ヨーゼフ・ボイスの言説は、難解だ。例えばこんな調子だ。
自らの身体性として現前しているものを動かすことによって、
言語の身体的側面を通じて情報を伝達することができるという事実を経験するのである
(1977年ドクメンタ6における講演 「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」(人智学出版)より)
・・・要するにただ、「口で話す」ということだが、そうは言わない。
カント以来のドイツ観念論の精神文化史に深く傾倒しているボイスは
時には哲学用語を駆使して聴衆を煙に巻く。
ボイスの言葉使いは独特である。
しかし彼の言説の周囲には、なんともいえない不穏なものが流れており
何かが起こりそうな予感がするのである。
この謎にはまってしまうと、混沌とした言説と作品群とアクションの森の中に
さまよい始めることとなる。
彼の言説は どう考えても賛成しかねるところがあり、思わず反発したくなる。
そうなると、もう私たちの思考はボイスの作品にしばしば登場する脂肪のように
とろけて流動しはじめているのである。
すなわち、私たち自身がボイスのいう社会彫刻の一部として機能し始めているのだ。
問われるべきは、そもそも革命はいかにして生起しうるかという問いであろう。 革命家はそこで、自ら実験することにより、たとえば自らの四周に現前するものを 観る事によって、さらなる操作性へと入ってゆかねばならない。 この知覚において彼は自らに問わねばならないであろう。
「この知覚とは何であろう。この知覚の中には、 自由な創造性の存在の基礎づけを可能とするようなエレメントへと自分を導くようなものが 存在するのであろうか。 」
(1977年ドクメンタ6における講演 「ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻」(人智学出版)より)
・・・・どうも各自の知覚や思考が、革命の始まりであるといいたいようだし、また社会全体が一つの生命体として機能するとでも言いたいらしい。
ボイスはいう。人間は、本来、創造者であり、すなわち芸術家であり、革命家である。
この創造=芸術は社会を動かす力、すなわち資本である。
情報化社会の現在、人間の創造的な力が、社会を動かす力となっていることは明らかである。
しかし、それは、社会構成員が資本主義社会から創造的であることを求められている ということである。
創造性は去勢され、革命的な力は、資本主義を前進させることに利用されているのである。
そしてインターネットの情報網は生命体のように増殖している。
ボイスの理想は実現した。その言説の不穏な部分だけを取り残して。
しかし、ボイスの言説の不穏な部分、みずからボイスの言説について考え始めたら、すでにボイスの彫刻の一部になっているという不穏さ。
その粘着的な性格。つまり、掴もうとして手を出すと逆に粘着してとれなくなるという厄介さ。
彼は死んでから、消化され、消費され、無害な男になっていった。それは彼の意図ではなかったと思う。
ボイス的なるもの、ボイス的な不穏さ、関わったら傍観者ではいられない粘着的な言説。 そういうものは、何度でも復活されなければならない。
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