?
さて前野隆司氏は、「意識はイリュージョンである」と言い切る。
意識の全ては、作り出さされたものであり、
脳神経の諸機能が働いて、クオリアを作り出しているという
「受動的意識仮説」を展開する。
僕も前野氏の考えに賛同するが、一方で前野氏は
クオリアが出来あがる過程そのものについては無関心だ。
それは心身二元論として、本書のような一元論とは相容れないと考えてるらしい。
もう一方の茂木健一郎氏は、
あくまでクオリアにこだわっている、
クオリアは分割できない対象と考えており
クオリアが出来上がる仮定に迫っている。
しかし、デビッド・チャーマーズの言うところの「難しい問題」に
まともに取り組んでいるだけに、その成果はあまり多くない。
問題は「難しい問題」の取り扱いかただと思う。
前野氏のいうように、クオリアとはイリュージョンである、と考えれば
問題はことごとく解けると思う。
しかしクオリアを「難しい問題」と捉えて、そこにこだわると
とたんに解決は困難になる。
意識問題は問いの立て方が構造的な問題のように思える。

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