2011年10月2日日曜日

創造について

久しぶりに岡本太郎の「今日の芸術」を引っ張り出して読んでみた。


今読んでも本当に新鮮な内容だ。


岡本太郎は、現代では人間の全体性が失われていると嘆いている。以下引用します。




 なるほど人は、社会的生産のため、いろいろな形で毎日働き、何かを作っています、しかし、いったいほんとうに創っているという、充実したよろこびがあるでしょうか。正直なところ、ただ働くために働かされているという気持ちではないでしょうか。
 それは近代社会が、生産力の拡大とともにますます分化され、社会的生産がかならずしも自分本来の創造のよろこびとは一致しないからです。逆にただ生きるために義務づけられ、本意、不本意にかかわらず、働かされている。一つの機械の部分、歯車のように目的を失いながら、ただグルグルまわって働きつづけなければならないのです。
 「自己疎外」という言葉をご存知でしょう。
 このように社会の発達とともに、人間一人一人の働きが部品化され、目的、全体性を見失ってくる、人間の本来的な生活から、自分が遠ざけられ、自覚さえ失っている。それが、自己疎外です。
 自分では使うことのない膨大な札束をかぞえている銀行員。見たこともない商品の記帳をするOL。世の中は自分と無関係なところで動いているのです。
ーー「今日の芸術」第1章 より


 今日においても基本的に変わりないが、この本が書かれた1954年と現在2011年とは、だいぶ事情が変わっている。1954年当初では、「部品のような」労働の形が主流を占めていて、「疎外」という言葉も説得力を持っていた。
 さて現在、むしろ私たちは、創造的であることを強いられている。さまざまなビシネススキルを習得することを奨励され、成長を促されるのである。
 逆にいえば、歯車のように働くことができたのは、大資本に守られていたからであって、現在のように先がどうなるかわからない社会においては、個人の成長が重要なのである。


 しかし、現代人の多くが人格を磨くことに熱心かといえばそんなことはない。事態はむしろ逆である。私たちは今、底の浅い創造性を一生懸命発揮しなければならない時代に生きている。


 このことに関して、わかりやすく言っている人がいたのでリンクします。
http://embers.exblog.jp/5377386


 そもそも創造という行為は、生産的なものばかりとは限らないだろう。それらは、一見無駄で、くだらなくて、馬鹿馬鹿しい、そして時に血なまぐさい代物だ。条件つきの創造性などというものがあるだろうか?「世の中の役に立つ創造」というものは、言葉の定義からして矛盾している。

 そして創造が全人的なものであればあるほど、はたからみれば滑稽であろう。



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