2010年1月30日土曜日

世界創造


創造者は9つの世界を同時に作った。 素材はコーヒーです。

次は110cm x 180cmの大きな世界を創造。 (画面をクリックすると大きくなります。)


素材は、

うがい薬
コーヒー
牛乳
寒天

ラード

鎮痛剤
(ちなみに、イソジンうがい薬は紙に垂らしてすぐ乾燥すると青くなる。
茶色のところは未だに液体の部分である)

これら材料には、レヴィ=ストロースの神話分析を参考に、感覚の対応を考慮した。

大半の材料は「飲み込む」に対応するのに対し、うがい薬は「吐き出す」を示す。
コーヒー(苦味)、牛乳(甘み)、塩(塩辛い)、酢(酸っぱい)の各味覚に対応。
ラードの脂っこい感触も加えた。
鎮痛剤は、「痛み」を考慮した。

日本の神話と、科学が明らかにした宇宙や地球の成り立ちに共通するのは、
時間の進行による冷却化によって、複雑化し、秩序が作られていくということだ。
最初は混沌としたものが、冷却化によって、大地が生まれ、水が溜まって海となり
生命が誕生した。
これらも、攪拌や乾燥の過程によって、秩序が生まれていく。

部屋の中で創造が進行中。

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2010年1月29日金曜日

次は「うがい薬」



Creatorの次の生成の糧は、「イソジンうがい薬」である。

タンスの上で、密かに生命を生み出している。

創造から5日目。ゆっくりと進行中。




日曜の公園

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2010年1月26日火曜日

コーヒーで自然現象を創る。








紙の上で、
地形ができるような自然現象を行ないたいと思った。

滝や海を「描く」のではなく、
紙の上に滝や海を「創る」
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最初は、水彩絵具を垂らして乾燥させてみた。
どうもしっくりこない。
ダメだ。体になじまない。
すでに絵具として用意されているものはダメだ。

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コーヒーを煮詰めて濃くして、垂らしてみた。

これなら大丈夫だ。
紙が歪んで、そこにコーヒーが溜まり、
ゆっくりと乾燥していく。
作者でもコントロールできない形をもった、
自然現象ができあがった。

イザナギは矛を混沌の海に差し込んで
しずくが滴って、それが日本の島々になったという。

私は矛ではなくコーヒーで天地を創造する。



関係ないが、伊豆半島の溶岩。

2010年1月21日木曜日

僕の目指すもの



僕は大きく2つのことに関心がある。

一つは自然。もう一つは、自然に対する人間の理解の仕方だ。

自然とは、それは、僕の目の前にある、このありありとした自然。
そして、自然現象の一部としての身体
身体も自然の現象であって、血液が流れたり、呼吸をしたりするのは、
河が流れたり、風が吹いたりするのと、そう変わるものではない。

そして身体現象としての精神。心的な現象。
心で起こっていることは、体の中で起こる自然現象だ。

これらのこと、自然-身体-精神は、分割することができない、つながっていることであって
人間の理解を拒絶するようなところがある。
私たち自身が自然なので、基本的にその外に出て全体を眺め渡すことができないという
奇妙な制限があるのだ。

しかし人間はそれを理解しようとする。
何かの物語をつくって、自分の位置を見極めようとする。

僕ももう一つの関心は、人間が自然を理解しようとする、そのやり方だ。
昔は神話がその役を担っていた。
現在ある、姿を太古の物語によって説明し、自分の位置を定めていたのである。

時が経って、科学がその役割を果たすようになった。
科学が基にしている実証主義は、自然の姿を分析的に暴いていった。
科学は、自然のいたるところに根を伸ばし、その細かい繊毛を自然の各分野に浸透させていった。

しかし、科学による自然理解は、即物的で一方的であり、様々な弊害を生んでいる。
その弊害は、環境破壊とか色々あるが、
最も重大なものは、人間が自然を理解しようとするときに、当の自然そのものから離れてしまっていることだ。

科学と、科学が生み出した都市生活によって、僕らの自然や現象に対する眼差しは、
取ることができないような枠組みによって制限されてしまっている。

僕が目指していることは、科学的がもたらした豊かな自然の知識を持ちながらも、
かつて神話が担っていたような直接的、感覚的な自然の理解を、復活させることである。

感覚がそのためのキーになる。
神話は感覚の論理ともいうような人間に直接理解できるようなやりかたで語られている。
僕は現代の自然の理解に、そのような論理・そのようなやり方を持ち込みたいとおもっている。

「感覚で世界を捉える」とは、まさに感覚の論理を新しく確立しようとする、僕の目指すことを言っている。
そして芸術は、「感覚で世界を捉える」ことを表現するための良い手段だと思う。


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2010年1月20日水曜日

幻の民 ケルト





http://www.ponycanyon.co.jp/video/celts/


先週、「幻の民 ケルト人」という
BBCのドキュメンタリー番組を収録したDVDを借りてきて
6話6時間を全部みた。

古い番組だが、本当に新鮮だった。



ケルト人----紀元前1世紀ほど前にヨーロッパで栄えた民族
高度な金属細工技術を伝え、
水を神聖なものとして祭り、動物と人間を区別しない多神教。
定住せず、移動を続けた放浪の民。

生と死を連続したものと見て、
戦いを重んじ、剣をつかった戦いのゲームを好んだ。
既に鉄器を知っていた彼らは、戦士や戦いを尊び、
それゆえ、ローマから好戦的とか、野蛮というレッテルを貼られていた。


多種の魅力的な神話を持ち、その数々の神話が
今日のイギリス文学を生み出す元となった。


派手な衣装をまとい、ヨーロッパ一カラフルな民族と呼ばれた。
文字をもたず、口承で分化を伝えていた。


神々に生贄をささげ、
人間の頭部を特別な力があると考えて
敵の頭部を切り取って祭っていた。

後にローマ帝国に追われ、
アイルランド、ウェールズ、スコットランド、そしてフランスのブルターニュに
その文化の痕跡を残すのみ。

(画像は、ここからお借りしました。http://www.nichiai.net/gallery/top.html
荒涼とした、しかし湿気を帯びた大地。
静寂の河や湖。
馬を駆って走るケルトの民。

ケルトは僕らの想像力を刺激してやまない。


ケルトの持つ世界観は、非常に感覚的であり、
身体的、そして直観的だ。

感覚とか、身体的とか直観的とかいうのは
知識や理屈抜きで、いっぺんに全部を理解できてしまう、という意味だ。
取引や、享楽や、自然との関係を、
現代の私たちとは全く違ったしかたで理解していたのだ。

それに匹敵するものとして日本には縄文があった。

いつかアイルランドへ、そしてウェールズへ行きたい。




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2010年1月17日日曜日

神田神保町の「路地と人」に搬入





神田神保町のギャラリースペース「路地と人」に


パックされた本の作品7つ置いてきました。


1つ1500円。

私の著書、〈野性〉論 も置かせてもらいました。

4月からの本格オープン前のプレ企画だそうで、

ハデな催しではありませんがアットホームな感じのいい場所です。

路地を入ったわかりにくい場所にあるため、

地図をプリントアウトしていったほうがいいですよ。

「路地と人」ホームページ↓

http://rojitohito.exblog.jp/





近くにあった建物の壁


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大地の暴力

今日1月17日は、阪神淡路大震災の起きた日です。


そして数日前、ハイチで巨大地震が起きました。
さて、僕たち人間は「巨大」地震といっていますが、
地球の大きさに比べると本当に微々たるものです。



地球の直径は1万3千キロメートルくらいで、
僕たちの住んでいる大陸の地殻は
厚さが僅か30キロメートルくらいです。


つまり、地球を直径1メートル30センチくらいの
大きなボールと考えると、大陸の厚みは僅か3ミリです。
リンゴに例えれば内部のコアがリンゴの芯で、
果肉は対流するマントル、
大地はリンゴの皮の部分です。


大地とは、マントル対流の上に載った、薄皮のようなものです。


牛乳を鍋で熱すると表面に皮膜ができますけれども、
私たちの暮らしている大地は、まさにそんなようなものです。


巨大地震というものは、その薄皮の表面の一部が、
ちょこっと揺れた程度のものです。


しかし、そのちょこっと揺れた程度のことが
私たちの生活に決定的な大打撃をあたえるわけです。




僕は、地震が大嫌いで、
この大地の暴力の強大さに身震いします。


岩石は非常に硬いものですが、
もともとは、海の底に溜まったやわらかい泥だったはずです。
それが、このような硬い岩石になった、ということは
よほど巨大な力が加わったと思います。


僕は、岩石を自分の手のひらの中心部分(たなごごろ)で握ると、
その暴力的な力を感じます。



(「たなごごろ」については以下を参照)
http://te-tajima.blogspot.com/2009/12/blog-post.html





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2010年1月14日木曜日

神田で本の展示

私の本の作品が、本の町、神田神保町で展示されます。
本好きな私としては嬉しい限り・・・

展示されるのは、このときの作品の何冊かです。販売もしますが、価格は変わっています。
http://te-tajima.blogspot.com/2009_07_01_archive.html



以下、イベント主催者の言水ヘリオさんからの案内をコピペでお伝えします。
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このたび、神田神保町にて展示やイベントを行うスペースを共同運営することになりましたのでお知らせいたします。

スペース名:路地と人

運営メンバー:安岐理加、大村みよ子、言水へリオ、原田淳子
住所:101-0051 東京都千代田区神田神保町1-14 英光ビル 2F
アクセス:地下鉄神保町駅A5出口より徒歩2分

連絡先:現在準備中につき1月のイベントについては各運営メ ンバーまでお願いいたします
ホームページ:http://rojitohito.exblog.jp/

※正式オープンは2010年4月上旬です。3月まで は準備期間として展示やイベントを予定しております。

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まず、1月は……

『逃げろ!半分書店~国際ブック・アート・ピクニックを西に見 て』です!
場所:路地と人(神田神保町)
日時:2010年1月15日(金)~1月31 日(日) 
水木曜日定休13時~19時(最終日はイベント開催のため16時で終了 します)

本を持って逃げる。
本は「逃げるとき」に持っていける。
通勤と本、旅と本。時間の洪水と本。そこには何でも書いてある。
美術作品は逃げるときに持っていけるだろうか?逃げるときに(美術を)行うことはできる?

大阪の「やっぱり本が好き!国際ブック・アート・ピクニック」(2010 年1/19~31  http:// bookartpic.exblog.jp/ )の開催にともない、東京でも本と美術に ついて「書店」「展示」「飲食歓談」という3つのセクション を通して考えてみよう、という試みです。

「書店」では美術館やギャラリーなどの刊行物、美術家の本、作品 集を販売します。
「展示」では本にまつわる美術作品を展示します。
上野慶一、淤見 一秀、コイズミアヤ・関口涼子、平良亜弥、田島鉄也、利根川友 理、原田淳子、福田尚代、ふるさかはるか、以上各氏の作品展示と なります。

「飲食歓談」ではゲストを招き、本と美術を話題に飲食歓談しま す。今回のゲストは、「気どるな、力強くめしをくえ!」を掲げ る、ライターの遠藤哲夫さんです。→ブログ「ザ大衆食つまみぐい」http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/

■ 1/15(金)日没~ (1 drink order & free foods)
「ただいま準備中、路地と人」
「路地と人」を公開する初めての日を祝ったパーティです。
みなさんと情報交換などできたら嬉しいです。
お誘い合わせのうえぜひいらしてください。

会期中、運営メンバーによる三日間限定喫茶と、大阪レポートも開催いたします。
■1/22(金)~1/24(日)13:00~19:00  
(入場無料)
「安岐理加 半分喫茶」自家焙煎珈琲とひらめきおやつ(その他の 飲み物も有り)
半分書店で半分喫茶。
そこは時間の隙間? 
それともつかの間の居場所?それぞれの路地をつないでたどりつく人々。
オープンからクローズまで3日間だけ美術と本と喫茶を試みます。

■1/29(金)19:00~20:00 (入場無料・予約不要)
「ザ大阪スライドショー」
1月23日(土)に大阪で行われる二つのイベント「OCA! シンポジウムアートの力を信じる。~釜ヶ崎での取り組みを事例に、地域とアー ト、社会とアートのかかわりをさぐる。そして、世界とであいなお す。」(レポーター:原田淳子)と、「やっぱり本が好き!国際 ブック・アート・ピクニック国際交流セミナー ブックアートをめ ぐって」(レポーター:言水ヘリオ)に行ってきた感想とレポート。


最終日は飲食歓談で締め。
■1/31(日)16:00~19:00 (会費1,000円  1 drink & 1おでん付。定員15名)
飲食歓談「半酒場」

今年1月5日のブログで、うらわ美術館の「オブジェの 方へ─変貌する『本』の世界」へ出かけ楽しんだ様子を書かれてい た、エンテツさんこと遠藤哲夫氏(別名「大衆食堂の詩人」)。エ ンテツさんを囲んでの飲食歓談です。
この「半酒場」では、エンテ ツさんに話していただくというだけでなく、みんなでワイワイ飲み 会しましょう。追加ドリンクや追加おでんもご用意しております。会場 の関係で、定員15名。ご予約ください。(予約先 rojitohito@gmail.com )以上、みなさまのお越しを心よりお待ちしております。

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言水ヘリオ
---------------
言水制作室101-0051東京都千代田区神田神保町1-14英光ビル205号室03-3292-9229(ファクス共)http://www.kotomizpress.jp/helio@kotomizpress.jp

2010年1月7日木曜日

新しい神話へ

神話は「感覚の論理」によって語られているといいます。
観たり、聞いたり、嗅いだり、触ってべたべた、ざらざら、
という感覚を素材にして展開されます。
人類学者のレヴィ=ストロースは数千もの神話を収集し、様々な神話を
数学でいう変形群のように捉えて、その論理を明らかにしていきました。
神話は、生/死、生もの/火にかけたもの、乾いたもの/湿ったもの、熱い/つめたい
などの対比でもって展開されていて、
人間はどこから来て、どこへいこうとしているのか
人間がいまあるようになったのはなぜか、などのことが語られています。

神話は、起源に関する話であり、しかもそれが社会の中に生かされていました。
主に祭礼の根幹として機能していました。
しかもそれが身体性・感覚をもとにして語られているわけです。


さて、科学というものも実は神話であるということができます。
元素、分子、ゲノム、ビックバンなども、起源に関する物語であり、
一方私たちの生活を支える科学技術や産業をささえる基盤となって
います。


しかし私が残念に思うのは、科学は私たちの身体性、感覚性から、はるかに
遠くなってしまいました。
科学・医学で語られている言葉は、私たちの身の丈にあったものとは
言いがたいです。

だからといって、科学を一般の人にも親しみやすく、解りやすくしていこうとか
いうことではありません。全然違います。


私は、感覚というものの範囲を広げ、
全ての事象にはそれに見合う感覚が最初からあって、
人間とはその広い感覚レンジの極一部が顕在化したもの、
いうならば居場所を見つけて集まった小さな吹き溜まりのようなものと
考えるのです。

素粒子物理やトポロジーがいくら難しくても、決して抽象的・観念的なものではなく、
すでにそれに見合う感覚が張り付いているのだが、人間の感覚の幅が狭いから
解りにくいだけなのだというわけです。
いやむしろ感覚のほうが先にあって、物質や現象はその後からつくられているのです。
宇宙創成のときは、時空の発生なのではなくて、実は感覚の発生であり、
それが、徐々に様々な感覚に分化したのだと。
人間とは、人間の5感とは、極狭い領域に非常に多様な感覚が分化発現している
状態なのです。
この宇宙は、感覚の渦巻く世界、感覚の調和の世界であると捉えることです。

現在、人間と自然との関係は、殺伐とした、即物的な関係です。
自然は産業資源の採取場のようになってしまい、いかに効率よく利用するかということに
主眼がおかれるようになりました。
そして、自然がきしみはじめると「生態系」を「保護」すべき対象とされました。

私は、科学が明らかにする自然の真実の世界に、
再び神話のような感覚の論理を持ち込んで
再構成したいと考えています。

「感覚で世界を捉える」とは、そのような拡張された感覚を元に、
現代の新しい神話を形作っていこうということです。
そしてそれは、もちろん私たちの身体や生活感覚によって
機能していくものに違いありません。



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冬の池でカモが寝ている。暖かいのか寒いのか・・

2010年1月5日火曜日

自分で死を選択する時代へ


iPS細胞の出現によって、人工臓器の実現はより現実的なものになりました。
事故によって脊髄を損傷し、歩けなくなった人や
心臓や肝臓に病気をもっていて臓器提供者を待っている人のために
その実用化が一日も早くくることを祈らずに居られません。
自分の髪の毛や口内から取った細胞で、自分用の臓器を作ってそれを
移植すれば、もともと自分のものだから拒否反応はないし
ドナーの出現を待つ必要もない。
自分用の血液を作って保管しておけば、いざというときの輸血にも役立ちます。


さて、当然ながら、老化とともに衰える身体のスペアパーツとして
各種の身体を作っておくビジネスが開始されるようになると思います。

そうすると、人間はかなり長生きできるようになる。

でも、脳はどうか。

今、いわれているのは、記憶のバックアップをとっておいて
クローン制作した脳にその記憶を戻せば、脳もリフレッシュするというわけです。
まだまだSFめいた話ですが、かなり人間の欲望に訴える
(つまりビジネスとしては需要の大きい)ことなので、
近い将来実現する可能性はあると思います。

そうなると人間は死ななくなる。
カネで寿命を買えるようになるわけです。
千年くらい生きている人がざらにいるようになるかもしれません。
1万年生きる人も出てくるかも。
千年万年生きているとどうなちゃうんでしょうか。
人間、年をとると穏やかになってきて、豊かな人生経験から考えも柔軟になり
ものすごい人生経験と知恵がついて、
屋久杉のように神々しくなってくるかもしれません。

そういう人生の先達のような人相が、どうみても皺ひとつない20代の顔だったとしたら・・・・
これって、お釈迦様とか、仏陀とか、そういう人相に近くなってくるのではないでしょうか?

このように悟りきった人が、延命処置を延々と続けるとも考えにくい。
あるところで折り合いをつけて死を受け入れるようになるでしょう。

あるいは、責任感が強くて、もっとこの世で働きたい、
または好奇心が強くて、もっと自然界の謎を知りたいと思い、
延命処置を続ける人もいるかもしれません。
それはそれで生き生きとした人生を長く続けることでしょう。

なぜこんな話をするかというと、これもゲノムの可能性のひとつであるからです。
このような人工的な生、自然の摂理に反した新しい生の可能性。
それも生の在りようとして承認しなければならなくなるでしょう。

そして、人間は自分で生と死を選択するようになると思います。
「終わる」ということを自分で選びとること。
肉体の限界で仕方なく死ぬのではなく、死を受け入れるのでもなく
自ら「終わりにすること」に意味を見出し、積極的に死を選び取るということです。

これは「もし仮にそうなったら、その時の話さ」と仮想的な話ではなくて、
不死を手に入てなおかつ死に意味があるかという
究極的な生命倫理の問題です。

永遠の生といえば、ニーチェの「永遠回帰」を思い出しますが、
ニーチェは永遠回帰に耐えられる者として超人を想定しました。

永遠の生に絶えられるな倫理がない限りは、僕らの生の構造的枠組みであるところの
ゲノムの大空間に耐えられる生は築けないでしょう。

2010年1月2日土曜日

分子生物学的な私



私というものは、何なのか?

私というものは、結局は、何でも無いのでしょう。
私は、私でなくても良かった。
貴方でもよかったし
彼でも彼女でも良かった。
たまたま、私は私だったのです。

私は、2つの事象に漂う表層です。

一つは自然界の現象の中に。
・・・・多くの人は、自分は自然の一部であり、
自然に生かされているということに反論はしないだろう。

もう一つはゲノムの海の中に。
・・・人間のDNAは60億の塩基配列でつくられている。
だからそのパターンは4の60乗の数だけある。
書き記すことさえ困難な膨大な数です。


分子生物学は、このような(まだ実現していない可能性も含めて)
可能性の空間・可能性の生命圏を発見しました。
実に画期的なことです。

私とは、私の自我とは、
木の板に表されているように見える人の顔、
星をつないで形を作り星座に見えるようなもの。
ゲノムの中の一つの可能性に過ぎぬものに
仮想的な表象を与えられたものです。

もちろんゲノム全体の中で、実際に実現された塩基パターンは
(つまり実際に実在した生命は)極々少数に過ぎない。

だから、殆どのゲノムの可能性は、見えない暗黒として
深淵のまま横たわっています。
人間はそれを利用し、
遠からぬ未来に人工身体や人工生命体が実現するでしょう。

私たちは大自然の営みは畏怖と敬意をもって見つめるのですが
一方このゲノム空間ともいうべき大空間を、
あまりにも過小評価していないでしょうか。

もちろん、このゲノムというシステムを作ったのは
長い地球の歴史の進化の産物なのですが、
ゲノム自身はそれとは別の構造的な、広大な、
実現されていない未知の空間を作り出したのです。

自我というものは、表面に現われた薄い層で、その裏には地球の膨大な過去の
歴史があり、一方、それは未だに暗黒に満ちたゲノムの可能性に対して
開かれています。




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