神話は「感覚の論理」によって語られているといいます。
観たり、聞いたり、嗅いだり、触ってべたべた、ざらざら、
という感覚を素材にして展開されます。
人類学者のレヴィ=ストロースは数千もの神話を収集し、様々な神話を
数学でいう変形群のように捉えて、その論理を明らかにしていきました。
神話は、生/死、生もの/火にかけたもの、乾いたもの/湿ったもの、熱い/つめたい
などの対比でもって展開されていて、
人間はどこから来て、どこへいこうとしているのか
人間がいまあるようになったのはなぜか、などのことが語られています。
神話は、起源に関する話であり、しかもそれが社会の中に生かされていました。
主に祭礼の根幹として機能していました。
しかもそれが身体性・感覚をもとにして語られているわけです。
さて、科学というものも実は神話であるということができます。
元素、分子、ゲノム、ビックバンなども、起源に関する物語であり、
一方私たちの生活を支える科学技術や産業をささえる基盤となって
います。
しかし私が残念に思うのは、科学は私たちの身体性、感覚性から、はるかに
遠くなってしまいました。
科学・医学で語られている言葉は、私たちの身の丈にあったものとは
言いがたいです。
だからといって、科学を一般の人にも親しみやすく、解りやすくしていこうとか
いうことではありません。全然違います。
私は、感覚というものの範囲を広げ、
全ての事象にはそれに見合う感覚が最初からあって、
人間とはその広い感覚レンジの極一部が顕在化したもの、
いうならば居場所を見つけて集まった小さな吹き溜まりのようなものと
考えるのです。
素粒子物理やトポロジーがいくら難しくても、決して抽象的・観念的なものではなく、
すでにそれに見合う感覚が張り付いているのだが、人間の感覚の幅が狭いから
解りにくいだけなのだというわけです。
いやむしろ感覚のほうが先にあって、物質や現象はその後からつくられているのです。
宇宙創成のときは、時空の発生なのではなくて、実は感覚の発生であり、
それが、徐々に様々な感覚に分化したのだと。
人間とは、人間の5感とは、極狭い領域に非常に多様な感覚が分化発現している
状態なのです。
この宇宙は、感覚の渦巻く世界、感覚の調和の世界であると捉えることです。
現在、人間と自然との関係は、殺伐とした、即物的な関係です。
自然は産業資源の採取場のようになってしまい、いかに効率よく利用するかということに
主眼がおかれるようになりました。
そして、自然がきしみはじめると「生態系」を「保護」すべき対象とされました。
私は、科学が明らかにする自然の真実の世界に、
再び神話のような感覚の論理を持ち込んで
再構成したいと考えています。
「感覚で世界を捉える」とは、そのような拡張された感覚を元に、
現代の新しい神話を形作っていこうということです。
そしてそれは、もちろん私たちの身体や生活感覚によって
機能していくものに違いありません。
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冬の池でカモが寝ている。暖かいのか寒いのか・・
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