身体の機能や動きは、基本的にメカニックなもの(力学的、機械的なもの、つまり説明できるもの)として理解可能だ。近代医学はそのように発展してきた。
実は人の心理もそうである。
複雑と思える人の心も、外から分からないだけで、心の内部では快楽、衝動、葛藤、社会欲求などの要因が働いていて、個人は結果としてその場に即した行動をとるのみである。
心の内部まで深く追求した場合に、説明できない行動をとることはないと言っていいだろう。
本人には説明つかないことであっても、意識の奥にある心理までその力学を広げていくと、人間の心理はメカニックなものとして説明可能だ。
自分を律することができる人格を備えている人は、このような心理のメカニックが良く分かった人である。
たとえ、たましいというものを持ち出す場合であっても、霊には霊の作用があるのであるから、それも含めて力学的な体系が出来ていなければならない筈である。
メカニックな働きは、芸術作品にも当てはまる。
あらかじめ全ての芸術作品のパターンは決まっていて、創作される現場では、心理、身体、社会環境、状況、そして使われる素材によって、どのような作品が顕在化するかというだけの問題なのではあるまいか。
芸術作品は、まったくゼロから、作られるわけではなく、どのようなものをどのように出してくるかという問題なのではあるまいか。
構造主義が明らかにしたところによると、人類の知や生活様式はすでに決まっていて、それぞれの文化によって何が顕在化されるかが決まるというが、それと同じことなのではないだろうか。
戦後、絵画がキャンパスに載った絵の具であると定義されたときから、作品は科学的な解明ができると信じていたような論があった。
フォーマリズムと言われる一連の論調を思い出す方もあるだろう。
フォーマリズムの興味範囲は、支持体や画面などの効果であったが、現在の芸術作品をめぐるメカニズムは、フォーマリズムとは違った、もっと大きな意味合いにおいて、働いている。
このメッセージサイトのテーマでもある「自然-精神-身体-社会をつなぐ」ということも、ひとつのメカニックな働きである。
このようにいうと、あたかも私は芸術家の熱情や、言葉にならぬ想いや、世界に対する深い愛について冷淡であるような印象を与えるかもしれない。
しかしその熱情や愛が、芸術家本人の固有のものでありその人しか持ち得ないものか、それとも誰でも持ちうる普遍的なものかというと、もちろん後者のほうだろう。
つまり芸術家が普遍性に対してオープンであるならば、もっとも最適化されたメカニズムをもった方法を選択するであろう。もっとも効率のよい力学的な方法を選ぶであろう。
もっとも優れた芸術家とは、その人がいなくても作品が成り立つような人のことだろう。
つまり、芸術家というものは既にいなくて、もっとも最適化された、普遍的な方法のみが生き残るであろう。
そのような状況が一般化すれば、芸術は、真の意味でその役割を終えた状態と言える。
←気が向いたら押してください
にほんブログ村
0 件のコメント:
コメントを投稿