2010年4月26日月曜日

小麦粉と竹炭で、内臓感覚の絵画を。


↑クリックすると大きくなります。

ふたたび、食物を使った制作です。
小麦粉を水で溶き、竹炭をまぜて、滑らかな紙の上に手で広げました。
紙の広さは50cmX40cm程度。
最初はネタネタしていて、拡がり易いですが
そのうち乾いてきて、表面から剥がれるようになります。
小麦粉はご飯のりと違って、ややざらざらした質感があります。
写真は、制作後、12時間以上経ったものです。



なぜ食物を使うのか、自分でもわかりません。
とにかく今では売っている絵具を買ってきて使うなど考えられないのです。



僕にとって感触・触感はとても重要で、今のところ、滑らかさの面では、ご飯糊が一番だと思います。



前にも書いたことですが、これは、僕にとって、意識できていない身体の機能、内臓の動きとか、視覚以前、視覚をつくる身体の機能などを示すことです。
昨日、「肉体こそが大きな理性」ということを書きましたがその「大きな理性」を現す方法なのだと思います。


奇妙に聞こえるでしょうが、何かを「見ている」感じです。
「見る」ということは、電磁波(光)の洪水の中から、何かを解釈し作り出していることに他なりません
つまり受動的なものではなく、積極的に作り出していることです。
手を伸ばして、まさぐるように造形している様子は、「見ている」のと同じような感じです。


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2010年4月25日日曜日

肉体こそが大きな理性



肉体は一つの大きい理性である。
一つの意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である。

私の兄弟よ、君が「精神」と名づけている君の小さい理性も、君の肉体の道具なのだ。君の大きい理性の小さい道具であり、玩具である。


ニーチェ「ツァラトゥストラ」手塚富雄 訳


ニーチェの慧眼には感服するばかりです。


私も肉体と精神の関係について、観察し、思索し、実践を重ね自分の精神や意識が、いかに肉体の条件に支配されているか、良くわかります。

それは、例えば体調の悪いときは気が弱くなるというような狭い話ではありません。

僕らが外界を捉えるやり方そのものが、私たちが備えている感覚器とその処理のしかたによって作られているものであるということです。

例えば、私たちは色を見ますが、実は自然界に色というものはありません。光の波長があるだけです。しかし私たちは波長500ナノメートルの光は緑、600ナノメートルは赤、というふうに小さな可視光線の範囲を微妙に区別して、豊かな色彩の世界をつくっています。そういった私たちの身体の感覚器とその処理の仕方は、最初から肉体に備わっていたのであって、私たちの精神の働き以前のものです。大いなる肉体の秩序です。

本当に、肉体こそが、巨大な秩序を持った本当の理性であって、私たちが「理性」と呼んでいる自分の精神は肉体の玩具ともいうべき小さな付属品に過ぎないのではないでしょうか。。。




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2010年4月24日土曜日

映画 ザ・ムーン を観て: 「全ては一つだ」



このDVDは面白い。

月に行った宇宙飛行士たちのインタビューと
宇宙空間や月面の映像を駆使したドキュメンタリー。

似たようなドキュメンタリーは他にもあるが
この映画は映像や構成が特に優れている。

月面の映像は、いままで見た中で一番鮮明で
神々しさを間近に感じる。
もうロードショー上映は終了したが、サイトはまだ掲載されている。

インタビューはどれも興味深いものだった。

中でも私の目を引いたのはアポロ14号のエドガーミッチェッルの言葉。
以下、字幕を引用します。

「最高の喜びは帰路に待っていた
窓から2分ごとに
地球 月 太陽が見え
そして見渡す限りの
広大な宇宙空間
圧倒されるような経験だった。
そして気づいた 己の肉体の分子も
宇宙船の分子も
クルーの仲間の肉体の分子も
その原型ははるか昔に宇宙で
つくられたものだと
すべてはつながっていて一体なのだと
他と私ではなく万物は1つなのだと
そしてエクスタシーに包まれた
真の自己に 悟りに触れたのだ」

全ては一つであり、つながっている。
あらゆるものは同じである。

荘子はこれを万物斉同と言っている
ニーチェが言うには 大いなる正午

このことはいろいろな人が、いろいろな仕方で言っているが
言っていることは大同小異で、
全ては同じでつながっているということと、そして強烈な幸福感である。

さて、私が憂慮するのはこのようなアイデアの社会の側の扱いである。
このようなことを「神秘体験」「特殊体験」として隔離し
「到達すべき悟りの世界」と捉えるような見方である。

こういうことは
むしろ普遍的なこと、当たり前でなんでもないことという風に考える風潮のほうが
望ましいと思う。むしろ日常的な話題にさえなるような。
いや、そのようにしなければならないと思う。

ところが、我々の現時点の社会では、このことが特殊な文化となってしまってるし
怪しげな分野に押し込められている。
(エドガーミッチェルの物言いも、ニューエイジ系の味付けがあるような気がする)

このようなアイデアを神秘主義から解き放ち、きちんと社会的に機能するような
文化的な回路をつくること。
それが私の目指しているものである。


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2010年4月21日水曜日

認識は・・・

認識は、意識されない肉体の活動の反映である。

ニーチェの言葉だったと思うが定かではない。

この言葉は、一見間違っている。
認識とは、意識されている筈だ。

私の目の前のキーボードも、マウスも、
座っている椅子も、意識されて初めて認識に上るのではないのか?

しかし、、。。どうだろう・・・・
マウスは硬いとか、キーボードが黒いとか、
それは、私の肉体の活動であり、肉体の感覚がそれを作っているのではないのか?
私がマウスを握って感じることは、少なくとも私の指の肉よりは、硬くて冷たいということだ。
それらのことは、私の肉体を通じて得られることに違いない。
そして、そのプロセスは、全く意識されていない。
私にとってマウスは、マウスとして突如として現われる。

世界は無尽蔵であって、私たちは肉体の活動によって、
その世界の一部を
認識の俎上に載せることができる。

だから、認識は意識されない肉体の活動の反映である。


枯れたと思っていたアサガオに芽が出た。


4ヶ月前


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2010年4月19日月曜日

内臓を認識する訓練

解剖図を見ながら
普段は意識できないカラダの各部分を
指し示す。


胃、肝臓、膵臓、胆のう、小腸、肺、心臓、腎臓、
副腎、甲状腺、大脳、小脳、延髄、下垂体、視床下部


一つ一つ、その機能を確認しながら
内臓の位置と働きを確認する。


今も、小腸は蠕動し
腎臓は血液から尿を漉し取り
肺胞はヘモグロビンに酸素を与えている。


はっきりとは感じ取れないが
内臓は、それぞれ独立した役割をする独立した部署である。
脳はその内臓の中の一つに過ぎない。


しかし脳は、どうしてこれほど、各内臓の働きについて知らないのだろう。
身体は、最も身近な自然現象であるというのに、
私にとってはむしろ「外部」である。


私にぴったりと寄り添っている、
もっとも身近な他人。それが私の身体。


私はこの人のことを
もっと知らなければならない。





水溜りの中と、木の影と、水面に映る光景・・・交錯する3つの世界。



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2010年4月16日金曜日

アエラの取材を受けました

朝日新聞出版の週刊誌「アエラ」の編集記者の取材を受けました。

連絡をいただいたのは古川雅子さんという、女性記者。

「裸健康法」(自宅で裸で居る健康法というのがあるらしいのです)のテーマ記事で、身体についての考察を求め、私のブログの「乾布摩擦と冷水摩擦」という記事に行き着いたことが、今回の取材申し込みのきっかけだという。
http://te-tajima.blogspot.com/2009/12/blog-post_23.html



自宅でインタビューを受けたのですが、健康法の話はさておいて、自然-身体-社会、神話、感覚などいろいろなことを語りました。

というのは、古川さんは私の「〈野性〉論」を買って、あちこちに線を引っ張って熱心に読んでくれていました。
古川さん自身、介護現場など様々な取材をとおして、また子供を持って働く女性として、また出版界の競争の中にいて、現在の社会システムに問題意識を持ち、
この社会は何かオカシイと思っていたとのことです。
そして私の本を読んで、この状況をキチッと説明する言葉に出会い感銘を覚えたということです。
私という取材対象の事前調査というものを超えた、エモーショナルなものを感じました。
このような理解者にお会いできて、私も嬉しい。

テーマ記事の内容は外せないので、その「裸健康法」なるものの、たぶん身体についての内容の一部として田島の話が載るだろうということです。5月初旬か中旬に発売されるアエラのに掲載されるとのことです。


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2010年4月12日月曜日

なぜそれは秘密なのか



感覚で伝えられる文化は、大抵が秘密だ。

例えば
錬金術は、厳しい秘密主義が守られていた。
アボリジニの儀式の内容も参加者以外には秘密にされている。
チベット医学にはテキストがなく、師弟による直接の教授によって学ぶしかない。

神話が語られる時と場所は限定されていて、
特定の時の限られた人にしか話されない特別な話だった。
今のように神話が書物に書かれているのは
後世の文明社会が「研究」のために書いたものが多い。

感覚を頼りにする以上、言葉で表現することは非常に難しい。
テキストに書くことができない、もし書いたとしても誤解を招くことになり
非常に危険だ。
また言葉によって流通することによって、消費され、
求心力を失うことにもなりかねない。

何よりも、その感覚が充足した「空間」が必要なのである。
その感覚は、再現したり、伝えたりすることが非常に難しい。

さて、あらゆるものを消費するこの現代社会にあって
感覚的な空間を作り出すことが可能だろうか。

その空間を保持し、言葉によらずして他者に解らせ、
広めていくことが可能だろうか。


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2010年4月9日金曜日

桜の生存戦略?


桜は7日ほどで散ってしまう。
このようにハデに花を咲かせ、短時間で散ってしまうのは、
特別なイベント性のある花となってこれを人間に気にいってもらって自分を増やそうという
桜の生存戦略なのだろうか。。





2010年4月7日水曜日

桜 Ⅱ

僕が桜を異形だと思う一つの大きな理由は、
幹から直接芽がでることだ。
あらぬところから、漏れ出した感じだ。









きれいというよりキモチがわるい。
ヒトで言えば、胴体から目や指が出ているようなもの・・・

2010年4月6日火曜日

この時期、どれだけの人が桜を写真にとり、
またブログにアップするのだろうか?

桜は華やかだが、ある種の狂いを感じる。
一種の異形だ。


植物という生は不思議なものだ。
我々とは違う、別の知性。









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2010年4月4日日曜日

言葉について

今の文化体系において
感覚が絶対的に足りないと気づいて
このメッセージサイトを立ち上げたのだが
わが道の困難さに
しばし立ち止まって考え込んでしまう。

この世を支配しているのは
身体的な感覚的な言葉ではなくて
脳的な、分析的な言葉だ。

言葉の前提となる共通条件がない
言葉が通じないという困難さである。

それは覚悟の上で始めたことなのだが。

しかし、ともすればこの私も
論理的で分析的な、世間の言葉に
右往左往してしまう。恐ろしいことだ。

感覚的、身体的な
新しい言語の体系を築いていくことは
確かに必要なことだと思う。
長い道になるだろうが。