僕は大きく2つのことに関心がある。
一つは自然。もう一つは、自然に対する人間の理解の仕方だ。
自然とは、それは、僕の目の前にある、このありありとした自然。
そして、自然現象の一部としての身体。
身体も自然の現象であって、血液が流れたり、呼吸をしたりするのは、
河が流れたり、風が吹いたりするのと、そう変わるものではない。
そして身体現象としての精神。心的な現象。
心で起こっていることは、体の中で起こる自然現象だ。
これらのこと、自然-身体-精神は、分割することができない、つながっていることであって
人間の理解を拒絶するようなところがある。
私たち自身が自然なので、基本的にその外に出て全体を眺め渡すことができないという
奇妙な制限があるのだ。
しかし人間はそれを理解しようとする。
何かの物語をつくって、自分の位置を見極めようとする。
僕ももう一つの関心は、人間が自然を理解しようとする、そのやり方だ。
昔は神話がその役を担っていた。
現在ある、姿を太古の物語によって説明し、自分の位置を定めていたのである。
時が経って、科学がその役割を果たすようになった。
科学が基にしている実証主義は、自然の姿を分析的に暴いていった。
科学は、自然のいたるところに根を伸ばし、その細かい繊毛を自然の各分野に浸透させていった。
しかし、科学による自然理解は、即物的で一方的であり、様々な弊害を生んでいる。
その弊害は、環境破壊とか色々あるが、
最も重大なものは、人間が自然を理解しようとするときに、当の自然そのものから離れてしまっていることだ。
科学と、科学が生み出した都市生活によって、僕らの自然や現象に対する眼差しは、
取ることができないような枠組みによって制限されてしまっている。
僕が目指していることは、科学的がもたらした豊かな自然の知識を持ちながらも、
かつて神話が担っていたような直接的、感覚的な自然の理解を、復活させることである。
感覚がそのためのキーになる。
神話は感覚の論理ともいうような人間に直接理解できるようなやりかたで語られている。
僕は現代の自然の理解に、そのような論理・そのようなやり方を持ち込みたいとおもっている。
「感覚で世界を捉える」とは、まさに感覚の論理を新しく確立しようとする、僕の目指すことを言っている。
そして芸術は、「感覚で世界を捉える」ことを表現するための良い手段だと思う。
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