2011年11月5日土曜日

歩道橋に紅葉を並べてみた

我が家の近くに環七(環状七号線)がある。
そこに歩道橋がかかっている。
ほとんど使われていない。
通行は1時間に一人程度。
近くには信号と横断歩道があり、大抵の人はそこを使う。
歩道橋は何のために作られ、維持されているのかわからない。


秋の紅葉の葉を並べてみた。





下はクルマがひっきりなしに通る。
しかし、歩道橋の上は見られない。一種の密室です。
私は人知れず葉を並べていた。

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2011年10月29日土曜日

沈黙について

ジョン・ケージの伝記を読んでいる。
ジョン・ケージといえば、私が薫陶を受けたマリナ・アブラモビッチが師と仰ぐ人である。

あの記念碑的な作品、“4分33秒”の誕生についても詳しく書いてある。
もちろん、“4分33秒”は、思いつきで生まれたのではなく、
東洋思想の深い理解から生じた作品である。

楽器が何も音を出さないことによって、ざわめきや風などの周囲の音を聞くことがその意味であるとのことだ。

さて翻って我々の生活には、なんと沈黙が少ないことであろうか。
また、町並みにしても、車道、歩道、家、塀、駐車場と、意味でぎっしりと埋め尽くされて
なんと窮屈なのだろうか。

私たちはそこに無理やり穴を開け、沈黙を流し込む必要がある。
私たちは息をする必要があるからだ。


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2011年10月27日木曜日

芸術は現実を変えられるか

芸術は現実を変えられるのか。
古くて新しい質問だ。
芸術というものが独立して存在することが認められてからずっと
繰り返されてきた質問だ。


ロシアの構成主義が
フルクサスのメンバーが
現実を変えようとして取り組んできた。


結果、それで社会が変わったという歴史的な証拠は無い。


しかし、現在各地で行なわれている芸術祭や
ワークショップは、(人々の生活を変えたとは言いがたいが)
少なからぬ影響をもたらしている。


現実は変わったのか、変わりつつあるのか。


はっきり認めれば、変わりつつあるのだろう。
芸術に対する人々の期待は大きい。
その期待が少しづつ実現しつつあるのが、現在の状態なのだろう。
変わったのだ。ひとびとのコネクションが。
それがなければ実現しないような、人と人とのつながり。
それだけではなく、考え方のコネクションも変わってきている。


やはり、不可逆的な構造変化が起こっている。
みんな何かの間違いに気づきつつある。


芸術は画廊や美術館の中だけにあるものであり・・・
芸術祭は開催地域で、その期間内だけにあるものであり・・・・
そのような飼いならされた芸術はもう終わる。


芸術は、現実に影響を与えるだろう。
それはいわば、第4次産業として
あるいは古代の社会において神話が担っていたような
社会的な役割を担うようになるだろう。

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2011年10月16日日曜日

ここに在るということ

中之条ビエンナーレを振り返って感じたことは
「ここに居る」ということだ。

勿論、単に物理的に在るということだけではない。

この肉体から離れず
この心から離れず
この場所から離れず。

この3つが一致して初めて「ここに在る」ことはできる。

私は東京の日常があるから、中之条には、週末ごとに通っていた。
日帰り制作か、せいぜい一泊である。
しかし、滞在制作が基本であり、現場の空気を吸って現地のものを食べ
現場で考えなければ、やはり良いものはできないものだと感じた。


翻って、現在の私の住む場所はどうだ。

東京の住宅街で、特に何の特徴も無い。
自然豊かでもない。
はっきりいうと私はこの場所が好きではない。
飯能に生まれ育った私は、山や川が身近にあるのが本当の暮らしであり
今居るところは仮住まいという感じがしていた。

しかし、・・・しかしである。

現実に私は好むと好まざるに関わらずこの場所に居るのであり、
そうである以上、この場所から考える以外にないはずだ。
遠くのことを思うのではなく、今あるところを見るべきだ。

そう思って家の周囲を見渡すと、確かに操作できる素材がある。

私は、私の周囲の無意味なものたちに、意味を与えていかなければならない。
意味を与えることが、生きているということだからだ。

それらのことをなすために、
梶井基次郎は、大きなヒントを与えてくれている。




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2011年10月15日土曜日

梶井基次郎・ 闇の絵巻

梶井基次郎の小説をまとめて読んだ。

今は青空文庫で手軽に読むことができる。


殆どの作品は、社会と関わりを持たない男の独白という内容で、私小説である。

「檸檬」はもちろん秀逸だが、「闇の絵巻」も優れた作品だ。

療養先の旅館と旅館の間の暗い道を歩いていくというだけの話だが、なんという豊かな闇であろうか。
「この闇のなかでは何も考えない。」とはいうものの、実は、いろいろな感覚を動因して全身で闇を感じているのである。
山の黒々とした闇、沢の轟々とした水音、そして道の半ばに一つしかない電灯が、闇を強烈に印象づける。
  
 ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯(ちょうちん)なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに言ってみれば、「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんなふうに消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。


梶井基次郎は、闇という単なる現象に、多様な本質的な意味を与えることができる。
もちろんその才能は、我々にもあるはずだ。



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2011年10月7日金曜日

檸檬テロ

梶井基次郎は丸善で本を積み上げてその上に檸檬を載せ、
それを爆弾と称した。
彼のひそやかなテロは、彼自身にとってのみ有効であった。
「えたいの知れない不吉な塊」は、それによって吹き飛んだ。
だが、それは彼一人にとってのみ有効だった。

しかし今や檸檬は小説となることによって再生産されている。

現代、私たちは様々な社会基盤の上に生活し、それを利用しまたはそれに利用されている。
「えたいの知れない不吉な塊」は、ますます拡大する一方だ。

そもそも、現代の社会基盤は物語をもっていない。
住宅地には、主(ぬし)という大魚の住む沼も、キツネの出る松もない。

土地に物語がない。そのことは、土地が私たちの身体から遊離しているということだ。
私は土地にそして土地だけでなく、水道に、ゴミ処理施設に、インターネット回線に、
かけがえの無い物語を刻む。
物語が無い以上、自分で作るしかない。


かくしてインフラストラクチャに対するオペレーションが始まるのである。


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2011年10月2日日曜日

創造について

久しぶりに岡本太郎の「今日の芸術」を引っ張り出して読んでみた。


今読んでも本当に新鮮な内容だ。


岡本太郎は、現代では人間の全体性が失われていると嘆いている。以下引用します。




 なるほど人は、社会的生産のため、いろいろな形で毎日働き、何かを作っています、しかし、いったいほんとうに創っているという、充実したよろこびがあるでしょうか。正直なところ、ただ働くために働かされているという気持ちではないでしょうか。
 それは近代社会が、生産力の拡大とともにますます分化され、社会的生産がかならずしも自分本来の創造のよろこびとは一致しないからです。逆にただ生きるために義務づけられ、本意、不本意にかかわらず、働かされている。一つの機械の部分、歯車のように目的を失いながら、ただグルグルまわって働きつづけなければならないのです。
 「自己疎外」という言葉をご存知でしょう。
 このように社会の発達とともに、人間一人一人の働きが部品化され、目的、全体性を見失ってくる、人間の本来的な生活から、自分が遠ざけられ、自覚さえ失っている。それが、自己疎外です。
 自分では使うことのない膨大な札束をかぞえている銀行員。見たこともない商品の記帳をするOL。世の中は自分と無関係なところで動いているのです。
ーー「今日の芸術」第1章 より


 今日においても基本的に変わりないが、この本が書かれた1954年と現在2011年とは、だいぶ事情が変わっている。1954年当初では、「部品のような」労働の形が主流を占めていて、「疎外」という言葉も説得力を持っていた。
 さて現在、むしろ私たちは、創造的であることを強いられている。さまざまなビシネススキルを習得することを奨励され、成長を促されるのである。
 逆にいえば、歯車のように働くことができたのは、大資本に守られていたからであって、現在のように先がどうなるかわからない社会においては、個人の成長が重要なのである。


 しかし、現代人の多くが人格を磨くことに熱心かといえばそんなことはない。事態はむしろ逆である。私たちは今、底の浅い創造性を一生懸命発揮しなければならない時代に生きている。


 このことに関して、わかりやすく言っている人がいたのでリンクします。
http://embers.exblog.jp/5377386


 そもそも創造という行為は、生産的なものばかりとは限らないだろう。それらは、一見無駄で、くだらなくて、馬鹿馬鹿しい、そして時に血なまぐさい代物だ。条件つきの創造性などというものがあるだろうか?「世の中の役に立つ創造」というものは、言葉の定義からして矛盾している。

 そして創造が全人的なものであればあるほど、はたからみれば滑稽であろう。



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2011年9月23日金曜日

土地の物語を作る

僕らはアスファルトで覆われた地面の上を歩いている。
そこでは、土地の固有の歴史が消えている。
雨風に侵食され、大地の隆起や河川の通ったあとや
植物が生い茂り、動物たちが生息し、人間が手を入れてきた
・・・そのような土地の歴史があったはずだ。


アスファルトは、それを覆い隠す。


このノッペラボウになった都市空間のなかで生活することは
歴史から切り離され、宙ぶらりんになった状態である。


住むということは、土地の物語を理解し、またそこに関与していくことだ。


主というべき大魚の生息する(といわれている)沼や、
狐が出るという一本松や
幽霊が出るという噂の屋敷や
・・・そういうものと共に生きていくということ。


だがいまやそういうものは無い。


どこまでも合理性が支配する町並み。
近代的な目が行き届いた町並みだ。
もはや、物語を復活させるには遅すぎるような気もする。


そうなると、そういう物語を、自分で作っていくしか無いのではないか?


私自身が池の主になり、狐になり、幽霊になるしかないのではないか?


だが、そのようなことは、どのように可能であり、
どの程度有効なのだろうか?




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2011年9月19日月曜日

隠れた下部構造

我が家の近くの変電設備である。我が家に電気を供給しているもっとも近い設備です。


ここに在るとは誰も気づいていない。

それまでは、何も気づくことがなかった。
確かに窓もない地味な外観。
意図的に気づきにくいようにしてあるのだろう。


どこにあるか?
信号の後ろの白いスレートのようなものが横に並んでいる建物です。
まず、特別興味がない限り普通の人は気づかない。

裏に回って見たところ。変電設備がはいっているのでしょうね。

間違いなく変電所です。
変電所といえば、変電設備が剥き出しになっているところもありますが、
この場合、意図的に人目につかないようにしているのではないかと思われます。
テロなどから守る目的だと思います。


一般的に社会的インフラは、目につかないように隠される傾向があります。
テロなどを恐れてそうしているのだと思いますが
その結果、自分たちのライフラインと呼ばれるものが
不透明になっている現況につながっています。
前にも申し上げたように、自然と身体を分断したのはテクノロジーであり、
特にエネルギーなどのインフラはその主犯とも言えるものですが、
安全管理上の秘密である場合もあって詳しい情報は公開されていない。


僕らの社会は、自分たちに近いものを隠したがる傾向がある。

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2011年9月16日金曜日

泥の中から立ち上がれ

熱い中之条ビエンナーレ。


彼の名は飯沢康輔という。
中之条にレジデンスして、閉店になったパチンコ屋「キリンホール」を会場にしている。
朝は農家でバイト。
貰ってきた土で人形をつくって床に置いていく。
生活と作品が一体となった素晴らしいワークだ。
自然-身体-精神-社会を貫いている。


写真は8月20日の開幕日の時のものです。今はどのくらいの数になっているのだろう。


お客さんも参加でき、泥人形を作ることができます。私も3個ほど作りました。


東日本大震災のボランティアで南三陸町に行ったとのこと。
がれきの中でヘドロをかいて、肉体と空気と地の根から、考えたのだ。
それでも人は立ち上がる。地の中から立ち上がると。


彼は自分自身になった。
アーティストであるということは、自分自身であることだ。

いくつあるか知れぬ泥人形。今はもっと増えているはず。

飯沢さん

泥人形から芽が出ている。
飯沢氏のブログも覗いてみてください。
http://exuok.exblog.jp/




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2011年9月11日日曜日

現代における祭の意義

祭のシーズン到来。

私も今年も神輿を担ぎました。
法被を着て足袋アスファルトの地面を踏みしめる。
神輿がクルマやビルが間をすり抜ける。

近代的なコンクリートの空間に突如出現した江戸の集団。
妙な光景だ。

祭といえば、太古の昔は、社会のもっとも重要なイベントだった。
政と書いて「まつりごと」と呼ぶほどである。
宗教と政治は当然分離していなかった。

一方、宗教と政治が明確に分離され、それどころか行動の諸原理が
ことごとく高度資本主義に沿っている現代においては
祭というものは、社会の片隅に追いやられているようにも見える。

しかし、この祭や神輿というものは、実は滅び行く伝統芸能ではない。
現在でも子供や若者を取り込み、再生産している活動である。
実は私の近所の商店街地区が主催するこの祭において


神輿が始まったのは実は2006年からだ。
さて、この現代において、祭がなぜ生き続け、再生を続けているのだろうか。

祭とは、その土地の物語を肉体で理解することである。
神輿は神社で清めをうけ、街中を練り歩く。
私は、わが町が氷川神社の体系に登記されていることを祭を通じて知った次第である。

住む土地とのつながりが希薄になった現代において、土地とつながる数少ないチャンスなのである。
ゆえに、これはなかなか無くならない。また、再生産のサイクルに成功すれば拡大することもできる。

さて、この祭システムには特徴がある。
法被を着ている人のみが祭に参加できることである。
道を歩いている普通の人が、Tシャツに短パンで神輿を担ぐわけにはいかない。

このことのメリットは、強い仲間意識を築くことである。これは強い求心力として働き、祭システムの維持に貢献している。
一方その意味で閉鎖しているので、一般化できにくいというデメリットもある。つまり特殊なので広がらないのだ。

さて、再三申し上げているように、私は現代において、自然-身体-精神-社会がつながる、価値体系を模索している。
祭は大きなヒントになっている。

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2011年8月22日月曜日

中之条ビエンナーレ いよいよ始まりました。

8月20日、中之条ビエンナーレ初日です。
拠点会場の「つむじ」にて、私のアクション
「米糊を手で塗る」が行なわれました。




YouTube






初日の夜はイベント「夜光市」が行なわれ、音楽とダンスで盛り上がりました。
全ての会場に作品が揃い、沢山の人たちが訪れています。
今、中之条は熱い。


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2011年8月18日木曜日

現代文明の身体的理解とは

今日は殺人的な暑さだ。
私はエアコンの効いた部屋で、インターネットに触れ、この投稿を打っている。


エアコンなど無かった江戸の昔は、暑いときはなるべく動かないようにし、あとはひたすら暑さに耐えていた。


私たちは、資本主義的なテクノロジーに取り囲まれ、
それらと一体になって生活している。




私はいままで、こういうことを、自然と身体とを分断するものとしてネガティブな記述をすることが多かったが、そのように捉えることは、誤りであろう。


浄水場からの水を使い、下水処理場で浄化して川に戻す。
化石燃料(や原子力)をつかって発電した電力を使っている。
インターネットをつかって情報を入手したり、流したりする。
Eメールは欠かせないツールになった。
第1次、第2次、第3次の産業を通じて生産されたものを消費している。


このテクノロジー全体(ハイデガーのいう「ゲシュテル」)は、紛れもない現実であり、もはや否定すること自体がナンセンスだ。


では、どうするのか?


あまり面白いことではないが、むしろ、このテクノロジー全体が、私たちの身体である、と考えるべきではないだろうか。


私たちは、社会から独立した一個の生命体なのではなく、資本主義的テクノロジーに心も体も渾然一体となっている。
意識や無意識は、個人が持っているものではなくて、社会に深くかかわっており、むしろ一つの資源や産業のように需要と供給の中に位置づけられる。
フーコーのいうミクロ権力、またはルーマンのいうように社会が一個の有機体なのだろう。


直接自然に接しており、自然と駆け引きをするのは、このようなテクノロジーであり産業なのである。だからそのテクノロジーや産業が我々の身体であると考えたときに、我々の真の自然認識は始まるのである。


我々は、浄水場が食道であり、下水処理場が腎臓であり、発電プラントが肝臓であり、情報ネットワークが神経系統である。


社会を身体となぞらえることはホッブス以来の古臭いアイデアであろうが、現代においてリアリティをもって産業=身体 説は復活されるべきであろう。











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2011年8月8日月曜日

中之条ビエンナーレ搬入

群馬県中之条町で2年に1回行なわれるアートイベント 中之条ビエンナーレの搬入に行ってきました。

木造校舎や商店街など、町の各所で作品が展示されるイベントが行なわれます。
さて、私の会場は旧第三小学校という廃校です。



昔のたたずまいを残す木造校舎



私の割り当ての教室。木の窓枠が美しい
  

教室の前面
 


紙を貼って米糊(+食用竹炭)を塗りました。
真ん中の四角のものが黒板の部分です。




黒板部分を角度を変えてみたところ

中央部の拡大



教室の後ろ。
描いたところは平面で
空いているところは柱に相当します。



部分拡大


体育館でも展示していますが、搬入が遅くなり、写真がとれなかった。
 中之条ビエンナーレは8月20日開幕。
オープニングイベントの一つとして、私の「米糊を手で塗る」アクションが行なわれます。


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2011年7月17日日曜日

ゲシュテルについて

荒川沿いの浄水場と水再生センターを見てきて
私はしばらく考えていた。
今、私たちと自然との関係は、あの工場のような施設を通じて
つながっているのだということ。
このことをどう捉えたら良いのか、考えあぐねていました。


つくづく私たちの社会は、「ゲシュテル」なのだなあと思います。
ゲシュテルとは、晩年のハイデガーの概念で、
「自然から人間の都合の良いものを引っ立てて利用する仕組み」
とでもいうものです。
そしてゲジュテルは、我々人間をも引っ立てて、労働やら消費やら娯楽やらに
引っ立てています。
ゲシュテルは、資本主義システムそのものであるともいえます。


つまり、ゲジュテルと自然との関係が、私たちと自然との関係そのものと言えます。


普段は資本主義的なテクノロジーの中に暮らしていながら、
ときどき公園やら観光地にいって自然に触れるというのは、ノスタルジックな感傷にすぎないだろう。


ゲジュテルを抜きにしては、
自然―身体―精神―社会 をつなぐというコンセプトも、実に怪しいものである。
ロマンティックな憧れに過ぎない。


社会と自然はゲシュテルでつながっている。
ゲシュテルを身体感覚で分かること。このことが必要だろう。




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2011年7月10日日曜日

身体感覚で探るライフライン---荒川の施設に行ってみました。

僕らの社会は、どのように自然と接しているのだろうか。
まず、上水道と下水道というインフラを実地に調査してみました。


水道は、蛇口をひねると当たり前のように水がでてくる。
どこからどのように取った水かは、わからない。


昔の人は井戸から汲み上げたり、川から汲んできたりして、肉体的にそのことが
わかっていたのだが、
今は、どこの川からどういうふうに運ばれてくるのか、大抵の人は知らない。


わからないというのは良くない。


そのようなことが、なんともわからぬ居心地の悪さを感じさせている理由の一つではないだろうか。
・・・と考えて、
とにかく自宅から、このあたりの水の供給地と処理地である、
荒川の浄水場と水再生センター(下水処理場)に行ってきた。


場所までのルートを体験するために自転車で行ってきました。




曇りでしたが暑い日です。
この道路の下に水道管が埋まっている・・・


川を渡るこれは、、・・・・下水?


上水道のマンホール


かなり急な坂です。こういうところはポンプで運びあげるのか?




走ること10キロ、大きな川に到着。
これが練馬区・板橋区の水源
荒川です。




水はかなり濁っています。青臭いような臭い。




コップに汲んで
飲みはしなかったが口に含んでみました。
意外とまずくは無かった。

突然みえてきた、三園浄水場。
広大な施設です。

浄水場正面玄関。
なんか厳めしい。


高い鉄柵で囲われています。
水道に毒を入れるようなテロを警戒してのことでしょう。
鉄柵の上の電線は侵入者を防ぐセンサーでしょうか。




一方、こちらは、新河岸水再生センター


浄水場に比べてフェンスが低い。
テロの心配が少ないからでしょう。


こちらが沈殿層


こちらが処理施設。
浄水場に比べると遥かに難しい技術を使っている
と思われます。
あたりになんともいえない臭気がします。
何十万人の区民の糞尿、洗濯水などを
処理しているわけですから、臭いのもあたりまえです。


ここが荒川への再生水の放出口。
やっぱりなんともいえない
臭いが漂っています。
完全にキレイな水には
再生できないのですね。


今回は自宅から自転車で行き、外側を眺めて帰ってきました。
ぜひ見学もしてみたいものだと思います。

私たちの、体の半分以上を占めている水は、このようにして工場のように川から取り込まれ、
体から出て行った水は、工場を通って処理されて川に戻されます。
水の処理工場は、私たちの体の一部であるともいえます。

このようなテクノロジーを通じて、私たちは川と接しています。
この事実はどうしようもありません。

どうも、上下水道を含めた、都市社会全体が
一個の生命なのだと考えたほうが良さそうだ。



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