何かを感じ取るということは、その対象がもともと持っている精神を感じ取ることなのだろうか?
例えば石に触れてゴツゴツした感触を感じ取る。
そこにゴツゴツした感触が発生するということは、
もともとそこにゴツゴツした感触の基があって
私がそれを見出しただけなのではないだろうか?
すべてのものには、そのような感覚の基となるものが仕組まれていて
適切な感覚器が適切にそれを掘り出してくる。
無機的なただの物体であっても、そこには精神的な何かがあって
私たちは感覚によってその精神を感じ取る。
もちろん、世界は無機的なカオスであり、
各々の生物の感覚器や生存戦略に応じて
感覚世界をつくっているのだと考えることも可能だ。
世界は無意味なカオスであって、
それに意味を与えるのが、私たち生物の感覚である、というわけである。
したがって、生物種の数だけ別々の世界がある。
。。。と考えることもできる。
しかしそれは、あらゆるものに感覚の基が詰まっていて
各々の生物は、感覚器にしたがってそれを掘り出してくる
という考えを否定するものではない。
感覚器が感覚を生み出すと考えるのではなく、
絶えず生み出される感覚を中心に据えて考えると
世界の連続性がうまく説明できるような気がする。
「私」と、「石」を隔てているものは何なのか。
それは「ごつごつした感触」に他ならないではないか。
あるいは、この「ごつごつした感触」が、「私」と「石」を結び付けている。ともいえる。
極端に言えば、この「ごつごつした感触」がありさえすればよく、
「私」も「石」も必ずしも存在する必要は無い。
すべてのものに精神がある、と考えるのは、何かフィクションめいた浅はかな思い込みではないか?
一方、世界はカオスで、感覚器が世界を生み出すと考えるのも浅はかなことだ。
それらは、物体(対象)と人間(主体)があるという前提で成り立っている。
だから、感覚のみが発生しているのであって、主体(たとえば私)も、対象(例えば石)も
都合よく捏造されたものではあるまいか?
主体も対象も無いとすれば、世界は感覚の連続体なのであり、それらには分け隔てする境界がない。
「一切は同じ」という荘子の斉物論を感覚の観点から読み解くと、このようになるのかもしれない。
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