2010年9月22日水曜日

「たましい」は存在するか? その2

 前回の更新で、私は「たましい」は存在しない、と述べた。
 私が無味乾燥な思想の持ち主と誤解されるかもしれないと思うので、弁明しておこう。 実をいうと「存在しない」と主張するのとは違っている。「たましい」が必要な世界感を持っていない、と言ったほうが良い。
 
 私は自然が好きだ。野や山や海に行って、幽玄の森を眺めたり、海の波を見てそのたおやかなリズムに心酔するのが大好きだ。私は、自分が自然であり、自然そのものであると日頃から強く実感している。


 しかし、自然とはそのような場所に行かなければ出会えないのであろうか?

 違う。自然はどこに行かなくても、私にぴったりと張り付いている。自然とは、私の身体・肉体・カラダそのもののことである。自然とは私の目の前に広がっているのではない。私自身のことなのだ。自分の身体が自然だ。自然とは私の身体そのものだ。宇宙の物質のあらゆる進化の現在の段階で、精緻極まる生体システムを詰め込まれた驚くべき成果が、この私の身体だ。
 私とは、私の身体であり、私という大自然である。 私という森である海である。

 私は自然そのものである。これは確固たる安心である。
それは決して私から離れないし、裏切らない。絶対の信頼をおけるものだ。宇宙すべてと全く同じ原理が私自身の身体に適応されている。そのような安心、信頼がある。


 もちろん、それは私の頭の中で起こっていることも例外ではない。私の思考・意識・感覚も自然である。私の意識や思考は、本質的には森の木々が風にざわめいたり、波が砂浜に打ち付けられたりするのと何ら変わりがない。私の血管を廻る血液も、栄養と吸収する腸の働きも、神経細胞の発火システムである私の意識や思考も、全ては自然そのものである。


 したがってここにおいて、「私」という自由な意志をもった何者か、という機能は存在しない。なぜなら意思や行為は、身体の自然によって選択されるのであるから。意思や行為は身体の自然にとって必然的なのである。したがって、「たましい」という超越的な何者かが物質を操っているという仕組みを想定する必要はない。

 「たましい」の一番優れた機能は、自然と自分を貫くような感覚だろう。つまり直接自分に作用しているという「直接感覚」ともいうような、自分を含むすべてを貫き、統一した原理で働いているかのような感じをうけるからだと思う。
 そして、それと同じ感じは、私が上述した「身体=自然」の世界感においても十分成し遂げられる。

 ゆえに、私は「たましい」を必要としない。私は、知覚することができない世界(背面世界)がこの世を支えているという世界観を必要としない。

 もし、「たましい」を必要とするとするならば、それは自分が自然そのものであるということを実感できない、または実感しにくいからではないだろうか。

 古代の人にとっては、人間の身体は神秘そのものであった。食べること、排泄すること、生殖することなどは、すべて未知の世界に閉ざされていた。そして自然との一体を確保するために、目に見えないものが自分に作用していると仮設を立てた。「たましい」というものを考え出し、それによる統一的説明を試みた。それはとてもうまく行った。人間の「たましい」は、動物や自然の中にある「たましい」(精霊)と呼応するとし、自然とのつながりを確保する装置として機能した。

 「たましい」の発明は画期的だった。これは自分たちの意識や感覚と自然世界との一体感を説明できる装置として、極めて納得性の高いものだった。そしてそれは現在においてもそうである。

 そしてこの説明は、「たましい」とは何か、という問いをほぼ禁じることによって成り立っている。
 この、目に見える世界と、目に見えない世界という2重構造による世界解釈は、非常に良くできており、「たましい」が疑問に脅かされることもない。

 「たましい」が存在するかしないか、という直接的な質問は議論しにくい。なぜならば「たましい」は問われることを拒否する性質を持っているからだ。
 だから私は、「たましい」が在るとする世界観と、無くても良いとする世界感を整理してみたかったのだ。

 実は私は、「たましい」なるものが存在しても別に良いし、この物質の世界が背面世界の運動の反映であるとしても別にかまわない。なぜならその背面世界を含めて「自然」であるので。
 「たましい」があるとするならば私はそれを含めて「自然」として認めるのみである。 そのほうが「自然」が大きく広がって面白いとは思うが。


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3 件のコメント:

  1. たましいがあるとするならば自然として認める、仰る通りです。定義して、宗教の題材として捕らえることには、私も反対です。しかし、考えてみていただきたいのは、生き物としての自分自身の存在なのです。それも当然ご自身で理解されていらっしゃるでしょうが、せまりくる避けることのできない「死」が間近に現れたとしたら、。私はそこを切り抜けるのが「天国」という概念だと、本で読み(http://sammyclickpresswhatislife.blogspot.com/2010/08/what-is-life_19.html)、理解し同感しております。どうか、その3でお考えを表明くださいませ。

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  2. Sammyさん
    コメントありがとうございます。
    お勧めの本「がん告知マニュアル 感動の結論」を先ほど注文しました。死に関する考察はそれを読んでから書くことにします。

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