私には根本的な疑問があるのです。
奇妙に聞こえると思いますが、以下のような疑問です。
どうして、私は私であって、あなたではないのか?
どうして私はここにいて、あそこにはいないのか?
どうしてここから、あそこに移動するのに時間がかかるのか?
私というものが、このちいさな肉体に限定されているということが
どうにも疑問なのです。
実は私が私であるということは、何の必然性もないのであって
私は、あなたでも、ここでも、あそこでもよかったのだが
たまたまここにわたしがいるということに過ぎない。
元々、私(あるいはあなた、あるいはここ、あるいはあそこ)は、
あらゆるところに在ったのだが
どういうわけかここに(この肉体に)収束してしまい
残念ながら私の肉体のなかにおさまってしまっている
というわけです。
だから本来私はすべてなのです。
たまたま、この肉体に居るだけのこと
そしてそれによって、
外界を検出する範囲は、わたしの肉体のもっている感覚器によって限定されてしまっています。
感覚は、すべての場所にある。すべての場所、あらゆることに万遍なくあるのです。
ところが不幸なことに、私の中に、私の肉体の中に押し込められている、
抑圧されているのです。
そしてその抑圧された感覚を感じ取ることができるのは、
わたしの哀れな狭い意識であるというわけです。
だから私は、私の感覚は、普遍的な感覚に解放されなければならないのです。
もっともらしい理屈を言ったり、現代芸術ととなえて妙なことをするのも
とどのつまり、このことを実現したいためなのです。

普遍的な感覚など有りはしないか、有るのかも判らない、それが個々の心身で味わう感覚ではと考えています。ただ、少なくとも、同じ人間であるならば、その心身も似通っていますから、同じ感覚を味わう範囲は似通っているかも知れませんが、自他の間には、齟齬が存在すると認識する姿勢が大切に思っています。それ故、お互いの意思の疎通をするに、言葉、絵画、造形、文学ーーー等の表現方法が必要なのだと思います。皆が普遍的な感覚を持っているのならば、意思の疎通等、必要ないのですから。小生は、このように考えています。ただ、我々の存在に関係なく、この森羅万象は存在し、その一部として生存している点においては、同じ状況に有ると思っています。この一点においては、普遍的な感覚として、誰もが共有出来るようには思います。
返信削除如何でしょうか。
コメントありがとうございます。
返信削除全くおっしゃる通りです。
私は、感覚を作り出す主体は、人間であるとは思っていません。
人間が存在するよりも先に感覚があったと考えます。
そして私が、感覚を心の中で表現する(感覚を味わう)ということは
何かよんどころ無い事情による副作用のように思います。
だから同じように抑圧されている種(人間)は、同じような抑圧された感覚的な美を発見し、それを共有することでしょう。そしてそれは、世界の真実にはほど遠いものでしょうが、人間という種には意味のあることでしょう。