2011年5月16日月曜日

亀であるとは、どういうことか


曇り空にもかかわらず
亀が岩の上で日向ぼっこをしていた。(画像の中央に小さく写っています)


石や水とともに、体温が上がるのを待っていた。


「亀である」とはどういうことなのか。
亀は、石の上に乗って、何を感じているであろうか?
それは、石や水であるということと同じなのか?




「生物からみた世界」という本の冒頭にダニの生活について書いてある。


ダニは手近な灌木にのぼり、下を動物が通るのを待っている。
下を動物が通ると、酪酸の匂いがするので、直ちに落下する。
そして動物の皮膚にかじりつき、血液をたらふく飲み、その後、地面に落ちて卵を産み、死ぬ。


ダニは灌木の枝で18年間待つことができるという。


ダニには眼がなく、味覚もない。
彼女(この「待ち伏せ」をするのはメスだけだそうだ)は我々人間の想像を絶する
感覚世界に住んでいる。


ダニの生活が示唆するのは、生物種と同じ数だけ、感覚世界があるということである。
私たち人間は、感覚世界のうちのごく一部しか感知していない。




これに関してもう2つの示唆的な事例がある。


(1)神話においては人間が動物と話をしたり、結婚したり、また人間が動物に変化したりする。
動物のみならず、石や木になったりすることもある。
神話が実効的な力をもっていた太古には、自然の力が圧倒的であり、人間は自然の片隅で生きていた。妖怪や精霊などの異界の生き物が身近にいると信じられていた。


(2)いわゆる神秘体験を経験した人に共通して言えるのは、「すべてのものが境目なく同じ」と考えられることである。そして、自分が床になり、動物になり、工事をしている人のツルハシの先になったり、あらゆるものになる。(私はこういう体験は、実は手順を踏めば誰でも経験できるものではないかと想像している。)


感覚世界の全体をとらえようとすることは、私がつくろうとしている新しいパラダイムにおいて、非常に重要なことだ。
いまや自然の理解は科学的理解が主流となっており、神話や神秘が入る余地がなくなっている。
しかしだからこそ、生物世界の全感覚を想定することが可能となった。


さて、亀であるとはどういうことか。
もちろん亀本人でなければわからないだろう。しかし亀であることを想定した世界を作ることができるのは、人間の稀有な能力だと思う。


(「生物からみた世界」は古い本にもかかわらず、内容の興味深さから、さまざまな人が
Webサイトを書いているので検索してみてほしい。もちろん読書もお勧めする。)



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