2010年8月25日水曜日

バリ島 2 ~資本主義システムとの関係~

バリ人は、バンジャールという地域共同体(村に相当する)に属し、生まれたときから死ぬときまでその一員である。

「人びとはバンジャールなどの地域組織に属することで小さい頃から隣人との助け合いの心を身につけており、喧嘩を好まない。このような背景もあって、住民の性格は非常に温厚である。」(wikipediaより)

バリ人から受ける素朴な感じ、ちょっと恥ずかしそうな笑顔、大きな声を出さないなど、日本人とよく似ていると思ったが、このような村社会があるからであろう
。それに加え、がたがたの道、薄汚れた家などをみていると40年くらい前の日本を思い出す。

様々な宗教儀礼が日頃からおこなわれ、また祭りが非常に多い。毎日、どこかで祭りが行われている。

私の滞在中、近くの寺院で大きな祭りがあったので腰布を借りて見物に行った。(一応神聖な場所なので腰布をつけないと入れない)。 ガムランと踊り中心の舞台だったが、夜の10時ころから始まって朝方まで続くという。(私は子連れだったので11時ころ帰ったが。)
この祭りは穏やかなものでしたが、バリの中には、人々がトランス状態になってしまう激しい祭りもあるらしい。

このような地域社会との深い結びつきや、各種の芸能、祭りなどのイベントによって、バリ人の精神的満足度は非常に高いと聞いている。

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さて、なぜバリは地域社会と宗教儀礼などの昔の社会システムが、連綿と生き続けているのだろうか。世界的には資本主義社会の発達とともに、そのような旧社会システムは廃れてきてるというのに。

社会システムは、典型的には血縁システム、封建主義システム、前期資本主義システム、後期資本主義システム、という順に変化してきた。西欧や日本はそのような経緯をたどったが、バリは違ったのである。

そもそも土地の肥沃なバリ島では、さほど長時間働かなくても食べるに十分な糧を得ることができた。余った時間を、楽器演奏や舞踊、工芸、宗教儀礼、祭りなどに費やすことができた。今日につながるバリ文化の基礎が作られたのである。

オランダの支配下に入ると、西欧社会はバリの豊かな文化に目をつけ、「神々の息づく神秘の島」としてバリの観光地化に乗り出した。さらに戦後のスハルト大統領時代にリゾート開発が進められ、バリの観光産業はこの島に根付いていったのである。
「物質文明に疲れた資本主義社会の金持ちが安らぎを求める場」としてのバリ島の地位が確立した。芸能も工芸も観光客に見せるアトラクションとして完成度を高めていったのである。

そしてバリ人の基本的生活基盤であるバンジャール(村)と宗教生活儀礼は、そのまま存続したのである。

ご存知のように、日本では60年代以降の急速な大都市の発達によって地方から若者がいなくなり、地域文化が継承されなくなった。一方バリではそれが起こらなかった。

バリ人と、西欧をはじめとする資本主義社会との、両方の需要によって、バリの伝統社会は残り今日までバリの揺るぎない社会基盤となっているのである。資本主義との特異な共同関係によって、自分達の伝統文化を守ることが出来たのである。

バリは、資本主義システムを自分達の価値観にうまくあわせて相対化している。例えば、バリには特有の空間倫理があって、山側はカジャといって聖なる方向、海側はクロッドといって穢れた方向である。(バリ人が亡くなると盛大な火葬行事を行って灰を海に流す。だからバリ島には墓はなく、代わりに家の敷地内の山側(クロッド)の東側に小さな寺を建てて毎日拝んでいる。)
観光客で賑わうリゾードがクタやレギャンなどの海辺にあるのは、彼らの空間倫理に適っているのである。

自然-身体-精神-社会をつなぐ観点から言えば、バリ社会は一つの模範となる。宗教儀礼や祭りが、その4つをつなぐために機能している。しかし資本主義との特異な協力関係なくしてこれは実現できなかったはずだ。

日本のように精神文化を新たに作っていかなければならない状況にある場合、芸術がそれに関わることができるであろうか。
昨日、私も参加する中之条ビエンナーレ2011のオリエンテーションに行って来た。町の文化財の養蚕農家建物や、廃校となった木造小学校を会場にした現代アートのイベントである。120人のアーティストが参加するという。資本投入はない。町役場の協力のもとにある手作りのイベントである。詳細は次回に述べるが、わが国でも地域文化再生の胎動が見られることは述べておこう。

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最後に述べておきたいことがある。
1965年にスマトラ、ジャワ、バリなどで共産主義者の虐殺事件が起こったことである。
詳しくはこちら→
インドネシア共産党
特徴的なのは国家や独裁者によって殺されたのではなく、民衆が虐殺に参加したことである。
共産主義者は神を信じぬ輩として、宗教的な義務として行われたようなのである。
犠牲者はバリ島だけで8万人ともいわれている。実に当時の人口の20人に一人である。魔女狩りに近い疑心暗鬼の状況だったのではないだろうか。自らの宗教的な生活価値を守るために、バリには血が流されたのである。
この事件は、楽園バリに相応しくないエピソードとしてタブーのように扱われ、話されることは極めて少ない。


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