2014年7月20日日曜日

量子力学の気持ち悪さ

寄席に行くといろいろな芸がある。落語もあれば漫才もあり奇術も曲芸もある。

奇妙な例えだとは思うが、物理学を寄席芸に例えるとしてみよう。科学というものは楽しいもので、ある意味エンタテインメントとしてみることもできるからだ。
そういう例え話で見てみると、相対性理論に比べて量子力学がいかに気持ち悪いものか、良くわかると思う。
大学で物理学を専攻した私ですが、学生時代は「量子力学とは、とにかくこういうものだ。」という風に教わって、計算ばかりしていました。この歳になってあらためて(専門書でなくて一般向けの本を)読んでみると、「量子力学ってすっきりしない、気持ちの悪いものだなあ」とつくづく思います。

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「相対性理論」という芸がある。この芸はアインシュタイン一人によって創作され、演じられた芸だ。
アインシュタインはすぐにスターになった。切れ味鋭いその芸は、人々に頭をガーンと殴られるようなショックを与え、「そんなバカなことがあるか」と当惑する客を翻弄し、夢中にさせ、寝る間を惜しんで考えさせてしまい、熱病に浮かされたようになって、最後には「そういうもの」として受け入れざるを得ないところに追い込む。入り、見せ場、オチの全てを完璧に兼ね備えた芸だ。そのネタは実に華麗だ。

相対性理論の芸は、何よりショッキングだ。すこしご紹介しよう。
【光速度一定】 二人の芸人が光の速度の90%で擦れ違い、お互いの速度を計る。当然光速の180%で擦れ違うと思うだろうが、実はどう計っても光速を超えることはない。
【歪む空間】 質量の重い芸人が出てくると、その背景が歪んで見える。重力によって空間が歪んでいるからだ。芸人の重力は増え続け、ついには光も出てくることができないブラックホールになる。
【質量=エネルギー】 芸人の一人が突然消滅すると大爆発を起こす。原子核分裂によって質量をエネルギーに変え、爆発したのである。

どれをとっても派手で、わかりやすくて、スキャンダラスな芸風だ。



その一方で、気持ち悪い芸がある。「量子力学」という芸だ。
この量子力学という芸は、始末が悪い。まず、芸人が何をやっているのかわからない。見せ場が分かるのに時間がかかる。そしてオチがない。客は宙ぶらりんの状態に投げ出されたまま、放っておかれてしまう。面白いのだけれど、その面白さがわかるまでには時間がかかるし、オチがないので、なんだか妙な気持ちのままそのあと過ごさなければならない。
そしてなぜか「量子力学」という芸は演じ手が多い。マックス・プランク、ニルス・ボーア、ハイゼンベルク、ルイ・ド・ブロイ、シュレーディンガー、ウォルフガング・パウリ・・・キラ星の如く名人たちがいる。そしてその芸は21世紀の今になっても現存する研究者によって引き継がれていて、そしてその芸の気持ち悪さはエスカレートする一方だ。

ニルス・ボーア
シュレーディンガー

量子力学のネタをいくつかご紹介しよう。

【見えざる芸】
これは、面白さを理解するのが非常に難しい芸だ。このネタは、観客が舞台を見ていないときに演じられ、観客が舞台を見た瞬間、芸人たちは動きを止め演じるのをやめてしまう。
観客は、芸人がどのあたりにいて、どういう動きをするのか、その可能性だけは分かっているのだが実際芸人が活動している姿を直接見ることはだけは絶対にできない。この芸は、観客が見た瞬間に芸人が何をやっているか決まる。あらかじめ芸人は舞台で何かをやっていてそれを観客が偶然見るのではない。観客が見ることによって、芸人の舞台上での位置を決めるのである。
では観客はどうやって楽しめば良いのか?
実をいうと、見ることができない芸というそのこと自体がこの芸の最大の魅力でもあるのだ。なんとも不可解な芸なので、大抵の観客は????となってしまう。

【限りない分身】
上記の【見えざる芸】の楽しみ方がどうしても分からない人たちのために考え出された芸の鑑賞方法の一つ。観客が舞台を見た瞬間に、あらゆる芸人の振る舞いに対して、観客自身を含めて世界が分かれて存在すると解釈する。つまり1度見れば何百の世界が出来るので、すさまじい数の世界が同時並行して出来てしまう。たとえばある客が、舞台を見た瞬間に芸人が舞台の中央に居た場合、「わたしはたまたま芸人が舞台の中央に居る世界にいたのだ」と解釈する。【見えざる芸】の面白さがわからない人のために、なんとか理解できるように考えられたこの芸の鑑賞法である。しかし、これも【見えざる芸】と同様に気持ちの悪い話だ。

【もつれ】
2人一組で演じられる曲芸のような芸。この二人の芸人は、いくら遠くはなれていても(舞台の端から端、東京と大阪、地球と火星、いや宇宙の端から端だろうと)、一瞬にしてお互いの衣装をそろえてしまう。一人が青いスーツを着ていればもう一人も必ず青いスーツを着ている。これは、最初にお互いに示し合わせて青いスーツを着ているわけではない。本当にお互いに相方の衣装は知らないのだが、観客が一方の芸人の衣装を見た瞬間に遠くはなれた相方の衣装も決まるのだ。光より速いスピードで情報を伝えることはできないはずなのだが、この芸はタネも仕掛けもないのに出来てしまう。

【場に合わせ】
漫才の一種。ある規則にしたがって芸人が自分の姿や性質を変えてしまう芸。2人の芸人が出てくる、「相方は性質が違っていること」という決まりがあって、その決まりに合わないと芸人自身が性質を変えてしまう。
例えば二人の男の芸人が出てくる。しかしマイクの前に立つと、突然、一人が女に変わってしまう。
決まりはいくつかあって、「背が高い/低い」「太っている/痩せている」という特徴もその規則に加えることができる。二人の、痩せた背の高い男性の芸人が舞台に出てきて、マイクの前に立ったとたん、一人が太った背の高い女性になり、もう一人は痩せた背の低い男性になる。



上の説明の、芸人を光子や電子などの粒子に置き換えれば、量子力学そのもの解説となっている。
【見えざる芸】は、不確定性原理
【限りない分身】は、多世界解釈
【もつれ】は、量子もつれ
【場に合わせ】は、状況依存性
を表している。

芸に例えてみると量子力学がいかに奇妙で気持ち悪いかを良くわかると思う。

しかし、量子力学は、現在の私達の世界で起こっていることを説明する非常に良い理論であって、その結論には毛の先ほどの疑義が出ていない。いまのところ量子力学は常に正しい。
また私達の生活は量子力学の恩恵をうけている。私は今こうしてPCで文字を打っているが、エレクトロニクスは量子力学なくして存在しえない。PCを初めとした電子制御が関係する仕事は量子力学の影響なくして生まれなかった。私達の社会は量子力学に深く依存している。

量子力学は奇妙で気持ち悪いけれども、これがこの世界の真実である。したがって、私達の住むこの世界は、相当奇妙で気持ち悪いものであるということだ。

しかし真実である以上、いつまでも気持ち悪いとも言っていられない。なんとかしてこの気持ち悪さを当然のこととして受け入れる考え方を身につけないと、私たちはこの世の中に適合できない。

さて、実はこの気持ち悪さを解消し、スッキリする考え方がある。次回はそれについて述べたいと思う。


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2014年5月16日金曜日

量子と意識2

5月4日放送のNHK「サイエンスゼロ」の超能力特集において、人間の意識が量子的現象に影響を及ぼすという実験について紹介していた。
それについて考えたことを以下に書きます。

そもそもわたしが思うに、意識よりも身体のほうがたくさんのことを行なっており、意識はたいしたことはやっていないように思います。
世界という不定のものに対して、人間は人間独自の見方しかできないもので、 世界そのものをそれ自体として認識することはできず、人間がすでに持っている認識のパターンにしたがって解釈します。カントはこのことをコペルニクス的転回といいましたが、すでに東洋思想では、心の所在のそのような性質を認めていました。
 最近の科学の進展によって、認識は脳内の神経モジュールによって構成されるというモデルが作られています。現代の脳科学がやっとそれを裏づけ始めたというわけです。

 受動意識仮説をとなえる前野隆司氏は、自らコペルニクス的転回といっていますが、その先例はカントであり、スピノザであり仏教の認識論もそうでした。荘子の考え方もそうです。

 さて意識というものはあとから組みあがるもので、普段の生活は圧倒的に身体による自動的な処理、無意識の働きによるものです。
例えば、あなたがこの文書を読んでいる間、周囲には様々な音がしているはずです。今まで気がつかなかったでしょうが。部屋でテレビをつけているかもしれないし、また音がしていないようでも、冷蔵庫の冷却器の音など、部屋にある電化製品はなんらかの音を出しているものです。身体(耳と脳 そして神経系)は、ちゃんとそれを聞いています。しかし、意識のできることは限られているので、それを任意に処理しているに過ぎません。
 私たちは歩きながらものを考えることもできるし、食事をしながら話すこともできます。話しているときも言葉は半ば自動的に出てきます。言葉を選ぶという意識的活動をしない限り。

 私たちとは誰か。それは私たちは身体です。身体の働きです。身体の機能です。意識(自分が自分であると思い込まされている脳の機能)は、その中のごく一部であるに過ぎません。

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 さて、ところが意識は特殊な特徴を持ちます。
 意識が量子力学的現象であるということです。

 量子力学的な現象は、原子の大きさ以下の極微のみの世界の現象と思われるとしたらそれは間違いで、たとえば2枚のスリットを通る電子が干渉縞をつくる、というような目に見えるくらい大きな現象にもなります。意識もある意味「目に見えるくらいの大きさでおこる」量子力学的現象なのです。

 意識現象と量子現象は似たような特徴があります。

1、観測問題:自分の意識を見ることはできません。見ようとすることによって決定的に意識が変わってしまいます。

2、不確定性:これは1と良く似ています。心の状態を捉えようとすると、心はすでにそこにありません。

3、共鳴:意識同士は共鳴します。言葉や表情の交換などによって共鳴する関係をつくることができます。

 意識のこのような量子力学的性質は、なにを意味するのでしょうか。

 もちろんそこには意味があるのだろうし、進化の過程で意識を獲得してきたので、必然的な理由があるに違いありません。意識が量子力学的な性質をもっているのもちゃんとした理由があるはずです。
 残念ながら、今日の段階では、私は仮説でさえ書くことができません。
 しかし近いうちに必ず仮説を唱えたいと思います。






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2014年5月7日水曜日

量子と意識

5月4日放送のNHK「サイエンスゼロ」は、超能力特集だった。
その中で私の興味を引いたのは、人々の意識の高揚によって乱数発生器の乱数の出方に偏りが生じるというものだった。

アメリカのネバダ州の砂漠で7万人が集まるというイベントでそのシンボルである巨大な「バーニングマン」という人形が燃やされるとき、乱数発生器の0と1の発生に著しい偏りがみられるということです。

乱数発生器の原理は量子的現象で、粒子がトンネル効果で物体を通りぬけられるか否かによって発生する0か1かが決定されます。つまり予測不可能な確率的現象です。

人間の意識が、この量子力学的な現象に影響を及ぼすということは、どういうことなのでしょうか?


すぐ思いつくのは、意識は量子的現象であるとするロジャー・ペンローズの説です。
量子は光であると同時に波であるという性質があり、人間が観測しようとするとその位置と運動量は変わってしまう。
観測によってそのものが変化するという、人間のこころと同じような性質があるということは、直感的に理解できます。

また、「量子もつれ」という従来考えられていた相互作用とは全く違った作用による相関現象もあるということです。
量子力学は確立して100年あまり経っていますが、「コペンハーゲン解釈」とか「多世界解釈」というような様々な「流派」が存在することも面白い。
どうも量子論は、人間のこころの在りようと深く関わっているものであり、最近の科学の精緻な測定技術によっていままで隠されていた作用があきらかになりつつあるようです。
面白くなるのはこれからのようです。


私はかつて、ある文章に以下のように書いたことがあります。

 私たちの感覚は、普段は無意識に家事や仕事や娯楽などの目的に従っていますが、
それがにわかに主人公となって私たちを襲うのです。
 私たちは、ヒトとか人間とか言われる者とは別の種類のモノに変わります。
この世界に投げ出され、世界と自分の有り様をまざまざと体験している、或る奇妙なモノとなります。
かつて無かった、いや発見できなかったモノです。
天空に散りばめられた星をつないで星座をつくるように、壁のシミを見て人の顔と思うように、
不定の何かに或る見解を与えられて辛うじて一つのまとまりであるような、そのような種類のモノとなります。

私の意識は、個人としてあらねばならないという外部環境による強制から捏造されたものであるような気がしてなりません。

ありのままの姿があるとすればもっとばらばらで、統一されていないようなものではないだろうかと思います。
そしてそれは、量子の状態と良く似ていると思うのです。


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2014年2月2日日曜日

個展レビュー 「ハイデガーの技術論」

先日(2014.1.27-2.1)ギャラリー現 で行なわれた私の個展「ハイデガーの技術論 -自然-身体-社会をつなぐ」を振り返ってみようと思います。

会場
Q:なぜ「技術論」というテーマを選んだのか?
A:
私は中学生のときに神経症になり、電車に乗れなかったことがあります。その時は自分が悪いのだろうと思っていましたが、長じてからは、私の病は、社会との関係であることに気づきました。つまり、私は人間の大量輸送というシステムに、強い違和感を抱いてそれに馴染めなかったということです。
また私たちの身体は自然そのものであるといえますが、私は自然(身体)と社会の間に、またぎ越せないほどの大きな溝を感じるのです。
現代の技術社会に対する根本的な疑問・違和感・居心地の悪さ、不快・・・それらは、私の生来の疑問であり生きていく上でのテーマです。技術について問うことは私の生存の条件ともいえます。



会場


Q:そもそもハイデガーって誰?
A:
20世紀ドイツの哲学者で、「存在と時間」という大ベストセラーを書きました。
フライブルク大学の学長にもなりました。
そのころ、ナチスに積極的に参画しています。世界的な大哲学者となり、学長にもなって、哲学で世界を変えられると勘違いしていたのかも知れません。
戦後、ハイデガーはナチス参画の経歴を恥じて、山荘にこもり著述の生活をしました。その時書いたのが「技術への問い」です。

Q:では、なぜ「ハイデガーの技術論」なのか?
A:ハイデガーの「技術への問い」が、私の疑問にまともに答えようとしているテキストだからです。他にそのような書物は私は知りません。
ハイデガーも、人間の生きる問題と社会性を追求していくうちに、ナチスという歪んだ近代性に加担してしまったのですが、その自分の過ちを真に受け止めて総括したのがこの文章といえます。


Q:なぜこれほど難しいのか?
A:
いままでに無い思想を打ち立てるには、いままでに無い考えを表す用語を作らなければなりません。そのため、ハイデガーは新しい言葉を作っています。確かにそのような見慣れない新語の意味をちゃんと捉えていないと分かりにくいと思います。逆にいえばその用語の意味を捉えていれば、だいぶ分かり易くなると思います。以下にいくつかキーワードを説明します。

キーワード1: Ge-stell (ゲシュテル)
ハイデガーは、「技術への問い」の中で、現代の技術文明の正体をGe-stell (ゲシュテル)と言っています。
ゲシュテルlとは自然や人間から資源や労働を収集し、生産に活用する現代社会特有の目に見えない構造のことです。
川の流れから電力を引っ立て、農地や太陽や空気中の窒素から作物を引っ立て、鉱山から鉱物を引っ立てる。このような「引っ立てる体制」のことをゲシュテルと言います。「徴用性」「総かり立て体制」「巨大-収奪機構」という訳語もあります。
さらにゲシュテルは、人間をかり立てます。生産において労働をかり立て、巧みに消費をかり立てます。
ゲシュテルは目に見えない構造であって、全体を動かす中枢的な何者かがいるわけでもありません。毛細血管のように、世の中の事象の隅々までいきわたり、栄養分を吸い取り、また逆に栄養をいきわたらせています。
私たちはゲシュテルの支配から逃れることはほぼできないのです。

キーワード2: 開蔵(Entbegen)
「現れていない可能性を発揮する」というような意味。非常に意味の広い言葉です。
開蔵の例としては
(1)自然現象
(2)(人間の身体による)技
(3)科学技術
の3つがあります。
ここで(3)の科学技術が、(1)、(2)と同列であるということが非常に重要です。開蔵という概念に、ゲシュテルの支配を相対化する鍵があるとに思います。

キーワード3: モード(Mode)
これは、ハイデガーではなく、私(田島)が考えた言葉です。従来のモード(Mode)という言葉の意味(様式、形式、気分、体制)とは、違う意味で使っています。
ここでいうモードとは、或る社会において、人々の社会的な行動や考え方を律している規範のことです。
たとえば古代ギリシアでは「デルフォイの神託」という巫女のお告げがギリシア社会全体に大きな影響力を持っていました。また日本の封建時代には、主君や家のために自分を犠牲にすることが当たり前という価値の中にいました。
言って見れば、社会観、自然観、美徳、死生観、身体感覚/肉体の使い方までが或るひとつの首尾一貫した価値観の中にあり、それ以外の考えが成立しにくい社会状況、それがモードです。
現代はゲシュテルのモードにいます。ゲシュテルのつくりだす用象(何事も役立てるために駆り立てること)の中にすっぽりと覆われています。 

Q:文章ではなく、なぜ芸術作品として発表するのか?
A:
紙やキャンバスに絵の具でドローイングすることと、紙に文字をつかって書くこととは、媒体を入れ替えただけで、同じことなのです。
今回設定したテーマが非常に範囲の大きなものだったので「思考のドローイング/ペインティング」活動として、一度大きな紙の上に思考を展開し、人々の考えを招き入れ、再構築する必要があったのです。体の現象を行為として表すとしたら紙にハンドペイントすることなのですが、社会をモチーフとするとしたら、言語をつかって考え、それを書き表すしかない。それはドローイングまたはペインティングということができます。
公式には初日と最終日がその「ライブペインティング」の日だったのですが、実は毎夜、展覧会終了後に会場に行き、自分の思考を展開していました。

Q:今回の展覧会の成果は何か?
A:
成果は3つあります。
成果1 :ゲシュテルがなかったときのモードを書き記すことができたこと

私がこだわったのは、ゲシュテルが無かったときのモードを書き表すことです。
人々の行動規範は基本的に土地または血縁に縛られていて、自然と人間の精神の境目があいまいで、キツネにだまされていることを人々が不思議に思わない社会です。また記述された歴史をもっていない社会です。
そういうゲシュテルの無かったころのモードがあることを示すことにより、現代のゲシュテル社会を相対化することができるのです。現在私たちが暮らしている社会のモードは、ゲシュテルが無かった時のモードからゲシュテルが支配する現在のモードに変換した結果であるということです。

成果2: モード変換は、もう一度起こるということを確信したこと

現在のゲシュテルが支配している社会は、あまりにもバランスを欠いているので、変換はもう一度起こるだろうということは以前から何となく思っていましたが今回それを確信しました。
科学技術は、「自然&身体」対「人間&社会」との関係を差し替えました。関係が変質することによって、モード変換は起こるであろうということを確信しました。
それに至るヒントになったのは、ハイデガーの言う「救うもの」という言葉です。
ハイデガーのテキストに、「危険があるところ、救うものもまた育つ」「技術の本質は、救うものの成長をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。」という言葉があります。
「救うもの」は、ゲシュテルを排除したり、避けたりすることではなく、ゲシュテルそのものが「救うもの」を用意するという意味です。
そのとき参照されるのが、例の開蔵です。自然現象と人間の技が科学技術と同じものであるということです。
我々は科学によって超ミクロから超マクロまで、そして何百億年の昔までさかのぼってこの自然を見ることができるようになりました。
このことが、人間と自然との関係を新しいものにし、「救うもの」を準備するのです。特に、宇宙から地球を見る経験をした人が増えてきたということも、そのモード変換を後押しするでしょう。

成果3: 芸術の意味をモード変換の前哨として位置づけることができたこと

現在、芸術家が、個々ばらばらにやっている作業は、来るべきモード変換のための準備であると位置づけることができます。
ゲシュテルに支配されていない太古の残余でもあると思うのですが、そのような普遍性を生き残らせる領域として、芸術があります。
あたかも飽和溶液の中から結晶が析出するように、モード変換はどこからともなく起こります。
それは潜在的な可能性であって、もしかしたら何も起こらないまま終わるかもしれませんが、可能性としてはいつまでもあります。そしてそれはゲシュテルの成長とともに「育っている」のです。したがって可能性も常に大きくなっていきます。
芸術家の営みは、そのような変換を常に準備しているのです。

そしてモード変換をなしえたときの姿が、ハイデガーの謎めいた言葉「人間はこの大地に詩人的に住む」ということなのでしょう。

技術は開蔵のひとつのしかたである。



[技術は開蔵のひとつのしかたである。]
 ・自然現象(そして最も身近な自然である身体も) ・人間の身体による技 ・科学技術
*開蔵(Entbegen)とは、「現れていない可能性を開く」というような意味で、ハイデガーは、開蔵の例として自然現象、人間の身体による技、科学技術 の3つを上げている。

これらは原感覚の分化に他ならないのではないか?

我々は、ハイデガーと同じ「太古の目」を持つべきではないか?
 愛人のハンナ・アレントはハイデガーを太古の人と言っていた。



Ge-stellが無かった時のMode(モード) (死生観、社会観、自然観、美徳、身体感覚/肉体の使い方)、 その中にすっぽりと入ってしまうような空間、空気、雲)

記述された歴史がない。オーラルヒストリー  → 書かれた歴史。制度史

キツネにだまされる能力をもっている→ キツネにだまされる能力をもたない

音がない 静か → モーター、電子音、クルマの走行音、下水道の流れる音、エアコンの音・・・

肉体が土地の上にある → 肉体が土地から離れている

先祖が作ったものの上に生きている → 今、またはこれから作るもののうえに生きている

人間関係は固定 個人の自由は少ない → 人間関係は流動的、複雑、多面的(一個人が複数の社会的役割を持つ。
個人の自由(職業選択、結婚等)はある。

我々は、自然現象などから用象(役に立つこと)を引き出し、利用して、そして人間そのものもその体系の中に組み込んでしまう目に見えないしくみをこう名づける― Ge-stell と。


[我々は、自然現象などから用象(役に立つこと)を引き出し、利用して、そして人間そのものもその体系の中に組み込んでしまう目に見えないしくみをこう名づける― Ge-stell と。]

Ge-stellは、あまりにも当たり前に作用しているので、私たちの生活、思考、行動様式を律しているものであると気付くことはない。
Ge-stellは、網のような、血管のようなもの。広がり、からみつき、利用できるものを吸いとり、また栄養を行きわたらせ、人間の生存のモードを変換する。
Ge-stellは人間を利用する。労働力として。消費の単位として。

人間は今日、まさに自分自身、すなわち自分の本質には、もはやどこにおいても決して出会えないのである。



[人間は今日、まさに自分自身、すなわち自分の本質には、もはやどこにおいても決して出会えないのである。] 
このことのほうが危険な考えでは?

豊かな生活
伸びる寿命
ゴラクに触れる機会の増加

戦争
原発事故
格差
自然モードを忘れる人間

Ge-stellは、好ましい面と残酷な面を持っており、たびたび残酷な面のみが取り上げられて近代批判や自然回帰に利用される。


1978年、 田島鉄也は神経症になり、電車に乗れなくなる。
  病は社会的なもの
  意識は社会の表象
  身体は社会の皮膚



1945年 沢渡温泉の旅館主の焼き畑の火が燃え広がり温泉街全てを焼失させた。疎開児童にじゃがいもを食べさせたかったという。

Ge-stellの最も恐ろしいことは、人間が自分の本質に出会えないようにすること。すなわち自分が関係性であることを忘れさせ、あたかも精神や意志を独立して持っているかのような見せかけを作り出し用象の体系の中に自らすすんで入り込みそれが世界の全ての姿であると信じて疑わないようにさせること。
ゲシュテルをのさばらせ、ただしたがっているだけで良いのか?
しかし、Ge-stellに盲目的に追従することも、また反抗を試みることも同様に、私たちを不自由にする。どうしたらよいのか?
人間はあまりにもゲシュテルによる挑発にしたがっているので、ゲシュテルが彼に呼びかけている要求であることを認めることができない。

ゲシュテルが支配するところには最高の意味で危険がある。

しかし危険があるところ、救うものもまた育つ。

技術の本質は、救うものの成長をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。






Ge-stell が変化する
Ge-stellの変化はその表象である人間の意識を変える

Ge-stellは何ものに変わるのか?
「救うもの」とは何か?
技術の本質がそれを蔵しているならば
技術の本質とは何か?
それは開蔵(Entbegen)ではないか。



用立て(Ge-stellのこと)の止めがたさと救うものの控えめさとはあたかも天体の運行における惑星の軌道のようにたがいの傍らを擦れ違っていく
ここに偶然隣り合った3つの書評はいずれもGe-stellに関係する言説である。


ゾミア  Ge-stellの支配を逃れ、太古のモードを維持した民が各地に普遍的に居る。

ウォール街の物理学者  Ge-stellそのものの運動を数理モデルで解析しようとする努力

人類が絶滅する6のシナリオ  Ge-stellの暴走によって自然のバランスを崩し、破局するパターンの例示

  これらは開蔵(Entbegen)ではないのか?



技術を徹底的に問いなおすこと、技術と決定的に対決することは、技術と親しいが一方でそれとは全く違うひとつの領域で生じる。
そのような領域が芸術である



現代を支配するものはGe-stell
しかしGe-stellが挑発する開蔵であり
開蔵は自然や人間の肉体の現象(人間の身体による技)でもあることを
思えば、Ge-stellを相対化することは
可能だろう。




現在、そのような相対化は、個々人の固有の時間の中で行なわれているが、
それは集合的無意識の共鳴によって起こる。
もちろん、意図的には起こせない。
Ge-stellが個々人の人間の心とは別に起こった構造であるのと同様に
それも個々人の心とは別に起こる。
しかし、現代の「芸術」という形態では起きないのではないか?
それはModeの変換であり、或る時から急速に起こる。いつかわからない。
我々は太古の目を準備しておき、そのMode変換に
備えておいた方が良い。

人間はこの大地に詩人的に住む

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2014年1月26日日曜日

ハイデガーの技術論 搬入中

明後日からの個展「ハイデガーの技術論」の搬入中




ハイデガーのテキストと私のペインティングで構成されています。

ペインティングは会場で描いています。
そして考えていることを書いている。


自然と人間の関係、呪術と科学技術、社会的な身体。。。



文字で書かれた歴史が誕生する以前

歴史する身体

非歴史的な雲(クラウド)

死者と生者が空間的に同一

キツネにだまされるという生産

キツネにだまされる能力

1946年 田島鉄也の父 キツネにだまされる

語りえぬ歴史を身体的に生き



期間 2014年1月27日-2月1日(11:30-19:00 最終日-17:30)
場所 ギャラリー現 
    東京都中央区銀座1-10-19 銀座一ビル3F 03-3561-6869

展覧会名 ハイデガーの技術論  - 自然-身体-社会をつなぐ


田島鉄也がライブペイントをする日:1月27日(月)、2月1日(土)(時間は開廊時間終日)

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2013年12月30日月曜日

個展案内「ハイデガーの技術論」

個展の案内です。

期間 2014年1月27日-2月1日(11:30-19:00 最終日-17:30)
場所 ギャラリー現 
    東京都中央区銀座1-10-19 銀座一ビル3F 03-3561-6869

展覧会名 ハイデガーの技術論  - 自然-身体-社会をつなぐ


田島鉄也がライブペイントをする日:1月27日(月)、2月1日(土)(時間は開廊時間終日)



奇妙なタイトルの展覧会だと思われるでしょう。
美術の展覧会で「ハイデガーの技術論」とは?
しかも芸術論ではなくて技術論・・・


実をいうと、最近私は、もっともらしい造形をすることには限界を感じています。

自然そのものであるはずの私の身体や精神は、現代の高度に発達した社会に追従して生きていて、そこに何か跨ぎ越すことが困難な、乖離を感じています。

一方、幾多の惨劇を繰り返しながらも地球規模で出来上がりつつある技術的な社会の姿には驚嘆せざるを得ない。
歴史的に見てこの100年間に起こった変化は、人口、生産された財の量、物流や人間の移動の点で爆発的な増加を示しており、「何か人類史上かつてない、とてつもないことが始まっている」と思わざるを得ません。
では、それは一体何なのか?






残念ながら、今のところ誰も答えてくれていません。

ハイデガーはまともにそれに答えようとしました。現代社会で興隆している技術の本質を捉え、それが「危険」であることを指摘しました。
しかし、肝心なところではぐらかすように言っています。
例えば、ヘンダーリンの言葉を引用して

「・・・人間はこの大地に詩人的に住む。」などと。



ハイデガーは「この世ならぬ視点」を持てる人です。いわば、まったく別の次元からの視点を私たちの世界に持ち込める人です。彼にはたぶん答えが見えていたのだ。しかし当時では彼のビジョンを人々に分かるように記述する言葉がなかったのだろう。

その哲学者が、以下のようにも言っている。

-技術の本質は、芸術の本質と同じである-と。

そうです。芸術はここにおいて、従来とは全く違う意味を持って来るのかも知れません。

芸術は、科学技術と同じようなインパクトを持っているというのでしょうか?
もちろん我々芸術家は、そのことを信じて疑わない人種なのですが、残念ながら芸術は、科学技術ほどの決定的な社会的インパクトを持っているとは言いがたい。
しかしハイデガーは、まったく違う文明の様態を想定していた。
芸術と技術が等価に扱われる文明を。

さらに私は、自然と文明の関係を重視し、神話もその文脈に組み入れて考えたいと思います。

私は、今回の展覧会では、上記に提示した課題の答えを求めて格闘したいと思います。
今までやってきた手によるアクションペインティングと同じように、壁に紙を貼り、筆やペンで考えたことを書き付けます。ハイデガーのテキストをガイドにしながら。
現代社会の身体的・感覚的理解に挑戦したいと思います。いわば思考のライブペインティングです。


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2013年12月2日月曜日

ジャガイモのために -沢渡大火- 2 ジャガイモを掘りにいってきました。

10月20日アップの内容にあったように、中之条ビエンナーレ2013において、昭和20年の沢渡温泉での大火にまつわる作品をつくりました。
大火の跡の残る蔵の前に、大火にとって重要な品であるジャガイモを植えたのですが、収穫時期が来たので、中之条までジャガイモを掘りに行ってきました。


本日(2013年12月1日)のようす。ジャガイモの葉はすっかりしおれている


ちなみに90日前の10月14日のようす



枯れた葉と茎

掘り出した白いジャガイモ

赤い種類のものも植えてました。

バケツに半分ほど取れました。でも小粒のものが多いです。
 このあたりでは秋植えジャガイモはやっていないし、中之条の園芸店でも「このあたりじゃ無理ですよ」と言われましたが、やらないわけにはいかないのでネット通販で秋植えジャガイモのタネイモを仕入れて植えました。
肥料くらいは最初に入れましたが、あとはろくな手入れもせず、蔵の隣の決して日当たりが良いといえないところでしたが、何とか実をつけてくれました。さすが非常食に使われただけあってジャガイモは凄いですね。

取れたジャガイモの大半は蔵の所有者の方に差し上げました。

そして大火の供養のためのお堂(天狗堂)を再建した旅館「龍鳴館」さんに、少々持って行きました。この旅館では30年来、大火のあった4月16日に天狗堂での講をおこなっています。立ち寄り湯に寄ったあと、女将さんとお茶を飲んでお話させていただきました。(ちなみにここの浴槽はヒノキで、触った感じが良いです)

龍鳴館での天狗堂再興の話はこちら


こちらは作品である石のジャガイモ

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2013年10月20日日曜日

ジャガイモのために -沢渡大火-

先日10月14日まで、群馬県中之条町にて中之条ビエンナーレ2013が開かれていた。それに出品していた私の作品を紹介します。会期が終わってから掲載するのも妙な話だが、展示期間中にはこの文章は書けなかっただろう。なぜなら、作品を通して観客(特に地元の方)とのコニュニケーションがこの作品にとって重要な意味を持ち、時間を追うごとに作品の意味が深まっていったからだ。

中之条町に、沢渡温泉という場所がある。草津の上がり湯として栄え、今や秘湯といった方が良いかもしれないような、風情ある温泉街である。

会場は沢渡温泉街から少し離れたところにある古い蔵である。昭和初期に立てられたそうだ。
作品の設置前の蔵
壁の右上に見える黒こげたような跡は、昭和20年4月16日にこの地に発生した「沢渡大火」の跡である。この蔵の手前に大きな母屋があってそれが焼けたときに炎で煽られて出来たものだ。
大規模な山火事だった。近隣の山々とともに、沢渡の温泉街の全てを焼きつくしてしまった。
沢渡温泉は戦国時代から続く古い温泉であり、江戸時代に立てられた木造の大型の旅館などが多数あったのだが、それらが全て焼失してしまった。

実はこの火災は空襲等ではなく、人災である。
昭和20年4月と言えば戦争末期で、沢渡には約200人の児童が東京から疎開に来ていた。子供たちは大きな旅館に分散して滞在していた。人口約150人の沢渡に約200人の子供が来たので、当然食料が不足していた。
当時、非常食としてジャガイモを栽培することが奨励されていた。疎開児童たちが滞在していた或る旅館の主人が、子供たちにジャガイモを食べさせようと山を焼畑にしてジャガイモを栽培しようとした。しかし不幸なことにその焼畑の火が燃え広がり、沢渡全体を焼いてしまったのである。逃げ遅れて5人の方が亡くなった。何よりも、沢渡温泉全体が灰燼と化してしまったのである。
善意で行なったことにも関わらず、壊滅的な結果となった、誠に痛ましく、やりきれない事件である。

この蔵を会場に選んだ私は、郷土史を調べてそのことを知り、この重い事実を無視して作品はできないと考え、むしろ正面から取り組む決意をした。


ナナメ格子状の枠をつくり、ジャガイモを模した石を配置した


ナナメ格子の枠と石で、蔵の四方を囲った。

周囲に配置したジャガイモに見立てた石。作り物の芽を生やしている。

私は、子供たちが食べられなかったはずのジャガイモを、「食べられない石」で表現した。ジャガイモに見立てた石を蔵の周囲に配置した。その石には「出なかった筈のジャガイモの芽」を取り付けた。これらが「達成できなかった虚の事実」である。
蔵の全周囲にわたるナナメ格子状の構造物は、石の台であると同時に、「戦争」「疎開」「食料不足」などの檻のような心理的な圧迫感も表している。

一方、蔵の手前に本物のジャガイモを植えた。これは本当のジャガイモの芽であり、地中では本物のジャガイモが育っている。11月には収穫できると思う。
沢渡大火の復興は長くかかった。昭和30年代に入って温泉に客が戻ってきて温泉病院も出来、かつての賑わいが戻ってきた。その後の沢渡の復興の芽である。


秋植えジャガイモをの種芋を買ってきて植えた。青々と茂っている。
私は、可能な限り会場に立って、来場客一人ひとりにこの事を話して聞かせた。群馬県や中之条の人は「沢渡大火は学校で習って知っていたが、詳しくは知らなかった」「大火のことは親から聞いて知っていたが、ここにその跡があるとは知らなかった」などと様々な感想をいただくことができた。そして誰もが、私の話を聞くと、「そうか・・・・」と感慨深げに5分ほどジーっと作品を見て帰っていく。人々の心に深く響くものであったようだ。
何よりも、大火の当時を知る人々が訪れると、生々しいお話を聞くことができた。「空から火のついた灰が降ってきた」「家畜が逃げ惑い、道のあちこちで死んでいた」「橋が焼け落ちて、自転車を担いで川を渡って帰った」などなど、つい昨日のことのように話してくれた。

沢渡には縁もゆかりも無い私が、この地域の重い歴史を語ることは、正直言って躊躇がなかったわけではない。しかし、この蔵の所有者の方を始め、沢渡の方々は私の行ないの意義を認めてくれたようで、良く語ってくれた。
おそらく作品がそこにあり、その前で語ったので私の態度が明確だったのだろう。私の意図を超えた作品の力である。

火をつけた旅館の主人の行為は決して擁護できることではない。乾燥した気候で斜面に火をつけるというあまりにも軽率な行動であり、被害は甚大なものだった。
しかし私は少年期に神経症になって電車に乗れなくなった自分と重なるものを感じる。戦争という近代性に曝されたこの男と、電車という近代の乗り物になじめなかった自分は、傍から見れば馬鹿馬鹿しいほど切実なもがき苦しみ方をしていたのではないだろうか。

沢渡という片田舎で起こった、近代の苛烈な介入。そしてそれが自身の失火によって生じたという事実。私は、そのことを自分自身の体験であるかのように感じた。そして神経症になって以来感じていた近代文明との抜き差しならぬ確執に、ある意味で決着をつけたように思う。


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「沢渡温泉史」という立派な本があり、非常に参考になった。この本の著者、唐澤定市先生に会いに行き、さらに詳しい話を伺った。(唐澤先生は元沢渡温泉組合長、その後「中之条町歴史と民俗の博物館」館長を務め、現在同館の顧問)
唐澤先生、並びに、寛容な心で私の行為を認めてくださった沢渡の方々にこの場を借りて謝意を表したいと思います。





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2013年5月27日月曜日

高木仁三郎 ― 2つの自然観をどう克服するか

高木仁三郎氏の「いま自然をどうみるか」を読んだ。


私たち自身が、どこまでいっても自然な生き物の一員である以上、私たちは自然の全体との断ちがたいきずなで結ばれている。どんなに豊富に私たちのまわりを人口の自然で置きかえてみても、そのことによって私たちは心から満ち足りた気分にはならず、日に日に自然が失われていくさまを欺く。
 ある意味では、人間はこの引き裂かれた状況の間を狡猾にわたり歩き、二つの自然観を巧みに使い分けてきたといえる。すなわち、一方で私たちは自然の征服者として、鋭いメスで自然を切りきざみ、その同じ人間が一方であたかもその補償行為として、さながら自然の美を称えるような文化を発達させてきた。
しかし、もはや、しだいに多くの人々が、このような二元論の使いわけが成り立たなくなりつつあることを、感じ始めたのではないだろうか。私たちが直面する深刻な自然と社会の危機は、この二元的に私たちの精神の内部で引き裂かれた自然観を、より新しい観点で統一的に把握しなおすような根源的な作業なしには、克服されないのではないだろうか。
(序章 14ページ) 


私(田島)の問題意識もまさにここにある。
自然から、あらゆる産業の糧を吸い取り、巧みに加工して各種の製品にして社会内で利用するのが、現代文明の特質である。
我々は、頭からつま先まで現代文明にどっぷりと浸かり、それに全面的に依存している。
しかしこのことは、私たちを何か落ち着かない気分にー不安にー陥れる。
古来より、人間は神話によって自分たちの存在の意味を確認してきた。自分たちがどこから来て、何をし、そしてどこに行くのか、それは神話によって語られ、信じられ、そして神話によって自然との関係を堅固なものとしてきた。

現代では、そのような物語は、全く失われている。(あえて言えば、宇宙の始まりはビッグバンがあったという宇宙論、生物は進化を遂げてきたという進化論がその肩代わりをつとめているが、その程度だ。)

我々は、普段は文明に囲まれた生活をし、ときどき自然にふれて何かの欠落を埋めて元の文明に帰っていく。
しかしながら、その間をいくら頻繁に往復しようとも、その決定的な乖離を埋めることはできない。

同様のことは、私たちの身体的経験においても起こっている。いまや「見る」ということは身体的経験とはいえなくなっている。見るということは「目の前で起こっていることに立ち会っている」こととイコールではない。言うまでもなくインターネットの発達、デジタル映像や防犯カメラが人間社会のいたるところに入り込み、また3D映像など、架空の経験をさせるものも一般的になっている。

自分と同一の肉体的な身体と、ネットやテクノロジーで拡大されたバーチャルな経験の間で、ある意味居心地の悪さを感じている人も少なくあるまい。


高木氏は2つに引き裂かれた自然観について、その解答を与えていない。
古代から現在までの人間の自然観の変遷については丁寧にたどってあるが、そこから先は、「生活や実践」というものに委ねており、結論を出すことを避けている。あえてそうしたのだろうか?

問題はつまるところ、私たちがどう生き、どう運動するかということになってくる。自然観の問題を一応それとして考えてみたいという当初の問題意識も、結局、行きつくところに行きついてしまう。そこから先はあらためて議論を立て直したほうがよさそうである。
(終章260ページ)

この本の初版は1985年。インターネットの普及はさらに10年後であった。
高木氏の問題提起は正鵠を得ているが、今見ると時代遅れの観が否めない。
現実に原発事故が起こった今日、「どう生き、どう運動するか」「議論を立て直す」などといっていられる状況だろうか?


唯一の方法は、好むと好まざるとにかかわらず、現代文明に果敢に挑戦していく以外に無いのではないだろうか。現代文明を、自分の身体的経験そのものとして生きること、それ以外に無いのではないだろうか?

自分が現代文明そのものとなったときに、自然がどのように見えるのか。私はそのことに興味がある。


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2013年3月30日土曜日

コーヒーによる絵画

床に置いた紙にコーヒーを垂らし、紙を傾けて流した。紙の膨張によるたわみにコーヒーが溜まり、それが乾燥する。その途中でまた紙を傾けて流す。紙の上の自然現象。
なぜコーヒーなのか?
食べるものだからだ。奇妙な言い方だが、私にとって、絵の具という「絵を描く道具」を使うこと自体に私の意図と違う意味がついてしまうからである。







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2013年3月10日日曜日

Youtubeに個展のアクションの動画をアップしました

Asphalt painting with meat
Painting with asphalt,ground pork,painkillers,gargle and glue. アスファルト、豚の挽肉、鎮痛剤、うがい薬、糊をつかったペインティング。 Gallery Gen(Tokyo) Jan.2013 parformed by Tetsuya Tajima.


先日行われた、私の個展でのアクションを撮ったビデオをYoutubeにアップしました。

ビデオでは、4倍の速度で再生されるように編集しました。
そのため、アスファルトと糊を混ぜたものが落下する様子が良くわかります。


ビデオにおいては、実際の行為と見るのとはまた違った価値を見出すことができるでしょう。

グチャグチャ感が良く出ているし、生きているもののように見えます。。。。