2011年10月29日土曜日

沈黙について

ジョン・ケージの伝記を読んでいる。
ジョン・ケージといえば、私が薫陶を受けたマリナ・アブラモビッチが師と仰ぐ人である。

あの記念碑的な作品、“4分33秒”の誕生についても詳しく書いてある。
もちろん、“4分33秒”は、思いつきで生まれたのではなく、
東洋思想の深い理解から生じた作品である。

楽器が何も音を出さないことによって、ざわめきや風などの周囲の音を聞くことがその意味であるとのことだ。

さて翻って我々の生活には、なんと沈黙が少ないことであろうか。
また、町並みにしても、車道、歩道、家、塀、駐車場と、意味でぎっしりと埋め尽くされて
なんと窮屈なのだろうか。

私たちはそこに無理やり穴を開け、沈黙を流し込む必要がある。
私たちは息をする必要があるからだ。


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

2011年10月27日木曜日

芸術は現実を変えられるか

芸術は現実を変えられるのか。
古くて新しい質問だ。
芸術というものが独立して存在することが認められてからずっと
繰り返されてきた質問だ。


ロシアの構成主義が
フルクサスのメンバーが
現実を変えようとして取り組んできた。


結果、それで社会が変わったという歴史的な証拠は無い。


しかし、現在各地で行なわれている芸術祭や
ワークショップは、(人々の生活を変えたとは言いがたいが)
少なからぬ影響をもたらしている。


現実は変わったのか、変わりつつあるのか。


はっきり認めれば、変わりつつあるのだろう。
芸術に対する人々の期待は大きい。
その期待が少しづつ実現しつつあるのが、現在の状態なのだろう。
変わったのだ。ひとびとのコネクションが。
それがなければ実現しないような、人と人とのつながり。
それだけではなく、考え方のコネクションも変わってきている。


やはり、不可逆的な構造変化が起こっている。
みんな何かの間違いに気づきつつある。


芸術は画廊や美術館の中だけにあるものであり・・・
芸術祭は開催地域で、その期間内だけにあるものであり・・・・
そのような飼いならされた芸術はもう終わる。


芸術は、現実に影響を与えるだろう。
それはいわば、第4次産業として
あるいは古代の社会において神話が担っていたような
社会的な役割を担うようになるだろう。

にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

2011年10月16日日曜日

ここに在るということ

中之条ビエンナーレを振り返って感じたことは
「ここに居る」ということだ。

勿論、単に物理的に在るということだけではない。

この肉体から離れず
この心から離れず
この場所から離れず。

この3つが一致して初めて「ここに在る」ことはできる。

私は東京の日常があるから、中之条には、週末ごとに通っていた。
日帰り制作か、せいぜい一泊である。
しかし、滞在制作が基本であり、現場の空気を吸って現地のものを食べ
現場で考えなければ、やはり良いものはできないものだと感じた。


翻って、現在の私の住む場所はどうだ。

東京の住宅街で、特に何の特徴も無い。
自然豊かでもない。
はっきりいうと私はこの場所が好きではない。
飯能に生まれ育った私は、山や川が身近にあるのが本当の暮らしであり
今居るところは仮住まいという感じがしていた。

しかし、・・・しかしである。

現実に私は好むと好まざるに関わらずこの場所に居るのであり、
そうである以上、この場所から考える以外にないはずだ。
遠くのことを思うのではなく、今あるところを見るべきだ。

そう思って家の周囲を見渡すと、確かに操作できる素材がある。

私は、私の周囲の無意味なものたちに、意味を与えていかなければならない。
意味を与えることが、生きているということだからだ。

それらのことをなすために、
梶井基次郎は、大きなヒントを与えてくれている。




にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

2011年10月15日土曜日

梶井基次郎・ 闇の絵巻

梶井基次郎の小説をまとめて読んだ。

今は青空文庫で手軽に読むことができる。


殆どの作品は、社会と関わりを持たない男の独白という内容で、私小説である。

「檸檬」はもちろん秀逸だが、「闇の絵巻」も優れた作品だ。

療養先の旅館と旅館の間の暗い道を歩いていくというだけの話だが、なんという豊かな闇であろうか。
「この闇のなかでは何も考えない。」とはいうものの、実は、いろいろな感覚を動因して全身で闇を感じているのである。
山の黒々とした闇、沢の轟々とした水音、そして道の半ばに一つしかない電灯が、闇を強烈に印象づける。
  
 ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯(ちょうちん)なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに言ってみれば、「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんなふうに消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。


梶井基次郎は、闇という単なる現象に、多様な本質的な意味を与えることができる。
もちろんその才能は、我々にもあるはずだ。



にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

2011年10月7日金曜日

檸檬テロ

梶井基次郎は丸善で本を積み上げてその上に檸檬を載せ、
それを爆弾と称した。
彼のひそやかなテロは、彼自身にとってのみ有効であった。
「えたいの知れない不吉な塊」は、それによって吹き飛んだ。
だが、それは彼一人にとってのみ有効だった。

しかし今や檸檬は小説となることによって再生産されている。

現代、私たちは様々な社会基盤の上に生活し、それを利用しまたはそれに利用されている。
「えたいの知れない不吉な塊」は、ますます拡大する一方だ。

そもそも、現代の社会基盤は物語をもっていない。
住宅地には、主(ぬし)という大魚の住む沼も、キツネの出る松もない。

土地に物語がない。そのことは、土地が私たちの身体から遊離しているということだ。
私は土地にそして土地だけでなく、水道に、ゴミ処理施設に、インターネット回線に、
かけがえの無い物語を刻む。
物語が無い以上、自分で作るしかない。


かくしてインフラストラクチャに対するオペレーションが始まるのである。


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

2011年10月2日日曜日

創造について

久しぶりに岡本太郎の「今日の芸術」を引っ張り出して読んでみた。


今読んでも本当に新鮮な内容だ。


岡本太郎は、現代では人間の全体性が失われていると嘆いている。以下引用します。




 なるほど人は、社会的生産のため、いろいろな形で毎日働き、何かを作っています、しかし、いったいほんとうに創っているという、充実したよろこびがあるでしょうか。正直なところ、ただ働くために働かされているという気持ちではないでしょうか。
 それは近代社会が、生産力の拡大とともにますます分化され、社会的生産がかならずしも自分本来の創造のよろこびとは一致しないからです。逆にただ生きるために義務づけられ、本意、不本意にかかわらず、働かされている。一つの機械の部分、歯車のように目的を失いながら、ただグルグルまわって働きつづけなければならないのです。
 「自己疎外」という言葉をご存知でしょう。
 このように社会の発達とともに、人間一人一人の働きが部品化され、目的、全体性を見失ってくる、人間の本来的な生活から、自分が遠ざけられ、自覚さえ失っている。それが、自己疎外です。
 自分では使うことのない膨大な札束をかぞえている銀行員。見たこともない商品の記帳をするOL。世の中は自分と無関係なところで動いているのです。
ーー「今日の芸術」第1章 より


 今日においても基本的に変わりないが、この本が書かれた1954年と現在2011年とは、だいぶ事情が変わっている。1954年当初では、「部品のような」労働の形が主流を占めていて、「疎外」という言葉も説得力を持っていた。
 さて現在、むしろ私たちは、創造的であることを強いられている。さまざまなビシネススキルを習得することを奨励され、成長を促されるのである。
 逆にいえば、歯車のように働くことができたのは、大資本に守られていたからであって、現在のように先がどうなるかわからない社会においては、個人の成長が重要なのである。


 しかし、現代人の多くが人格を磨くことに熱心かといえばそんなことはない。事態はむしろ逆である。私たちは今、底の浅い創造性を一生懸命発揮しなければならない時代に生きている。


 このことに関して、わかりやすく言っている人がいたのでリンクします。
http://embers.exblog.jp/5377386


 そもそも創造という行為は、生産的なものばかりとは限らないだろう。それらは、一見無駄で、くだらなくて、馬鹿馬鹿しい、そして時に血なまぐさい代物だ。条件つきの創造性などというものがあるだろうか?「世の中の役に立つ創造」というものは、言葉の定義からして矛盾している。

 そして創造が全人的なものであればあるほど、はたからみれば滑稽であろう。



にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村