15年前の今日、地下鉄サリン事件が起きた。
多くの人にとってもそうだろうが、私にとっても一連のオウム事件は
衝撃的なものだった。
長年、私はオウム事件を自分で解釈できずにいた。
しかし昨年、「オウム真理教事件」完全解読(竹岡俊樹/勉誠出版) という本を読み、
オウム事件の総括ができたような気がする。
当時、私のホームページに記した短い文章がある。以下に再掲載しよう。
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2009.10.4
この書は、オウム真理教へ入信した人たちの入信動機を30ほど上げている。どれも、自分の醜さ、社会の歪みに真摯に思い悩み、それを除こうともがいている。自分の精神を純粋に、清らかに、高く、強くしたいという切実な思い・・・・それとは裏腹にバブルに浮かれる当時の日本の現状・・・。
思い出すのは、倫理的な姿勢を強く掲げた全共闘は、現実世界での「解放」の実現を計った図ったが、瓦解したのである。全共闘にも自己否定論というものがあった。
現実世界での「解放」実現が失敗したあと、新宗教は人間の純粋への憧れをうまく掬い取っていった。彼らは現実の世界とはまた別の、巨大な精神世界の存在を信じ、それに没入していったのである。現実世界での失敗の代わりに、精神世界での成就を目指したのである。
オウム真理教は、全共闘の振り子のゆり戻しのような意味あいもある。
修行し、解脱して現実世界との交わりを断つ。そして精神のステージを上げていくことが彼らの最大の関心事になったのである。その結果、煩悩とは逆の周波数をもった磁気をヘッドギヤのようなものからいれて自分の思考をカラにし、そこに麻原尊師の脳波を流すというグロテスクな代物まで登場したのである。考古学者でもある著者は、こう指摘する。
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ヒトが分析対象を自分自身に向けた時に「自分」とそれを観る「私」との乖離が出現したのである。つまり「自分」もそれを観る「私」も、私たちホモ・サピエンス・サピエンスが作り出した人工物に他ならないのである。そしてその時「私」が自分自身を解釈するために発明したのが「精神」や、「心」の概念なのである。肉体やものとは異なり、「精神」とは実体のない概念にすぎない。「精神世界」というものが存在するとするなら、それは私たちの巨大化した右脳に宿ったイメージと感性の世界、あるいは、オウム真理教の「精神文明」のように脳から生みだされる幻覚を核とした文化に他ならない。私たちは逃げていくべき真理の世界などどこにももっていないのである。
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