2011年3月21日月曜日

辻晉堂 展


神奈川県立近代美術館で開かれている
辻晉堂展

に行ってきました。

中学生のころから好きだった作家ですが
なかなか実物をお目にかかるチャンスがなくて
今回生誕100年だそうで、まとまって作品を見るチャンス、
見逃すまいといってきました。

辻晉堂といえば、自由奔放な造形の陶彫の作品で知られています。
下記のサイトの「
陶彫」のページ - 1956「顔(寒拾)a」 1958「馬と人」「寒山a」「拾得a」など
http://www.shindo-tsuji.net/index.php?lang=jp&page=work

これらも面白かったですが、
私が特に興味をそそられたのはその後、
60-65年に盛んにつくられた 壁みたいな作品です。

突起物のような造形がほとんどなくなり、
壁のようになってしまいました。
1枚ではなくて大抵3層になっており、
いくつか穴があいています。
表面には引っかいたような跡、突起物、微妙な凹凸、などがあります。

神奈川県立近美のサイトでは該当する作品を紹介していませんが
以下のサイトの「陶彫」のページ----1961「拾得d」「颱風の四角な眼とムカデ」 1962「東山にて」 などが
そのころの作品に当たります。
http://www.shindo-tsuji.net/index.php?lang=jp&page=work


この作風の変化は何なのか?

私は辻が禅僧であることに思い至らずにいられません。
造形の面白さの探求を終えた辻は、自身の内面を深く掘り下げていったのでしょう。
3層になっている壁は、意識の深層を表しているのかもしれません。
ところどころの穴はかいま見える無意識の層でしょうか。

何か深いものを掴み取ろうとしてる感じがしました。
辻自身の文章では「空間の深まりを表はさうと考へたのであった」と書いてあり、
解説文もそのようなものでしたが、
作者の深い意識の底を、いえ、もっと普遍的な何かが見えそうな気がして
板のような作品ひとつひとつの前で、じーーっと見入っていました。
マーク・ロスコの絵画のように、深い瞑想を誘うのです。
もっと観客を包み込むように大きかったら
その効果が十分に発揮できたでしょうに。

こんな風にじーーと見ているひとも私しかいませんで、
もともと観客は数えるほどしかいませんでしたし
私の様子を見て会場の係りの人も不思議に思ったかもしれません。

辻晉堂は、極めて寡黙な作家だし、 自分のやっていることを
言葉にすることをほとんどしない人だったのでしょうが、
このころの作品の意味を自分自身で自覚的に言葉にし、
またそれを自覚して作品をつくっていたら非常に精神的に深い世界が
開けたのではないか・・・とも思います。

私は惜しい気がするのですが、
しかし、彼はそんなモダニストみたいなことは無関心だったのでしょう。
あるいはこれ以上、つっこんでも意味がないと思ったのかもしれません。
分かりませんけれども。
いや、私ではわからないくらいのレベルであって欲しいと思います。

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