2012年8月19日日曜日

形は力を持つ




下田の海岸で丸い石を拾った。

丸い?・・・いや決して丸くはない。これらの石を全部をひっくるめて「丸い」ということは間違いだ。
それぞれ個性的な美しい形をしている。
手触りも全然違う。

これらの美しい石の形はどのようにして決まるのだろう?

均一な内部構造を持った材料の角が削られていっただけではあるまい。

外側からの研磨しようとする力と、内側の石の組成のバランスのもとに、必然性をもって作られたものに違いない。

力は形を持ち、形は力を持っている。

それぞれ偶然ではなく、必然的に、この形になっている。母石から離れて波に洗われ始めた時から、この形になるべくしてなったのだ。








石を握りしめると、この力を感じ取ることができる。
だから私は手元に置いて、時々握りしめてその力を味わっている。


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2012年7月9日月曜日

感覚は解放されなければならない

前にも書いたが、私は感覚や認識が自分の肉体の中に制限されていることについてひどく不自由を感じています。
本来そうでなかった筈だという思いが強くしています。


だから本来私は「全て」なのであって、宇宙の全ての感覚をもっていたのだが、それが狭い範囲に抑圧されており、私が持っているような意識は、その抑圧の結果出来たものではないでしょうか。


太古の人々は神話による感覚的な自然解釈によってその抑圧を緩和してきたのですが
現代のように科学が発達した時代では、科学技術がそれを分断しています。


その代わり、地球規模で広がる技術文明をつくりました。
宇宙規模、地球規模の感覚を、この技術文明にゆだねているようなところがあります。


これは決して健全とはいえないと思います。


感覚は解放されなければならない。・・・これは、実現不可能な無理難題ではなく、必然的にやらなければならないと思うのです。




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2012年7月2日月曜日

手を触れた

我が故郷、飯能に行ってきた。


親父の菜園の収穫を手伝った。


土、野菜、虫、などに手を触れた。

















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私の聖地



飯能の矢颪(やおろし)というところにある入間川の川沿いに凝灰岩層が露出しているところがあります。

凝灰岩とは、火山灰で出来た岩ですが、この矢颪凝灰岩層は、何の火山噴火が原因で出来たのかいまだにわかっていません。凝灰岩層がこれほど大きく露出しているのはこのあたりでここだけです。

私の子供のころは、ここでよく遊びました。


岩が白いので一見、異世界の風景のように感じます。

そして地層とは、過去につながる場所です。


時空を超えた場所・異世界のように感じるところ・・・そのような場所は聖地と言われます。


ここ、矢颪凝灰岩層は、私にとっての聖地とも言えるところです。

栄養がないせいか、草が少ないです。

ボロボロとこぼれる


水溜りにアメンボが沢山いました。

何層にもなっています。

河野水が流れて出来た穴。石がころがって削れたのでしょうか

川を挟んで立つ新興住宅

関東ローム層の上に積もっています。




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2012年7月1日日曜日

私には根本的な疑問がある





私には根本的な疑問があるのです。


奇妙に聞こえると思いますが、以下のような疑問です。






どうして、私は私であって、あなたではないのか?


どうして私はここにいて、あそこにはいないのか?


どうしてここから、あそこに移動するのに時間がかかるのか?






私というものが、このちいさな肉体に限定されているということが
どうにも疑問なのです。


実は私が私であるということは、何の必然性もないのであって
私は、あなたでも、ここでも、あそこでもよかったのだが
たまたまここにわたしがいるということに過ぎない。


元々、私(あるいはあなた、あるいはここ、あるいはあそこ)は、
あらゆるところに在ったのだが
どういうわけかここに(この肉体に)収束してしまい
残念ながら私の肉体のなかにおさまってしまっている
というわけです。


だから本来私はすべてなのです。




たまたま、この肉体に居るだけのこと
そしてそれによって、
外界を検出する範囲は、わたしの肉体のもっている感覚器によって限定されてしまっています。


感覚は、すべての場所にある。すべての場所、あらゆることに万遍なくあるのです。


ところが不幸なことに、私の中に、私の肉体の中に押し込められている、
抑圧されているのです。
そしてその抑圧された感覚を感じ取ることができるのは、
わたしの哀れな狭い意識であるというわけです。


だから私は、私の感覚は、普遍的な感覚に解放されなければならないのです。




もっともらしい理屈を言ったり、現代芸術ととなえて妙なことをするのも
とどのつまり、このことを実現したいためなのです。



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2012年6月27日水曜日

感覚の分化と搾取の歴史

科学がいう宇宙の始まりは
最初にビッグバンがあって
しばらくは、あらゆるものがぎっしりと詰まっていて、
あるとき急速に膨らんで、空間が澄み渡り、
光が動けるようになり、現在の宇宙の姿になっていった。


ものすごく簡単に言えばそういうことですけれども
それは現代の宇宙論がとなえる物理的な物語です。




私は宇宙の歴史を感覚の分化の歴史と捉えます。


最初に信じられないくらいの密度の感覚があって(原感覚)
やがて熱や圧力や広さの感覚に分化してきたわけです。
重力感覚や電磁気感覚も生じてきました。


さて、画期的な出来事は、生命の誕生です。


初めて感覚を体現するシステムが出来上がったのです。


そしてまた長い歳月が流れて生命システムの中に
もう一つシステムができました。意識です。
人間の誕生は、意識の誕生でした。
意識は、感覚の現前をまた再現前するというもので
その前にあったシステムを相対的に見ることができるので
自分の身体に対して、「私」と名付けることができたのです。
自意識をつくることができたのです。


そしてさらに最近もう一つシステムが出来ました。
社会システムです。
いまや高度に発達した資本主義システムは、自律した生命のようなものです。
このシステムに自意識がある、というとSF的な話しになるのですが
このシステムは内部の経済活動によって個々の感覚を表現します。


さて、生命システム、意識システム、社会システムと、
感覚は、”折りたたまれて”きました。
これは土地の私有制と同じようなものです。
本来だれのものでもないはずのものを、
あたかも自分のものであるかのようにしているわけです。


遍在しているはずの感覚が、閉じ込められ、
隔離されてきたのです。


感覚は意識システムから解放されるべきであり、
また社会システムからも解放されるべきなのです。


いまや我々は社会システムによって取り囲まれているので、
感覚を社会に譲り渡している状況です。
自分の存在感覚が希薄になっています。
これを存在論的搾取といいます。


奪われた感覚をとりもどし、
折りたたまれた感覚をバラバラに撒き散らさなければなりません。


意識や社会は必然的に生まれたものですが、
それに感覚を預けてしまうのは間違いで、
今は過渡的な時期にあると思うのです。




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2012年6月24日日曜日

たぶんあと100年で劇的な変化が起こるだろう

たぶんあと100年で劇的な変化が起こるだろう。




人類は、自分たちが漆黒の虚空の中の孤独な存在であることに気づくだろう。


そして、自分たちの存在している意味を知るだろう。


全てのものが同じであることを知るだろう。
生と死も同じものであることを知るだろう。


本来的でない時代は終わって、本当の時代が始まるだろう。


近代という時代は狂気の時代だった。
この100年間は特にひどかった。
いまが一番ひどい時で、このような時代はあと100年は続く。
それが終わって本来あるべき姿に戻るだろう。


しかし太古の昔と違って、迷信にしばられることのない、
科学的に透徹した目が開けている
たくましい、しっかりとした時代だろう。


その時代は長く続くだろう。
1万年以上かもしれない。


しかし、そしていつの日か、終わることだろう。


人類は、終わりを自ら引き受けるだろう。


その終わり方とは、つぎの2つのうちのどちらかだろう。


別のものに進化するのか、
それとも、ただ絶えるだけなのか。


いづれにしても人類は、その変化を
必然的なものとして受け入れ
ヒトが生きていた時代は終わるだろう。


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2012年6月15日金曜日

ゲシュテルとの四つの道

私がゲシュテルといっているのは、ハイデガーが「技術論」の中で言っている、現代の技術文明全体のことです。

それは、何かのために役立つこと、を推進力として進んでいる生き物のようなものです。たどり着くところは、お金のためということになるのですが、それだけでは何ももたらさない、ニヒリズムを生産するような装置です。

何かの役に立つということは「用象(ようしょう)」ともいいますが、ゲシュテルは「用象の体系」ともいうことができるでしょう。

私たちは、このゲシュテルに取り囲まれて生活しています。それどころか、心の底までゲシュテルに浸っているといっても良いでしょう。

さて、ゲシュテルには良い面と悪い面があります。
良い面は、医学の発達によって病気を克服したり、生活を便利にしたり、産業を振興したりすることです。また不合理な迷信から人間を解放し、明快な近代性をもたらすということです。
悪い面は、自然界から人間を分離し、精神のよりどころを不安定にさせ、人間を心底から管理することです。また、破壊的なリスクを伴います。核戦争の脅威、環境破壊、原発事故を引き起こすリスクがあります。

このゲシュテルに対峙するには、4つのやり方があります。


1、不穏な道 
不穏な道は、はっきりとゲシュテルを否定する道です。原始的ともいえる死に物狂いの反撃で、ゲシュテルの破壊を試みます。さまざまな人がいますが、主な破壊者は岡本太郎、バタイユ、クロソウスキー、埴谷雄高などです。
生身の人間の感覚でぶつかり、自分が死ぬか、相手が壊れるかというところで勝負します。



2、死の道
これは絶望的なあり方ではありません。
死後の世界について語るということです。ゲシュテルは死には付いていけないので、死をもってゲシュテルから離れることができます。死後の世界が存在して、この世は死後の世界のほうが本質的であって、この世はその本来的世界の反映にすぎないのであれば、ゲシュテルもなんら本質的でないことになります。


3、無の道
無の道は、毛利衛さんが宇宙から地球を見たときの達観にも似ています。すなわち「地球も人類も、あってもなくても同じこと」「なのにある。あるようにしてある。」
この人間としての視点を離れたところから出発しているところにこの道の特徴があります。
「すべては同じもの、隔てるものは何もない」という荘子や老子の思想にも通じるものです。
つまり、ゲシュテルもあるようにしてあるもののひとつであり、なんら特別なものではないのです。



4、知恵の道
知恵の道は、ゲシュテルが活動している現場に足を運び、ゲシュテルの作用を良く見て、知ることです。工場や農作業の現場、清掃センターや埋め立て処分場などを見て、ゲシュテルの活動の様子を五感に叩き込むことです。ゲシュテルの働きを知ることによってゲシュテルが対峙している相手(自然)を、人間対自然ではなくゲシュテル対自然として認識できるようになります。


・・・・・・・これらのことを公園の池の近くで考えていると、ウシガエルが「ぐううぅぅ」と鳴きました。
私はハッとしました。

しかし、何にハッとしたのか、わかりませんでした。




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2012年5月31日木曜日

私は何を目指しているのか



誰でもそうだろうが、私も10代の時期は世の中になじめなくて困ったものでした。
そういう時期は普通は10代で収まるのだが、私の場合は、
20代、30代、そして40代はじめになってもそうでした。


うまく説明できないけれど
世の中が、金融や株式や軍事的なバランスや世論やらなにやらのわけの分からないものによって動かされていて
一体自分がどのようにそこに関わったらよいのか、分かりませんでした。今までもどこまで分かっているのか怪しいものですが。


芥川龍之介の小説で「歯車」という話があります。
主人公は頭痛とともに半透明の歯車がぐるぐる回る幻視に悩まされるという話です。
この歯車のように、現代社会は、得たいのしれないわけのわからない理由で動いていて
私の意志とは関係なく私を巻き込んでいく。
それどころか、この歯車は私の心の内部にもあって、こころの中から支配を作り出しています。



長い間かけて私は、この「歯車」の正体を明らかにしようと勤めました。


20代を過ごした時期は、おりしも、バブルの時代でした。
今でも語り草の狂騒の時代。しかし、空虚で何か物足りない、いや決定的に何かが足りないと思っていました。




光明を与えてくれたのはミッシェル・フーコーの「監獄の誕生」でした。


フーコーの精緻な権力分析は、「歯車」が作られていく過程、そして「歯車」が内面化していく過程を
つぶさに説明していました。
僕は、この現代社会で生きているうえでの「うそ臭さ」を感じていました。
フーコーのおかげで、今ではその「うそ臭さ」が生じるメカニズムを知ることができました。


またアメリカインディアンやアボリジニらの自然との関わり方を知りました。
「歯車」が存在しない社会がかつてはあって
それは、神話や、儀式、瞑想などの方法で、社会的機能と人間の精神が一体となって営まれていたのです。


そのようないくつかの示唆的な方法論をへて、私はひとつの命題を立てました。
「自然-身体-精神-社会」をつなぐということです。
私たちは、自然や自分の身体から、決定的に離れているということが、問題なのだと悟りました。
そのことの統一性を現代社会において取り戻したいと考えたのです。




そんなことは可能でしょうか?
やりはじめたとき(つまりこのメッセージサイトを始めたころ)は、手がかりが少なすぎて、どうなるのかわかりませんでした。
しかし、ここ数年の探求を経て、できるんじゃないか、できそうだ、という感触を得ています。


部分的にはつながってきていますが、全体的なつながりがまだまだです。
思想的に完成するということは、断片的に説明できることではなく
全てを一貫して示すことができなければなりません。


目下の課題は、それらを感覚的に統合するということです。
身体-自然-社会を、一貫した感覚で表現すること、ということが
まだできていません。


安易に完成するとも思えませんが、あと数年のうちに、全体像を示すことができると思います。
芸術としていうならば、そういうことが作品で表現できているということになります。
たぶんそれは可能だろうと思っています。

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2012年5月20日日曜日

「宇宙の渚」を見て

今日放送の、NHK総合テレビ「宇宙の渚 第2集」を見た。今日はオーロラの話でした。


都市の夜景とオーロラを同じ画面に捉えた映像は非常に興味深いものでした。




まさに現代文明の姿である夜景と、自然の代表であるオーロラとの対峙です。


以前から言うように、現代文明(ハイデガーのいうゲシュテル)は一つの生物であり、この生物は、地球に生息する最大の生き物です。




地上に這いつくばるゲシュテルと、オーロラの2ショットは、圧巻の映像でした。




番組では、巨大オーロラが引き起こす誘導電流が、変電所を破壊し、大規模な停電がおこるという話を紹介していました。
19世紀に起こった、キューバやハワイでも観測されたという巨大オーロラが今発生したとすれば、現代文明の大半の変電所は破壊され、復旧に4年から10年はかかると言います。
電気供給線はゲシュテルの神経系か、血管のようなものです。
それに対してオーロラが壊滅的な影響を与え得るというのは、ゲシュテルと自然の、極めて直接的な関係を示すものです。


地上にへたばって生息しているゲシュテルにしてみれば、突然巨大な誘導電流を流されて痺れてしまい、しばらく気絶しているような状態です。







宇宙の渚HP ↓ 画像もそこから転載
http://www.nhk.or.jp/space/nagisa/


地球に張り付いて生息するゲシュテルの画像。


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2012年5月14日月曜日

ユニバソロジについて

NASA宇宙飛行士として初めて宇宙へ行った日本人の
毛利衛さんが書いた「宇宙から学ぶ  ユニバソロジのすすめ」という本を読んだ。


宇宙から学ぶ――ユニバソロジのすすめ (岩波新書)


わかりやすい文体で書かれた本だが、毛利さんが言おうとしている「ユニバソロジ」の内容は非常に難しく感じた。


それは、たぶん、宇宙に行った毛利さんが実体験として感じたことだからだろう。


例えば、以下のような印象的な記述がある
スペースシャトルにはエアロックという船外活動のために出入りする設備がある。そこの壁は内張りがなく鉄板がむき出しになっている。


「わたしは何気なく、その鉄板の壁をぺたっと手でさわりました。すると驚いたことに、すごく冷たいのです。そのあまりの冷たさに、私は「ああ、この鉄板一枚を隔てて、外はマイナス150度の宇宙空間なんだ。そうか、この鉄板の向こうは死の世界なんだ」と感じました。


その一方、地球や人類はなんら特別な存在ではない、と感じたという。「あるようにしてある」そして、地球や人類が居なかったとしても何の問題もない。・・・・その達観した視点がすぐさま了解できたということです。


そのような普遍的な考えかた。
毛利さんは地球に帰ってきてからそれにふさわしい言葉を捜し、ふと浮かんだのはuniverse(宇宙・万物・普遍)に学問を表すlogyをつけた、ユニバソロジという言葉です。


ユニバソロジとは普遍的、多面的、全体的なものの見方である。


それは普遍的な視点である。
人類がいなくても地球や宇宙はある。また人類のような生命も宇宙のあちこちに存在しているかもしれない。地球も生命も人類もなんら特別な存在ではない。


そして、「生き延びる」ということが非常に重要だという。これは、生命種はネットワークをつくり、種として生き延びる知恵を伝えあう能力を持っているということだという。




毛利さんのいうユニバソロジは、荘子のいう万物斉同に非常に近いと思う。
万物斉同とは、全てのものは同じ価値を持ち、全ては繋がっていて同一の現象だということだ。
毛利さんは、宇宙へ行った実体験をもとに語っているので、その解釈はとても現代的なものになっている。






ユニバソロジの考え方はこっちのリンク記事が印象深かった。一読の価値あり。


http://www.natureinterface.com/j/ni13/P006-P009/








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2012年4月29日日曜日

存在論的搾取の解決法

前回述べた「存在論的搾取」とはどういうことか、今一度説明することにしましょう。

--自分が存在しているという確信。
--自然または宇宙のなかでの自分の位置を見極めること
ということが奪われてしまっているということ。
です。

なぜならば、地球全体に広がった現代の技術文明の中で私たちは生活しているので、
自然に直接接して生活しているわけではないからです。

私たちの生活は、自然に振り回される不安定さは緩和されていますが
自然の中における自分自身の位置を見失っています。

さて、ハイデガーは、この現代の技術文明のことをゲシュテル(Ge-stell)と名付けました。
正しく言えば、ゲシュテルとは、自然を資源として用立てるための機能的本質のことですが。


ゲシュテルに、私たちの存在そのものを奪われてしまっている状況を
存在論的搾取 と言います。

奪われてしまった 存在 をどうやって取り戻せばよいでしょうか。

いくつか方法があるのですが

1、自分が地球的規模の身体を持つこと。
これは、大洋をヨットで横断したり、8000メートル級の山に何度も登ったり、密林の中に分け入ったりして、この地球という惑星を自分の身体で感じ取れるようにすることです。
このようなことを成し遂げることは偉大なことですが、万人が出来るわけではありません。こういうことが可能な人は極く少数です。

2、大昔の人の自然感を復活させること
例えば日本に古くからある村-里山-霊山の関係、ヒト-獣(ケモノ)-自然神 という自然感を
復活させることです。
アメリカ原住民やオーストラリア原住民にも、そのよう伝統が細々と生き続けています。

しかし現代の資本主義社会の中で、そのような自然観を真の意味で復活させることは
不可能といってもいいでしょう。

そして、第3の方法が出てきます。

3、惑星規模の現代の技術文明(ゲシュテル)を、一種の生命体と捉え、そのゲシュテルの感覚を仮想することです。

わかりにくいと思いますが、考えてみてください。
いまや宇宙ステーションからの鮮明な映像が家庭に届く時代です。
オーロラや大洋や雲の壮大な景色とともに
地球の夜の側に息づく夜景の鮮やかさも同時に見ることができるのです。
それら地球に広がった技術文明(ゲシュテル)は地球の表面に巣食う一種の生き物であると考えても、さほど無理ないことではないでしょうか。

この生き物は、地球にべったりとくっついて生きており、すぐ頭上は宇宙であり、すぐ下側は地球という名の岩の塊です。

もし、ゲシュテルが、生物であると、すれば、ゲシュテルは明確に自分の位置をわきまえているはずです。
ゲシュテルの存在感覚は、地球に巣食って、地球とともに宇宙を旅している感覚です。
私たちが働いたり、消費したりする活動は、ゲシュテルにとっては身体の働き、内臓の働きに他なりません。
私たちの生活や生命は、ゲシュテルにとってはそのような意味があり、自分の活動の意義をゲシュテルに対照させること。そして
このような感覚に、私たちの感覚を接続させる必要があるのです。


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2012年4月26日木曜日

存在論的搾取

しばらく更新をしていなかったが、
何もしていなかったわけではありません。

ハイデガーの技術論を読み終え、彼のいう
「技術の本質と芸術の本質は同じ」、ということについて考えていました。



私は、ゲシュテル(この地球全体に広がった技術文明)と我々人間との関係を、整理しようとしていました。




それには、ゲシュテルを生命・生物と考える必要があると思いました。
奇妙なことに聞こえるかもしれませんが、現代の技術文明をある一つの生命体と考えると、都合が良いことに気がついたのです。


ゲシュテルは地表にへたばって、地中からエネルギーを吸い、様々な生物と共生しています。主な共生生物は私たち人間ですが、農業や養殖漁業など、数限りない生物と共生しています。


そして、それ(ゲシュテル)は地表と地下と大洋に直接接しながら生きています。


それ(ゲシュテル)は、惑星的規模、宇宙的規模で生きている。身体もそうだし、認識もそうだ。
それの空間感覚、時間感覚は、人間とは比べものにならない。


それの周囲には宇宙空間があり、すぐ下には丸い地表がある。それは、たった一人で宇宙空間に対峙している実存的な存在です。




さて、私たちはゲシュテルという生物の中で生きている、いわば細胞です。私たちはゲシュテルに生を委ねている。したがって自分が何者なのかということを自然の中で位置づける必要がないわけです。
自然の中での位置づけは、ゲジュテルに取り上げられています。




これは、存在論的な搾取であり、


私たちは、存在論的貧困 の状態にあります。


いまやゲジュテルは存在論を独占しているわけです。


ではどうすれば良いのか。


次回以降にそれを考えていきましょう。




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2012年3月31日土曜日

ハイデガーの技術論3

自然-身体-精神-社会 をつなぐことを目指す私にとって、ゲシュテルの解釈は非常に重要だ。
長い熟考の末、以下のように考えるようになった。


ゲシュテルと自然は、対立するものではなくて、互いに認め合い、補い合う、2つの巨大な生き物である。




自然とは、ゲシュテルの向こうに佇む静けさ である。



一般に、人間の技術文明は、自然に反するもの、と考えられている。
しかし、ゲシュテルが歴然と存在し、そして私たち人間がその中で生活し、完全にビルトインされている以上、ゲシュテルを否定的に考える必要はない。いや、そう考えるのは間違いだ。


ゲシュテルは生命であり、私たちはゲシュテルの中で生きている。
ゲシュテルは構造ニヒリズムではない。
ゲシュテルが科学技術の形態をしていたり、経済成長を促したりすることは、ゲシュテルにとっての単なるエサであり、それが問題ではない。
ゲシュテルの活動そのものが生成そのもの。生命活動そのものだ。
もちろん自然の活動も目的も用立てもなり生成そのものだ。


この2つは同じだ。同じ材料、同じ物質で出来ている。
もちろん私の身体も同じだ。


私は自然であり、そしてゲシュテルである。


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2012年3月19日月曜日

ハイデガーの技術論2

ハイデガーの「技術への問い」は、2009年に関口浩 氏の新訳が出ていたのでそれを取り寄せて読んだ。(技術への問い  平凡社)

こんなに真剣に本を読んだのは久しぶりだ。思想の本は体力的にキツイ。関節がギリギリと音をたてるくらい読みこまないと、自分のものにならない。




技術は開蔵のひとつのしかたである。
と何度も書かれている。さて、開蔵とはなにか?
それは


<こちらへと-前へと-もたらすこと> [Her-vor-bringen]
なのであり、そしてそれは
ポイエーシス
なのである。
ポイエーシスとは、創造、または、混沌から秩序を生み出すこと というような意味だ。


現代技術をくまなく支配している開蔵は、いまやしかし、ポイエーシスの意味で〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉としての働きを展開することはない。現代技術のうちに存する開蔵は一種の挑発[Herausfordern]である。この挑発は、エネルギーを、つまりエネルギーそのものとして掘り出され貯蔵されうるようなものを引き渡せと要求[Ansinnen(無理難題)]を自然にせまる。

現代の技術そして産業、つまり私たち現代文明は、自然からの強奪によってなりたっている。いまさら説明するまでもない。強奪しすぎたなと思えば、「生態系」を「管理」するというふうに方向転換する。


われわれはいま、それ自体を開蔵するものを用象として用立てるように人間を収集するあの挑発しつつ呼びかけ、要求するものをこう名づける。―― 集-立[Ge-stell]と。

現代の技術の開蔵するやりかた、自然を用具として強奪すること-それがゲシュテル(ここでは集-立と訳されている)と定義される。


現代技術の本質は集-立にもとづいている。だから、現代技術は精密な自然科学を利用せざるをえない。このことによって、現代技術とは自然科学を応用したものであるという、虚偽の見かけが生じてくる。
科学の応用は、現代技術の本質ではない。ゲシュテルこそが、その本質なのである。


さて、強奪され、管理されるのは自然だけではない。人間もその対象である。
そのように挑発された者として、人間は、集-立の本質領域に立っている。人間は[まず人間であって、そのあとに]ようやく追加的に集-立との関係を受け入れることができるというのではまったくない。したがって、われわれはどのようにして技術の本質との関係に達するべきかという問いは、この形式ではつねに遅すぎるのである。
人間はゲシュテル(集-立)に完全にビルトインされていて、それを問うことすらできない、ということだ。


われわれは、開蔵するようにとまず第一に人間を導くあの収集しつつの派遣を命運[Geschick]と名づける。
 命運はけっして抗しがたい力としての宿命[Verhängnis]ではない。というのは、命運の領域に属し[gehörnen]、そのことによって隷属するもの[Höriger]ではなく、傾聴するもの[Hörender]になるならば、その場合にこそ人間ははじめて自由になるからである。

「傾聴する」ということにかなりの期待が込められている。
ところでいきなりここで自由という言葉が登場してびっくりするのだが、


自由は、空開しつつ伏蔵するものであり、その空け開け[Lichtung]のうちにおいてあのヴェール[Schleier]が翻る。
自由とは何かが隠されているのを発見する途上にある、という状態のようだ。そのような状態を物事の真実をチラチラみせているヴェールに例えている。
また、自由のことをこのようにも言う。
真理の生起[Geschehnis]なのである。
真理という言葉も説明なしに出てきて驚くが、一応先に進もう。



この命運は、われわれを閉じ込めて、息苦しくも強制的に、技術を盲目的に促進させたり、あるいは同じことだが、絶望的に技術に反抗させたり、技術を悪魔の所業だとして呪詛させたりは、けっしてしない。逆である。われわれが自分自身を技術の本質にたいしてことさら開くなら、思いがけず、自由にする呼びかけに自分たちが呼びかけられ、要求されていることに気づくだろう。

ハイデガーは技術を肯定も否定もしない。それどころか、自分たちを技術の本質にたいして開くことを薦める。

開蔵の命運は--(中略)--危険[Gefahr]なのである。
なぜ危険なのかというと


人間は今日、じつのところ[in Wahrheit]は、まさに自分自身、すなわち自分の本質にはもはやどこにおいてもけっして出会えないのである。人間はあまりにも決定的に集-立による挑発にしたがっているので、集-立が彼に呼びかけている要求[Anspruch]であるということを認めることができず、自分自身がよびかけられ、要求された者であることを見落としている。

人間が現代技術を作ったのではない。ゲシュテル[集-立]がそれを作っており、人間もゲシュテルによって用立てられてる。そういう構造になっている。だから、人間は自分自身の本質に出会うことがない。これこそが、人間存在の危機だ、というわけだ。


 ハイデガーは突然、ヘンダーリンの言葉の引用する。
 「しかし、危険のあるところ、救うものもまた育つ」


 「救う」とは、本質のうちに取り戻すこと、そのようにして本質をはじめてその本来の輝きにもたらすことである。
技術の本質は、救うものの成長をそれ自体に蔵しているにちがいない。
ここにおいて、はじめて希望的なことが語られ始める。


技術の本質は、ある高い意味で、両義的なものである。そのような両義性は、あらゆる開蔵の、すなわち真理の秘密へと指図する。
第一に、集-立は用立てることが荒れ狂うように挑発する。 --(中略)--そのようにして真理の本質への関連を根底から危うくする。
第二に、集-立はそれ自体のほうから、叶えるものとして、それ自体の固有性を出来(しゅったい)させる。叶えるものは、真理の本質を保護する[Wahrnis]ために必要とされるものである、という点において人間を存続させる--(中略)--このようにして救うものの起ち現れが現出するのである。

ゲシュテル(集-立)は、 人間を用立てのために利用するだけではない。真理の本質を保つために人間を存続させる、というである。
わたしの解釈だが、ここでいう真理とは、人間が存在に目覚めていること、という意味だと思う。
技術の発展が、存在の深い深い目覚めを準備する、というわけだ。


ハイデガーはもうひとつヘンダーリンの言葉を引用する。
「・・・人間はこの大地に詩人的に住む」
なぜなら、開蔵はポイエーシス( 創造、または、混沌から秩序を生み出すこと)であり、それはポエジー(詩)に通じるからだ。

技術の本質は、ポイエーシスであり、それは芸術という領域で生じる。
だから、芸術は芸術内で閉じていてはならず、技術の本質に対して開かれていなければならない。


われわれが技術においてその本質を発揮しつづけているものをたんなる技術を前にして経験できず、芸術においてその本質を発揮しつづけているものをたんなる美学を前にしてもはや見守られない
技術だけ見ていては技術の本質はわからない。芸術だけ見ていては芸術の本質はわからない。という。


われわれが危険に近づけば近づくほど、それだけ救うものへの道は明るく光りはじめ、それだけいっそうわれわれはよく問うようになる。

ハイデガーは、現代技術に哲学的な期待をかけているようだ。存在の目覚めに対しての期待を。


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さて考えてみよう。

開蔵とは、<こちらへと-前へと-もたらすこと> つまり存在の意味をわからせるものだ。


古代ギリシアでは、開蔵するものは1つしかなかった。それは芸術だった。

現代においては、技術も開蔵のひとつだ。

しかし技術は本来的でないやり方で開蔵している。用立てるという仕方で自然や人間を搾取しているのである。これがゲシュテルだ。

ところがゲシュテルは両義的で、一面では人間や自然を強奪するが、もう一つは「救い」を用意する。もちろんそれもゲシュテルの側の要求でそうなっているのであって、そのことのために人間が利用されるということには変わりない。ハイデガーは人間が主体的に何かをすることには期待していない。

人間は何をすれば良いかというとハイデガーは「傾聴する」ことを薦められる。
何もせずに、目を見開き、耳で聞いて、ゲシュテルをよく見ることだ。

もちろんここにおいて、ゲシュテルを自律的な構造であるとみており、人間はその一要素であると考えられている。
私はゲシュテルは生物であり、身体に似ているものとして考えてみると良いと思っている。


さて、もっとも注目すべき記述は、技術の本質は芸術の本質と同じ、ということだ。

両方とも、真理の、つまり存在の開蔵だというのだ。
もちろん、これも、個々の人間の努力によるのではなく、ゲシュテルのほうからの要請である。

しかし、何もせずにただ見て(傾聴して)いれば良いということではない。実は、それだけでも結構大変なことだ。現代技術の意義と芸術の意義と同じであるので、「傾聴」するためには芸術的・詩的なものの感受性を育てなければならない。これは、忙しい日常を送っている現代人にとってラクなことではない。
そしてゲシュテルを見るということは、つまりゲシュテルを認識するということは、私がいう「社会的身体の醸成」に他ならないと思う。



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2012年3月13日火曜日

ハイデガーの技術論1

ハイデガーの「技術論」を読んでいる。
昭和40年に訳本が出た、ハイデガー選集 小島威彦/アルブルスター 共訳である。


非常に難解だ。
しかし、驚くべきことが書いてある。
現代の技術(自然や人間を役に立つように挑発する、現代の科学技術全般)の本性が、芸術の領域であると結論つけている。


「・・・私たちはおののき見入る。何の前にか。一つの可能性を前にしてである。すなわち、全面的に技術の狂奔が腰を落ち付け、その果ていつ日かあらゆる技術的なるものを通して徹底的に、技術の本性(ヴェーゼン)が真理の出現のうちに成存(ヴェーゼン)するにいたるであろう可能性の前に。
技術の本性はなんら技術的なことがらではない。それゆえ、技術への本質的な思念も、また技術との決定的な対決も、一方では技術の本性と類似しながらしかも他方では根本的に相違している領域のなかで、生起しなければならない。
かかる領域が芸術なのである。・・・・」


技術の本性は、技術的なことがらではなく、芸術的なことがらであるとハイデガーは言う。
もちろん、ある種の技術が優れている様を、芸術的と比喩的にいっているのではない。


技術の本性が、芸術領域なのである。




現代の地球全体を覆っている資本主義的技術文明がの本性が、無力に見える芸術の領域と同じであるといっているのである。


さて、ハイデガーの技術論は、もっと読み込みが必要だ。
次回以降、さらに詳細を書いていこう。






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2012年3月5日月曜日

肉体=都市=自然

面白いサイトを見つけた。
「早送りで見た空」7選 という、WIRED 日本語版のサイトである。


どれも素晴らしい動画作品だ。
地球が回転して空が動き、星々が動く。そうした動きは微速度撮影でしかとらえられない。最近はよい機材に安価にアクセスできるようになったため、アマチュアを含むたくさんの写真家が微速度撮影に挑戦するようになった。
・・・記事にこのように書いてあるように、これらの慧眼は、テクノロジーの進歩によってもたらされたものであるということは強調しておこう。微速度撮影によって我々は、その場で見ていることよりもさらに別の意味を掬い取れるようになった。


そして私が注目するのは7つ目の動画。


ドミミク・ブードローの作品 The City Limits である。


都市の夜の活動と、自然の活動を平行して、同じものと捉えている。


それは、都市が生き物であり、自然と同じものとして捉えることができることを、良く表している。。
非常に示唆的な動画である。


肉体の感覚的リアリティー= 都市の感覚的リアリティー=自然の感覚的リアリティー


これがわたしの目指すところである。





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2012年2月29日水曜日

社会は一つの怪物であり

社会は一つの怪物であり、僕たちはミクロの決死圏のようにその怪物の中をうごめいているわけだ。
時代を捉える方法として、思想・哲学がある。わたしも良く読むが、思想は人間の心の中のことを主に問題にしている。
いくら読んでみても、それより大きな認識にはなれない。
リアルな現実に対応していないからだ。
国道の横の歩道を、クルマの排気ガスをかぎながら歩くほうが、オイディプスコンプレックスについて語るよりもリアリティがある。
社会とは、政治によって動かされているわけでもなく、国民や市民によって動かされているわけでもない。確かに政治は社会の非常に大きな要因だが、それは撹乱するに過ぎない。
社会が政治の思うがままに動くかどうかは、社会が決めることだ。
したがって社会は一つの生命のように自律的なのである。
さて、ではこの社会生命の「感覚」とは、どのようなものなのだろうか。
社会の活動がすべて反映される場所は、どのような空間なのだろうか。・・・







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2012年2月27日月曜日

私たちは社会という生き物の細胞であり

スーパーに買い物にいったり、DVD屋でレンタルをしたり、インターネットをしたり、飲み会にいったり、会社で仕事をしたり・・・・


それぞれの人には、別々の思惑があることだろうが、それぞれは社会にとって活動の最小単位だ。




いうなれば私たちは社会という生き物の細胞であり、私たちの社会的活動はその中での細胞の働きである。
スーパーで買い物をすることは、赤血球が酸素を取り込んだりすることに相当するようなことだ。
メールを出すことは神経細胞の発火だ。



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2012年2月23日木曜日

埋立処分場は膀胱です

東京湾にある、埋立処分場です。
正しくは、中央防波堤埋立処分場と言います。

東京湾にあるこの人口の島

拡大
東京23区のゴミの最終処分場です。


現在は、ゴミは各区の清掃工場で分別され、高温で焼かれ
灰だけが最終処分場に運ばれます。


一昔前はポリ袋に入ったゴミのまま埋められていて、おびただしいカラスが飛び回っていましたが
今はそんなことはありません。
整然としたものです。


行ったわけではないですが、サイトやブログで見学の記録をつけてくれていて、様子は良くわかります。


このサイトなどは良く書いてある。
http://www.terayasu.sakura.ne.jp/HPdata-ta6/home1.htm




さて、私たちの家庭から出たゴミは近所のゴミ捨て場から、区の清掃工場へ集められ、ダイオキシンの発生しないような管理された焼却炉で高温で焼かれて、その灰のみが、この最終処分場に運ばれてきます。




言ってみれば、清掃工場はリンパ節か腎臓のような役割をしています。
そして、埋立処分場は膀胱です。


私たちの膀胱は、外に向かって尿を排出しますが、埋立処分場はそとに排出できません。
ずーっと溜まりっぱなしです。


排泄物をいつまでも体内に溜めておく生き物。。。。それが今現在の都市なのです。





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